幸せアイス
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……ん、眩しい……眠い……昨日早く寝たのに……寝たのに……? そうだ! アイス!
はっとして目を見開いた先、薄暗い視界には知らない天井があった。おそるおそる起き上がって周りを見回し、興奮とも恐怖ともつかない感情で体が震える。
テレビでしか見たことのない高級ホテルのような一室。その中央にある大きなベッドに、私は居た。
頬を叩いてみる。痛い。思い切り引っ張ってみる。痛い。
……本当に、夢じゃなかったのか……。
息を殺しながら起き上がりカーテンを開ける。窓の下には住宅街が広がっているから、ここが高層階だろうことは見当がつく。どこかもわからない場所の嵌めごろし窓から、見慣れた青空が見えるのが妙にミスマッチだ。
寝室らしき部屋のドアから顔だけ覗かせると、そこには当然のように廊下があった。人の気配は無い。
……とりあえず、トイレ?
こんなにびっくりイベントが起きたときでも身体は正直だ。そういえば少しお腹も空いている感覚がする。色々なドアを興味本位で開けては閉めてトイレを探す。ドレッサールームらしき場所があったから、きっとトイレはこの隣あたりだろう。
踵を返した瞬間に、人の姿が目に入って心臓が止まるかと思った。
……あ、鏡か。鏡、だよね?
顔が小さい。長くて形が良いまつ毛に、大きくきらきら潤む澄んだ瞳。白くてきめの細かい肌は輝いて、薄紅色の唇はきゅっと上品。すっと通った鼻に優しげな眉。まさに『誰もが振り返る美少女』がそこに居た。
……うわぁ、アイスくんたち職人技! こんな可愛い顔、芸能人でも居ないよ?
テニプリの世界に入ったのならば、私のこの容姿も二次元の漫画姿なはずなのに、全く違和感がないのがとても不思議だ。
……むしろしっくりくるのがもっと変な感じ。こんな綺麗な顔が私のもののはずないのに、でも私の顔なんだもんなぁ。
頬をペチペチ叩いてその感触を確ながら、次のドアを開いた。トイレとの邂逅である。
冷蔵庫に入っていた野菜ジュースを勝手に飲んで、今の状況を考える。自分の名前に生年月日、ここの住所に今日の日付、今日をどうやって生き抜いたらいいのか、大事なことが何一つわからない。
「アイスくんたちも不親切だよ。もっと詳しい状況説明してから送って欲しかった。せめて取説を……私、声まで可愛いな」
愚痴を言っても発見したことを呟いても、当然誰が応えてくれるわけもない。知らない場所に独り放り込まれた現実に改めて直面した気がして、大きなソファに腰を下ろした。
……怖い…………。早計だった……こんな変なこと、やっぱり辞退すれば良かった……。
そう思ったら涙が出てきて、優しく止めてくれる家族も、自業自得じゃんと揶揄う友人も居ないことにまた涙が出る。今ここで死ねば、現実世界に帰ることがきっと出来るはずだ。でも、そんなこと怖くて出来ない。絶対に、無理だ。
そんな堂々巡りをしながらどのくらい経っただろうか。
……まずは、家探ししよう……。
私が望んだことなのだ。少しは前向きに頑張ってみようと立ち上がったとき、まるで見計らったように電話の着信音が鳴った。耳につく震動音を辿ると、音の出どころはすぐにわかった。リビングにあったスマホの画面には、相手の発信番号が表示されているだけで誰からの電話かはわからない。非常に怪しい。
……でも、何か手がかりになるかも。
あまりに長い着信音は、よほどの用事なのだろうか。なんだか段々、どうとでもなるだろうという気になってきて半ばヤケで通話をタッチした。
「はい」
『まだ寝ていた? おはよう』
「……おはようございます」
『あらあら、お寝坊さんね、おばあちゃまよ?』
聞こえてきたのは、上品な女性の声だった。少し低い音は、確かに『おばあちゃま』年代の声色に聞こえる。寝ぼけた声を出したわけでもないのに何がいけなかったのかと考えて、敬語だろうかと試行してみる。
「うん、今起きたところ」
『そうなの、ごめんね起こしちゃって』
「全然問題ない、大丈夫だよ」
祖母を名乗る女性は、私のことを現実世界の名前で呼んだ。私の名前は変わっていないことにホッとする。
祖母は非常に饒舌で、基本相槌を打っていれば会話が成り立つのはありがたかった。話のメインは、私の一人暮らしが非常に心配だということだ。
……設定通り両親は他界して、一人っ子の一人暮らしなんだね。そして資産家の祖父母は健在、と。
祖父の仕事の都合で、祖父母は今イギリスに在住していると言う。私は帰国子女の設定らしいことが判明して、若干冷や汗ものだ。アイスのファインプレーで、どこかの地方の英国英語がデフォルトとして身体にインストールされていれば良いのだけれど。
『そうそう、忍足の和美おばちゃまから電話はあったかしら?』
「オシタリ……」
知っているけれど聞き慣れない単語に胸が跳ねる。
……オシタリ。忍足侑士と親戚関係設定を作ってくれたのかな?
電話があったかはわからないと答えた。本当にわからないからこれ以上の答えは無い。
『あの子は仙台でしょう? あなたのことを随分心配していてね、あの子の姉が遺したたった一人の姪ですからね。同じ学園には侑士くんが居るって前に話したでしょう? 従姉妹なんですもの、頼りにさせてもらうのよ』
私、忍足侑士の従姉妹になりました。私、忍足侑士の従姉妹になりました。
……私、忍足侑士の従姉妹になり……ましたよ⁈ 嘘でしょこんなことあるの本当に⁈
ついさっきまで身体中を占めていた漠然とした恐怖が、じわりじわりと興奮に変わっていく。
……私テニプリの世界に、今生きてるんだ……。
ゲームのチュートリアルの如く、祖母は『一人暮らしの極意』を色々と教えてくれた。クレジットカードの暗証番号に現金のおろし方、平日の昼間にハウスキーパーが来ること、週末は必ず祖父母とビデオ通話すること。
『くれぐれも、くれぐれも気をつけて生活してちょうだい。絶対に約束よ』
「はあい。ありがとう、おばあちゃま」
通話終了をタップすると何故だか力が抜けて、もう一度ソファへ倒れ込んだ。けれども、さっきまでの絶望感は、もう無い。折角テニプリの世界へ飛ばしてもらったのだ。せめて推し校の王子たちを一目拝まなければ。可能ならば会話をして、もっと可能ならばその身体に触れて、目の前に生きていることを実感したい。
……それは! 人類の悲願!
気合を入れて立ち上がり、早速家探しを開始する。いくつかある封筒を順番に開けていくと、その一つに氷帝学園中等部の入学案内を見つけた。
「すごい……氷帝が実在する世界線……尊い……」
思わず呟いて、『氷帝』の文字を指先でなぞる。まるで高価な本みたいな盛り盛りの装丁だ。こんなリーフレットは大企業でも出していないと思う。流石セレブ校。ページを巡っていくと、榊太郎さんによる学園紹介がお決まりのポーズ写真付きで掲載されていた。
……よしよし。可愛い。いってよし!
思わず笑みがこぼれるのは許してほしい。にまにましながは裏表紙まで辿り着き、中等部の周辺地図をよくよく眺めてみる。知っている地名を探したけれど、見つけることはできなかった。
……そもそもここがどこだかわからないレベルだしね。
地図アプリを開いて、現在地をタップする。表示されたものと同じ画面の中に『氷帝学園中等部・高等部』の文字が見えた。
この世界に来てから一週間。色々と気がついたことがある。
この世界の基本は現実世界と変わらない。都道府県の数も、法律も、首相の名前も、芸能人も。要は、テニプリと関わりの無いものや、そもそもテニプリ世界で現実と同じ設定を採用していたものについては、現実世界と変わらない
のだろうと推測している。そしてそれは私が直接感知しない範囲での話だ。現実世界での私の実家どころか、出身地や出身校はまるまる消え去っていて、この世界に私の知人はきっと一人も居ない。総理大臣もきっと、私が向こうの世界でテレビで見ていた人とは違う人なんだろう。予想だけれど。
感動したのは学校だ。都内だけでも氷帝、青学、山吹に不動峰……現実にはない様々な学校が実在して、『青春台』をはじめとする、現実世界にはない地名や駅名が色々ある。
最初こそ少し混乱したものの、生活する上ではあまり支障は感じない。昨日にいたっては、あのテレビで幾度も見た『青春台』を探索したほどには、状況に慣れてきた。
今日は三月十六日。始業式は四月四日。入学までまだ少し時間はあるけど、やらなければならないことは沢山ある。
机の上に無造作に広げてある本や雑誌にちらりと目を向ける。こちらの世界に来たその日に買った、テニスの入門書や専門雑誌だ。オプションがきちんと実行されていれば、今の私はものすごくテニスが上手いはず。でも実際私にはテニスの知識なんてテニプリを楽しめる程度にしか無いニワカ中のニワカだ。
……やっぱり実践が一番、かな。
最近一番使用頻度が高い、地図アプリをを開く。不動峰から一番近い無料のテニス場を検索した。
テニスの道具一式は、買い揃えずとも家の中に一通り揃って置かれていた。初心者には立派すぎるテニスバッグを担ぐのは今日が初めてだけど、見た目通りに重かった。ここから目的のストリートテニス場までは結構距離があるから、持ち歩くのは断念する。まず体力作りから始めるべきことは明白だ。
電車を乗り継いで、大きな公園に向かう。近づくにつれて聞こえてくる軽快な音。そして。
「リィズムに乗るぜー!」
……居るっ‼︎
緊張と期待で胸が苦しい。心臓がこんな風に動いたことは社会人になってから無かったかもしれない。
この世界に来てから一週間。私は初めて「テニプリの世界に行きたい」と願った自分を「正解だ」と思った。
◇
気持ちのいい音がして、私のボレーが決まった。ネットの向こう側、神尾くんと伊武くんが大きな息を吐いて、隣で杏ちゃんが笑顔を作る。
「私たちの勝ちね!」
「……マジかよくっそ!」
「あーあ、負けちゃったよ女子のダブルスに負けるのってどうなわけ? まったくどっかの誰かが足引っ張るからこんなことになるんだよはぁ最悪こんなの橘さんに知られたらどうするのもっと腕を磨かなくちゃいけないな」
伊武くんのぼやきに苦笑しながら、杏ちゃんが振り返った。薄い茶色の髪がさらっと揺れて、きらきら光る大きな目がものすごく可愛い。
「改めてすごいわ! 初めて会ったときはラケットの握り方も知らなかったのに」
「杏ちゃんたちの教え方が上手なんだよ」
「そんなんじゃここまで伸びないよ。才能って本当にあるのね」
杏ちゃんと神尾くん、それに伊武くんと出会ってから今日で一週間になる。初めてここに来た日、狙い通りにテニスをしていた彼らに、私はにっこり笑いながらお願いしたのだ。テニスって楽しそう、私にも教えて欲しい、と。中学生と会話するのなんて何年ぶりだろう。なけなしの勇気をありったけ振り絞って声を掛けた。相手が優しい子たちだったのが本当に救いだ。
当初こそ、生で見るテニプリキャラに感動したし緊張したけれど、同時に妙な違和感を覚えた。だって、目の前の彼らはただの中学生にしか見えないのだ。二次元に描かれたキャラクターではなく、私と同じ人間にしか見えない。この世界の人間に成ったんだと実感した瞬間だった。
「そーそ、最初はサーブも空ぶってたのにな」
ルールは本で勉強したけれど、それだけでテニスができるようになんてなるはず無い。 けれどそこは幸せアイスのチートオプション。私はこの一週間でみるみる上達し、目の前の三人にも勝てるようになってしまった。異世界転生チート、ありがとう。
「俺たち明日からはもう来れないんで、またテニスしたくなったら連絡くださいよ」
「春休みの課題やるんだったね。頑張ってね、また連絡する」
四月まであと一週間。神尾くんたちは宿題を前に辟易した顔をしているけれど、実は一番頑張らなければならないのは私である。一週間後から、中学三年生をやらなければならないのだ。しかもハイソサエティな教育を施す私立氷帝学園の授業。家にあった教科書を見て自分が崖っぷちに居ることに気が付いた私は、猛勉強中真っ只中である。
「みんな、色々教えてくれてありがとう」
「うん! またラインするわね」
美少年二人に美少女一人。どこからどう見てもキラキラしている三人組に手を振って、家へと歩き始める。帰ったらハウスキーパーさんが作り置きしていってくれたお惣菜を食べて、それからまた勉強だ。やるべきことがあるというのは良い。食べて寝て、勉強をして運動をして、この世界のニュースを見て、この世界の人と交流をして。一日一日暮らすうち、この世界が私の世界になっていくのを感じる。
……少し疲れたかな。シャワー浴びたい。
最寄駅で降りて、そこから家までは歩いてすぐだ。麗かな青空の下、道行く人々も心なしかうきうきしているような気がして、街路樹の木漏れ日に目を細めながら穏やかな気分で歩く。
……電話? また知らない番号。
振動に気付いてスマホを取り出した。見覚えのない数字の羅列をじっと見てから、話してみることにする。
流れてきたのは女性の声だった。
『ああよかった、繋がったわ』
「どちら様でしょうか」
『大阪の忍足です。お久しぶりね』
……忍、足、マ、マ。
柔らかくて上品な声だった。忍足侑士の優しい話し方を連想させる声に、オタク心がときめく。
……でも標準語なんだ?
『氷帝学園に通うことになったんですってね。侑士も通っているのは知っているかしら』
「ええ、おばあちゃまから教えて貰いました」
『それな話が早いわね。明日、時間があるかしら? もし良かったら、侑士に学園や周辺を案内させようと思っているのだけど』
「……ひぇっ⁈」
『え?』
「……いいえ、ありがとうございます。とても嬉しいです」
声が裏返ったのは仕方がないと思う。明日、いよいよ明日、忍足侑士のご尊顔にまみえることが出来るのだ。
……う、嬉しすぎて泣きそう……!
『明日の十時に迎えに行かせるわね。いいかしら?』
「はい、勿論です」
『会うのは赤ちゃんのとき以来ですものね、身長ばかりどんどん伸びてしまって別人みたいだけど……そうね、おしゃれを気取って大きな丸い伊達眼鏡をしていくと思う。不審者じゃないから安心してね。あ、侑士の携帯番号教えておくわ。何か書くものある?』
「……はいっ!」
歩みを止めて、バッグからスケジュール帳を取り出す。綴った十一桁の数字がとんでもない宝物に見えた。忍足侑士はこの世界で、確かに、生きているのだ。
丁寧にお礼を言った後、往来で独り言を溢した私を許して欲しい。
「……うぁあ……なんて幸せなの……」
子どもの頃のように、わくわくすることを翌日に控えると眠れなくなるのは、大人になっても異世界転生をしても変わらないのだと実感した翌朝。何を着ていいのかさっぱり分からず、姿見の前で一時間も葛藤をしている。
「昨今の中学生の流行がわからない……」
勉強ばかりしていないで中学生ターゲットのファッション雑誌も読み込むべきだった。クローゼットにはジャージからドレスまで様々な服がストックされていて、ネットで見た流行りらしいものと似たものを選んではみたけれど、とうの昔に中学時代を終えた私の感覚には沿わずにしっくり来ない。
「……忍足侑士の好みのタイプは、『足の綺麗な子』だったよね」
好みのタイプというくらいだから、足を出すスタイルで行けば好感を持たれるかもしれない。衣装の中からかなり際どいデニムのミニスカートを選んで、それに合うようにトップスも見繕ってみた。
そんな風に過ごしているとあっという間に時間は過ぎて、十時を少しすぎた頃にエントランスのインターホンが鳴る。
……来たぁぁ!
モニターまで走る。画面には間違いなく、箱推し校の一人、忍足侑士が映っていた。
「……はい」
『あー……聞いとると思うけど。忍足です』
「っ!」
『? 聞こえとる?』
「……ごめんなさい、すぐに降りて行きます」
叫びださなかっただけ私は偉い。
……忍足侑士だよ! 本物! 本物! 声優さんのあの声そのまんま!
エレベーターを待つ時間すら惜しくて階段を駆け降りた。今の私は生命力上限突破の十五歳なのだ。イケメンに会うという少しの気恥ずかしさと、生きている忍足侑士に会うという喜びで足運びは軽い。
ロビーのソファーに、濃い髪色をした後ろ姿が見えた。
……心臓、鳴り止め!
「あの、侑士くんですか?」
「! ……」
忍足侑士が振り向いた。
……うわぁ……忍足侑士だ……!
濡れ羽色の髪がツヤツヤしている。シャープな顔立ちはすごく精悍で男らしくて、丸眼鏡の奥に光る瞳は鋭く澄んでいる。一目見ただけで目を奪われる、忍足侑士はそんな美形だった。
「…………」
「…………」
何も言えなかった。忍足侑士も何も言わなかった。
……何だろう、この変な感覚。
目の前の人から目が離せない。立ち上がる仕草も、振り向く様も、瞬きさえも印象深くてまるで素晴らしい絵画を見ているようだ。
少し心が落ち着いてくると、目の前の彼がとても驚いた表情をしていることに気がついた。テニプリキャラを前にした私はともかく、なんで、と一瞬不安に思ったけれど、そういえば『世紀の美少女』に転生していたことを思い出して納得する。
先に口を開いたのは彼の方だった。端正な顔がにこりと微笑む。
「一応、はじめまして、やね」
「そうだね。改めて、よろしくね」
「ああ。……ほな、行こか」
「はい」
私も慌ててにっこり笑顔を作る。とても感じのいい、好青年だ。漫画でも女子生徒に優しくしていた、そんな彼そのもので嬉しくなる。
二人で並んで住宅街を歩く。今日も雲ひとつないいい天気で、春の暖かい風が頬を撫でる。隣のイケメンをそっと見上げた。完成された横顔は、中学三年生には全く見えない。忍足侑士と不動峰トリオでは、容姿も雰囲気も明らかに別格のように思えた。
「今日テニス部はお休みなの?」
「ああ、お袋から聞いたんか。今日はないで。監督が出張でな」
何を話したらいいかわからなくて、とりあえずは応えてくれるだろうテニスの話題を出してみた。忍足侑士は少し遠くを見ながら、涼しい表情で答えてくれる。
「監督って、榊先生?」
「そや。なんで知っとるん?」
「学園のパンフレットに載ってたよ」
「あの人はどこにでも顔出すなぁ。まぁ跡部ほどじゃないけど」
「跡部?」
……忍足侑士の口から、『跡部』、『跡部』が出た……感動……幸せ……。
オタク心が満たされていくのを感じる。キャラが生きているってなんて幸せなんだろうありがとうアイスくんたち。
けれども私の内心とは反対に、忍足侑士は苦い顔で笑った。
「自分帰国子女やったか。跡部景吾様の知名度も所詮国内留まりなんかな。あとで検索してみ、ぎょーさん情報出てくるから。あの人格破綻者のな」
「人格破綻者……」
膨らんだ胸の内が一気に萎んでいく。氷帝は仲が悪いのだろうか。
……OVAとかじゃ割と仲良く見えてたんだけど……なんか寂しいなぁ。
「……その人と仲が悪いの?」
「あ、ちゃうちゃう。あだ名みたいんなもん
。ただのやっかみ」
忍足はさも気楽そうに「あはは」と笑う。仲が良いのか悪いのかさっぱりわかりない。ただ、そんなあだ名がつく本物の跡部景吾様を拝見するのが少し怖くなってきた。
「……良い天気だね」
「そやね」
話したいことは山ほどある。どこに住んでるのとか、着てる服のブランドとか、この素敵な香りはなんなのとか、昨日何食べたのとか、忍足侑士のいろんなことを知りたい。けれど初対面でそこまで詮索したら引かれるだろう。私にとって彼は一方的にずーっと眺めて応援してきた親しみのある人だけれど、彼にとって私は初対面の従姉妹でしかない。どんな風に接したらいいのか、距離感が上手く掴めないのが怖くて、当たり障りのない会話しか出来ないのがもどかしい。
我が家から氷帝学園まではほぼゼロ距離だ。歩いているうちに正門へと続く並木道が目の前に見えてきた。足をすすめるにつれ、氷帝の制服を着た人たちがポツポツと見え始める。春休みだけれど部活でもあるのだろうか。
「忍足だよ!」
「横に居るの、誰?」
嫉妬と殺気に満ちた女生徒のひそひそ声が聞こえてくる。
……ちょっとだけ、いい気分?
集まる視線に少しだけ優越感を感じていたら、上から低い、不機嫌そうな声がふってきた。
「俺、けばい女は好みと違うのに」
「え?」
驚いて見上げた。目が合うと、「失敗」とでも言いたげにテヘペロ顔をされて、それから何事も無かったかのようにまた微笑まれた。
……え? え? 『けばい』って私のこと? それとも空耳?
「ここが正門や。今日は私服で身分証も無いから中には入れんな。あそこに見えるのが本館。職員室は中入ってすぐやから、始業式当日はそこに行くとええよ」
「ありがとう」
現実に建つ氷帝の校舎は、アニメで遠巻きに見るよりずっと重厚感があって、美しかった。きっと著名な建築家が手掛けたのだろう造形にはとても惹かれるけれど、隣に立つこの人のことが気になってしまい落ち着かない。
……慣れてきたら、べったべたの作り笑いじゃん。
初対面のイケメンオーラで気が付かなかったけれど、慣れてきてわかった。忍足侑士の微笑みは作り笑いで、口端こそ上がっているものの眼鏡の奥の鋭利な瞳は微塵も笑っていない。寧ろ面倒くさそうなオーラさえ漂っていて、この時間が彼の貴重な休日を奪っているだけなのだとわかった。
……漫画の描写だけじゃこんなのわかんなかったよね……主人公でも無いんだし。
これ以上一緒に居ても、仲良くなれる気はしなかった。
「あとは適当に見て帰るね。今日はありがとう」
「そうか? お袋からは、学園周辺も案内してやれ言われてるけど」
そう言いつつも僅かに顔が明るくなるのは見逃せない。
……この子、感じ悪い!
「スマホ見ながら歩けば案内なんて要らないから大丈夫」
「ふーん? なら、四月からも俺のこと当てにせんといてな? 俺の周りの連中も自分とはテンション合いそうもない奴らやし」
「忍足くんの友だちならそうかもね」
こんなに笑顔で、私たちが罵り合ってるなんて側からはわからないだろう。集まる視線や騒めきが段々居心地が悪くなってきた。
「さよなら」
「どーも」
……苛つく……期待しすぎてたんだよ私、きっとそう。
とても周辺を散策するような気分ではなくなってしまって、家への道のりをまっすぐ進む。ふと思い立って、途中でコンビニへ寄り例のアイスを買った。
……キャラクターが生きてるって、こういうことなんだなぁ……。今まで忍足侑士は私のアイドルだったのに。
人と人とのお付き合いにはどうしても合う合わないがある。残念ながら忍足侑士とは仲良くなれないみたいだ。
「はあ……ねえ、ちょっと私やっぱり、帰りたくなっちゃったよ」
物音ひとつしない部屋の中、箱を開けても幸せアイスたちは出てこない。一粒口へ放り込んで目を閉じた。広がる甘さは異世界でも全く変わらない。ミュージカルで、アニメで、漫画で、氷帝戦に熱狂しながら食べたのと同じ味だ。
……こんなちょっとのことで、忍足侑士を嫌いになりたくない。
推しへの愛は不滅、のはずだったのに、いざ対面したら勝手に期待して勝手に落胆して本当に馬鹿みたいだ。
……誰かに聞いて欲しい……相談に乗って欲しい……。
元の世界に居る家族、友だちの顔が脳裏から離れない。せめて電話ででもできればと思い実家の家電にかけたけれど、当然のように現在使われていないという無機質な音声が流れるだけだ。
……はあ。
もうこうなると、相談できる相手はひとつしか無い。
「『私は異世界転生してきた者です。この世界は『テニスの王子様』というジャンプ漫画が舞台の世界です。』」
キーボードを叩いているうちに少し楽しくなってきた。知恵袋なら荒唐無稽な真実もただのネタに変わる。本来は社会人だけれど中学生になったこと、憧れのキャラクターが思っていたのとは違ったのがショックだったことなんかを書いていく。
「『寂しくて、元の世界に帰りたくなってしまいました。帰る方法は◯ぬことですが、そんなこと怖くてできません。とても寂しいです。』……ってね」
文字にすることで気持ちの整理ができた気がする。アイスをもう一つ刺して、頬張る。舌に感じる甘さが、優しかった。
はっとして目を見開いた先、薄暗い視界には知らない天井があった。おそるおそる起き上がって周りを見回し、興奮とも恐怖ともつかない感情で体が震える。
テレビでしか見たことのない高級ホテルのような一室。その中央にある大きなベッドに、私は居た。
頬を叩いてみる。痛い。思い切り引っ張ってみる。痛い。
……本当に、夢じゃなかったのか……。
息を殺しながら起き上がりカーテンを開ける。窓の下には住宅街が広がっているから、ここが高層階だろうことは見当がつく。どこかもわからない場所の嵌めごろし窓から、見慣れた青空が見えるのが妙にミスマッチだ。
寝室らしき部屋のドアから顔だけ覗かせると、そこには当然のように廊下があった。人の気配は無い。
……とりあえず、トイレ?
こんなにびっくりイベントが起きたときでも身体は正直だ。そういえば少しお腹も空いている感覚がする。色々なドアを興味本位で開けては閉めてトイレを探す。ドレッサールームらしき場所があったから、きっとトイレはこの隣あたりだろう。
踵を返した瞬間に、人の姿が目に入って心臓が止まるかと思った。
……あ、鏡か。鏡、だよね?
顔が小さい。長くて形が良いまつ毛に、大きくきらきら潤む澄んだ瞳。白くてきめの細かい肌は輝いて、薄紅色の唇はきゅっと上品。すっと通った鼻に優しげな眉。まさに『誰もが振り返る美少女』がそこに居た。
……うわぁ、アイスくんたち職人技! こんな可愛い顔、芸能人でも居ないよ?
テニプリの世界に入ったのならば、私のこの容姿も二次元の漫画姿なはずなのに、全く違和感がないのがとても不思議だ。
……むしろしっくりくるのがもっと変な感じ。こんな綺麗な顔が私のもののはずないのに、でも私の顔なんだもんなぁ。
頬をペチペチ叩いてその感触を確ながら、次のドアを開いた。トイレとの邂逅である。
冷蔵庫に入っていた野菜ジュースを勝手に飲んで、今の状況を考える。自分の名前に生年月日、ここの住所に今日の日付、今日をどうやって生き抜いたらいいのか、大事なことが何一つわからない。
「アイスくんたちも不親切だよ。もっと詳しい状況説明してから送って欲しかった。せめて取説を……私、声まで可愛いな」
愚痴を言っても発見したことを呟いても、当然誰が応えてくれるわけもない。知らない場所に独り放り込まれた現実に改めて直面した気がして、大きなソファに腰を下ろした。
……怖い…………。早計だった……こんな変なこと、やっぱり辞退すれば良かった……。
そう思ったら涙が出てきて、優しく止めてくれる家族も、自業自得じゃんと揶揄う友人も居ないことにまた涙が出る。今ここで死ねば、現実世界に帰ることがきっと出来るはずだ。でも、そんなこと怖くて出来ない。絶対に、無理だ。
そんな堂々巡りをしながらどのくらい経っただろうか。
……まずは、家探ししよう……。
私が望んだことなのだ。少しは前向きに頑張ってみようと立ち上がったとき、まるで見計らったように電話の着信音が鳴った。耳につく震動音を辿ると、音の出どころはすぐにわかった。リビングにあったスマホの画面には、相手の発信番号が表示されているだけで誰からの電話かはわからない。非常に怪しい。
……でも、何か手がかりになるかも。
あまりに長い着信音は、よほどの用事なのだろうか。なんだか段々、どうとでもなるだろうという気になってきて半ばヤケで通話をタッチした。
「はい」
『まだ寝ていた? おはよう』
「……おはようございます」
『あらあら、お寝坊さんね、おばあちゃまよ?』
聞こえてきたのは、上品な女性の声だった。少し低い音は、確かに『おばあちゃま』年代の声色に聞こえる。寝ぼけた声を出したわけでもないのに何がいけなかったのかと考えて、敬語だろうかと試行してみる。
「うん、今起きたところ」
『そうなの、ごめんね起こしちゃって』
「全然問題ない、大丈夫だよ」
祖母を名乗る女性は、私のことを現実世界の名前で呼んだ。私の名前は変わっていないことにホッとする。
祖母は非常に饒舌で、基本相槌を打っていれば会話が成り立つのはありがたかった。話のメインは、私の一人暮らしが非常に心配だということだ。
……設定通り両親は他界して、一人っ子の一人暮らしなんだね。そして資産家の祖父母は健在、と。
祖父の仕事の都合で、祖父母は今イギリスに在住していると言う。私は帰国子女の設定らしいことが判明して、若干冷や汗ものだ。アイスのファインプレーで、どこかの地方の英国英語がデフォルトとして身体にインストールされていれば良いのだけれど。
『そうそう、忍足の和美おばちゃまから電話はあったかしら?』
「オシタリ……」
知っているけれど聞き慣れない単語に胸が跳ねる。
……オシタリ。忍足侑士と親戚関係設定を作ってくれたのかな?
電話があったかはわからないと答えた。本当にわからないからこれ以上の答えは無い。
『あの子は仙台でしょう? あなたのことを随分心配していてね、あの子の姉が遺したたった一人の姪ですからね。同じ学園には侑士くんが居るって前に話したでしょう? 従姉妹なんですもの、頼りにさせてもらうのよ』
私、忍足侑士の従姉妹になりました。私、忍足侑士の従姉妹になりました。
……私、忍足侑士の従姉妹になり……ましたよ⁈ 嘘でしょこんなことあるの本当に⁈
ついさっきまで身体中を占めていた漠然とした恐怖が、じわりじわりと興奮に変わっていく。
……私テニプリの世界に、今生きてるんだ……。
ゲームのチュートリアルの如く、祖母は『一人暮らしの極意』を色々と教えてくれた。クレジットカードの暗証番号に現金のおろし方、平日の昼間にハウスキーパーが来ること、週末は必ず祖父母とビデオ通話すること。
『くれぐれも、くれぐれも気をつけて生活してちょうだい。絶対に約束よ』
「はあい。ありがとう、おばあちゃま」
通話終了をタップすると何故だか力が抜けて、もう一度ソファへ倒れ込んだ。けれども、さっきまでの絶望感は、もう無い。折角テニプリの世界へ飛ばしてもらったのだ。せめて推し校の王子たちを一目拝まなければ。可能ならば会話をして、もっと可能ならばその身体に触れて、目の前に生きていることを実感したい。
……それは! 人類の悲願!
気合を入れて立ち上がり、早速家探しを開始する。いくつかある封筒を順番に開けていくと、その一つに氷帝学園中等部の入学案内を見つけた。
「すごい……氷帝が実在する世界線……尊い……」
思わず呟いて、『氷帝』の文字を指先でなぞる。まるで高価な本みたいな盛り盛りの装丁だ。こんなリーフレットは大企業でも出していないと思う。流石セレブ校。ページを巡っていくと、榊太郎さんによる学園紹介がお決まりのポーズ写真付きで掲載されていた。
……よしよし。可愛い。いってよし!
思わず笑みがこぼれるのは許してほしい。にまにましながは裏表紙まで辿り着き、中等部の周辺地図をよくよく眺めてみる。知っている地名を探したけれど、見つけることはできなかった。
……そもそもここがどこだかわからないレベルだしね。
地図アプリを開いて、現在地をタップする。表示されたものと同じ画面の中に『氷帝学園中等部・高等部』の文字が見えた。
この世界に来てから一週間。色々と気がついたことがある。
この世界の基本は現実世界と変わらない。都道府県の数も、法律も、首相の名前も、芸能人も。要は、テニプリと関わりの無いものや、そもそもテニプリ世界で現実と同じ設定を採用していたものについては、現実世界と変わらない
のだろうと推測している。そしてそれは私が直接感知しない範囲での話だ。現実世界での私の実家どころか、出身地や出身校はまるまる消え去っていて、この世界に私の知人はきっと一人も居ない。総理大臣もきっと、私が向こうの世界でテレビで見ていた人とは違う人なんだろう。予想だけれど。
感動したのは学校だ。都内だけでも氷帝、青学、山吹に不動峰……現実にはない様々な学校が実在して、『青春台』をはじめとする、現実世界にはない地名や駅名が色々ある。
最初こそ少し混乱したものの、生活する上ではあまり支障は感じない。昨日にいたっては、あのテレビで幾度も見た『青春台』を探索したほどには、状況に慣れてきた。
今日は三月十六日。始業式は四月四日。入学までまだ少し時間はあるけど、やらなければならないことは沢山ある。
机の上に無造作に広げてある本や雑誌にちらりと目を向ける。こちらの世界に来たその日に買った、テニスの入門書や専門雑誌だ。オプションがきちんと実行されていれば、今の私はものすごくテニスが上手いはず。でも実際私にはテニスの知識なんてテニプリを楽しめる程度にしか無いニワカ中のニワカだ。
……やっぱり実践が一番、かな。
最近一番使用頻度が高い、地図アプリをを開く。不動峰から一番近い無料のテニス場を検索した。
テニスの道具一式は、買い揃えずとも家の中に一通り揃って置かれていた。初心者には立派すぎるテニスバッグを担ぐのは今日が初めてだけど、見た目通りに重かった。ここから目的のストリートテニス場までは結構距離があるから、持ち歩くのは断念する。まず体力作りから始めるべきことは明白だ。
電車を乗り継いで、大きな公園に向かう。近づくにつれて聞こえてくる軽快な音。そして。
「リィズムに乗るぜー!」
……居るっ‼︎
緊張と期待で胸が苦しい。心臓がこんな風に動いたことは社会人になってから無かったかもしれない。
この世界に来てから一週間。私は初めて「テニプリの世界に行きたい」と願った自分を「正解だ」と思った。
◇
気持ちのいい音がして、私のボレーが決まった。ネットの向こう側、神尾くんと伊武くんが大きな息を吐いて、隣で杏ちゃんが笑顔を作る。
「私たちの勝ちね!」
「……マジかよくっそ!」
「あーあ、負けちゃったよ女子のダブルスに負けるのってどうなわけ? まったくどっかの誰かが足引っ張るからこんなことになるんだよはぁ最悪こんなの橘さんに知られたらどうするのもっと腕を磨かなくちゃいけないな」
伊武くんのぼやきに苦笑しながら、杏ちゃんが振り返った。薄い茶色の髪がさらっと揺れて、きらきら光る大きな目がものすごく可愛い。
「改めてすごいわ! 初めて会ったときはラケットの握り方も知らなかったのに」
「杏ちゃんたちの教え方が上手なんだよ」
「そんなんじゃここまで伸びないよ。才能って本当にあるのね」
杏ちゃんと神尾くん、それに伊武くんと出会ってから今日で一週間になる。初めてここに来た日、狙い通りにテニスをしていた彼らに、私はにっこり笑いながらお願いしたのだ。テニスって楽しそう、私にも教えて欲しい、と。中学生と会話するのなんて何年ぶりだろう。なけなしの勇気をありったけ振り絞って声を掛けた。相手が優しい子たちだったのが本当に救いだ。
当初こそ、生で見るテニプリキャラに感動したし緊張したけれど、同時に妙な違和感を覚えた。だって、目の前の彼らはただの中学生にしか見えないのだ。二次元に描かれたキャラクターではなく、私と同じ人間にしか見えない。この世界の人間に成ったんだと実感した瞬間だった。
「そーそ、最初はサーブも空ぶってたのにな」
ルールは本で勉強したけれど、それだけでテニスができるようになんてなるはず無い。 けれどそこは幸せアイスのチートオプション。私はこの一週間でみるみる上達し、目の前の三人にも勝てるようになってしまった。異世界転生チート、ありがとう。
「俺たち明日からはもう来れないんで、またテニスしたくなったら連絡くださいよ」
「春休みの課題やるんだったね。頑張ってね、また連絡する」
四月まであと一週間。神尾くんたちは宿題を前に辟易した顔をしているけれど、実は一番頑張らなければならないのは私である。一週間後から、中学三年生をやらなければならないのだ。しかもハイソサエティな教育を施す私立氷帝学園の授業。家にあった教科書を見て自分が崖っぷちに居ることに気が付いた私は、猛勉強中真っ只中である。
「みんな、色々教えてくれてありがとう」
「うん! またラインするわね」
美少年二人に美少女一人。どこからどう見てもキラキラしている三人組に手を振って、家へと歩き始める。帰ったらハウスキーパーさんが作り置きしていってくれたお惣菜を食べて、それからまた勉強だ。やるべきことがあるというのは良い。食べて寝て、勉強をして運動をして、この世界のニュースを見て、この世界の人と交流をして。一日一日暮らすうち、この世界が私の世界になっていくのを感じる。
……少し疲れたかな。シャワー浴びたい。
最寄駅で降りて、そこから家までは歩いてすぐだ。麗かな青空の下、道行く人々も心なしかうきうきしているような気がして、街路樹の木漏れ日に目を細めながら穏やかな気分で歩く。
……電話? また知らない番号。
振動に気付いてスマホを取り出した。見覚えのない数字の羅列をじっと見てから、話してみることにする。
流れてきたのは女性の声だった。
『ああよかった、繋がったわ』
「どちら様でしょうか」
『大阪の忍足です。お久しぶりね』
……忍、足、マ、マ。
柔らかくて上品な声だった。忍足侑士の優しい話し方を連想させる声に、オタク心がときめく。
……でも標準語なんだ?
『氷帝学園に通うことになったんですってね。侑士も通っているのは知っているかしら』
「ええ、おばあちゃまから教えて貰いました」
『それな話が早いわね。明日、時間があるかしら? もし良かったら、侑士に学園や周辺を案内させようと思っているのだけど』
「……ひぇっ⁈」
『え?』
「……いいえ、ありがとうございます。とても嬉しいです」
声が裏返ったのは仕方がないと思う。明日、いよいよ明日、忍足侑士のご尊顔にまみえることが出来るのだ。
……う、嬉しすぎて泣きそう……!
『明日の十時に迎えに行かせるわね。いいかしら?』
「はい、勿論です」
『会うのは赤ちゃんのとき以来ですものね、身長ばかりどんどん伸びてしまって別人みたいだけど……そうね、おしゃれを気取って大きな丸い伊達眼鏡をしていくと思う。不審者じゃないから安心してね。あ、侑士の携帯番号教えておくわ。何か書くものある?』
「……はいっ!」
歩みを止めて、バッグからスケジュール帳を取り出す。綴った十一桁の数字がとんでもない宝物に見えた。忍足侑士はこの世界で、確かに、生きているのだ。
丁寧にお礼を言った後、往来で独り言を溢した私を許して欲しい。
「……うぁあ……なんて幸せなの……」
子どもの頃のように、わくわくすることを翌日に控えると眠れなくなるのは、大人になっても異世界転生をしても変わらないのだと実感した翌朝。何を着ていいのかさっぱり分からず、姿見の前で一時間も葛藤をしている。
「昨今の中学生の流行がわからない……」
勉強ばかりしていないで中学生ターゲットのファッション雑誌も読み込むべきだった。クローゼットにはジャージからドレスまで様々な服がストックされていて、ネットで見た流行りらしいものと似たものを選んではみたけれど、とうの昔に中学時代を終えた私の感覚には沿わずにしっくり来ない。
「……忍足侑士の好みのタイプは、『足の綺麗な子』だったよね」
好みのタイプというくらいだから、足を出すスタイルで行けば好感を持たれるかもしれない。衣装の中からかなり際どいデニムのミニスカートを選んで、それに合うようにトップスも見繕ってみた。
そんな風に過ごしているとあっという間に時間は過ぎて、十時を少しすぎた頃にエントランスのインターホンが鳴る。
……来たぁぁ!
モニターまで走る。画面には間違いなく、箱推し校の一人、忍足侑士が映っていた。
「……はい」
『あー……聞いとると思うけど。忍足です』
「っ!」
『? 聞こえとる?』
「……ごめんなさい、すぐに降りて行きます」
叫びださなかっただけ私は偉い。
……忍足侑士だよ! 本物! 本物! 声優さんのあの声そのまんま!
エレベーターを待つ時間すら惜しくて階段を駆け降りた。今の私は生命力上限突破の十五歳なのだ。イケメンに会うという少しの気恥ずかしさと、生きている忍足侑士に会うという喜びで足運びは軽い。
ロビーのソファーに、濃い髪色をした後ろ姿が見えた。
……心臓、鳴り止め!
「あの、侑士くんですか?」
「! ……」
忍足侑士が振り向いた。
……うわぁ……忍足侑士だ……!
濡れ羽色の髪がツヤツヤしている。シャープな顔立ちはすごく精悍で男らしくて、丸眼鏡の奥に光る瞳は鋭く澄んでいる。一目見ただけで目を奪われる、忍足侑士はそんな美形だった。
「…………」
「…………」
何も言えなかった。忍足侑士も何も言わなかった。
……何だろう、この変な感覚。
目の前の人から目が離せない。立ち上がる仕草も、振り向く様も、瞬きさえも印象深くてまるで素晴らしい絵画を見ているようだ。
少し心が落ち着いてくると、目の前の彼がとても驚いた表情をしていることに気がついた。テニプリキャラを前にした私はともかく、なんで、と一瞬不安に思ったけれど、そういえば『世紀の美少女』に転生していたことを思い出して納得する。
先に口を開いたのは彼の方だった。端正な顔がにこりと微笑む。
「一応、はじめまして、やね」
「そうだね。改めて、よろしくね」
「ああ。……ほな、行こか」
「はい」
私も慌ててにっこり笑顔を作る。とても感じのいい、好青年だ。漫画でも女子生徒に優しくしていた、そんな彼そのもので嬉しくなる。
二人で並んで住宅街を歩く。今日も雲ひとつないいい天気で、春の暖かい風が頬を撫でる。隣のイケメンをそっと見上げた。完成された横顔は、中学三年生には全く見えない。忍足侑士と不動峰トリオでは、容姿も雰囲気も明らかに別格のように思えた。
「今日テニス部はお休みなの?」
「ああ、お袋から聞いたんか。今日はないで。監督が出張でな」
何を話したらいいかわからなくて、とりあえずは応えてくれるだろうテニスの話題を出してみた。忍足侑士は少し遠くを見ながら、涼しい表情で答えてくれる。
「監督って、榊先生?」
「そや。なんで知っとるん?」
「学園のパンフレットに載ってたよ」
「あの人はどこにでも顔出すなぁ。まぁ跡部ほどじゃないけど」
「跡部?」
……忍足侑士の口から、『跡部』、『跡部』が出た……感動……幸せ……。
オタク心が満たされていくのを感じる。キャラが生きているってなんて幸せなんだろうありがとうアイスくんたち。
けれども私の内心とは反対に、忍足侑士は苦い顔で笑った。
「自分帰国子女やったか。跡部景吾様の知名度も所詮国内留まりなんかな。あとで検索してみ、ぎょーさん情報出てくるから。あの人格破綻者のな」
「人格破綻者……」
膨らんだ胸の内が一気に萎んでいく。氷帝は仲が悪いのだろうか。
……OVAとかじゃ割と仲良く見えてたんだけど……なんか寂しいなぁ。
「……その人と仲が悪いの?」
「あ、ちゃうちゃう。あだ名みたいんなもん
。ただのやっかみ」
忍足はさも気楽そうに「あはは」と笑う。仲が良いのか悪いのかさっぱりわかりない。ただ、そんなあだ名がつく本物の跡部景吾様を拝見するのが少し怖くなってきた。
「……良い天気だね」
「そやね」
話したいことは山ほどある。どこに住んでるのとか、着てる服のブランドとか、この素敵な香りはなんなのとか、昨日何食べたのとか、忍足侑士のいろんなことを知りたい。けれど初対面でそこまで詮索したら引かれるだろう。私にとって彼は一方的にずーっと眺めて応援してきた親しみのある人だけれど、彼にとって私は初対面の従姉妹でしかない。どんな風に接したらいいのか、距離感が上手く掴めないのが怖くて、当たり障りのない会話しか出来ないのがもどかしい。
我が家から氷帝学園まではほぼゼロ距離だ。歩いているうちに正門へと続く並木道が目の前に見えてきた。足をすすめるにつれ、氷帝の制服を着た人たちがポツポツと見え始める。春休みだけれど部活でもあるのだろうか。
「忍足だよ!」
「横に居るの、誰?」
嫉妬と殺気に満ちた女生徒のひそひそ声が聞こえてくる。
……ちょっとだけ、いい気分?
集まる視線に少しだけ優越感を感じていたら、上から低い、不機嫌そうな声がふってきた。
「俺、けばい女は好みと違うのに」
「え?」
驚いて見上げた。目が合うと、「失敗」とでも言いたげにテヘペロ顔をされて、それから何事も無かったかのようにまた微笑まれた。
……え? え? 『けばい』って私のこと? それとも空耳?
「ここが正門や。今日は私服で身分証も無いから中には入れんな。あそこに見えるのが本館。職員室は中入ってすぐやから、始業式当日はそこに行くとええよ」
「ありがとう」
現実に建つ氷帝の校舎は、アニメで遠巻きに見るよりずっと重厚感があって、美しかった。きっと著名な建築家が手掛けたのだろう造形にはとても惹かれるけれど、隣に立つこの人のことが気になってしまい落ち着かない。
……慣れてきたら、べったべたの作り笑いじゃん。
初対面のイケメンオーラで気が付かなかったけれど、慣れてきてわかった。忍足侑士の微笑みは作り笑いで、口端こそ上がっているものの眼鏡の奥の鋭利な瞳は微塵も笑っていない。寧ろ面倒くさそうなオーラさえ漂っていて、この時間が彼の貴重な休日を奪っているだけなのだとわかった。
……漫画の描写だけじゃこんなのわかんなかったよね……主人公でも無いんだし。
これ以上一緒に居ても、仲良くなれる気はしなかった。
「あとは適当に見て帰るね。今日はありがとう」
「そうか? お袋からは、学園周辺も案内してやれ言われてるけど」
そう言いつつも僅かに顔が明るくなるのは見逃せない。
……この子、感じ悪い!
「スマホ見ながら歩けば案内なんて要らないから大丈夫」
「ふーん? なら、四月からも俺のこと当てにせんといてな? 俺の周りの連中も自分とはテンション合いそうもない奴らやし」
「忍足くんの友だちならそうかもね」
こんなに笑顔で、私たちが罵り合ってるなんて側からはわからないだろう。集まる視線や騒めきが段々居心地が悪くなってきた。
「さよなら」
「どーも」
……苛つく……期待しすぎてたんだよ私、きっとそう。
とても周辺を散策するような気分ではなくなってしまって、家への道のりをまっすぐ進む。ふと思い立って、途中でコンビニへ寄り例のアイスを買った。
……キャラクターが生きてるって、こういうことなんだなぁ……。今まで忍足侑士は私のアイドルだったのに。
人と人とのお付き合いにはどうしても合う合わないがある。残念ながら忍足侑士とは仲良くなれないみたいだ。
「はあ……ねえ、ちょっと私やっぱり、帰りたくなっちゃったよ」
物音ひとつしない部屋の中、箱を開けても幸せアイスたちは出てこない。一粒口へ放り込んで目を閉じた。広がる甘さは異世界でも全く変わらない。ミュージカルで、アニメで、漫画で、氷帝戦に熱狂しながら食べたのと同じ味だ。
……こんなちょっとのことで、忍足侑士を嫌いになりたくない。
推しへの愛は不滅、のはずだったのに、いざ対面したら勝手に期待して勝手に落胆して本当に馬鹿みたいだ。
……誰かに聞いて欲しい……相談に乗って欲しい……。
元の世界に居る家族、友だちの顔が脳裏から離れない。せめて電話ででもできればと思い実家の家電にかけたけれど、当然のように現在使われていないという無機質な音声が流れるだけだ。
……はあ。
もうこうなると、相談できる相手はひとつしか無い。
「『私は異世界転生してきた者です。この世界は『テニスの王子様』というジャンプ漫画が舞台の世界です。』」
キーボードを叩いているうちに少し楽しくなってきた。知恵袋なら荒唐無稽な真実もただのネタに変わる。本来は社会人だけれど中学生になったこと、憧れのキャラクターが思っていたのとは違ったのがショックだったことなんかを書いていく。
「『寂しくて、元の世界に帰りたくなってしまいました。帰る方法は◯ぬことですが、そんなこと怖くてできません。とても寂しいです。』……ってね」
文字にすることで気持ちの整理ができた気がする。アイスをもう一つ刺して、頬張る。舌に感じる甘さが、優しかった。