幸せアイス
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「謙也ぁ! ちょい待てや!」
「冗談言わんとって! そんなとろい足取り、難波のスピードスターの名が廃るっちゅーねん!」
従兄弟のランドセルはあっと言う間に並木道の向こうへ消えて行った。いつもなら張り合って追いかけるところだが、夕焼けに溶ける桜並木を見上げながら忍足侑士は殊更歩みをゆったひと進めた。赤から黄色へと変わりゆく青空の一部は、乱れ咲く桜と同じ色をしている。
……こんな景色、味わんなんて勿体へんのに。
地面を撫でる風が花びらを舞い上げ、視界は一瞬で薄紅色に変わる。目を細めた次の瞬間、並木道の途中に見慣れないものが見えた。
……何してはるの。露天商?
桜の幹の下、黒いローブを身につけた小さな体が、机を挟んで見慣れた制服の女子中学生と話をしている。『占』と描かれた怪しげな布は、この景色を台無しにしているように思えて侑士は小さく舌打ちをした。
……セン? 占い師?
まだ習っていない漢字だったが、姉が買う雑誌の一番後ろにあるコーナーでよく見る字だった。恨めしい気持ちを乗せた視線の先、中学生は嬉しそうに笑って簡素な椅子から立ち上がった。
……前通るの、気が進まへんなぁ。
ちらりと後ろを振り返ったが自分以外に人気はなく、従兄弟はとっくに家に着いている頃だろう。走って駆け抜けてしまうより他にない。
「待ちなさいな、そこの坊ちゃん」
「…………俺?」
他に居ないだろうと思いつつも、自分ではないと良いと思い念のためそう聞き返した。走り過ぎようとした瞬間に呼び止められてしまい止まったのは、声色が男性とも女性ともつかない不思議な色だったこと、ロープの中の顔が意外にも綺麗だったこと、そして母が時折使う標準語だったこともある。
……東京弁、珍しいな。それにしてもこの人、男なん女なん?
「そこへお座りなさい。占ってあげましょう」
「俺そういうの信じへんねん。金もないし、ほなな」
「お金なんて要らないよ。これはただの趣味だから」
得体の知れない他人の趣味に付き合うなど難波のスピードスターでなくとも時間の無駄だと思う。素通りしようとした侑士だったが、占い師が取り出した大きな水晶玉に目を引かれてしまった。
「なんやそれでっかっ」
「綺麗だろう、曽祖父から譲り受けた品でね。こうして手をかざすと、ほら」
占い師が白い手のひらを水晶玉にかざすと、無色透明だった玉の内側がきらきらと輝き出した。
……これは……星?
見慣れた星座を見つけたかと思うと、それは彩どりの火花を散らして爆ぜていく。そのうちの薄紅色の光が今度は桜の花びらになって、開いては散り開いては散り、水晶玉の中を埋め尽くしていく。
……なんて……。
思わず手を伸ばした瞬間、薄紅色はさぁっと色を無くし消えていってしまう。
「あっ、堪忍っ」
まずいことをしてしまったかもしれないと思い慌てて占い師を見上げた。けれど彼の表情は侑士が心配したのとは異なり、哀憫に満ちていた。
……え?
「可哀想に。あなたの愛は成就しない。決して、一生」
「は?」
「あなたの運命の赤い糸の相手は、こことは全く違う世界に居るようだ」
「何言ってるん?」
「この世界が一つの物語であるのと同じで、あなたのあの子が生きるのは別の物語の世界。交わることは決してない。触れることも、言葉を交わすことも、決して、ない」
「……」
……なんやのこれ……呪い?
以前繁華街を歩いているときに、占い師の心理テクニックを教えてくれたのは父だった。確証バイアス、バーナム効果、心理学を面白いと感じる一端となったあの日の教えはよく覚えている。
……こんなんただの詐欺や。子どもの不安煽って、そこにつけ入って何かの犯罪に巻き込もうとしてるんや。
頭の冷静な部分はそう諭している。けれど占い師の言葉は一言一句が、重く深く、侑士の心の中に刻まれていく感覚がする。
「心配しないで、あなたに今生恋人が出来ないわけじゃない。運命のあの子とは違うけれど」
……「違う」から、「愛は成就しない」。
占い師の言葉が脳裏でリフレインして、全くそうしたいわけではないのにその言葉の意味を噛み締めざるを得ない。運命の人ではないから、恋人ができても愛することはできない。
……なんやのそれ。……ふざけんな!
勢いよく立ち上がると椅子は軽く後ろに倒れた。らしくない行動だとわかりつつも、これ以上ここに居たくなかった。涙が溢れてしまいそうだ。
「あ……」
一言呟いたきり、占い師は走り逃げる侑士を呼び止めることもなかった。
……なんやねんなんやねん、なんやねん!
勝手に溢れてくる雫をぎゅっと目瞑って散らす。
桜並木を抜けたとき、振り返るともう占い師の姿はなかった。黒いカラスが一羽、夕闇に向けて飛び去っていき、そこから夜がやってくる。
◇
新幹線の構内は人で賑わっていた。春が始まる時期のこの独特の高揚感にはうんざりする。前までは春が好きだったし、あの陰鬱な春の日からもう何年も経っているというのに、言葉の羅列は侑士の内側に凍みた部分を創ったままなかなか溶けようとしない。
……東京でなんやおもろいもの見つかればええんやけど。
「じゃあな、たまには戻ってこいよ」
「おー」
「二時間半もかかるんやって。暇やな」
「本あるし」
読みかけの恋愛小説を見せると、従兄弟は砂でも食べた顔になって舌を見せてきた。
……しゃーないやん、好きなんやからこういうん。
車窓の向こうに手を振りながら、動き出したガラスの向こうに見えるホームを見つめる。あの老夫婦は運命の番なのか、あの若い夫婦が例えそうでなくとも子どもはとても幸せそうだ、一緒に歩きながらも其々のスマホに目を落としているあのカップルは果たして運命の相手なのか。
……まあ、本や映画の延長線やね。
己が得られないと断言された、愛とは何なのか。違う世界に生きているらしい『あの子』とはどんな子なのか。これから先、人を好きになることが出来るのか。
常に囚われているわけではない。恋愛コンテンツが好きなのも本当だ。ただ、こうした節目節目に思い出しては、なんとなく陰鬱な気分に浸らされるだけ。たとえあれが、ただの不審者だったとしても。
……あ、おかんに連絡。
赴任先へ先に行っている両親と、友人たちとの別れを済ませている姉とは別行動だ。新幹線に乗ったら連絡するよう言われている。開きかけた小説を閉じ、バッグの中のスマホを漁る。
……これ。そういえば持ってきてたな。
意匠を凝らした美しい小さな缶は、母方の祖父母から贈られてきたものだ。海外に居るためあまり交流も親近感も無く、なんなら道ですれ違ってもお互いわからないだろう。それでも誕生日や進学、今回のように父の栄転の折りには、様々な贈り物が山のように送られてくる。
この缶もその中の一つだった。月と星が描かれた意匠は一目で気に入り、中にはいっているのが菫の砂糖漬けだと知って、姉に奪われないよう贈り物のなかから真っ先に手に取った。
少しだけ、と思い間の蓋を開ける。強く甘やかで上品な香りに、頬が緩む。美しい紫を保ったまま、砂糖の粒がきらきらと宝石のように煌めく様は可愛らしかった。
……薔薇は赤く、菫は青く、砂糖は甘く、そして貴方も。
侑士の好きなマザーグースの詩だった。薔薇が赤いように、菫が青いように、砂糖が甘いように、運命の彼女に出逢ったらきっと、同じように明瞭に判るということではないだろうか。この人こそが『あの子』だと。
そのとき、新幹線が大きく横に揺れた。
「おっと」
衝撃で浮き上がった菫二輪を左手でキャッチしようとして、手が滑った。誤って指で弾いてしまったそれらは、車両が次のカーブに差し掛かった衝撃で動いた右手の親指の付け根に当たって更に弾かれ、「あ」の形をとっていた侑士の口の中に放り込まれた。広がる、甘い甘い香り。
……こんなこと、あるか? ピタゴラ装置もびっくりやで。
甘さを噛み締めていると、周囲から突然音が消えた。
「え?」
……耳が聴こえんと……?
「いや、違うな……?」
呟く声はちゃんと聴こえている。慌てて立ち上がり周囲を見回す。パソコンに向き合う通路向かいのサラリーマン、声高に会話をしていた中年女性二人組み、所在なさげに窓の外を見ている若い男性、その全てが動きを止めている。車窓を流れていた景色も全く動かず、揺れどころか音すらも一切ない異様な世界だった。
「なんや俺、寝てしもうたん?」
今自分が夢を見ていることは間違いない。だとすれば菫の缶を持ったままだし、口を開けたバッグの中には財布も見ているだろう。
「あかん、起きな」
頬をつねっても手足をどれだけ動かしても起きられる気配はない。
……明晰夢ってどうやったら目ぇ覚めるの。
今度は、缶の中から菫の砂糖漬けがよちよちと這い出し始めた。紫色の棒でできた手足はまるでカビルンルンのようだ。一つ、また一つと出てきては、ペアになってダンスを踊り始める。
「俺たちは願いの菫。あなたの願いをかなえに来ました」
……おーおー、喋るんかい。
ゆっくりとした口調で菫たちが言うことには、破茶滅茶な理論で『幸福の確率』に遭った己は、何でも願いごとを一つだけ叶えて貰えるとのことだった。
……願い? そんなん決まっとるやん。
「俺の運命の『あの子』とやらを、この世界に連れてきてくれ」
「ああ、『あの子』ね。いいよ、いますぐにでも」
「ただし拉致はあかんで。その子にだって生活があるやろ、必ず本人合意のうえ、な」
「断られた場合どうすればいいの?」
「そのときは、そのときや。その子の好きなようにしたって」
……運命の相手なんやろ? きっかけがあれば、きっと交わる。
快諾をして、菫たちは一つずつ跡形もなく消えていった。最後の一つが消えるのと同時に、周囲に揺れと騒音が戻ってくる。
……あぁ。漸く目ぇ覚めたか。変な夢。でも、どこから夢や?
口の中にはまだ、甘やかな香りが広がっている。
◇
ひょっとして新しい学校で運命の人に出会えるかも、などと一瞬期待した己を「案外可愛いとこあるやろ」などと嗤い、テニスに熱中する日々を送りながらちょうど二年が経った、春のことだった。
ほぼ初対面の母方の従姉妹を置き去りにし、楽しみにしていた映画を見終えた侑士は、シアターの裏にある喫茶店で一人珈琲と向かい合っている。昭和レトロなこの空間で、観た映画の余韻に浸るこの時間がとても好きだった。
……もうちょい、丁寧な対応をとるべきやった。
昼間の従姉妹が、妙に印象に残っている。顔が嘘のように美しいから、というわけではない。会話の内容、雰囲気、こちらに視線を寄越す際の動線、彼女の一挙一投足が全て、強く鮮明な印象を刻んでいる。訳の分からない状況に心が騒めき、普段の己らしからぬ冷たい態度をとってしまった。
……余裕なかったんかな俺。疲れてるのかも。
入学式に職員室の場所がわからなければ気の毒だ。当日彼女は一人で登校することになっているから、くれぐれも気を遣ってやるようにと母親から言われているし、英国の祖父母からも直接電話で依頼があった。
……あの子にとっては数少ない身内やしね。入学式は親切にしたろ。
並んで遜色ない顔面偏差値であることには自信がある。春だから眼鏡を新調しようか。スマホで新作ラインナップをチェックする側、いつか見た明晰夢に似た境遇のネットへの書き込みを見つけた。
……幸せアイスか。なら俺のは、幸せの菫の砂糖漬け、やね。
なんだか随分と弱気になっている投稿主を励ましたくなって、丁寧に文章を打って投稿した。
ようこそ、『テニスの王子様』の世界へ。
浮き足立っている己に、このときはまだ気がついていなかった。
薔薇は赤く、菫は青く、砂糖は甘く、そして、『あの子』はあの子だということに、このときはまだ気が付いていなかったのだ。
END
「冗談言わんとって! そんなとろい足取り、難波のスピードスターの名が廃るっちゅーねん!」
従兄弟のランドセルはあっと言う間に並木道の向こうへ消えて行った。いつもなら張り合って追いかけるところだが、夕焼けに溶ける桜並木を見上げながら忍足侑士は殊更歩みをゆったひと進めた。赤から黄色へと変わりゆく青空の一部は、乱れ咲く桜と同じ色をしている。
……こんな景色、味わんなんて勿体へんのに。
地面を撫でる風が花びらを舞い上げ、視界は一瞬で薄紅色に変わる。目を細めた次の瞬間、並木道の途中に見慣れないものが見えた。
……何してはるの。露天商?
桜の幹の下、黒いローブを身につけた小さな体が、机を挟んで見慣れた制服の女子中学生と話をしている。『占』と描かれた怪しげな布は、この景色を台無しにしているように思えて侑士は小さく舌打ちをした。
……セン? 占い師?
まだ習っていない漢字だったが、姉が買う雑誌の一番後ろにあるコーナーでよく見る字だった。恨めしい気持ちを乗せた視線の先、中学生は嬉しそうに笑って簡素な椅子から立ち上がった。
……前通るの、気が進まへんなぁ。
ちらりと後ろを振り返ったが自分以外に人気はなく、従兄弟はとっくに家に着いている頃だろう。走って駆け抜けてしまうより他にない。
「待ちなさいな、そこの坊ちゃん」
「…………俺?」
他に居ないだろうと思いつつも、自分ではないと良いと思い念のためそう聞き返した。走り過ぎようとした瞬間に呼び止められてしまい止まったのは、声色が男性とも女性ともつかない不思議な色だったこと、ロープの中の顔が意外にも綺麗だったこと、そして母が時折使う標準語だったこともある。
……東京弁、珍しいな。それにしてもこの人、男なん女なん?
「そこへお座りなさい。占ってあげましょう」
「俺そういうの信じへんねん。金もないし、ほなな」
「お金なんて要らないよ。これはただの趣味だから」
得体の知れない他人の趣味に付き合うなど難波のスピードスターでなくとも時間の無駄だと思う。素通りしようとした侑士だったが、占い師が取り出した大きな水晶玉に目を引かれてしまった。
「なんやそれでっかっ」
「綺麗だろう、曽祖父から譲り受けた品でね。こうして手をかざすと、ほら」
占い師が白い手のひらを水晶玉にかざすと、無色透明だった玉の内側がきらきらと輝き出した。
……これは……星?
見慣れた星座を見つけたかと思うと、それは彩どりの火花を散らして爆ぜていく。そのうちの薄紅色の光が今度は桜の花びらになって、開いては散り開いては散り、水晶玉の中を埋め尽くしていく。
……なんて……。
思わず手を伸ばした瞬間、薄紅色はさぁっと色を無くし消えていってしまう。
「あっ、堪忍っ」
まずいことをしてしまったかもしれないと思い慌てて占い師を見上げた。けれど彼の表情は侑士が心配したのとは異なり、哀憫に満ちていた。
……え?
「可哀想に。あなたの愛は成就しない。決して、一生」
「は?」
「あなたの運命の赤い糸の相手は、こことは全く違う世界に居るようだ」
「何言ってるん?」
「この世界が一つの物語であるのと同じで、あなたのあの子が生きるのは別の物語の世界。交わることは決してない。触れることも、言葉を交わすことも、決して、ない」
「……」
……なんやのこれ……呪い?
以前繁華街を歩いているときに、占い師の心理テクニックを教えてくれたのは父だった。確証バイアス、バーナム効果、心理学を面白いと感じる一端となったあの日の教えはよく覚えている。
……こんなんただの詐欺や。子どもの不安煽って、そこにつけ入って何かの犯罪に巻き込もうとしてるんや。
頭の冷静な部分はそう諭している。けれど占い師の言葉は一言一句が、重く深く、侑士の心の中に刻まれていく感覚がする。
「心配しないで、あなたに今生恋人が出来ないわけじゃない。運命のあの子とは違うけれど」
……「違う」から、「愛は成就しない」。
占い師の言葉が脳裏でリフレインして、全くそうしたいわけではないのにその言葉の意味を噛み締めざるを得ない。運命の人ではないから、恋人ができても愛することはできない。
……なんやのそれ。……ふざけんな!
勢いよく立ち上がると椅子は軽く後ろに倒れた。らしくない行動だとわかりつつも、これ以上ここに居たくなかった。涙が溢れてしまいそうだ。
「あ……」
一言呟いたきり、占い師は走り逃げる侑士を呼び止めることもなかった。
……なんやねんなんやねん、なんやねん!
勝手に溢れてくる雫をぎゅっと目瞑って散らす。
桜並木を抜けたとき、振り返るともう占い師の姿はなかった。黒いカラスが一羽、夕闇に向けて飛び去っていき、そこから夜がやってくる。
◇
新幹線の構内は人で賑わっていた。春が始まる時期のこの独特の高揚感にはうんざりする。前までは春が好きだったし、あの陰鬱な春の日からもう何年も経っているというのに、言葉の羅列は侑士の内側に凍みた部分を創ったままなかなか溶けようとしない。
……東京でなんやおもろいもの見つかればええんやけど。
「じゃあな、たまには戻ってこいよ」
「おー」
「二時間半もかかるんやって。暇やな」
「本あるし」
読みかけの恋愛小説を見せると、従兄弟は砂でも食べた顔になって舌を見せてきた。
……しゃーないやん、好きなんやからこういうん。
車窓の向こうに手を振りながら、動き出したガラスの向こうに見えるホームを見つめる。あの老夫婦は運命の番なのか、あの若い夫婦が例えそうでなくとも子どもはとても幸せそうだ、一緒に歩きながらも其々のスマホに目を落としているあのカップルは果たして運命の相手なのか。
……まあ、本や映画の延長線やね。
己が得られないと断言された、愛とは何なのか。違う世界に生きているらしい『あの子』とはどんな子なのか。これから先、人を好きになることが出来るのか。
常に囚われているわけではない。恋愛コンテンツが好きなのも本当だ。ただ、こうした節目節目に思い出しては、なんとなく陰鬱な気分に浸らされるだけ。たとえあれが、ただの不審者だったとしても。
……あ、おかんに連絡。
赴任先へ先に行っている両親と、友人たちとの別れを済ませている姉とは別行動だ。新幹線に乗ったら連絡するよう言われている。開きかけた小説を閉じ、バッグの中のスマホを漁る。
……これ。そういえば持ってきてたな。
意匠を凝らした美しい小さな缶は、母方の祖父母から贈られてきたものだ。海外に居るためあまり交流も親近感も無く、なんなら道ですれ違ってもお互いわからないだろう。それでも誕生日や進学、今回のように父の栄転の折りには、様々な贈り物が山のように送られてくる。
この缶もその中の一つだった。月と星が描かれた意匠は一目で気に入り、中にはいっているのが菫の砂糖漬けだと知って、姉に奪われないよう贈り物のなかから真っ先に手に取った。
少しだけ、と思い間の蓋を開ける。強く甘やかで上品な香りに、頬が緩む。美しい紫を保ったまま、砂糖の粒がきらきらと宝石のように煌めく様は可愛らしかった。
……薔薇は赤く、菫は青く、砂糖は甘く、そして貴方も。
侑士の好きなマザーグースの詩だった。薔薇が赤いように、菫が青いように、砂糖が甘いように、運命の彼女に出逢ったらきっと、同じように明瞭に判るということではないだろうか。この人こそが『あの子』だと。
そのとき、新幹線が大きく横に揺れた。
「おっと」
衝撃で浮き上がった菫二輪を左手でキャッチしようとして、手が滑った。誤って指で弾いてしまったそれらは、車両が次のカーブに差し掛かった衝撃で動いた右手の親指の付け根に当たって更に弾かれ、「あ」の形をとっていた侑士の口の中に放り込まれた。広がる、甘い甘い香り。
……こんなこと、あるか? ピタゴラ装置もびっくりやで。
甘さを噛み締めていると、周囲から突然音が消えた。
「え?」
……耳が聴こえんと……?
「いや、違うな……?」
呟く声はちゃんと聴こえている。慌てて立ち上がり周囲を見回す。パソコンに向き合う通路向かいのサラリーマン、声高に会話をしていた中年女性二人組み、所在なさげに窓の外を見ている若い男性、その全てが動きを止めている。車窓を流れていた景色も全く動かず、揺れどころか音すらも一切ない異様な世界だった。
「なんや俺、寝てしもうたん?」
今自分が夢を見ていることは間違いない。だとすれば菫の缶を持ったままだし、口を開けたバッグの中には財布も見ているだろう。
「あかん、起きな」
頬をつねっても手足をどれだけ動かしても起きられる気配はない。
……明晰夢ってどうやったら目ぇ覚めるの。
今度は、缶の中から菫の砂糖漬けがよちよちと這い出し始めた。紫色の棒でできた手足はまるでカビルンルンのようだ。一つ、また一つと出てきては、ペアになってダンスを踊り始める。
「俺たちは願いの菫。あなたの願いをかなえに来ました」
……おーおー、喋るんかい。
ゆっくりとした口調で菫たちが言うことには、破茶滅茶な理論で『幸福の確率』に遭った己は、何でも願いごとを一つだけ叶えて貰えるとのことだった。
……願い? そんなん決まっとるやん。
「俺の運命の『あの子』とやらを、この世界に連れてきてくれ」
「ああ、『あの子』ね。いいよ、いますぐにでも」
「ただし拉致はあかんで。その子にだって生活があるやろ、必ず本人合意のうえ、な」
「断られた場合どうすればいいの?」
「そのときは、そのときや。その子の好きなようにしたって」
……運命の相手なんやろ? きっかけがあれば、きっと交わる。
快諾をして、菫たちは一つずつ跡形もなく消えていった。最後の一つが消えるのと同時に、周囲に揺れと騒音が戻ってくる。
……あぁ。漸く目ぇ覚めたか。変な夢。でも、どこから夢や?
口の中にはまだ、甘やかな香りが広がっている。
◇
ひょっとして新しい学校で運命の人に出会えるかも、などと一瞬期待した己を「案外可愛いとこあるやろ」などと嗤い、テニスに熱中する日々を送りながらちょうど二年が経った、春のことだった。
ほぼ初対面の母方の従姉妹を置き去りにし、楽しみにしていた映画を見終えた侑士は、シアターの裏にある喫茶店で一人珈琲と向かい合っている。昭和レトロなこの空間で、観た映画の余韻に浸るこの時間がとても好きだった。
……もうちょい、丁寧な対応をとるべきやった。
昼間の従姉妹が、妙に印象に残っている。顔が嘘のように美しいから、というわけではない。会話の内容、雰囲気、こちらに視線を寄越す際の動線、彼女の一挙一投足が全て、強く鮮明な印象を刻んでいる。訳の分からない状況に心が騒めき、普段の己らしからぬ冷たい態度をとってしまった。
……余裕なかったんかな俺。疲れてるのかも。
入学式に職員室の場所がわからなければ気の毒だ。当日彼女は一人で登校することになっているから、くれぐれも気を遣ってやるようにと母親から言われているし、英国の祖父母からも直接電話で依頼があった。
……あの子にとっては数少ない身内やしね。入学式は親切にしたろ。
並んで遜色ない顔面偏差値であることには自信がある。春だから眼鏡を新調しようか。スマホで新作ラインナップをチェックする側、いつか見た明晰夢に似た境遇のネットへの書き込みを見つけた。
……幸せアイスか。なら俺のは、幸せの菫の砂糖漬け、やね。
なんだか随分と弱気になっている投稿主を励ましたくなって、丁寧に文章を打って投稿した。
ようこそ、『テニスの王子様』の世界へ。
浮き足立っている己に、このときはまだ気がついていなかった。
薔薇は赤く、菫は青く、砂糖は甘く、そして、『あの子』はあの子だということに、このときはまだ気が付いていなかったのだ。
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