幸せアイス
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宍戸の髪が短くなってから一週間が経った。都大会はこっそり応援に行って、ルドルフや不動峰のテニプリキャラを遠くから拝んでは見たけれど、尊さよりも氷帝が勝って欲しい気持ちの方が強くて、無意識にこの世界に馴染んでいたことを改めて実感した。キャラに近づく手段としてつけてもらったテニス能力も、全く使い所がわからないし使う見込みもない。テニス自体は楽しかったから、誰かと一緒に出来たら楽しいだろうけど。
……たとえばそうだな、侑士とか?
未だお気に入りのままのハーブ園を併設したカフェで、放課後のお茶を楽しみながらあの穏やかに笑う顔を思い浮かべる。誘ってみようか。
……でも今は練習ハードみたいだし。休みの日はテニス以外のことをした方がリラックス出来るかな? 疲れてるだろうから、日曜の夕食当番は当面私にしてって言おうかな。
日曜日に夕食を囲む慣習は健在で、料理担当の家でともに食べるのが鉄板だ。オレンジ色の暖かい照明の下、温かい料理を囲む時間は私にとっては宝物のように大切だけれど、昼間に一緒に出かけたりすることはなかった。他のテニス部面子は気楽に誘って一緒に出かけたり断られたりしているけれど、侑士を誘ってもし断られたら、とか、乗り気じゃないのに優しさで了承してくれたら、なんてごちゃごちゃ考え始めるとなかなか誘えいでいる。
……侑士からだって、誘ってなんかくれないし。
部活がない日は、何をして過ごしているのだろう。私が向日や滝と出かけているように、誰か仲の良い女の子と遊びに行っているのだろうか。すごく、嫌だ。
……好き、なんだよなぁ……。
推しキャラを、しかも中学生を好きになってしまったことが信じられないけれど、好きになるなと言われる方が無理だと開き直れる。
……でもどうやったらあの人から、気持ちを向けてもらえるのかがわからない。
テーブルの上に置いていたスマホが振動した。ラインのメッセージを開くと侑士からで、タイミングの良さに驚く。
『明日の昼飯一緒に食お』
いいよ。何か用事? どこで食べる? と返すと、何か買って、講堂の裏庭へ来いと言われた。滝から教えてもらったあそこは彼らがたまに集まる場所でもあって、誰かとともに行くと誰かが居たりということが何度もあった。当然侑士も、ごく稀にあの場所を利用していることは知っていた。
……質問にちゃんと答えてないじゃん。でもまあ、あの場所なら二人きりじゃないだろうし、聞かれて困るような大事な話とかがあるわけじゃなさそうだな。
ほっとしたし、がっかりもした。それを悟られたくなくて、『了解』と簡潔に返事をしてラインを閉じた。
「おー、こっち」
「……誰も居ないね」
初夏の日差しの下、爽やかな好青年みたいな顔で侑士が手招きをしている。木漏れ日がきらきら落ちる緑の中で、王子様のように片手を差し出した。
「早速だけど踊ろか」
「え」
「ダンスレッスン。自分の腕前がどれくらいのもんか、ちょいやってみ」
「どれくらいも何も初心者だよ。生徒会主催のダンスレッスン申し込んでるもん」
「ほら、手」
……人の話聞く気全く無いね。……手、触れるの、久しぶりだなぁ。
溢れる感慨と緊張なんて、侑士には全く無さそうで羨ましい。渋々手を差し出そうとしたけれど、何か踊る前の作法みたいなの無かったっけと思い直し、両手でスカートの裾を摘んで膝を少し曲げて、童話のお姫様気取りで挨拶をしてみた。噴き出された。
「ぶっはっ! ……かっわ…………」
「いま可愛いって言った?」
「おめでたい聴覚やなぁ。ほら、ふざけてないで手」
別にふざけてはいない。指先をそっと、広い手のひらに置いた。触れる部分が少ないのが殊更侑士の体温を教えてくれる。
……私の手、冷た……。
意識しすぎて強ばった指先が、きゅっと握られた。片方の手でスマホを操作したかと思うと、美しく青きドナウが流れ始めた。
「待っていきなり?」
「リードするから、俺に合わせてみ」
「……足踏むから先に謝っとく」
……近いなぁ……いや近すぎない? ダンスってこんななの? 好きな香り。でも侑士の顔が良すぎてどうやって息したらいいかわからない……あ、踏んだ。
「痛」
「うそごめん!」
しゃがんで革靴の爪先をさするから、慌てて草に膝をついて眼鏡奥を覗き込む。愉しそうにに弓形になった眼差しに射られてどきりとすると、べっと赤い舌が出された。
「ちょっと」
「もうちょい期待してたけど酷いな」
「最初から言ってるじゃん。このために呼んだの? お昼食べようよ」
拍子抜けしたし、触れていた部分はまだ熱を持っている気がする。敏感で聡い人だから、そういうのすぐに気付かれてしまう危険を感じて話題を変えた。ベンチに移動して二人それぞれテイクアウトしたランチを広げた。
「まあ、日常生活でダンスは馴染みないからなぁ」
「侑士は上手いような気がするね?」
「俺が上手いから成り立ったダンスやで今のは。三年目やしね、中1のときは酷かったで」
……去年と一昨年は誰と踊ったのかな。私、二年前に転生させて貰えば良かった。
ダンスパートナーが誰だったか訊くのは簡単だけど、これからその子のことを意識してしまうと思うと訊きたくなかった。自分とその子の似ているところや違うところを見つけては、きっと悲しくなったり落ち込んだりしてしまうから。
「生徒会のレッスンは始まるのまだ先やろ。まずは人のダンスを観て、慣れるところから始めるのがいいんちゃう?」
「あ、そういえば跡部が邸宅のダンスホールでお手本見せてくれるって言ってたんだ。滝から聞いたよ、プロ級に上手いって、ひひひ⁈」
途端頬を引っ張られた。思い切りやられたから思い切りその手を叩く。
「痛い!」
「自分なぁ、そういうとこあんで」
唇を尖らせる顔が可愛らしくて、文句を言われているのにご褒美をいただいている気になる。
「俺のことは誘わんし。先週は岳人とアトベ・ワールドサーカス観に行ってるやろ」
「すごい楽しかった」
「ふーん」
「……あのさ、誘っていいの? 侑士には日曜の夜の時間貰っちゃってるから、他の時間まで誘うの迷惑かなって」
「自分はたまに妙な気を使うよなぁ」
ほっとした顔になったのは、気のせいじゃないと思う。ふわりと笑った顔が無邪気そうに見えるのも。
「その捉え方は間違ってんで。俺は、自分の方が俺に時間をくれてるて思ってん」
「……」
何か言ったら泣いてしまいそうだ。侑士も、私と同じ気持ちで居てくれると思っても良いのだろうか。
怒ってるみたいな顔で視線を外されて、可愛い仕草に心臓がキュンキュンうるさい。
「日曜な、近くでダンスの大会あるから観に行かへん?」
「うん、行く」
「その後は俺観たい映画あんねんけど、URL送るから行けそうなら付き合って欲しい」
「行く」
「自分チョロない? そんなんで大丈夫か逆に不安になるわ。ほんで、夜は外食しよ。食いたいものある?」
イタリアンと答えると、ほな良い店あるわと侑士は嬉しそうに笑った。可愛いかよ。「楽しみにしてる」と言おうとしたところで、人の話し声が聞こえてきた。
「おーお前ら二人?」
「腹減ったーなんかくれ」
襟足を片手でじょりじょりしている宍戸と、眠たそうな慈郎だった。二人ともあまり機嫌は良さそうではない。慈郎に「これあげる」とさっきカフェでサービスで貰ったクッキーをあげてから、侑士にこっそり囁いた。
「楽しみにしてるね」
「ふっ」
嬉しそうな顔が、やっぱり可愛くて心臓がつらい。
日曜日、内玄関のインターホンが鳴る。すぐに開けるとおめかしした侑士が立っていた。カードやイベントにしか無いような、後ろで長い髪をくくって、上品なシャツとやっぱり長い足を強調する黒のパンツ。今日の自分のコーディネートとも合っている気がして、私はにっこりした。
「今日の侑士の格好、可愛いね」
「…………だからそういうとこやで。次に俺が言うことがなくなるやん」
「え、言っていいよ可愛いって」
頬をぐにっとされて日曜日のデートが始まった。関東大会までもう少し。成長期のスポーツには休息も大事だというし、良い息抜きになればいいと思う。
初夏の日差しは段々と強くなっていて、マンションを出ると目が眩んだ。
「ふらふらしてんな、大丈夫か」
なんでも無い顔で手を差し伸べるこの人は繰り返すけれどどうしても中学生には見えない。躊躇いを隠して手を伸ばすと、指先をきゅっと握られた。そのままのんびりした歩調で歩き出す侑士に続く。
……誰にでもこんなことはしない、と思いたいけど。わかんないなぁ。
「今日人多いね?」
「知らんか、今夜は花火やねん。昼間は露天もぎょうさん出てて、毎年岳人が楽しみにしてるやつ」
「ふーん? なら今日も居るのかな」
人通りの多い駅前は、いつもよりもっと活気付いている。なんとなく赤紫の髪を探して視線を漂わせると、握られている手の力が強くなった。見上げると、小さく唇を尖らせて拗ねているイケメンいる。
「ええやん、今日は二人で」
「ん?」
「映画やって、岳人は好きと違うジャンルやし、アイツだって他のダチと来るやろ普通に考えて」
「合流したくて言ったわけじゃないけど……」
私の発言にそういう意図は全く無かった。それを伝えると、早とちりだったと分かった頬には一瞬赤みが見えたけれどその次の瞬間には心を閉ざして静かに微笑みを投げかけられた。
「今日は二人で居たいな」
「……まあ、ええんちゃう」
侑士のポーカーフェイスを崩すのもだんだん慣れてきた気がする。もっと色々な表情が見たいから、これからもがんがん崩していこう。
ダンスフェスはとても楽しかったし勉強になった。最高に可愛すぎる小さい子どものペアから素敵な老紳士淑女のペアまで、思い思いに躍る姿はとても素敵だった。それとは別に、ゲストに呼ばれたプロが踊る様はうっとりするほどで憧れた。侑士の隣で踊りたいのなら、私は今日からでも真剣に臨まないといけない。
「はぁ、面白かった。誘ってくれてありがとうね、頑張るわ」
「ええね、前向きやん。練習なら付き合うたるから言えよ。さて、昼飯何食べよか。夜はイタリアンやしな」
「映画まで少し時間あるね。私は何でもいいよ、侑士は?」
「んー、敢えて言うなら」
「侑士くん」
駅前に戻ってぶらぶら歩いていた私たちの背中に、声をかける人がいた。振り向くと、二十代半ばくらいの髪の長い女性が立っていた。ふと、既視感を覚える。
……あれ? どこかで見たことある? 誰だっけ?
「……ああ、どうも」
「レッスンをお休みするほどの用事は、部活じゃなくて彼女とのデートだったのかしら」
……あ! 侑士のヴァイオリンの先生だ。
アニメで見たことがある人だった。モブキャラと言われるような名前のない人たちも、ちゃんと生きて生活していることにちょっと感動する。因みにアニメにも出てこない一番のモブキャラは私だ。
「お人形さんみたいに綺麗な彼女ね。同じ氷帝学園の子かしら。侑士は悪い子ね、何も知らないお嬢様を誑かしたらいけないわ」
「先生、俺ら忙しいから行くわ」
「来週は、さぼっちゃダメよ」
白い手が侑士のシャツの胸元を撫でて、甘ったるい笑みを浮かべた女性は私たちに背を向けた。その仕草が気持ち悪くて、背筋がぞわぞわする。腕が震えて、鳥肌まで立った。
「…………侑士、今の人と関係があるの?」
「ああ、今のは俺のヴァイオリンの講師で」
「そうじゃなくて!」
思わず侑士の両腕を掴んだ。しっかりとした骨が関節を強調していて、痩せているように見えるけど実は結構筋肉質な、セクシーな男の人の体だ。でも、まだ中学生なんだ。優しくて、穏やかで、誠実でお茶目で、大切な大切な侑士の大事な大事な体なのだ。
「……駄目だよ。現役中学生に手を出すような大人、まともじゃない。しかも侑士のお父さんが苦労して働いてるお金を貰って、お母さんから信頼されて預けられてる子を……絶対駄目。侑士はそんな変な大人に搾取されちゃ駄目。こんなに、こんなに大切な……」
……大切な人なのに……。
言っていて悲しくなってきて、涙が出てきてしまった。侑士との関係を匂わせて牽制してくる女が気持ち悪かったし、そういう関係にある人を生々しく感じ取ってしまってショックだったのもある。
「……泣かんといて」
切なそうな声で、抱きしめられた。いつもと変わらない優しい香と温かな体温にほっとして、また涙が溢れてしまう。
……往来で何やってんの。止まれ。
そう思うのに嗚咽まで漏れ始めた。胸が軋んで痛い。あんな人に侑士を攫われたままにしてたまるか。私は中身は成人だけど、この世界では同い年だからセーフなのだ。事情を知っていて詭弁と後ろ指さすヒトだって幸せアイスくらいしか居ない。
……絶対に、奪ってやる。
心地よい体温から顔を上げて、侑士を睨みつける。
……あれ? なんて顔してるの?
驚いたみたいに小さく口を開けて眦を赤く染めて、侑士は惚けた表情で私を見ていた。なんて幸せそうな顔をしているのだ。意味がわからない。
「……落ち着いた? とりまそこの店入ろか」
「うん……」
ハンカチで両目を隠して頷いた。手をぎゅうっと握ってもらい、引っ張られるようにして近くのカフェに入る。今度は指を絡め合う恋人繋ぎで、私の指より断然太くてごつごつしている感覚が気持ち良い。
「……ごめんね。侑士の先生を悪く言っちゃった」
「普段自分が人の悪口言わへんことわかってる。だからこそ……」
別に口出さないだけで普段から色々思ってはいるけれど。「だからこそ」何なのだろう。店員が席を案内しに来て、そこで途切れてしまった。私の分も飲み物を頼んでくれて、二人真っ直ぐ向かい合う。
澄んだ瞳は真剣な光できらから輝いていて、綺麗だ。
「すまん! 謝らせてくれ。誘われて、自分では軽くあしらってるつもりやってん。まさか、いつか出会う自分を傷つけることになるなんて思いもせえへんかった。浅はかやったと思う」
「……侑士は悪くないよ」
「いや、悪い。春からは完全に拒絶してるし、テニスを理由にレッスンをさぼってたけど講師も変える。自分の視界からも俺のからも完全にシャットアウトするから、安心してくれ」
「……わかった」
テーブルの上に置かれていた拳に指を伸ばす。すかさず握ってくれて、冷えていた手にぬくもりが満ちていく。
……心配と嫉妬とで取り乱しちゃった……恥ずかしい。
照れ隠しに笑うと、侑士もほっとした顔で笑った。
「うわぁ……こういうのなんて言うの? カップルシートじゃないよね?」
「カップル以上が座れるからな。ボックスプレミアムシート」
「初めて座る」
「俺もや。前から一回使うてみたいと思っててん」
映画の上映時間が近づいたので、侑士に予約してもらっていた座席へ向かった。三畳くらいのボックスになっていて、足を伸ばせるどころか寝転がれるくらいの広々としたシートだ。
……これは逆に落ち着かないかもしれないけど……でも侑士の言う通り、一回は座ってみたい。
「楽しそう。予約ありがとう侑士」
「おう。……あんな、ちょいちょい感じてたけど、自分のそういうところ、いいと思うわ」
「どういうところ? 割り勘のお金はお爺さまのカードからだから私が稼いだお金じゃないよ?」
「俺らまだ中坊やのにそういうの気にする? 論点ずれとるし」
結局どういうところが評価されているかわからないままだ。腑には落ちないけれど褒められたようだからまあいいだろう。
会場が少し暗くなって、騒めきも静かになる。予告編の音響が、体に響いて気持ちいい。
「なあ、帰り、祭り寄ってこ」
……耳元っ! やめて‼︎
急に耳元で囁かれた良い声に、鳥肌が立った。こくこくと2回大きく頷くと、侑士は小さく笑ってボックスのソファに体を預けた。背もたれに長い腕を掛けていて、私も同じように背を預けるとまるで抱っこされているみたいな感じになってしまう。
……まあ、いいか。こういうラッキーはありがたく享受しよう。
とすり、とソファにもたれかかる。すると侑士がお尻を動かして近づいてきて、予想していたよりずっと密着した体勢になってしまった。緊張は、する。でも居心地は抜群で、すぐそこにある胸板にうっとり寄り掛かりたくなってしまう。
……この人、慣れてる……流されないように気をつけよ。
映画は楽しかった。切ない系の恋愛ものだったけどハッピーエンドだったし、ヒロインが恋にドキドキする様は隣の男によって必要以上にシンクロさせて貰えたから、臨場感もあった。グッズを見て、映画の感想を言い合いながら人混みを歩く。夏の夕方の、陽射しはまだまだ高い。
「夕飯まで、祭りで時間潰そ。出店色々あっておもろいで」
「たこ焼き食べる?」
「自分好みに作り直したくなるからいらん。今度ふるまったるで俺の逸品」
駅の近くの公園には露店がずらりと並んでいた。大通りは店が向かい合い、子どもから大人までひしめき合っている。背を向けるようにしてその両隣にも出店が並んでおり、そちらは通路が広いおかげでまだ息がしやすそうだ。歩くならば断然あっちだと主張すると、すぐに頷いてくれる。
「ほな行こか」
差し出された左手に飛びつきそうになって、さっき「流されまい」と思ったことを思い出す。
……まだ付き合ってないしなぁ、なんとなく両思いのような気がするけど。こういう希望は当てにならないし。
それでも抵抗してシャツの裾を掴むと、目を細めた侑士は予想外にまなじりを赤くした。片手で口元を隠して、「かわええ」と呟く。
……うわ! そういう侑士の方が可愛いよ!
自分の頬に熱が集まってるのがすごくよくわかる。伊達眼鏡をくいっとあげた侑士によって、裾の手は握られてしまったけれど。
「効率悪いわ」
「そういう問題なの?」
「………………嫌か?」
「んーん」
手と手を結び合って、二人でゆっくり歩く。人混みの喧騒に混じって、ひぐらしがカナカナと初夏の夕暮れを告げ始める。
「レストラン予約してるし、あんまり物食う感じじゃあらへんな。射的とか、型抜きとか」
「いいね、やろうよ。……あ」
露店に並べられた可愛い小花に目が止まった。きらきら光るそれは、飴細工だ。しかも指輪の台座の上に乗っている。
「うわっ可愛い! キャンディーの指輪って今はこんなに可愛いの? 昔はこう、プラスチックの上に大きなダイヤモンドみたいのがドーンと」
「ふぅん? 知らんなぁ」
馴染みがあるのはそうですよね、と応えてくれたのは露店の店員さんだった。ジェネレーションギャップである。気をつけよう。
露店はニューオープンしたてのパティスリーのものだった。色とりどりの飴細工の薔薇はまるでガラス細工みたいで、とても綺麗だ。一つ二千五百円でも安い気がする。
「ねえ、これイベントのコサージュと似てるね」
「ほんまやな。これ貰えますか」
「え、買ってくれるの? それとも自分用?」
「アホ」
店員さんに指のサイズを訊かれて、そういえば知らないなと思い測ってもらった。そのサイズの台座に乗った、ミストブルーの薔薇を購入していたから、侑士は答えなかったけれど多分買ってくれたということでいいのだと思う。
けれど侑士はその小袋を手に持ったまま、特にくれそうな素振りもなかった。
……ん? 私に買ってくれたんじゃないなら自分で買いたいんだけど……まあいいか。
「なあ見てくれや、鉛筆アートがある。滾るわぁ」
「ああ……好きだもんねああいうの。見ていこうよ」
向こうの小さな露店では、鉛筆の黒鉛の部分に彫刻したアート作品が並べられている。木の部分をカッターで削ってトーテムポールを作っている人としてはとても楽しいだろうし、黒鉛が3Dのヴァイオリンやウサギの形をしているのはすごく可愛い。
「俺も今度はこっち側彫ろうかな」
「鉛筆としては使えないけどね」
「それは、確かに」
こういうくだらない話をして、ゆっくりとした時間を過ごすのが楽しい。
……侑士と居れば、私はこの世界でもきっと生きていける。
予約してくれていた夕食は、二年連続で星を獲得している有名なイタリアンレストランだった。割と近くにあるから前々から行きたいと思っていたところだ。侑士のお父さんのお友達がやっているお店で、特別に席を確保してくれたらしい。
「美味しかった……たまには外食もいいねぇ」
「ほんまやね。でもまあ、俺は割と、自分の飯のが美味いと思う」
「あははありがと。私も侑士のご飯大好きだよ」
次の日曜はどちらが何を作るか話す。テニスの大会が近いから、暫く私が作ると約束した。
……氷帝が負けるの嫌だなぁ。全国が終わったら、原作通り侑士はアンダーセブンティーンの合宿かな。寂しくなっちゃうなぁ。
「どないした、浮かん顔して」
「んーん、今日は楽しかったなって考えてただけ」
「そんな顔と違うやろ。なんでもええからちゃんと話し」
本当に大丈夫だと繰り返す。ゆっくり歩いていたのにもうマンションに着いてしまったのが、名残惜しい。
「なあ、自分の部屋行ってもええ? 星が綺麗やから、自分とこのバルコニーソファ座らせてや」
侑士も名残惜しいと思ってくれていたらいい。頷くと満開の笑みが返ってきた。滅茶苦茶可愛い。朝、何を着て行こうか迷ってぐちゃぐちゃになっているクローゼットを除けば、お部屋もちゃんと綺麗にしている。
「おー、やっぱここからの方が綺麗に見えるな」
ここら一帯が住宅街だからだろうか、東京でもここは比較的星が綺麗だと思う。夜景、というほどでよないけれど、眼下に広がる人の営みもきらきらゆらゆらしていて綺麗だ。
「夜風が気持ちいいねぇ」
「せやな。……あのな、最近俺、株やってて」
「うん?」
ソファに腰掛けると、侑士も隣にどさっと座った。私の目を真っ直ぐに見てくるから、同じように返した。眼鏡の奥に強い光がキラキラ浮かんで、なんて綺麗なんだろう。
「結構おもろいで、新聞読むのとか楽しくなるし。まあ元手は小遣いやけど、ちょい譲渡益も出たりして」
「うん」
「だから、これは俺の金で買ったって言うても、いいんちゃう?」
「あ……」
目の前に咲いたのは、飴細工の指輪だった。ミストブルーの薔薇が、凛と愛らしく台座の上に咲いている。
「受け取ってくれるか? これくらいなら、ただのオモチャで済むやろ?」
……ただのおもちゃとは、とても思えないけど……。
何も言えないまま、左手を差し出す。安堵したみたいにほっと、侑士が息を吐いた。見慣れた骨張った手が、私の左手をとる。静かな夜の下で私の鼓動だけがうるさい。
……侑士の大事なお金でプレゼントしてくれるんだ……こんなに可愛いの、嬉しくて、涙出そう……。
戸惑うように宙を掻いた指が、躊躇いながら私の薬指に指輪を差し込んでいく。さっき測ってもらったばかりだから当然、薬指の付け根にぴったりフィットした。ガラスみたいに薄くてキラキラ光る花弁がすごく可愛い。それがよく見えるように手を広げて口の前に翳した。
「ありがとう侑士! ……似合ってる?」
「…………」
惚けた顔でぼんやりこちらを見つめた後、低いくぐもった声がした。
「…………めっちゃ好きや」
「え?」
「え?」
……今、好きって言ったよね⁈ なんで侑士が驚いてるの⁈
呆然と開かれた口が次第に「あ」の形を作って、それからすごく不機嫌そうな顔で視線を逸らされた。耳が真っ赤なのがもう無性に愛しくて、つい凝視してしまう。嬉しくて、倒れてしまいそうだ。
……やっぱり、両想い! はぁ……幸せ……!
「今のは、ちゃうくて、な」
「違うの?」
「違う、とはちゃうけど、忘れてくれ。いや、それもちゃう」
「好き」
はっと、大きく息を呑まれたのがはっきりと聞こえた。想いを伝えられる喜びで、心臓がばくばくしている。
「侑士が、好き」
「…………嘘や!」
悲痛な声だった。ぎゅっと抱き寄せられて、硬い胸板に頬を寄せる。心臓の音って、こんなに疾かったっだろうか。苦しそうな低い声が、ダイレクトに身体に伝わってきてびりびりする。
「初めて会ったとき俺、嫌な態度やった」
「それは、お互いごめんねってしたじゃん」
「岳人に見せた変顔、俺には見せてくれてへん」
「え、見たいの? 侑士も一緒にやってくれるならいいよ」
「休みの日、俺のことは遊びに誘ってくれへんかった」
「たまたま他の子が暇そうだったのと、前も言ったでしょ、日曜の夜を独占してるから悪いと思ったの」
……侑士、泣いてる?
いつもと変わらない美声が少し震えている。想いを自覚したばかりの私は、知らずに侑士を傷つけていたみたいだ。
ごめんねの気持ちをこめて、広い背中に手を伸ばす。負けない強さでぎゅっと抱きしめると、びくりと大きく侑士は震えた。
「鳳、自分と親しくなりたくて彼女と別れたんやで。日吉も自分のことしょっちゅうちらちら見とるし」
「それは気のせいだと思う……」
「自分がそう言うならええわ。……なら、跡部は。ちょいちょいカフェでお茶しとるし、コサージュ貰ってあない嬉しそうにしてたくせに」
「友だちだし、嬉しかったよ」
背中に回された腕の力がぐっと強くなった。「いやや、渡さへん」と呟かれて、喜びで背中がぞくぞくする。
「あんな、俺が一番やで。自分のこと好きな気持ちは、絶対に俺が一番や。自分の言葉も行動も仕草も、全部が全部俺のことぐちゃぐちゃにして離さへん。自分と出会う前にはもう、絶対に戻れんっていつも……いつも思うとる」
……信じられない。そんな風に想ってくれていたの?
いつも穏やかに笑っていたのに、こんなに激しく想いを寄せてくれていたことに驚いて、そして湧き上がる嬉しさを抑えられない。いつも冷静で、真冬の月みたいに美しく柔らかく振る舞う人が、こんなにも声と体を震わせて一生懸命言葉を紡いでくれる。それに、真剣に応えたい。
「あのね、確かに跡部は特別だよ。あんな人、他に居ない。でもね、跡部はみんなの特別だけど、侑士は私の特別。私の特別に大切で、大好きな人」
肩を強く掴まれて、引き離されてしまった。残念に思う暇もなく、真摯な瞳が私を覗き込んでくる。
「あんな、俺、重いで」
「どんな風に?」
「一生好きや。絶対に離さへん。付き合うてくれるなら、結婚したい。俺のお嫁さんになる前提で、俺の彼女になってくれるか?」
……か、可愛いかよ……! こんなかっこいい顔でなんでこんな可愛いこと言うの……好き‼︎
中学生の約束なんて、と大人の私が思う一方で、侑士にめろめろになっている私は「結婚しよ!」って思っている。すごく単純だけど、今のこのキラキラわくわくした気持ちを大切にしたい。
「うん! 私も自分で稼いだお金で、侑士に指輪プレゼントするからね。お嫁さんになる前提の、彼女にしてください」
「ま、じか……まじで……。絶対無理やと思ってた……」
侑士の顔のちょうど後ろに満月が浮かんでいる。眦を赤く染めて、潤んだ瞳で微笑むこの刻を、私は一生忘れないと思う。
……あ……キス。
物欲しげな視線に背筋が痺れて、私は両目を閉じて顔を上げた。
ふ、と小さく息が漏れたのが聞こえたかと思うと、可愛らしい音をたてて頬に唇が寄せられた。柔らかに押し当てられた場所から熱が広がって、私の中で爆ぜた不思議な感覚がする。
……あれ? おしまい?
次に唇に落ちるだろう衝撃に身構えていたけれどそんな気配が全く漂わない。
目を開けた先、頬をピンク色に染めて口元を隠した侑士は、顔を横に背けたまま視線だけを投げかけてきた。
「……すまん。手ぇ早すぎって、思う?」
「全然思わない! 一生大切にする!」
「なんやのいきなり。それはこっちの台詞や」
……たとえばそうだな、侑士とか?
未だお気に入りのままのハーブ園を併設したカフェで、放課後のお茶を楽しみながらあの穏やかに笑う顔を思い浮かべる。誘ってみようか。
……でも今は練習ハードみたいだし。休みの日はテニス以外のことをした方がリラックス出来るかな? 疲れてるだろうから、日曜の夕食当番は当面私にしてって言おうかな。
日曜日に夕食を囲む慣習は健在で、料理担当の家でともに食べるのが鉄板だ。オレンジ色の暖かい照明の下、温かい料理を囲む時間は私にとっては宝物のように大切だけれど、昼間に一緒に出かけたりすることはなかった。他のテニス部面子は気楽に誘って一緒に出かけたり断られたりしているけれど、侑士を誘ってもし断られたら、とか、乗り気じゃないのに優しさで了承してくれたら、なんてごちゃごちゃ考え始めるとなかなか誘えいでいる。
……侑士からだって、誘ってなんかくれないし。
部活がない日は、何をして過ごしているのだろう。私が向日や滝と出かけているように、誰か仲の良い女の子と遊びに行っているのだろうか。すごく、嫌だ。
……好き、なんだよなぁ……。
推しキャラを、しかも中学生を好きになってしまったことが信じられないけれど、好きになるなと言われる方が無理だと開き直れる。
……でもどうやったらあの人から、気持ちを向けてもらえるのかがわからない。
テーブルの上に置いていたスマホが振動した。ラインのメッセージを開くと侑士からで、タイミングの良さに驚く。
『明日の昼飯一緒に食お』
いいよ。何か用事? どこで食べる? と返すと、何か買って、講堂の裏庭へ来いと言われた。滝から教えてもらったあそこは彼らがたまに集まる場所でもあって、誰かとともに行くと誰かが居たりということが何度もあった。当然侑士も、ごく稀にあの場所を利用していることは知っていた。
……質問にちゃんと答えてないじゃん。でもまあ、あの場所なら二人きりじゃないだろうし、聞かれて困るような大事な話とかがあるわけじゃなさそうだな。
ほっとしたし、がっかりもした。それを悟られたくなくて、『了解』と簡潔に返事をしてラインを閉じた。
「おー、こっち」
「……誰も居ないね」
初夏の日差しの下、爽やかな好青年みたいな顔で侑士が手招きをしている。木漏れ日がきらきら落ちる緑の中で、王子様のように片手を差し出した。
「早速だけど踊ろか」
「え」
「ダンスレッスン。自分の腕前がどれくらいのもんか、ちょいやってみ」
「どれくらいも何も初心者だよ。生徒会主催のダンスレッスン申し込んでるもん」
「ほら、手」
……人の話聞く気全く無いね。……手、触れるの、久しぶりだなぁ。
溢れる感慨と緊張なんて、侑士には全く無さそうで羨ましい。渋々手を差し出そうとしたけれど、何か踊る前の作法みたいなの無かったっけと思い直し、両手でスカートの裾を摘んで膝を少し曲げて、童話のお姫様気取りで挨拶をしてみた。噴き出された。
「ぶっはっ! ……かっわ…………」
「いま可愛いって言った?」
「おめでたい聴覚やなぁ。ほら、ふざけてないで手」
別にふざけてはいない。指先をそっと、広い手のひらに置いた。触れる部分が少ないのが殊更侑士の体温を教えてくれる。
……私の手、冷た……。
意識しすぎて強ばった指先が、きゅっと握られた。片方の手でスマホを操作したかと思うと、美しく青きドナウが流れ始めた。
「待っていきなり?」
「リードするから、俺に合わせてみ」
「……足踏むから先に謝っとく」
……近いなぁ……いや近すぎない? ダンスってこんななの? 好きな香り。でも侑士の顔が良すぎてどうやって息したらいいかわからない……あ、踏んだ。
「痛」
「うそごめん!」
しゃがんで革靴の爪先をさするから、慌てて草に膝をついて眼鏡奥を覗き込む。愉しそうにに弓形になった眼差しに射られてどきりとすると、べっと赤い舌が出された。
「ちょっと」
「もうちょい期待してたけど酷いな」
「最初から言ってるじゃん。このために呼んだの? お昼食べようよ」
拍子抜けしたし、触れていた部分はまだ熱を持っている気がする。敏感で聡い人だから、そういうのすぐに気付かれてしまう危険を感じて話題を変えた。ベンチに移動して二人それぞれテイクアウトしたランチを広げた。
「まあ、日常生活でダンスは馴染みないからなぁ」
「侑士は上手いような気がするね?」
「俺が上手いから成り立ったダンスやで今のは。三年目やしね、中1のときは酷かったで」
……去年と一昨年は誰と踊ったのかな。私、二年前に転生させて貰えば良かった。
ダンスパートナーが誰だったか訊くのは簡単だけど、これからその子のことを意識してしまうと思うと訊きたくなかった。自分とその子の似ているところや違うところを見つけては、きっと悲しくなったり落ち込んだりしてしまうから。
「生徒会のレッスンは始まるのまだ先やろ。まずは人のダンスを観て、慣れるところから始めるのがいいんちゃう?」
「あ、そういえば跡部が邸宅のダンスホールでお手本見せてくれるって言ってたんだ。滝から聞いたよ、プロ級に上手いって、ひひひ⁈」
途端頬を引っ張られた。思い切りやられたから思い切りその手を叩く。
「痛い!」
「自分なぁ、そういうとこあんで」
唇を尖らせる顔が可愛らしくて、文句を言われているのにご褒美をいただいている気になる。
「俺のことは誘わんし。先週は岳人とアトベ・ワールドサーカス観に行ってるやろ」
「すごい楽しかった」
「ふーん」
「……あのさ、誘っていいの? 侑士には日曜の夜の時間貰っちゃってるから、他の時間まで誘うの迷惑かなって」
「自分はたまに妙な気を使うよなぁ」
ほっとした顔になったのは、気のせいじゃないと思う。ふわりと笑った顔が無邪気そうに見えるのも。
「その捉え方は間違ってんで。俺は、自分の方が俺に時間をくれてるて思ってん」
「……」
何か言ったら泣いてしまいそうだ。侑士も、私と同じ気持ちで居てくれると思っても良いのだろうか。
怒ってるみたいな顔で視線を外されて、可愛い仕草に心臓がキュンキュンうるさい。
「日曜な、近くでダンスの大会あるから観に行かへん?」
「うん、行く」
「その後は俺観たい映画あんねんけど、URL送るから行けそうなら付き合って欲しい」
「行く」
「自分チョロない? そんなんで大丈夫か逆に不安になるわ。ほんで、夜は外食しよ。食いたいものある?」
イタリアンと答えると、ほな良い店あるわと侑士は嬉しそうに笑った。可愛いかよ。「楽しみにしてる」と言おうとしたところで、人の話し声が聞こえてきた。
「おーお前ら二人?」
「腹減ったーなんかくれ」
襟足を片手でじょりじょりしている宍戸と、眠たそうな慈郎だった。二人ともあまり機嫌は良さそうではない。慈郎に「これあげる」とさっきカフェでサービスで貰ったクッキーをあげてから、侑士にこっそり囁いた。
「楽しみにしてるね」
「ふっ」
嬉しそうな顔が、やっぱり可愛くて心臓がつらい。
日曜日、内玄関のインターホンが鳴る。すぐに開けるとおめかしした侑士が立っていた。カードやイベントにしか無いような、後ろで長い髪をくくって、上品なシャツとやっぱり長い足を強調する黒のパンツ。今日の自分のコーディネートとも合っている気がして、私はにっこりした。
「今日の侑士の格好、可愛いね」
「…………だからそういうとこやで。次に俺が言うことがなくなるやん」
「え、言っていいよ可愛いって」
頬をぐにっとされて日曜日のデートが始まった。関東大会までもう少し。成長期のスポーツには休息も大事だというし、良い息抜きになればいいと思う。
初夏の日差しは段々と強くなっていて、マンションを出ると目が眩んだ。
「ふらふらしてんな、大丈夫か」
なんでも無い顔で手を差し伸べるこの人は繰り返すけれどどうしても中学生には見えない。躊躇いを隠して手を伸ばすと、指先をきゅっと握られた。そのままのんびりした歩調で歩き出す侑士に続く。
……誰にでもこんなことはしない、と思いたいけど。わかんないなぁ。
「今日人多いね?」
「知らんか、今夜は花火やねん。昼間は露天もぎょうさん出てて、毎年岳人が楽しみにしてるやつ」
「ふーん? なら今日も居るのかな」
人通りの多い駅前は、いつもよりもっと活気付いている。なんとなく赤紫の髪を探して視線を漂わせると、握られている手の力が強くなった。見上げると、小さく唇を尖らせて拗ねているイケメンいる。
「ええやん、今日は二人で」
「ん?」
「映画やって、岳人は好きと違うジャンルやし、アイツだって他のダチと来るやろ普通に考えて」
「合流したくて言ったわけじゃないけど……」
私の発言にそういう意図は全く無かった。それを伝えると、早とちりだったと分かった頬には一瞬赤みが見えたけれどその次の瞬間には心を閉ざして静かに微笑みを投げかけられた。
「今日は二人で居たいな」
「……まあ、ええんちゃう」
侑士のポーカーフェイスを崩すのもだんだん慣れてきた気がする。もっと色々な表情が見たいから、これからもがんがん崩していこう。
ダンスフェスはとても楽しかったし勉強になった。最高に可愛すぎる小さい子どものペアから素敵な老紳士淑女のペアまで、思い思いに躍る姿はとても素敵だった。それとは別に、ゲストに呼ばれたプロが踊る様はうっとりするほどで憧れた。侑士の隣で踊りたいのなら、私は今日からでも真剣に臨まないといけない。
「はぁ、面白かった。誘ってくれてありがとうね、頑張るわ」
「ええね、前向きやん。練習なら付き合うたるから言えよ。さて、昼飯何食べよか。夜はイタリアンやしな」
「映画まで少し時間あるね。私は何でもいいよ、侑士は?」
「んー、敢えて言うなら」
「侑士くん」
駅前に戻ってぶらぶら歩いていた私たちの背中に、声をかける人がいた。振り向くと、二十代半ばくらいの髪の長い女性が立っていた。ふと、既視感を覚える。
……あれ? どこかで見たことある? 誰だっけ?
「……ああ、どうも」
「レッスンをお休みするほどの用事は、部活じゃなくて彼女とのデートだったのかしら」
……あ! 侑士のヴァイオリンの先生だ。
アニメで見たことがある人だった。モブキャラと言われるような名前のない人たちも、ちゃんと生きて生活していることにちょっと感動する。因みにアニメにも出てこない一番のモブキャラは私だ。
「お人形さんみたいに綺麗な彼女ね。同じ氷帝学園の子かしら。侑士は悪い子ね、何も知らないお嬢様を誑かしたらいけないわ」
「先生、俺ら忙しいから行くわ」
「来週は、さぼっちゃダメよ」
白い手が侑士のシャツの胸元を撫でて、甘ったるい笑みを浮かべた女性は私たちに背を向けた。その仕草が気持ち悪くて、背筋がぞわぞわする。腕が震えて、鳥肌まで立った。
「…………侑士、今の人と関係があるの?」
「ああ、今のは俺のヴァイオリンの講師で」
「そうじゃなくて!」
思わず侑士の両腕を掴んだ。しっかりとした骨が関節を強調していて、痩せているように見えるけど実は結構筋肉質な、セクシーな男の人の体だ。でも、まだ中学生なんだ。優しくて、穏やかで、誠実でお茶目で、大切な大切な侑士の大事な大事な体なのだ。
「……駄目だよ。現役中学生に手を出すような大人、まともじゃない。しかも侑士のお父さんが苦労して働いてるお金を貰って、お母さんから信頼されて預けられてる子を……絶対駄目。侑士はそんな変な大人に搾取されちゃ駄目。こんなに、こんなに大切な……」
……大切な人なのに……。
言っていて悲しくなってきて、涙が出てきてしまった。侑士との関係を匂わせて牽制してくる女が気持ち悪かったし、そういう関係にある人を生々しく感じ取ってしまってショックだったのもある。
「……泣かんといて」
切なそうな声で、抱きしめられた。いつもと変わらない優しい香と温かな体温にほっとして、また涙が溢れてしまう。
……往来で何やってんの。止まれ。
そう思うのに嗚咽まで漏れ始めた。胸が軋んで痛い。あんな人に侑士を攫われたままにしてたまるか。私は中身は成人だけど、この世界では同い年だからセーフなのだ。事情を知っていて詭弁と後ろ指さすヒトだって幸せアイスくらいしか居ない。
……絶対に、奪ってやる。
心地よい体温から顔を上げて、侑士を睨みつける。
……あれ? なんて顔してるの?
驚いたみたいに小さく口を開けて眦を赤く染めて、侑士は惚けた表情で私を見ていた。なんて幸せそうな顔をしているのだ。意味がわからない。
「……落ち着いた? とりまそこの店入ろか」
「うん……」
ハンカチで両目を隠して頷いた。手をぎゅうっと握ってもらい、引っ張られるようにして近くのカフェに入る。今度は指を絡め合う恋人繋ぎで、私の指より断然太くてごつごつしている感覚が気持ち良い。
「……ごめんね。侑士の先生を悪く言っちゃった」
「普段自分が人の悪口言わへんことわかってる。だからこそ……」
別に口出さないだけで普段から色々思ってはいるけれど。「だからこそ」何なのだろう。店員が席を案内しに来て、そこで途切れてしまった。私の分も飲み物を頼んでくれて、二人真っ直ぐ向かい合う。
澄んだ瞳は真剣な光できらから輝いていて、綺麗だ。
「すまん! 謝らせてくれ。誘われて、自分では軽くあしらってるつもりやってん。まさか、いつか出会う自分を傷つけることになるなんて思いもせえへんかった。浅はかやったと思う」
「……侑士は悪くないよ」
「いや、悪い。春からは完全に拒絶してるし、テニスを理由にレッスンをさぼってたけど講師も変える。自分の視界からも俺のからも完全にシャットアウトするから、安心してくれ」
「……わかった」
テーブルの上に置かれていた拳に指を伸ばす。すかさず握ってくれて、冷えていた手にぬくもりが満ちていく。
……心配と嫉妬とで取り乱しちゃった……恥ずかしい。
照れ隠しに笑うと、侑士もほっとした顔で笑った。
「うわぁ……こういうのなんて言うの? カップルシートじゃないよね?」
「カップル以上が座れるからな。ボックスプレミアムシート」
「初めて座る」
「俺もや。前から一回使うてみたいと思っててん」
映画の上映時間が近づいたので、侑士に予約してもらっていた座席へ向かった。三畳くらいのボックスになっていて、足を伸ばせるどころか寝転がれるくらいの広々としたシートだ。
……これは逆に落ち着かないかもしれないけど……でも侑士の言う通り、一回は座ってみたい。
「楽しそう。予約ありがとう侑士」
「おう。……あんな、ちょいちょい感じてたけど、自分のそういうところ、いいと思うわ」
「どういうところ? 割り勘のお金はお爺さまのカードからだから私が稼いだお金じゃないよ?」
「俺らまだ中坊やのにそういうの気にする? 論点ずれとるし」
結局どういうところが評価されているかわからないままだ。腑には落ちないけれど褒められたようだからまあいいだろう。
会場が少し暗くなって、騒めきも静かになる。予告編の音響が、体に響いて気持ちいい。
「なあ、帰り、祭り寄ってこ」
……耳元っ! やめて‼︎
急に耳元で囁かれた良い声に、鳥肌が立った。こくこくと2回大きく頷くと、侑士は小さく笑ってボックスのソファに体を預けた。背もたれに長い腕を掛けていて、私も同じように背を預けるとまるで抱っこされているみたいな感じになってしまう。
……まあ、いいか。こういうラッキーはありがたく享受しよう。
とすり、とソファにもたれかかる。すると侑士がお尻を動かして近づいてきて、予想していたよりずっと密着した体勢になってしまった。緊張は、する。でも居心地は抜群で、すぐそこにある胸板にうっとり寄り掛かりたくなってしまう。
……この人、慣れてる……流されないように気をつけよ。
映画は楽しかった。切ない系の恋愛ものだったけどハッピーエンドだったし、ヒロインが恋にドキドキする様は隣の男によって必要以上にシンクロさせて貰えたから、臨場感もあった。グッズを見て、映画の感想を言い合いながら人混みを歩く。夏の夕方の、陽射しはまだまだ高い。
「夕飯まで、祭りで時間潰そ。出店色々あっておもろいで」
「たこ焼き食べる?」
「自分好みに作り直したくなるからいらん。今度ふるまったるで俺の逸品」
駅の近くの公園には露店がずらりと並んでいた。大通りは店が向かい合い、子どもから大人までひしめき合っている。背を向けるようにしてその両隣にも出店が並んでおり、そちらは通路が広いおかげでまだ息がしやすそうだ。歩くならば断然あっちだと主張すると、すぐに頷いてくれる。
「ほな行こか」
差し出された左手に飛びつきそうになって、さっき「流されまい」と思ったことを思い出す。
……まだ付き合ってないしなぁ、なんとなく両思いのような気がするけど。こういう希望は当てにならないし。
それでも抵抗してシャツの裾を掴むと、目を細めた侑士は予想外にまなじりを赤くした。片手で口元を隠して、「かわええ」と呟く。
……うわ! そういう侑士の方が可愛いよ!
自分の頬に熱が集まってるのがすごくよくわかる。伊達眼鏡をくいっとあげた侑士によって、裾の手は握られてしまったけれど。
「効率悪いわ」
「そういう問題なの?」
「………………嫌か?」
「んーん」
手と手を結び合って、二人でゆっくり歩く。人混みの喧騒に混じって、ひぐらしがカナカナと初夏の夕暮れを告げ始める。
「レストラン予約してるし、あんまり物食う感じじゃあらへんな。射的とか、型抜きとか」
「いいね、やろうよ。……あ」
露店に並べられた可愛い小花に目が止まった。きらきら光るそれは、飴細工だ。しかも指輪の台座の上に乗っている。
「うわっ可愛い! キャンディーの指輪って今はこんなに可愛いの? 昔はこう、プラスチックの上に大きなダイヤモンドみたいのがドーンと」
「ふぅん? 知らんなぁ」
馴染みがあるのはそうですよね、と応えてくれたのは露店の店員さんだった。ジェネレーションギャップである。気をつけよう。
露店はニューオープンしたてのパティスリーのものだった。色とりどりの飴細工の薔薇はまるでガラス細工みたいで、とても綺麗だ。一つ二千五百円でも安い気がする。
「ねえ、これイベントのコサージュと似てるね」
「ほんまやな。これ貰えますか」
「え、買ってくれるの? それとも自分用?」
「アホ」
店員さんに指のサイズを訊かれて、そういえば知らないなと思い測ってもらった。そのサイズの台座に乗った、ミストブルーの薔薇を購入していたから、侑士は答えなかったけれど多分買ってくれたということでいいのだと思う。
けれど侑士はその小袋を手に持ったまま、特にくれそうな素振りもなかった。
……ん? 私に買ってくれたんじゃないなら自分で買いたいんだけど……まあいいか。
「なあ見てくれや、鉛筆アートがある。滾るわぁ」
「ああ……好きだもんねああいうの。見ていこうよ」
向こうの小さな露店では、鉛筆の黒鉛の部分に彫刻したアート作品が並べられている。木の部分をカッターで削ってトーテムポールを作っている人としてはとても楽しいだろうし、黒鉛が3Dのヴァイオリンやウサギの形をしているのはすごく可愛い。
「俺も今度はこっち側彫ろうかな」
「鉛筆としては使えないけどね」
「それは、確かに」
こういうくだらない話をして、ゆっくりとした時間を過ごすのが楽しい。
……侑士と居れば、私はこの世界でもきっと生きていける。
予約してくれていた夕食は、二年連続で星を獲得している有名なイタリアンレストランだった。割と近くにあるから前々から行きたいと思っていたところだ。侑士のお父さんのお友達がやっているお店で、特別に席を確保してくれたらしい。
「美味しかった……たまには外食もいいねぇ」
「ほんまやね。でもまあ、俺は割と、自分の飯のが美味いと思う」
「あははありがと。私も侑士のご飯大好きだよ」
次の日曜はどちらが何を作るか話す。テニスの大会が近いから、暫く私が作ると約束した。
……氷帝が負けるの嫌だなぁ。全国が終わったら、原作通り侑士はアンダーセブンティーンの合宿かな。寂しくなっちゃうなぁ。
「どないした、浮かん顔して」
「んーん、今日は楽しかったなって考えてただけ」
「そんな顔と違うやろ。なんでもええからちゃんと話し」
本当に大丈夫だと繰り返す。ゆっくり歩いていたのにもうマンションに着いてしまったのが、名残惜しい。
「なあ、自分の部屋行ってもええ? 星が綺麗やから、自分とこのバルコニーソファ座らせてや」
侑士も名残惜しいと思ってくれていたらいい。頷くと満開の笑みが返ってきた。滅茶苦茶可愛い。朝、何を着て行こうか迷ってぐちゃぐちゃになっているクローゼットを除けば、お部屋もちゃんと綺麗にしている。
「おー、やっぱここからの方が綺麗に見えるな」
ここら一帯が住宅街だからだろうか、東京でもここは比較的星が綺麗だと思う。夜景、というほどでよないけれど、眼下に広がる人の営みもきらきらゆらゆらしていて綺麗だ。
「夜風が気持ちいいねぇ」
「せやな。……あのな、最近俺、株やってて」
「うん?」
ソファに腰掛けると、侑士も隣にどさっと座った。私の目を真っ直ぐに見てくるから、同じように返した。眼鏡の奥に強い光がキラキラ浮かんで、なんて綺麗なんだろう。
「結構おもろいで、新聞読むのとか楽しくなるし。まあ元手は小遣いやけど、ちょい譲渡益も出たりして」
「うん」
「だから、これは俺の金で買ったって言うても、いいんちゃう?」
「あ……」
目の前に咲いたのは、飴細工の指輪だった。ミストブルーの薔薇が、凛と愛らしく台座の上に咲いている。
「受け取ってくれるか? これくらいなら、ただのオモチャで済むやろ?」
……ただのおもちゃとは、とても思えないけど……。
何も言えないまま、左手を差し出す。安堵したみたいにほっと、侑士が息を吐いた。見慣れた骨張った手が、私の左手をとる。静かな夜の下で私の鼓動だけがうるさい。
……侑士の大事なお金でプレゼントしてくれるんだ……こんなに可愛いの、嬉しくて、涙出そう……。
戸惑うように宙を掻いた指が、躊躇いながら私の薬指に指輪を差し込んでいく。さっき測ってもらったばかりだから当然、薬指の付け根にぴったりフィットした。ガラスみたいに薄くてキラキラ光る花弁がすごく可愛い。それがよく見えるように手を広げて口の前に翳した。
「ありがとう侑士! ……似合ってる?」
「…………」
惚けた顔でぼんやりこちらを見つめた後、低いくぐもった声がした。
「…………めっちゃ好きや」
「え?」
「え?」
……今、好きって言ったよね⁈ なんで侑士が驚いてるの⁈
呆然と開かれた口が次第に「あ」の形を作って、それからすごく不機嫌そうな顔で視線を逸らされた。耳が真っ赤なのがもう無性に愛しくて、つい凝視してしまう。嬉しくて、倒れてしまいそうだ。
……やっぱり、両想い! はぁ……幸せ……!
「今のは、ちゃうくて、な」
「違うの?」
「違う、とはちゃうけど、忘れてくれ。いや、それもちゃう」
「好き」
はっと、大きく息を呑まれたのがはっきりと聞こえた。想いを伝えられる喜びで、心臓がばくばくしている。
「侑士が、好き」
「…………嘘や!」
悲痛な声だった。ぎゅっと抱き寄せられて、硬い胸板に頬を寄せる。心臓の音って、こんなに疾かったっだろうか。苦しそうな低い声が、ダイレクトに身体に伝わってきてびりびりする。
「初めて会ったとき俺、嫌な態度やった」
「それは、お互いごめんねってしたじゃん」
「岳人に見せた変顔、俺には見せてくれてへん」
「え、見たいの? 侑士も一緒にやってくれるならいいよ」
「休みの日、俺のことは遊びに誘ってくれへんかった」
「たまたま他の子が暇そうだったのと、前も言ったでしょ、日曜の夜を独占してるから悪いと思ったの」
……侑士、泣いてる?
いつもと変わらない美声が少し震えている。想いを自覚したばかりの私は、知らずに侑士を傷つけていたみたいだ。
ごめんねの気持ちをこめて、広い背中に手を伸ばす。負けない強さでぎゅっと抱きしめると、びくりと大きく侑士は震えた。
「鳳、自分と親しくなりたくて彼女と別れたんやで。日吉も自分のことしょっちゅうちらちら見とるし」
「それは気のせいだと思う……」
「自分がそう言うならええわ。……なら、跡部は。ちょいちょいカフェでお茶しとるし、コサージュ貰ってあない嬉しそうにしてたくせに」
「友だちだし、嬉しかったよ」
背中に回された腕の力がぐっと強くなった。「いやや、渡さへん」と呟かれて、喜びで背中がぞくぞくする。
「あんな、俺が一番やで。自分のこと好きな気持ちは、絶対に俺が一番や。自分の言葉も行動も仕草も、全部が全部俺のことぐちゃぐちゃにして離さへん。自分と出会う前にはもう、絶対に戻れんっていつも……いつも思うとる」
……信じられない。そんな風に想ってくれていたの?
いつも穏やかに笑っていたのに、こんなに激しく想いを寄せてくれていたことに驚いて、そして湧き上がる嬉しさを抑えられない。いつも冷静で、真冬の月みたいに美しく柔らかく振る舞う人が、こんなにも声と体を震わせて一生懸命言葉を紡いでくれる。それに、真剣に応えたい。
「あのね、確かに跡部は特別だよ。あんな人、他に居ない。でもね、跡部はみんなの特別だけど、侑士は私の特別。私の特別に大切で、大好きな人」
肩を強く掴まれて、引き離されてしまった。残念に思う暇もなく、真摯な瞳が私を覗き込んでくる。
「あんな、俺、重いで」
「どんな風に?」
「一生好きや。絶対に離さへん。付き合うてくれるなら、結婚したい。俺のお嫁さんになる前提で、俺の彼女になってくれるか?」
……か、可愛いかよ……! こんなかっこいい顔でなんでこんな可愛いこと言うの……好き‼︎
中学生の約束なんて、と大人の私が思う一方で、侑士にめろめろになっている私は「結婚しよ!」って思っている。すごく単純だけど、今のこのキラキラわくわくした気持ちを大切にしたい。
「うん! 私も自分で稼いだお金で、侑士に指輪プレゼントするからね。お嫁さんになる前提の、彼女にしてください」
「ま、じか……まじで……。絶対無理やと思ってた……」
侑士の顔のちょうど後ろに満月が浮かんでいる。眦を赤く染めて、潤んだ瞳で微笑むこの刻を、私は一生忘れないと思う。
……あ……キス。
物欲しげな視線に背筋が痺れて、私は両目を閉じて顔を上げた。
ふ、と小さく息が漏れたのが聞こえたかと思うと、可愛らしい音をたてて頬に唇が寄せられた。柔らかに押し当てられた場所から熱が広がって、私の中で爆ぜた不思議な感覚がする。
……あれ? おしまい?
次に唇に落ちるだろう衝撃に身構えていたけれどそんな気配が全く漂わない。
目を開けた先、頬をピンク色に染めて口元を隠した侑士は、顔を横に背けたまま視線だけを投げかけてきた。
「……すまん。手ぇ早すぎって、思う?」
「全然思わない! 一生大切にする!」
「なんやのいきなり。それはこっちの台詞や」