幸せアイス
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
朝、校門を入ったところで名前を呼ばれて振り返った。知らない男の子が立っている。
「あの! これ! 受け取ってください!」
「え?」
片手で差し出されたのは、ミストブルーの薔薇。
……の、コサージュ?
男の子は片手を前に突き出して俯いたまま動かない。周りからはクスクス笑い声や野次が飛び始めた。すごく居心地が悪い。
……私がこのお花を受け取ればそれで良いの?
よくわからないまま、そのコサージュを受け取ろうと右手を伸ばしたところで、横から伸びてきた手に、思い切り叩かれた。
「痛っ」
叩いた主を見ると、にこにこ朗らかに笑う滝が立っている。
「滝、何するの。地味に痛かったよ今の」
「俺は人助けをしただけ」
滝はそれだけ私に言うと、「行きなよ」って男の子につぶやいた。彼は小さくなにか呻きながら走り去っていく。
……滝、怖ぁ……。そりゃあ走って逃げるよ。
珍しく機嫌が悪いのだろうかと滝を改めて見ると、ジャケットの校章のところにさっきの薔薇のコサージュが咲いている。
……何かのイベントかな。それとも流行ってるの?
並んで教室へと向かう。朝のこの時間帯に滝と会うのは初めてだ。
「今日はテニス部の朝練ないの?」
「うん、今朝は特別」
「そのコサージュと関係ある?」
「そ。やっぱり君は知らなかったか」
滝はくすりと笑った。
夏の終わりにダンスパーティがあるらしい。そんなの行事予定表にあったっけと首を傾げると、跡部が生徒会長になってから始まった生徒会のイベントなのだそう。だからホームルームで話題に上がることはないし、私が知らなくても仕方がないと思う。小夜もそんな話は全然していなかった。
「そのパートナー決めの印がこのコサージュってわけ」
「どういう仕組み?」
「男子生徒にこのコサージュが配られる。それをペアになりたい子に贈るんだ。参加は任意だけどさ、生徒会長があの求心力だからね」
パートナーの決まった男の子はコサージュをつけてなくて、決まった女の子がコサージュをつけてるという仕組みらしい。改めて周りを見回すと、ほとんどの男の子がコサージュをつけている。ミストブルーの小ぶりな薔薇はつけているだけでちょっと可愛い。中にはコサージュをつけて誇らしげに歩いている女の子も居る。
……じゃあ今のは告白だったのか。
滝が追い払ってくれたから、ちゃんとお断りが出来なくて申し訳なかった。青少年の傷にならないといいのだけれど。
「今日は第一日目だからね。生徒会からのお達しで、どの部活も今朝だけは活動しないことになってる」
「パートナーを取られちゃわないように?」
「そゆこと。まあ、大体は予め男女でグループ作って交換する約束していることが多いかな。恋愛的な要素より、競技的な色合いのほうが強いかも。男子選手、女子選手みたいな。ジェンダーへの配慮も必要だしね。たまに、さっきみたいに玉砕覚悟で突撃するやつも居るけど」
なんだかますます申し訳なくなってしまった。どこの誰かもわからないけど、次に会えたらちゃんと謝ろう。どれだけ勇気が居ただろう。
「競技かぁ。やってみたいけど、公式行事じゃないなら授業では教えてくれない感じ?」
「生徒会主催のダンスレッスンがあるよ。跡部が降臨する日は人だかりが出来る。本当に美しいんだよ跡部のダンスは……」
「なにそれ見たい!」
でしょう、と言って滝はまた笑った。流れるような仕草で、目の前にミストブルーが差し出される。
「あぶれたら俺のところへ来なよ。俺の薔薇をあげる」
「……うん」
「はは、照れてる」
「そんなことないもん」
……今日も滝はお兄さんだなぁ。
誰かと交換の約束をしていないのか訊いたけど、跡部の友人だからコサージュつけてるだけで、ダンスに参加したいわけではないそうだ。私は初めてだから、経験をさせてあげたい的な意味で、誰からも薔薇を貰えなかったら一緒に踊ってくれるらしい。完全にお兄ちゃんの思考だ。
教室へ到着すると、小夜はなんてことない顔で彼氏から貰ったコサージュをつけていた。「忍足か跡部様から、薔薇を贈られる約束しているのかと思ってたからダンパの説明はしなかった」とは、小夜の言い分だ。
「してないよ! どっちもくれないよ!」
「一緒に居るところをよく見るから、てっきり」
てっきり、なんてこの世には無い。
授業が始まっても、教室は青春の熱気に包まれていた。社畜では決して味わうことができないこの空気が微笑ましくて羨ましくてちょっと楽しい。
お昼休みはその騒めきが廊下まで広がって、バレンタインや文化祭を思い出す。そんな浮ついた懐かしさを楽しみたくて、校内のコンビニまで足を伸ばすことにする。
教室を出たところで、廊下の端の方に居る長身が目に入った。きらきら光る銀髪は王子様そのものだ。
「こんにちは」
「あっ……先輩」
気まずそうに笑う鳳の胸にはミストブルーが咲いている。
「薔薇、彼女にあげに来たの?」
「いえ! 違うんです! いえ……いいえ、違わないんですけどね。なんかつむじ曲げられちゃって」
……きっと、つっぱねてわがまま言ってみたいんだね。薔薇を差し出されてダンスを申し込まれるなんてお姫様みたいだもんね。
彼女という立場からくる余裕もあるのだろう。鳳の浮かない顔を見るに本当に余裕があるかはわからないが。
綺麗な瞳が真っ直ぐにこちらを見てくる。なんだか射られてしまいそうな強さで、思わず目を逸らした。
「これで最後にするって約束なんです。別れて欲しいってお願いをしているんですが、聞いて貰えなくて。この薔薇だけはどうしても欲しいと言われて、それで終わりにしてくれるはずだったんですが、受け取ってもらえなくて」
「そうなんだ」
こんな雰囲気だ、薔薇に憧れがあったのかもしれないし、見栄もあるかもしれない、それとも、ダンスパーティまで先延ばしして、鳳の心が変わるのを待つつもりなのかもしれない。
……それでも受け取り渋ってるのは、これを貰ったら終わっちゃうって自覚があるからかな?
鳳のこの気の無い表情を見て、もう本当に無理なのだと理解してしまったのかもしれない。いずれにしろ私が関わって良いことは無い。
「離れたいときに離れることも出来ないなら、俺はもう当分彼女は要りません。テニスも勝ち上っていかないといけませんし」
「試合ね、私も応援に行こうと思ってるんだ。頑張ってね」
話題が変えられそうだったので全力で乗っかる。鳳は少し柔らかく笑って、それから悪戯っこな男の子みたいな顔で笑った。
「応援のお礼に、これどうぞ。貰ってくれませんか」
差し出された薔薇の花より、鳳の笑顔が眩しい。
……ぐぉぁっ! 王子様スマイルはずるい! 受け取りたくなっちゃう!
煩悩を押し隠してにっこり笑う、それが大人だ。
「彼女とはもう揉めたく無いから、受け取りません。鳳は身辺整理を頑張って」
「……。まあ、まずはそれからですよね」
何かを諦めた顔をしたから少しだけ縋りたくなってしまったけれど、次の瞬間にはもういつもの鳳だった。
「あれ、宍戸さん」
「おーちょうど良いところに居たな」
振り返れば宍戸が居た。今はまだ長い髪を高いところできゅっと縛って、吊り目ぎみの端正な顔がちょっと甘い雰囲気を醸し出している今日も文句無しの美少年だ。
その綺麗な男の子が、私に薔薇を差し出した。
「え、これはラブなの?」
「ちげーよ馬鹿。……今日彼女休みだからよー……預かっててくんね?」
「そんなの自分で持ってなよ!」
「俺がつけてるとうるせーんだよ」
それはわかる。今も宍戸と鳳を、いつもより多い女の子たちが遠巻きに囲んでいるから。
「それなら外してればいいじゃん」
「失くしそうなうえに壊しそうで怖いんだよな」
「ガサツ過ぎ」
「あぁ⁈」
宍戸に睨まれたけど、今回は私が正しいはずだ。一瞬ドキっとしてしまって私の心臓が損をしてしまった。早く動いた分の寿命を返して貰いたい。
なんやかんやと文句を言ってくる二人を振り切って、コンビニに向かうことにした。
……全く、時間の無駄。
「俺のパートナーになってくれね?」
「……」
コンビニまであと数メートルという渡り廊下で呼び止めてきたのは、最近よく絡んでくる三年生の男の子だった。顔は確かに良い方の部類に入ると思うけれど、テニスの王子様に出てこない時点で私の推し事の業務対象外である。
「ごめんね、お断りします」
小さく頭を下げて断ってから、彼を避けて進もうとすると、肩を思いきりつかまれた。
……痛っ!
もっとはっきり迷惑だと言わないと伝わらないかもしれない、そう思い直して彼に向き直ったときだった。
「コイツのパートナーはもう決まっている」
「……!」
じんと体の芯まで響く美声が降ってきて、私の制服のポケットにミストブルーの薔薇が咲いた。
「跡部?」
「去りな、雑兵が」
周囲の温度、5℃は下がった。男の子にそう言い捨てた跡部は、朝の滝と比べ物にならないくらい怖い。秒で逃げ出す彼を、跡部は見さえもしなかった。見上げた先、視線ががっつり絡む。
「ま、取り敢えずの虫よけくらいにはなるだろ、お互いにな」
「確かにね」
渡り廊下の周りには女の子たちが遠巻きに集団を作っていて、私の薔薇を恨めしそうに睨んでいた。膝をついて泣いている子や、倒れている子までいる。また敵が増えたことは間違いない。
「取り敢えず、つけておいてあげます」
「それはどうもな。俺様に本命が出来れば容赦無く返してもらうからそのつもりで居な」
「可愛くないなぁ。一緒に踊って下さいって言えば可愛いのに」
「言わせるだけの自信に見合うお前になってから出直してきな」
……ぐぐぐぐ本当に可愛くないな。
でも助けてくれたのは嬉しかったし、これで変な人に絡まれないと思うとお守りみたいで少し安心した。
「ありがとう、跡部」
「ふんっ」
音と違って、跡部は柔らかく微笑んだ。その背景にミストブルーの薔薇の花束が見えたような気さえして、心臓が激しく音を立てる。
「お前ら何してんの廊下の真ん中で」
他の生徒が私たちを遠巻きにする中で、話しかけてきたのは向日だった。彼は私の胸についたコサージュを凝視してる。
「俺様がつけてやったんだよ、暫定的にな」
「ウィンウィンの効果があるんだよ」
「ふーん?」
向日は訊いてきた割には興味なさそうに答えると、黙ってしまった。唇をきゅっと結んだまま、コサージュを私に差し出す。
…………もう騙されないから。
宍戸の大変失礼な態度で学習済みだ。ここにラブがあるのかなんて浅はかなことはもう思わない。
「……なに?」
「これ……その……小夜さんに、渡してくれねぇ?」
「わぁ」
向日が小夜狙いだったとは、知らなかった。けれど小夜にはバスケ部に彼氏が居て、朝から嬉しそうにコサージュをつけているのだ。なんと言ったらなるべく傷つけずに済むか、逡巡する私を他所に、興味がなくなったのか跡部は手を上げてさっさと背を向けて行ってしまった。
……見捨てられた。
「……向日、残念だけど小夜はもうつけてたよ? 彼氏から貰ったって」
「マジかよ」
「マジです」
がっくりとわかりやすく肩を落とすから、その肩をぽんぽん叩いた。こんなにかっこよくて優しくて楽しい向日なんだから、両思いになれない子じゃなくて、向日のことだけを好きで好きで仕方がない子がきっと絶対現れるはずだ。
「んだよー……失恋かよー……」
「向日はかっこいいからすぐに素敵な人が現れるよ」
「テキトーなこと言うなよなぁ。もうこんなんお前にやる」
ふてくされながらコサージュを投げてよこしたから、それをキャッチして胸ポケットに戻してあげる。
「まぁそうやけにならずに。大事にしなよ」
「……へいへい。」
ちょっと気を取り直したらしい向日とはそこでばいばいして、漸くコンビニへたどり着いた。新作のプリンを小夜の分も買って、教室に戻る。早く行かないと遅いと怒られるやつだ。
「もーらいっと!」
「ちょっと、慈郎!」
後ろから伸びてきた手が、プリンを一つ奪っていく。振り向いた金髪は眩しいものを見るときの細まった瞳で、なんの取り繕いもないくしゃくしゃの笑みは最高に愛らしい。プリン百個貢いでも足りない。
「いいだろこれくらいケチ!」
「駄目だよ、それ新作で小夜と食べるんだから」
「えー⁇ ……ならコレと交換!」
ポッケから取り出したのは、歪な形をしたミストブルー。
……慈郎もすっごくモテるのになぁ。薔薇の代価が300円のプリンとか、安すぎる……。
「ふざけてないで返して」
「……。ブース! デーブ!」
「なっ!」
あなたの薔薇はもっと大切にしないといけませんよ、という慈愛に満ちた私の心を台無しにして、捨て台詞だけを残して慈郎はあっと言う間に走り去ってしまった。あまりに低レベルな悪口にあっけにとられてしまって何も言い返せなかったのが悔しい。次は無いぞ。
内心ぷりぷりしながら教室へ戻ると、ものすごく意外な人が私の席に座っていて、危うくプリンを落としそうになってしまった。
「日吉くん、何してるの?」
「……あなたに用があって来たら、この人にここに座らされました」
若はそう言って小夜の方を見る。小夜は得意げに笑ったあと、私の胸元を見て「まずい」と呟いた。
……いやいやいや、そういう用事じゃないと思うよ。
「用事はなぁに?」
「なくなりました。……それ、誰の薔薇ですか」
「跡部だよ。お互いの虫除けにって、一時的に貸してくれたの」
チッと、滅茶苦茶大きな舌打ちをされた。跡部のことをライバル視しているのは知っているけど、そんなに苛つくことだろうか。
……まさか本当に、私に薔薇を贈りに来てくれた?
だとしたら今まで無視されようが悪態をつかれようが、根気強く絡んできた甲斐がある。
「あの、日吉くん」
「帰ります。下克上等、つまりはそういうことでしょう」
鋭い眼差しで明後日の方向を睨んで、日吉はさっさと教室を出て行ってしまった。小夜は「早い者勝ちだから仕方がないわよね」と言うけれど、私はなんだか大事なものを逃してしまったような気がしてならない。
……結局真意はわからなかったな。
二人で一緒にプリンを食べて、私は一人でトイレへ立った。鏡を覗き込んでポーチからあぶらとり紙と保湿乳液を取り出す。ものの三十秒でお肌の状態が完璧になるのだから、若いって本当に素晴らしい。
……社畜時代には考えられないよね。
トイレの入り口から廊下へ出ると、ちょうど反対側の男子トイレから侑士がハンカチで手を拭きながら出てくるところだった。
「…………」
「…………」
トイレ直後に合わせるのはハードルが高いお顔だ。
「侑士」
「おお」
軽い挨拶を交わして、私たちは並んで歩く。ここからH組に戻るには、B組の前を通らないといけない。侑士の胸にはミストブルーの薔薇が咲いている。
「侑士、ダンス踊れるの?」
「あぁこれか。跡部の手前つけんわけにはいかんやろ」
「滝も同じようなこと言ってた。なんだかんだ仲良いよね」
「さむぅ」
横目で侑士を盗み見ると、眼鏡の奥は楽しそうに小さく笑っている。よかった、笑ってる。侑士が笑っていると、私はとても嬉しいのだ。
……それに、胸の薔薇があって良かった。
侑士が仲の良い女の子にあげていたら、と考えるだけでもやもやする。だから、意識的に今日は会いたくないと思っていたし、逆に急に会いたくなったりもしていた。私、独占欲が強い。
愉しそうな顔は次の瞬間消えた。何の感情も見つけられない横顔は、漫画で見た心を閉ざしている時の顔だ。
「……けったくそわる」
「え?」
「いや、どこのどいつなん。自分に薔薇差し出すなんて、けったいやなぁ」
「これは跡部の優しさなの。お互いの虫除け用に、本命が出来るまで貸してくれてるんだよ」
「自分に本命なんて居るん?」
「そのうちできるかもしれないでしょ」
本命、その言葉で思い浮かぶのは、今まさに隣を歩くこの男の顔だ。
……従兄弟ってことに甘えすぎてるよねぇ。あんまり優しくてあんまりかっこ良くてあんまり気が合うから、仕方がないよ。
B組の扉に差し掛かって、「じゃあね」って曲がろうとした瞬間だった。
侑士の手が私の胸に伸びてきたのだ。反射的に体をこわばらせると、彼は私の胸に刺さる跡部のコサージュを掴んでポイと床に投げた。そのまま無言で自分のコサージュを取ると、私の制服につける。
「侑士?」
「……」
目は合わないまま、無言で廊下の向こうへ行ってしまう。
……くれるの? 何で? 跡部への対抗心? それとも……。
浮かんでくる言葉はうまく口にすることご出来ない。目撃をした女の子たちの断末魔が遠く聞こえる。
……侑士……。
そんな断末魔より大きく、私の心臓はどきどき動いていて、顔が熱くて、困る。
放課後、部活が始まる前にA組の教室を覗いた。コサージュを返すためだ。跡部は大勢の男女に囲まれていたけれど、手招きをすると嫌そうな顔で廊下まで来てくれた。優しい。
「この俺様を呼びつけるとは、どんな重大ニュースだ」
「そう、コサージュを返しに来たよ」
跡部はわかりやすく顔を顰めた。彼が感情を露わにすると、それに引き込まれて周りの音が聞こえなくなってしまうほどだ。
「本命が出来たか」
「そうじゃないけど、侑士がくれたからさ」
「ふん、忍足な」
跡部はちょっと考えるみたいな顔をして、それから笑った。よく見ると唇は弓形なのに、瞳が笑っていない。鋭い光が、ぎらぎらと私に何かを問いかける。
「お前はその選択が正しいと思うのか」
「正しい……と思う。とても、しっくりくるから」
胸元の薔薇は、視界に入るたびにどきどきして、そして安心する。侑士がそばに居てくれてるみたいで、心がほかほかするのだ。
「後悔するぜ?」
まさか本気で薔薇を贈ってくれる気だったのだろうか。責めるように、笑みが深くなる。
……絶対に後悔しない、とは言えないけど。
いい大人だったから、人生には後悔と失敗と挫折が沢山沢山待っていることを知っている。
「いいよ、後悔する」
はははっと大きく高笑いして、跡部は自分のミストブルーを受け取った。
「そんな気なんか全く無い顔しやがるな。まあいいさ、今回は忍足に譲ってやる」
突然跡部が近づいてきて、思わず一歩下がったら背中は壁にぶつかった。顔を覗き込まれて、耳の後ろにある髪をつんと引っ張られる。覗き込んできた瞳は、私の中の何かを探しているみたいだった。細められた瞳が、薄く笑う唇が艶やかで目が離せない。
「俺様が泣いて縋るような女になれよ」
「…………」
……跡部の顔が近すぎると宇宙猫になる……。
意趣返しだったかもしれない、と思いはするものの、高笑いをしながら踵を返す跡部を見送ることしか出来なかった。
「あの! これ! 受け取ってください!」
「え?」
片手で差し出されたのは、ミストブルーの薔薇。
……の、コサージュ?
男の子は片手を前に突き出して俯いたまま動かない。周りからはクスクス笑い声や野次が飛び始めた。すごく居心地が悪い。
……私がこのお花を受け取ればそれで良いの?
よくわからないまま、そのコサージュを受け取ろうと右手を伸ばしたところで、横から伸びてきた手に、思い切り叩かれた。
「痛っ」
叩いた主を見ると、にこにこ朗らかに笑う滝が立っている。
「滝、何するの。地味に痛かったよ今の」
「俺は人助けをしただけ」
滝はそれだけ私に言うと、「行きなよ」って男の子につぶやいた。彼は小さくなにか呻きながら走り去っていく。
……滝、怖ぁ……。そりゃあ走って逃げるよ。
珍しく機嫌が悪いのだろうかと滝を改めて見ると、ジャケットの校章のところにさっきの薔薇のコサージュが咲いている。
……何かのイベントかな。それとも流行ってるの?
並んで教室へと向かう。朝のこの時間帯に滝と会うのは初めてだ。
「今日はテニス部の朝練ないの?」
「うん、今朝は特別」
「そのコサージュと関係ある?」
「そ。やっぱり君は知らなかったか」
滝はくすりと笑った。
夏の終わりにダンスパーティがあるらしい。そんなの行事予定表にあったっけと首を傾げると、跡部が生徒会長になってから始まった生徒会のイベントなのだそう。だからホームルームで話題に上がることはないし、私が知らなくても仕方がないと思う。小夜もそんな話は全然していなかった。
「そのパートナー決めの印がこのコサージュってわけ」
「どういう仕組み?」
「男子生徒にこのコサージュが配られる。それをペアになりたい子に贈るんだ。参加は任意だけどさ、生徒会長があの求心力だからね」
パートナーの決まった男の子はコサージュをつけてなくて、決まった女の子がコサージュをつけてるという仕組みらしい。改めて周りを見回すと、ほとんどの男の子がコサージュをつけている。ミストブルーの小ぶりな薔薇はつけているだけでちょっと可愛い。中にはコサージュをつけて誇らしげに歩いている女の子も居る。
……じゃあ今のは告白だったのか。
滝が追い払ってくれたから、ちゃんとお断りが出来なくて申し訳なかった。青少年の傷にならないといいのだけれど。
「今日は第一日目だからね。生徒会からのお達しで、どの部活も今朝だけは活動しないことになってる」
「パートナーを取られちゃわないように?」
「そゆこと。まあ、大体は予め男女でグループ作って交換する約束していることが多いかな。恋愛的な要素より、競技的な色合いのほうが強いかも。男子選手、女子選手みたいな。ジェンダーへの配慮も必要だしね。たまに、さっきみたいに玉砕覚悟で突撃するやつも居るけど」
なんだかますます申し訳なくなってしまった。どこの誰かもわからないけど、次に会えたらちゃんと謝ろう。どれだけ勇気が居ただろう。
「競技かぁ。やってみたいけど、公式行事じゃないなら授業では教えてくれない感じ?」
「生徒会主催のダンスレッスンがあるよ。跡部が降臨する日は人だかりが出来る。本当に美しいんだよ跡部のダンスは……」
「なにそれ見たい!」
でしょう、と言って滝はまた笑った。流れるような仕草で、目の前にミストブルーが差し出される。
「あぶれたら俺のところへ来なよ。俺の薔薇をあげる」
「……うん」
「はは、照れてる」
「そんなことないもん」
……今日も滝はお兄さんだなぁ。
誰かと交換の約束をしていないのか訊いたけど、跡部の友人だからコサージュつけてるだけで、ダンスに参加したいわけではないそうだ。私は初めてだから、経験をさせてあげたい的な意味で、誰からも薔薇を貰えなかったら一緒に踊ってくれるらしい。完全にお兄ちゃんの思考だ。
教室へ到着すると、小夜はなんてことない顔で彼氏から貰ったコサージュをつけていた。「忍足か跡部様から、薔薇を贈られる約束しているのかと思ってたからダンパの説明はしなかった」とは、小夜の言い分だ。
「してないよ! どっちもくれないよ!」
「一緒に居るところをよく見るから、てっきり」
てっきり、なんてこの世には無い。
授業が始まっても、教室は青春の熱気に包まれていた。社畜では決して味わうことができないこの空気が微笑ましくて羨ましくてちょっと楽しい。
お昼休みはその騒めきが廊下まで広がって、バレンタインや文化祭を思い出す。そんな浮ついた懐かしさを楽しみたくて、校内のコンビニまで足を伸ばすことにする。
教室を出たところで、廊下の端の方に居る長身が目に入った。きらきら光る銀髪は王子様そのものだ。
「こんにちは」
「あっ……先輩」
気まずそうに笑う鳳の胸にはミストブルーが咲いている。
「薔薇、彼女にあげに来たの?」
「いえ! 違うんです! いえ……いいえ、違わないんですけどね。なんかつむじ曲げられちゃって」
……きっと、つっぱねてわがまま言ってみたいんだね。薔薇を差し出されてダンスを申し込まれるなんてお姫様みたいだもんね。
彼女という立場からくる余裕もあるのだろう。鳳の浮かない顔を見るに本当に余裕があるかはわからないが。
綺麗な瞳が真っ直ぐにこちらを見てくる。なんだか射られてしまいそうな強さで、思わず目を逸らした。
「これで最後にするって約束なんです。別れて欲しいってお願いをしているんですが、聞いて貰えなくて。この薔薇だけはどうしても欲しいと言われて、それで終わりにしてくれるはずだったんですが、受け取ってもらえなくて」
「そうなんだ」
こんな雰囲気だ、薔薇に憧れがあったのかもしれないし、見栄もあるかもしれない、それとも、ダンスパーティまで先延ばしして、鳳の心が変わるのを待つつもりなのかもしれない。
……それでも受け取り渋ってるのは、これを貰ったら終わっちゃうって自覚があるからかな?
鳳のこの気の無い表情を見て、もう本当に無理なのだと理解してしまったのかもしれない。いずれにしろ私が関わって良いことは無い。
「離れたいときに離れることも出来ないなら、俺はもう当分彼女は要りません。テニスも勝ち上っていかないといけませんし」
「試合ね、私も応援に行こうと思ってるんだ。頑張ってね」
話題が変えられそうだったので全力で乗っかる。鳳は少し柔らかく笑って、それから悪戯っこな男の子みたいな顔で笑った。
「応援のお礼に、これどうぞ。貰ってくれませんか」
差し出された薔薇の花より、鳳の笑顔が眩しい。
……ぐぉぁっ! 王子様スマイルはずるい! 受け取りたくなっちゃう!
煩悩を押し隠してにっこり笑う、それが大人だ。
「彼女とはもう揉めたく無いから、受け取りません。鳳は身辺整理を頑張って」
「……。まあ、まずはそれからですよね」
何かを諦めた顔をしたから少しだけ縋りたくなってしまったけれど、次の瞬間にはもういつもの鳳だった。
「あれ、宍戸さん」
「おーちょうど良いところに居たな」
振り返れば宍戸が居た。今はまだ長い髪を高いところできゅっと縛って、吊り目ぎみの端正な顔がちょっと甘い雰囲気を醸し出している今日も文句無しの美少年だ。
その綺麗な男の子が、私に薔薇を差し出した。
「え、これはラブなの?」
「ちげーよ馬鹿。……今日彼女休みだからよー……預かっててくんね?」
「そんなの自分で持ってなよ!」
「俺がつけてるとうるせーんだよ」
それはわかる。今も宍戸と鳳を、いつもより多い女の子たちが遠巻きに囲んでいるから。
「それなら外してればいいじゃん」
「失くしそうなうえに壊しそうで怖いんだよな」
「ガサツ過ぎ」
「あぁ⁈」
宍戸に睨まれたけど、今回は私が正しいはずだ。一瞬ドキっとしてしまって私の心臓が損をしてしまった。早く動いた分の寿命を返して貰いたい。
なんやかんやと文句を言ってくる二人を振り切って、コンビニに向かうことにした。
……全く、時間の無駄。
「俺のパートナーになってくれね?」
「……」
コンビニまであと数メートルという渡り廊下で呼び止めてきたのは、最近よく絡んでくる三年生の男の子だった。顔は確かに良い方の部類に入ると思うけれど、テニスの王子様に出てこない時点で私の推し事の業務対象外である。
「ごめんね、お断りします」
小さく頭を下げて断ってから、彼を避けて進もうとすると、肩を思いきりつかまれた。
……痛っ!
もっとはっきり迷惑だと言わないと伝わらないかもしれない、そう思い直して彼に向き直ったときだった。
「コイツのパートナーはもう決まっている」
「……!」
じんと体の芯まで響く美声が降ってきて、私の制服のポケットにミストブルーの薔薇が咲いた。
「跡部?」
「去りな、雑兵が」
周囲の温度、5℃は下がった。男の子にそう言い捨てた跡部は、朝の滝と比べ物にならないくらい怖い。秒で逃げ出す彼を、跡部は見さえもしなかった。見上げた先、視線ががっつり絡む。
「ま、取り敢えずの虫よけくらいにはなるだろ、お互いにな」
「確かにね」
渡り廊下の周りには女の子たちが遠巻きに集団を作っていて、私の薔薇を恨めしそうに睨んでいた。膝をついて泣いている子や、倒れている子までいる。また敵が増えたことは間違いない。
「取り敢えず、つけておいてあげます」
「それはどうもな。俺様に本命が出来れば容赦無く返してもらうからそのつもりで居な」
「可愛くないなぁ。一緒に踊って下さいって言えば可愛いのに」
「言わせるだけの自信に見合うお前になってから出直してきな」
……ぐぐぐぐ本当に可愛くないな。
でも助けてくれたのは嬉しかったし、これで変な人に絡まれないと思うとお守りみたいで少し安心した。
「ありがとう、跡部」
「ふんっ」
音と違って、跡部は柔らかく微笑んだ。その背景にミストブルーの薔薇の花束が見えたような気さえして、心臓が激しく音を立てる。
「お前ら何してんの廊下の真ん中で」
他の生徒が私たちを遠巻きにする中で、話しかけてきたのは向日だった。彼は私の胸についたコサージュを凝視してる。
「俺様がつけてやったんだよ、暫定的にな」
「ウィンウィンの効果があるんだよ」
「ふーん?」
向日は訊いてきた割には興味なさそうに答えると、黙ってしまった。唇をきゅっと結んだまま、コサージュを私に差し出す。
…………もう騙されないから。
宍戸の大変失礼な態度で学習済みだ。ここにラブがあるのかなんて浅はかなことはもう思わない。
「……なに?」
「これ……その……小夜さんに、渡してくれねぇ?」
「わぁ」
向日が小夜狙いだったとは、知らなかった。けれど小夜にはバスケ部に彼氏が居て、朝から嬉しそうにコサージュをつけているのだ。なんと言ったらなるべく傷つけずに済むか、逡巡する私を他所に、興味がなくなったのか跡部は手を上げてさっさと背を向けて行ってしまった。
……見捨てられた。
「……向日、残念だけど小夜はもうつけてたよ? 彼氏から貰ったって」
「マジかよ」
「マジです」
がっくりとわかりやすく肩を落とすから、その肩をぽんぽん叩いた。こんなにかっこよくて優しくて楽しい向日なんだから、両思いになれない子じゃなくて、向日のことだけを好きで好きで仕方がない子がきっと絶対現れるはずだ。
「んだよー……失恋かよー……」
「向日はかっこいいからすぐに素敵な人が現れるよ」
「テキトーなこと言うなよなぁ。もうこんなんお前にやる」
ふてくされながらコサージュを投げてよこしたから、それをキャッチして胸ポケットに戻してあげる。
「まぁそうやけにならずに。大事にしなよ」
「……へいへい。」
ちょっと気を取り直したらしい向日とはそこでばいばいして、漸くコンビニへたどり着いた。新作のプリンを小夜の分も買って、教室に戻る。早く行かないと遅いと怒られるやつだ。
「もーらいっと!」
「ちょっと、慈郎!」
後ろから伸びてきた手が、プリンを一つ奪っていく。振り向いた金髪は眩しいものを見るときの細まった瞳で、なんの取り繕いもないくしゃくしゃの笑みは最高に愛らしい。プリン百個貢いでも足りない。
「いいだろこれくらいケチ!」
「駄目だよ、それ新作で小夜と食べるんだから」
「えー⁇ ……ならコレと交換!」
ポッケから取り出したのは、歪な形をしたミストブルー。
……慈郎もすっごくモテるのになぁ。薔薇の代価が300円のプリンとか、安すぎる……。
「ふざけてないで返して」
「……。ブース! デーブ!」
「なっ!」
あなたの薔薇はもっと大切にしないといけませんよ、という慈愛に満ちた私の心を台無しにして、捨て台詞だけを残して慈郎はあっと言う間に走り去ってしまった。あまりに低レベルな悪口にあっけにとられてしまって何も言い返せなかったのが悔しい。次は無いぞ。
内心ぷりぷりしながら教室へ戻ると、ものすごく意外な人が私の席に座っていて、危うくプリンを落としそうになってしまった。
「日吉くん、何してるの?」
「……あなたに用があって来たら、この人にここに座らされました」
若はそう言って小夜の方を見る。小夜は得意げに笑ったあと、私の胸元を見て「まずい」と呟いた。
……いやいやいや、そういう用事じゃないと思うよ。
「用事はなぁに?」
「なくなりました。……それ、誰の薔薇ですか」
「跡部だよ。お互いの虫除けにって、一時的に貸してくれたの」
チッと、滅茶苦茶大きな舌打ちをされた。跡部のことをライバル視しているのは知っているけど、そんなに苛つくことだろうか。
……まさか本当に、私に薔薇を贈りに来てくれた?
だとしたら今まで無視されようが悪態をつかれようが、根気強く絡んできた甲斐がある。
「あの、日吉くん」
「帰ります。下克上等、つまりはそういうことでしょう」
鋭い眼差しで明後日の方向を睨んで、日吉はさっさと教室を出て行ってしまった。小夜は「早い者勝ちだから仕方がないわよね」と言うけれど、私はなんだか大事なものを逃してしまったような気がしてならない。
……結局真意はわからなかったな。
二人で一緒にプリンを食べて、私は一人でトイレへ立った。鏡を覗き込んでポーチからあぶらとり紙と保湿乳液を取り出す。ものの三十秒でお肌の状態が完璧になるのだから、若いって本当に素晴らしい。
……社畜時代には考えられないよね。
トイレの入り口から廊下へ出ると、ちょうど反対側の男子トイレから侑士がハンカチで手を拭きながら出てくるところだった。
「…………」
「…………」
トイレ直後に合わせるのはハードルが高いお顔だ。
「侑士」
「おお」
軽い挨拶を交わして、私たちは並んで歩く。ここからH組に戻るには、B組の前を通らないといけない。侑士の胸にはミストブルーの薔薇が咲いている。
「侑士、ダンス踊れるの?」
「あぁこれか。跡部の手前つけんわけにはいかんやろ」
「滝も同じようなこと言ってた。なんだかんだ仲良いよね」
「さむぅ」
横目で侑士を盗み見ると、眼鏡の奥は楽しそうに小さく笑っている。よかった、笑ってる。侑士が笑っていると、私はとても嬉しいのだ。
……それに、胸の薔薇があって良かった。
侑士が仲の良い女の子にあげていたら、と考えるだけでもやもやする。だから、意識的に今日は会いたくないと思っていたし、逆に急に会いたくなったりもしていた。私、独占欲が強い。
愉しそうな顔は次の瞬間消えた。何の感情も見つけられない横顔は、漫画で見た心を閉ざしている時の顔だ。
「……けったくそわる」
「え?」
「いや、どこのどいつなん。自分に薔薇差し出すなんて、けったいやなぁ」
「これは跡部の優しさなの。お互いの虫除け用に、本命が出来るまで貸してくれてるんだよ」
「自分に本命なんて居るん?」
「そのうちできるかもしれないでしょ」
本命、その言葉で思い浮かぶのは、今まさに隣を歩くこの男の顔だ。
……従兄弟ってことに甘えすぎてるよねぇ。あんまり優しくてあんまりかっこ良くてあんまり気が合うから、仕方がないよ。
B組の扉に差し掛かって、「じゃあね」って曲がろうとした瞬間だった。
侑士の手が私の胸に伸びてきたのだ。反射的に体をこわばらせると、彼は私の胸に刺さる跡部のコサージュを掴んでポイと床に投げた。そのまま無言で自分のコサージュを取ると、私の制服につける。
「侑士?」
「……」
目は合わないまま、無言で廊下の向こうへ行ってしまう。
……くれるの? 何で? 跡部への対抗心? それとも……。
浮かんでくる言葉はうまく口にすることご出来ない。目撃をした女の子たちの断末魔が遠く聞こえる。
……侑士……。
そんな断末魔より大きく、私の心臓はどきどき動いていて、顔が熱くて、困る。
放課後、部活が始まる前にA組の教室を覗いた。コサージュを返すためだ。跡部は大勢の男女に囲まれていたけれど、手招きをすると嫌そうな顔で廊下まで来てくれた。優しい。
「この俺様を呼びつけるとは、どんな重大ニュースだ」
「そう、コサージュを返しに来たよ」
跡部はわかりやすく顔を顰めた。彼が感情を露わにすると、それに引き込まれて周りの音が聞こえなくなってしまうほどだ。
「本命が出来たか」
「そうじゃないけど、侑士がくれたからさ」
「ふん、忍足な」
跡部はちょっと考えるみたいな顔をして、それから笑った。よく見ると唇は弓形なのに、瞳が笑っていない。鋭い光が、ぎらぎらと私に何かを問いかける。
「お前はその選択が正しいと思うのか」
「正しい……と思う。とても、しっくりくるから」
胸元の薔薇は、視界に入るたびにどきどきして、そして安心する。侑士がそばに居てくれてるみたいで、心がほかほかするのだ。
「後悔するぜ?」
まさか本気で薔薇を贈ってくれる気だったのだろうか。責めるように、笑みが深くなる。
……絶対に後悔しない、とは言えないけど。
いい大人だったから、人生には後悔と失敗と挫折が沢山沢山待っていることを知っている。
「いいよ、後悔する」
はははっと大きく高笑いして、跡部は自分のミストブルーを受け取った。
「そんな気なんか全く無い顔しやがるな。まあいいさ、今回は忍足に譲ってやる」
突然跡部が近づいてきて、思わず一歩下がったら背中は壁にぶつかった。顔を覗き込まれて、耳の後ろにある髪をつんと引っ張られる。覗き込んできた瞳は、私の中の何かを探しているみたいだった。細められた瞳が、薄く笑う唇が艶やかで目が離せない。
「俺様が泣いて縋るような女になれよ」
「…………」
……跡部の顔が近すぎると宇宙猫になる……。
意趣返しだったかもしれない、と思いはするものの、高笑いをしながら踵を返す跡部を見送ることしか出来なかった。