幸せアイス
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窓の外を鮮やかに染めていた夕焼けは、いつの間にか夕闇へと変わっていた。 ガラス窓の向こうの街灯がチカチカ瞬きながら点灯したのに気付いて、そっと腕時計に視線を落とす。今すぐに退社しないと、間に合わなくなってしまう。
「そろそろ帰りますね」
ここで追加案件を振られたら弊社潰れて欲しくなるから、手早く荷物を纏める。帰れるなら飲みに行こうよ、なんて先輩の誘いはもっての外だ。
「行きたいです。でも今日は大切な用事があるので、次は行くから絶対また誘ってください」
「『今日は』って言うけど、水曜はいつも定時帰りだよね。デート?」
「ん、えっと、どうかな?」
曖昧に笑って挨拶をして、忙しない空気に満たされた廊下を足速に去る。今日は大事な大事な『デート』の日なのだから。
……なんてね。
地下鉄を出て、我が城たるワンルーム賃貸へ帰る前にはいつも通りコンビニへ寄る。甘くないチューハイにチキンサラダ、それにプチプラアイスは、ここのところ三種の神器化している私のお気に入りだ。少し恥ずかしいくらいヒールをガツガツ鳴らして、息を切らしながら部屋に辿り着いたのは十九時少し前だった。
……セーフ!
テレビをつけると同時に、録画のハードディスクがカチと小さな音を立てる。画面に現れたのは、見慣れた青春学園の校舎だ。『デート』の相手は中学生の王子様。特に今日はアニメオリジナルの対西海岸戦、跡部と真田のダブルスの佳境の日。絶対にリアタイしたくて、オタク心がもう既にぐじゅぐじゅしている。
私はテニプリ沼の住人だ。深い深い、もう多分一生抜け出せない沼の奥地に住んでいる。カップリングもドリームも好きだけど、なにより兎に角キャラが大好き。 好きで好きで、考えるだけで心がときめいて仕方がない。
アニメのAパートを見ながらサラダを食べて、テニミュのCMを横目にアイスを開けるのが水曜日の至福のひとときだ。バニラアイスの塊がチョコでコーティングされた六粒が、小さな箱に入っている昔からあるアイスは、サイズ的にちょうど良いし財布にも優しい。
「ふふふふふん、ふふーふふ、ふふふふふ」
テニミュの曲を口ずさみながら蓋を開けて、広がる光景に手を止めた。
……なに、これ?
普通なら円すい台の形をしているはずのアイス、その六個全てが、いびつな星の形をしていたのだ。デザインが刷新されたのかなと訝しく思いながらパッケージの裏を見ると、そこには『願いのアイス』とファンシーな文字が印刷されていた。レア路線のお菓子に心ときめく子ども時代は過ぎてしまったけれど、嫌いじゃない。 しかも六個全部『願いのアイス』だなんて相当レアだ。
……折角だから何かお願いしよ。億万長者? 今期の業績? 明日のウェブ会議一度も固まらないといいな、かな?
Bパートが始まる音で、テレビに視線を戻す。キラキラ輝く王子様たちはもう素敵としか表現しようが無い。
……テニプリキャラに会いたいな。
天地がひっくり返っても叶わない、人類共通の夢。
「テニプリの世界に行けたら、幸せ」
ツイッターでフォロワーと一緒にリアルタイムの悲鳴を上げながら、四つめのアイスを口に放り込んだ。
『デート』の時間が終われば夜はあっという間に過ぎる。ゆっくりお風呂に使った後はネットやSNSのチェックをして、軽くヨガで身体をほぐせば毎晩のルーティンはおしまいだ。明日は朝イチで会議だから夜ふかしは大変危険である。名残惜しいスマホの画面を伏せて、自制心を総動員してベッドに入る。
平凡な私の平凡な一日はこうして終わった……はずだった。
お布団の中、ゆるやかな眠りが降りて来て幸せな温かさに包まれる。なのにぼんやりしてきた意識の中、小さな、耳障りな何かが睡眠の邪魔をする。
……もう……うるさい……。
「起きろって!」
「寝汚いね」
……となりのへや……? ……うざい……。
「起きないよ? どうするの?」
「蹴ってみよう。エイ」
ひんやりと、冷たい何かが顔に当たった感覚がした。
……つめた……って⁈ 冷たい⁈
ぞわりと背筋に走った悪寒と同時に、一瞬で意識が覚醒する。だってあれだ、夜中にひんやり冷たい何かときたらもう『アレ』しかない。
……うわああんどうしようどうしようオバケとか信じてなかったのに助けて……!
「起きないじゃん」
「んーん、起きてるよ」
「最悪! だったら目、開けなよ」
緊張で息がうまく吸えない。ここは言うとおりにしておいた方がいいだろうか。
……目を開けた瞬間に殺されちゃったりなんてことないよね? ホラー映画なんかじゃない、これはただの夢、ただの夢、ただの夢!
「……っ!」
決死の思いで目を開いて、息を呑んだ。そこに居たのは予想していたものとは違うけど、でも人ではないもの。
「あ、コイツ息のんだ! 失礼極まりないな」
まっくろくろすけの集団が、枕元で私を罵倒してる。
……これ、なんて夢……?
「私たちは願いのアイスです」
「お前の願いをかなえにきたよ」
暗闇に目が慣れてくると、それは確かにさっき私が食べたアイスのようだった。手足が生えた星形のアイスは、カビがルンルンしているようにも見える。六匹の謎の生命体が私の枕元で動き回りながらキーキー大騒ぎしている。
……私やっぱり今寝てるのか。都合の良い夢だなあ。
「君たちが私の願いを叶えてくれるの?」
「厳密には違う」
「本当は私たちって箱に一つしかはいってないのよね、でも機械の故障でさ」
「それを監視のバイトが気付かなくて、六つ一緒に一箱に入っちゃったんだよ」
アイスたちは非常に饒舌だった。子どものように高い声で、本来ならば別の店舗に卸されるはずが、事務の手違いで私が買ったコンビニに卸されたのだと捲し立てている。おまけに、話が長い。
「……ねぇ、何が言いたいの?」
彼らは顔らしき面を互いに向き合わせて、それからまるで肩をすくめるようなポーズをとった。
「……確率だよ」
「なんの?」
「『幸せ』の起こる確率」
「この世界には『幸せ』の起こる確率ってのがあるわけ」
「人は何をするにも全部自分で選択して行きてるだろ?」
「今日何時に寝るか」
「どちらの足から歩き始めるか」
「その『幸せ』の確率とぴったり同じ確率である事象と出会った人間にだけ、『幸せ』は訪れる」
「それが君の場合、俺たちアイスを買った確率だったってわけ」
「だから僕たちが来たんだよ。君の『幸せ』を叶えるために」
つまり、私はものすごくラッキーな人間で、アイスたちは私の願いを叶えにきてくれたということだろうか。
「結論から言うと、ね」
……なんて素晴らしく都合のいい夢。明晰夢なんて見るの初めて。
そう思いながら布団を握りしめて、その感触のリアルさに、逆に違和感を覚える。
……私、目、覚めてる……?
「目を覚ます夢」はたまに見るけど、こんなにはっきりとした感覚ではない。枕元で音を立てている目覚まし時計の秒針の音まで聞こえるような夢なんて、今まで見たことがない。さっきとは違う意味で背中に嫌な汗を感じる。
そのとき、キンコンと聞き慣れた玄関のチャイムが鳴った。
……鳴ってるよね、確かに。
そしてそれを私はちゃんと聞いていて。目の前の物体たちは、「こんな時間に訪問客なんて非常識だな」なんて騒いでて。信じられない。信じられない。
……非常識はあなたたちの方だよ。
しつこく鳴るチャイムに我にかえって、ベッドから起き上がる。部屋の明かりをつけてもまだアイスたちは枕元ではしゃぎまわっていた。
「ねえお願い開けて~!」
ドアフォンの向こうから聞こえてきた声は、近くに住む同郷の友人だ。
「……何もこんな時間に来なくても」
ドアを開けた向こう、両手をパンと合わせると、彼女は申し訳なさそうな顔をして笑う。
「だってスマホないとか無理ゲー過ぎでしょ。明日から新しいガチャ始まるのにほらもうあと十分しかない!」
週末泊まりに来た彼女はうちにスマホを忘れて行った。そのまま出張に出た先で忘れ物に気がついたらしく、今日取りに来るとSNSのメッセージが送られてきていたのを、私も今まで忘れていた。
「充電切れちゃってる?」
「同じ機種だからしといてあげたよ。それよりもう深夜だよ、来るの遅過ぎ」
「これでも直帰なんだってお土産あるから……ねえ、それ、何?」
部屋に入りキョロキョロしていた彼女は、枕もとに散らばる物を指差した。黒いチョコレートでコーティングされた六個のアイスが、散らばっている。
「えーと、アイス、だよね?」
「それは見ればわかる。落とすにも程があるでしょ早く拾いなよ、シーツ汚れちゃうよ?」
「うん……」
やっぱり誰の目にもこの物体はアイスに映るらしい。手足は生えてないけど、アイスが私の枕元に転がっている。夕食のときに間違いなく食べたのだから、今この部屋にあるはずの無いものが。
……ってことは。ということはだよ?
テーブルの上にあった忘れ物のスマホを、友人の胸に無理やり押し付けた。
「はいスマホ。じゃあまた遊ぼうね」
一緒にガチャを回そうという誘いを、朝イチで会議だからと断った。嘘ではない。再び静かになった部屋の中、後ろ手で玄関の鍵を閉め直す。嬉しすぎて、震える。
……夢じゃないんだよね? 夢じゃない!
「あーやっと帰ったー」
友人が居なくなった途端に、手足を生やして愚痴をこぼすアイスたち。恐る恐る、アイスのうちの一つをそっと指でつつくと、「溶けるからやめろ」とその棒のような手ではじかれた。
……やったー! ラッキーゲット!
「ラッキー! そうだなぁ何を叶えてもらおうかなぁ……」
「は? もう決まってるじゃん」
「『テニプリの世界に行きたい』、でしょ?」
「……え?」
確かに思った。いや口に出して言ったかもしれない、オタクは独り言が多い。でも、本当に願いが叶うなら今の現実をよくしたい。お金が欲しい、成功したい、美人になりたい。願いならばいくらでも浮かんでくる。
「それって変更できないの……?」
「できません」
口を揃えて応えるアイスたちに、足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われる。実際膝を強打した。かなり、痛い。
……なんでテニプリの世界に行きたいなんて……痛いのは私自身だよばかばかばかばか!
行けるわけがないのだ。ここには私の生活がある。友人が居て家族が居て、仕事があって未来があって。それを全て投げ出してテニプリの世界へなんて、ありえない。私は今が大事なのだ。まさに言葉通りの『現実逃避』なんてしてられない。
「無理だよ……この現実を捨てるなんて」
「ふーん、残念だったね」
「でもこうやってアイスと会話する不思議体験できたし。よかったんじゃない?」
「じゃ、さよなら」
黒い輪郭が、曖昧にぼやけ始めた。傷ついた心にとどめを刺すような捨て台詞を吐きながら次第に透明になっていき、一匹、また一匹と消えて行く。自分の浅はかすぎた願いを呪いながら彼らを見送っていたけれど、その瞬間、ひらめいてしまった。
「ちょっと待った!」
それは最後のアイスが消える寸前。向こう側の景色が見えるほど透明になった体が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「なに?」
「やっぱりその願い、叶えて!」
「もー優柔不断」
「面倒かけるなよ」
私の一言でアイスたちは続々と戻ってきてくれた。それぞれ悪態をつきながら。
……生意気すぎない? このアイス。
「で? 現実を捨てられないんじゃなかったの?」
逆、浦島太郎作戦はどうだろうか。例えば、
『現実世界での一分』を『テニプリ世界での一年』にすることができれば、テニプリ世界で九十歳まで生きたとしても、こちらでの時間は二時間経たない計算になる。
「時間の速度を変えるってことだね。できるよ」
「それなら、テニプリの中での一生を終えた後で、この世界に帰ってくることもできる?」
「そうだね、願いはあくまで『テニプリの世界へ行く』ことだから、こっちの世界での人生が残ってるなら帰ってくることもできるよ」
ありがたいことに融通が効くようだ。聞けば、同一の願いの中で色々なオプションを付け加えることは可能らしい。そんな大切なことは早く言ってほしい。後出しジャンケンみたいなことをしていると企業の信頼は損なわれるのだ。
人類が憧れて止まない永遠の命。私は永遠ではないけど、人の二倍のそれを手に入れることになる。一つの人生を豊かにするか、一つの人生を二つにするか。本当は前者が欲しかったけれど、もう願ってしまったものは仕方がない。
……楽しもう! 私の『幸せ』を!
「オプション、私がテニプリ世界でどんな人間かってことも自分で決められる?」
「もちろん」
「あのね! 箱推し学校の……氷帝学園中等部三年生で、あ、途中編入とかがいいかな、学校のこと全然わからないし。絶世の美少女にして欲しい、顔面チートね、勿論スタイルも。知らない人と家族になるのは怖いから両親はすでに他界ってことでどうかな。でも家は超資産家で、お金には絶対苦労したくないの、不労所得最高。それからここ大事、テニスが上手いって設定にしておいてねよろしく!」
「欲深いな。普通に引くわ」
アイスの一匹が呆れたようにつぶやく。自分でもそう思うけれど、これくらいしなければ王子たちに相手にされる自信がない。私は極々平凡な女なのだ。むしろこの条件でも足りないくらいだと思う。
「あ、そうだ。氷帝の王子の誰かと親戚関係とかだといいな。だって何の面識もなくちゃ近づきようがないでしょ?」
「異世界転生チート、盛りすぎ」
更に呆れられてしまったけれど、折角手に入れたもう一つの人生を好条件で過ごしたいと願うのは、当然のことだと思う。人間だもの。
「じゃ、こんなもんでいいの?」
「うん、いい」
「そ。では、良い旅を。君たちに幸あれ」
……え、急すぎるちょっと待ってよ!
そんな言葉を口にする間もないまま、世界は暗転した。
「そろそろ帰りますね」
ここで追加案件を振られたら弊社潰れて欲しくなるから、手早く荷物を纏める。帰れるなら飲みに行こうよ、なんて先輩の誘いはもっての外だ。
「行きたいです。でも今日は大切な用事があるので、次は行くから絶対また誘ってください」
「『今日は』って言うけど、水曜はいつも定時帰りだよね。デート?」
「ん、えっと、どうかな?」
曖昧に笑って挨拶をして、忙しない空気に満たされた廊下を足速に去る。今日は大事な大事な『デート』の日なのだから。
……なんてね。
地下鉄を出て、我が城たるワンルーム賃貸へ帰る前にはいつも通りコンビニへ寄る。甘くないチューハイにチキンサラダ、それにプチプラアイスは、ここのところ三種の神器化している私のお気に入りだ。少し恥ずかしいくらいヒールをガツガツ鳴らして、息を切らしながら部屋に辿り着いたのは十九時少し前だった。
……セーフ!
テレビをつけると同時に、録画のハードディスクがカチと小さな音を立てる。画面に現れたのは、見慣れた青春学園の校舎だ。『デート』の相手は中学生の王子様。特に今日はアニメオリジナルの対西海岸戦、跡部と真田のダブルスの佳境の日。絶対にリアタイしたくて、オタク心がもう既にぐじゅぐじゅしている。
私はテニプリ沼の住人だ。深い深い、もう多分一生抜け出せない沼の奥地に住んでいる。カップリングもドリームも好きだけど、なにより兎に角キャラが大好き。 好きで好きで、考えるだけで心がときめいて仕方がない。
アニメのAパートを見ながらサラダを食べて、テニミュのCMを横目にアイスを開けるのが水曜日の至福のひとときだ。バニラアイスの塊がチョコでコーティングされた六粒が、小さな箱に入っている昔からあるアイスは、サイズ的にちょうど良いし財布にも優しい。
「ふふふふふん、ふふーふふ、ふふふふふ」
テニミュの曲を口ずさみながら蓋を開けて、広がる光景に手を止めた。
……なに、これ?
普通なら円すい台の形をしているはずのアイス、その六個全てが、いびつな星の形をしていたのだ。デザインが刷新されたのかなと訝しく思いながらパッケージの裏を見ると、そこには『願いのアイス』とファンシーな文字が印刷されていた。レア路線のお菓子に心ときめく子ども時代は過ぎてしまったけれど、嫌いじゃない。 しかも六個全部『願いのアイス』だなんて相当レアだ。
……折角だから何かお願いしよ。億万長者? 今期の業績? 明日のウェブ会議一度も固まらないといいな、かな?
Bパートが始まる音で、テレビに視線を戻す。キラキラ輝く王子様たちはもう素敵としか表現しようが無い。
……テニプリキャラに会いたいな。
天地がひっくり返っても叶わない、人類共通の夢。
「テニプリの世界に行けたら、幸せ」
ツイッターでフォロワーと一緒にリアルタイムの悲鳴を上げながら、四つめのアイスを口に放り込んだ。
『デート』の時間が終われば夜はあっという間に過ぎる。ゆっくりお風呂に使った後はネットやSNSのチェックをして、軽くヨガで身体をほぐせば毎晩のルーティンはおしまいだ。明日は朝イチで会議だから夜ふかしは大変危険である。名残惜しいスマホの画面を伏せて、自制心を総動員してベッドに入る。
平凡な私の平凡な一日はこうして終わった……はずだった。
お布団の中、ゆるやかな眠りが降りて来て幸せな温かさに包まれる。なのにぼんやりしてきた意識の中、小さな、耳障りな何かが睡眠の邪魔をする。
……もう……うるさい……。
「起きろって!」
「寝汚いね」
……となりのへや……? ……うざい……。
「起きないよ? どうするの?」
「蹴ってみよう。エイ」
ひんやりと、冷たい何かが顔に当たった感覚がした。
……つめた……って⁈ 冷たい⁈
ぞわりと背筋に走った悪寒と同時に、一瞬で意識が覚醒する。だってあれだ、夜中にひんやり冷たい何かときたらもう『アレ』しかない。
……うわああんどうしようどうしようオバケとか信じてなかったのに助けて……!
「起きないじゃん」
「んーん、起きてるよ」
「最悪! だったら目、開けなよ」
緊張で息がうまく吸えない。ここは言うとおりにしておいた方がいいだろうか。
……目を開けた瞬間に殺されちゃったりなんてことないよね? ホラー映画なんかじゃない、これはただの夢、ただの夢、ただの夢!
「……っ!」
決死の思いで目を開いて、息を呑んだ。そこに居たのは予想していたものとは違うけど、でも人ではないもの。
「あ、コイツ息のんだ! 失礼極まりないな」
まっくろくろすけの集団が、枕元で私を罵倒してる。
……これ、なんて夢……?
「私たちは願いのアイスです」
「お前の願いをかなえにきたよ」
暗闇に目が慣れてくると、それは確かにさっき私が食べたアイスのようだった。手足が生えた星形のアイスは、カビがルンルンしているようにも見える。六匹の謎の生命体が私の枕元で動き回りながらキーキー大騒ぎしている。
……私やっぱり今寝てるのか。都合の良い夢だなあ。
「君たちが私の願いを叶えてくれるの?」
「厳密には違う」
「本当は私たちって箱に一つしかはいってないのよね、でも機械の故障でさ」
「それを監視のバイトが気付かなくて、六つ一緒に一箱に入っちゃったんだよ」
アイスたちは非常に饒舌だった。子どものように高い声で、本来ならば別の店舗に卸されるはずが、事務の手違いで私が買ったコンビニに卸されたのだと捲し立てている。おまけに、話が長い。
「……ねぇ、何が言いたいの?」
彼らは顔らしき面を互いに向き合わせて、それからまるで肩をすくめるようなポーズをとった。
「……確率だよ」
「なんの?」
「『幸せ』の起こる確率」
「この世界には『幸せ』の起こる確率ってのがあるわけ」
「人は何をするにも全部自分で選択して行きてるだろ?」
「今日何時に寝るか」
「どちらの足から歩き始めるか」
「その『幸せ』の確率とぴったり同じ確率である事象と出会った人間にだけ、『幸せ』は訪れる」
「それが君の場合、俺たちアイスを買った確率だったってわけ」
「だから僕たちが来たんだよ。君の『幸せ』を叶えるために」
つまり、私はものすごくラッキーな人間で、アイスたちは私の願いを叶えにきてくれたということだろうか。
「結論から言うと、ね」
……なんて素晴らしく都合のいい夢。明晰夢なんて見るの初めて。
そう思いながら布団を握りしめて、その感触のリアルさに、逆に違和感を覚える。
……私、目、覚めてる……?
「目を覚ます夢」はたまに見るけど、こんなにはっきりとした感覚ではない。枕元で音を立てている目覚まし時計の秒針の音まで聞こえるような夢なんて、今まで見たことがない。さっきとは違う意味で背中に嫌な汗を感じる。
そのとき、キンコンと聞き慣れた玄関のチャイムが鳴った。
……鳴ってるよね、確かに。
そしてそれを私はちゃんと聞いていて。目の前の物体たちは、「こんな時間に訪問客なんて非常識だな」なんて騒いでて。信じられない。信じられない。
……非常識はあなたたちの方だよ。
しつこく鳴るチャイムに我にかえって、ベッドから起き上がる。部屋の明かりをつけてもまだアイスたちは枕元ではしゃぎまわっていた。
「ねえお願い開けて~!」
ドアフォンの向こうから聞こえてきた声は、近くに住む同郷の友人だ。
「……何もこんな時間に来なくても」
ドアを開けた向こう、両手をパンと合わせると、彼女は申し訳なさそうな顔をして笑う。
「だってスマホないとか無理ゲー過ぎでしょ。明日から新しいガチャ始まるのにほらもうあと十分しかない!」
週末泊まりに来た彼女はうちにスマホを忘れて行った。そのまま出張に出た先で忘れ物に気がついたらしく、今日取りに来るとSNSのメッセージが送られてきていたのを、私も今まで忘れていた。
「充電切れちゃってる?」
「同じ機種だからしといてあげたよ。それよりもう深夜だよ、来るの遅過ぎ」
「これでも直帰なんだってお土産あるから……ねえ、それ、何?」
部屋に入りキョロキョロしていた彼女は、枕もとに散らばる物を指差した。黒いチョコレートでコーティングされた六個のアイスが、散らばっている。
「えーと、アイス、だよね?」
「それは見ればわかる。落とすにも程があるでしょ早く拾いなよ、シーツ汚れちゃうよ?」
「うん……」
やっぱり誰の目にもこの物体はアイスに映るらしい。手足は生えてないけど、アイスが私の枕元に転がっている。夕食のときに間違いなく食べたのだから、今この部屋にあるはずの無いものが。
……ってことは。ということはだよ?
テーブルの上にあった忘れ物のスマホを、友人の胸に無理やり押し付けた。
「はいスマホ。じゃあまた遊ぼうね」
一緒にガチャを回そうという誘いを、朝イチで会議だからと断った。嘘ではない。再び静かになった部屋の中、後ろ手で玄関の鍵を閉め直す。嬉しすぎて、震える。
……夢じゃないんだよね? 夢じゃない!
「あーやっと帰ったー」
友人が居なくなった途端に、手足を生やして愚痴をこぼすアイスたち。恐る恐る、アイスのうちの一つをそっと指でつつくと、「溶けるからやめろ」とその棒のような手ではじかれた。
……やったー! ラッキーゲット!
「ラッキー! そうだなぁ何を叶えてもらおうかなぁ……」
「は? もう決まってるじゃん」
「『テニプリの世界に行きたい』、でしょ?」
「……え?」
確かに思った。いや口に出して言ったかもしれない、オタクは独り言が多い。でも、本当に願いが叶うなら今の現実をよくしたい。お金が欲しい、成功したい、美人になりたい。願いならばいくらでも浮かんでくる。
「それって変更できないの……?」
「できません」
口を揃えて応えるアイスたちに、足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われる。実際膝を強打した。かなり、痛い。
……なんでテニプリの世界に行きたいなんて……痛いのは私自身だよばかばかばかばか!
行けるわけがないのだ。ここには私の生活がある。友人が居て家族が居て、仕事があって未来があって。それを全て投げ出してテニプリの世界へなんて、ありえない。私は今が大事なのだ。まさに言葉通りの『現実逃避』なんてしてられない。
「無理だよ……この現実を捨てるなんて」
「ふーん、残念だったね」
「でもこうやってアイスと会話する不思議体験できたし。よかったんじゃない?」
「じゃ、さよなら」
黒い輪郭が、曖昧にぼやけ始めた。傷ついた心にとどめを刺すような捨て台詞を吐きながら次第に透明になっていき、一匹、また一匹と消えて行く。自分の浅はかすぎた願いを呪いながら彼らを見送っていたけれど、その瞬間、ひらめいてしまった。
「ちょっと待った!」
それは最後のアイスが消える寸前。向こう側の景色が見えるほど透明になった体が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「なに?」
「やっぱりその願い、叶えて!」
「もー優柔不断」
「面倒かけるなよ」
私の一言でアイスたちは続々と戻ってきてくれた。それぞれ悪態をつきながら。
……生意気すぎない? このアイス。
「で? 現実を捨てられないんじゃなかったの?」
逆、浦島太郎作戦はどうだろうか。例えば、
『現実世界での一分』を『テニプリ世界での一年』にすることができれば、テニプリ世界で九十歳まで生きたとしても、こちらでの時間は二時間経たない計算になる。
「時間の速度を変えるってことだね。できるよ」
「それなら、テニプリの中での一生を終えた後で、この世界に帰ってくることもできる?」
「そうだね、願いはあくまで『テニプリの世界へ行く』ことだから、こっちの世界での人生が残ってるなら帰ってくることもできるよ」
ありがたいことに融通が効くようだ。聞けば、同一の願いの中で色々なオプションを付け加えることは可能らしい。そんな大切なことは早く言ってほしい。後出しジャンケンみたいなことをしていると企業の信頼は損なわれるのだ。
人類が憧れて止まない永遠の命。私は永遠ではないけど、人の二倍のそれを手に入れることになる。一つの人生を豊かにするか、一つの人生を二つにするか。本当は前者が欲しかったけれど、もう願ってしまったものは仕方がない。
……楽しもう! 私の『幸せ』を!
「オプション、私がテニプリ世界でどんな人間かってことも自分で決められる?」
「もちろん」
「あのね! 箱推し学校の……氷帝学園中等部三年生で、あ、途中編入とかがいいかな、学校のこと全然わからないし。絶世の美少女にして欲しい、顔面チートね、勿論スタイルも。知らない人と家族になるのは怖いから両親はすでに他界ってことでどうかな。でも家は超資産家で、お金には絶対苦労したくないの、不労所得最高。それからここ大事、テニスが上手いって設定にしておいてねよろしく!」
「欲深いな。普通に引くわ」
アイスの一匹が呆れたようにつぶやく。自分でもそう思うけれど、これくらいしなければ王子たちに相手にされる自信がない。私は極々平凡な女なのだ。むしろこの条件でも足りないくらいだと思う。
「あ、そうだ。氷帝の王子の誰かと親戚関係とかだといいな。だって何の面識もなくちゃ近づきようがないでしょ?」
「異世界転生チート、盛りすぎ」
更に呆れられてしまったけれど、折角手に入れたもう一つの人生を好条件で過ごしたいと願うのは、当然のことだと思う。人間だもの。
「じゃ、こんなもんでいいの?」
「うん、いい」
「そ。では、良い旅を。君たちに幸あれ」
……え、急すぎるちょっと待ってよ!
そんな言葉を口にする間もないまま、世界は暗転した。
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