VACANCY
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【VACANCY another】後日譚・不二家ver
昇降口まで出てくると、流石に空気が冷たい。普段なら生徒たちで賑やかなこの場所も、年末年始を前にして閑散としていた。この時間、天井まで伸びるステンドグラスから降り注ぐ採光は聖ルドルフ学園の看板の一つでもあったが、あいにく今日ほどの曇天では威力をいまいち発揮できないようだ。
……向こうの予報は雪か。どんな所なんだろう。
ベンチの背もたれに寄りかかった裕太のスマホ画面は、甲信越地方が大雪になる予報を表示している。あの辺りには昔一度だけ行ったことがある。隣に住む家族と一緒に行った日帰り旅行では、どこまでも広がる葡萄の天井を見上げてうっとりした記憶しかない。
「おや裕太くん、まだ寮に居たんですか」
「これから帰ります。観月さんも今日帰省するんですね」
……うお、タイミング。
平静を装いながら視線だけを向こうの廊下へやる。女子寮から人が来る様子は今のところはない。
「んふっそんな顔をしなくても、馬に蹴られるような真似はしませんよ。あなたの彼女なら、向こうで寮母さんと話をしているのを見ましたからね。早く出た方がいいですよ、あちらも確か大雪注意報が出ている。僕も早々に退散します」
「はあ……」
最早どこからつっこめば良いのかわからない。甲信越地方へ帰省する彼女を見送るために待ち合わせをしていることも、それを知られたくないと思っていることも見透かされているが、いつものことと言えばその通りだ。ならば、と開き直って改めて観月を見れば、大きなキャリーバッグを二つ、その上に薔薇柄のケースをそれぞれ二つずつ乗せている。山形ではなく海外にでも行くのだろうか。視線に気付いた観月は演技がかった仕草で肩をすくめた。
「帰省ですよ生憎ね。都会生まれ都会育ちの君にはわからないと思いますが」
「はあ」
一時間もあれば往復できてしまう気やすさの距離を疎ましいと思ったこともあったけれど、気だる気に見える観月を見れば、自身の境遇はありがたいことのように思えた。
重い荷物を持っているにしても、観月の表情は随分優れない。
「具合でも悪いんですか」
「ええ大いに悪いですよ。これから新幹線とローカル電車、三時間に一本の路線バスを乗り継いで帰った先には、苔が生えるほど見飽きた親戚や隣近所の大人たちの演歌と酒盛りです。田舎暮らしなんて最近もてはやされてますけど、つまらないものですよ、田舎の正月なんて」
「早く帰ってきてください。待ってますから」
「おや、気を遣わせてしまいましたね。家族に会うのは久しぶりですから、楽しみなこともあるんですよ一応」
良いお年を、と言い残した観月の背中を見送る。今日の観月は饒舌だった。いや、もともと口数の多い先輩だが、自分のプライベートをここまで詳らかにするのはとても珍しい。年末の学内の、この独特な雰囲気のせいだろうか。紆余曲折はしたけれど、裏表のない関係になった成果物かもしれない。
……それはまあ、良かったのかな。
向こうの廊下の奥に、キャリーバッグを持った彼女が見えた。
……あ、降ってきたな。寒いわけだ。
彼女と東京駅で別れてから、特に用事もないのですぐに帰路についた。最寄駅から家までは徒歩五分。頬を叩く冬の空気は、初めこそデートの余韻を冷ます効果があったが、すぐに人の免疫を低下させる凶器に変わった。
……寒っ! 帰ったらココアに砂糖いっぱい入れたの作ろ。
観月の不満は、内心理解できるつもりだ。去年の今頃は家に居るのが苦痛だった。何をするにも兄と比較されていると思い込み意固地になり、兄が執拗に絡んでくるのも不快で仕方がなかった。
……まあ兄貴がうざいのは変わらないけど。
苦笑する余裕が出来たなんて、自分も大人になったものだと思う。雪が止んだら、兄と沢山テニスをしよう。年越しは例年通り、隣の姉貴分も誘って三人で二年参りへ行こう。近所の神社に毎年出店する甘酒は絶品だ。
先のテニス合宿で、あの跡部景吾と中身が入れ替わるという珍事に見舞われた姉貴分だが、その後体調に異常がないことはラインで確認済みだ。
……観月さんとこと違って、俺の年越しは超平和だよな。
「ただいまー」
家の中からは返事も生活音も無い。それを気にする歳でもないので、手を洗ってココアパウダーの在庫を確認する。ブレッドケースにいちじくのスコーンを見つけて、幸せな気持ちになりながらココアにたっぷりグラニュー糖を投入した。一口含んでやはり幸福な甘さを満喫し、隣に顔を出そうかなと思う。青学も既に冬休みに入っているはずだ。兄が隣家にいる確率はかなり高い。
……コタツあるからな。俺もコタツで飲も。
不二家には無いコタツが子どもの頃から羨ましく、冬は隣家で過ごすことが多い。寒空の下、夏用のクロックスを引っ掛けてカップの温かさだけを頼りに隣家のリビングへ繋がる掃き出し窓を開ける。施錠はされていなかったが、中は予想に反して静かだった。
「ういー。姉貴いる?」
「「おかえりー」」
……なんだ居るじゃん。勉強でもしてたのか。
コタツのある和室へ直行すると、兄と姉貴分は予想通り二人でコタツに入っていた。テーブルの上には山盛りの冬蜜柑。兄はそれを丁寧に剥いており、姉貴分はスマホを片手に不機嫌そうな顔をこちらへ向けてくる。
「ちょっと裕太、まじでこの人なんとかしてくれない? 私虐められてるんだけど」
「人聞悪いな。裕太、相手にしなくていいよ」
「人のラインのトーク勝手に消したり、どこに行くにも着いてきたり、知ってる? この人最近この部屋にほぼ住んでるんだよ、意味わからないよね?」
「今朝の朝食も僕が作ったんだよ。おじさんおばさんにも好評。明日は何作ろうかな」
「帰れ!」
……あ〜、実家に帰ってきたって気がするな。年末だなぁ。
兄姉のくだらない喧嘩を聞いていると、そう実感する。
「兄貴に構われて嫌がる俺の気持ちがわかったろ?」
「度を越してるんだってば」
「姉貴が何か怒らせるようなことしたんだろ。それに兄貴は執拗すぎ」
「してないってば!」と、姉貴分がスマホをテーブルに投げ出した際に、見えてしまった。開かれていたトーク画面の、相手のアイコンが。跡部景吾が、紫に光るフリルを散りばめたブラウスの前を臍まで開けて、片手に余るワイングラスを傾けている様が。
「うわっ、えぐ」
「えぐくない。慣れれば平気」
……姉貴、感性死んでんな。
何故この服なのか、何故素肌を露出させるのか、何故未成年がワイングラスなのか、何故自撮り感が一切しないむしろプロのカメランマンによる撮影を疑わせるほどの出来栄えの写真なのか、裕太には全く理解できない。周助はここへ来て漸くふうわりと笑った。
「良くないよ裕太、本当のことだからって。家族の前以外では言ったらダメだからね」
いちいち嗜めてくれやがって、と裕太が思うのと同時に、姉貴分も周助を睨んだ。素早い動きでスマホを掴み、「裕太! 周助を抑えておいて!」とコタツを出て行ってしまう。
「もう、なんで自分ちで電話するのにわざわざ庭に出てかないといけないわけ⁈」
裕太が抑えるまでもなく、兄は動かなかった。不自然なくらい表情を消して、こたつの上の蜜柑にまた手を伸ばしている。手元には渋まで綺麗に向いた蜜柑がいくつも転がっているのに。
「兄貴それ食うの?」
「んん」
「姉貴の気になる人って跡部さんだったのか。まあ、兄貴が心配するのもわかるよ、相手があの跡部景吾サマじゃなあ」
……どう考えたって相手にされないって。
失恋の痛みは、裕太にも覚えがある傷だ。好きになった子の好きな人は、兄周助だった、というのは幾度も経験してきたつまらない出来事だった。泣くことになるだろう姉貴分は、寒空の下で通話を始めたようだ。気の毒に思いながら見ていると、兄は「別に心配してるわけじゃないさ」と呟いた。いつもの軽口だということはわかる。なんだかんだ言いながらも、自分たち兄弟は姉貴分を本当の家族のように思っているのだ。
「なら、嫌がらせの原因は何だよ。心配なら心配って素直に言ってやればいいのに。あの跡部さんとじゃ、住む世界が違いすぎるって」
合宿中、自身は「心配している」とは気恥ずかしくて言えなかったが、それはそれ、これはこれだ。珍しく兄に説教できる気配を感じ取って、裕太は小さく胸を張る。
「住む世界って、同じ日本に住んでるじゃない。しかも同じ東京」
兄が自分とは異なる価値観を持っているらしいことは最近発見した。関係改善には必要な気付きだったが、稀に宇宙人と話している気分になることがある。
「そうじゃなくてさ、財力が桁違いだろ。よくドラマとかであるじゃん。マナーとか語学とか血筋とか」
「後天的なものならあの子はなんとか出来るよ。マナーも教養も立ち居振る舞いも、きっと努力出来ると思う。血筋なんてアナクロニズム、あの跡部が選別の要素にするとは思えないし」
「すげーモテるじゃんあの人。うちの学園の女子もめっちゃファン多いよ。姉貴が選ばれるわけないって」
「客観的に見ても可愛いと思うけど」
……身内の欲目って言うんじゃねそれ。
真剣な表情を見るに、軽口を叩いているわけではないらしい。ならば、兄のこの不機嫌さは何なのか。このままでは籠の蜜柑が全て剥かれてしまう。
「じゃあ何なんだよ。姉貴が跡部さんに毒されてるのが気になるんじゃ無いのか? 全然別の理由?」
「…………気になるんじゃなくて、気に触るんだ」
「は?」
「僕の方があの子のこと好きなのに」
「はあっ⁈」
……いや嘘だろなんだそれ。ジョーク? 今までそんな素振り全然無……いことも無いか? え、ああいうの全部そういうことだったの?
確かに昔から、兄は姉貴分のことを大切にしていた。とびきり優しくしているのを何度も見ているが、しかし兄には確か恋人が居たはずだ。
「いや兄貴、俺と同い年の子と付き合ってるとかなんとか……しかもそれ俺、姉貴から聞いたんだけど?」
「勘違いだった。無くしそうになって気がつくこと、あるみたい」
「…………へえ」
他に言葉がなかった。身内の恋愛話など、居心地が悪くて仕方がない。しかも、自分にとっては両方家族なのだ。言いようがない気持ち悪さはあるが、けれど血なんか一滴も繋がっていないのだからこういうことも起こりうるのかもしれないと思い直す。
……観月さんちとは違う意味で、うちも平和じゃなかった……。
思わぬ衝撃告白に内心は騒ついたが、段々面白くなってきた。兄は姉貴分のどこが好きなのか、いつから好きなのか、揶揄うには持ってこいのテーマだ。今こそ積年の仕返しのチャンスに違いない。
「兄貴はさ」
「……。何」
……あーあ。こんな顔するのかよ。
裕太から視線を外す兄は、完全に不貞腐れていた。白い頬に僅かに朱色が走るのは、コタツのせいではないだろう。こちらとしても、揶揄おうとした気が逸れてしまう。
「恋する身内、きもい」
「裕太、怒るよ」
「もう怒ってんじゃん。てかさ、姉貴に全然伝わってなくね? 完全に嫌がらせだと思ってるし。ちゃんと言いなよ」
日頃の行いのせいで伝わらないのだ、とは言わないことにした。弟からの優しさである。彼女持ちという立場からは先輩でもある。淡い優越感に、裕太はにんまりと笑った。
「まさかとは思うけど、通話の相手、跡部さんかもよ。いいの、兄貴」
「……はあああああ。あの子に告白するとか、今更感強すぎて今まで生きてきた中で一番恥ずかしい……」
それは分かる、と思い切り頷く。こんなに挙動不審な兄の姿が見れて、人生で一番笑えるとは口が裂けても言わないが。
「ふふん、でもさ、言いたいんだろ」
「彼女居るからって、少し調子に乗ってるみたいだね」
掛け布団を乱暴な仕草で跳ね除けて、足音を消そうともせずに一目散に庭へと駆け出した兄の、なんとらしくないことか。
……いいじゃんか、ちょっとくらい先輩風吹かせてみたって。
庭に出た兄は、通話中の姉貴分からスマホを取り上げた。必死に取り返そうとするのを美しい所作で交わして、何やら勝手に操作をしている。
「周助⁈」
泣き出しそうな声が室内まで届いた。その腕を、兄が引き、抱き締める。
……うげ。
窓ガラス越しに姉貴分と目があった。『わけがわからない』と訴えていた瞳が、驚きに満ちていくのが手にとるるようにわかる。凍てつく空気に触れてすっかり青白くなった頬が、耳まで真っ赤に染まるのも。
……身内のラブシーンとかしんどい。
コタツの四辺を移動して、外が見えない場所を陣取った。兄が心を乱して美しく剥いた蜜柑を手に取る。それにしても、兄の気持ちもだが、手の速さにも驚かされた。好きな子を抱きしめたくなる気持ちは良くわかるが、と、内心深く同意しながら頷く。
もっとも、この優越感も長くは続かないだろう。
……兄貴が本気になったら、跡部さんだって霞むわ。姉貴、お気の毒様。天才不二周助の本気から、逃げられるだなんて思うなよ。
END
昇降口まで出てくると、流石に空気が冷たい。普段なら生徒たちで賑やかなこの場所も、年末年始を前にして閑散としていた。この時間、天井まで伸びるステンドグラスから降り注ぐ採光は聖ルドルフ学園の看板の一つでもあったが、あいにく今日ほどの曇天では威力をいまいち発揮できないようだ。
……向こうの予報は雪か。どんな所なんだろう。
ベンチの背もたれに寄りかかった裕太のスマホ画面は、甲信越地方が大雪になる予報を表示している。あの辺りには昔一度だけ行ったことがある。隣に住む家族と一緒に行った日帰り旅行では、どこまでも広がる葡萄の天井を見上げてうっとりした記憶しかない。
「おや裕太くん、まだ寮に居たんですか」
「これから帰ります。観月さんも今日帰省するんですね」
……うお、タイミング。
平静を装いながら視線だけを向こうの廊下へやる。女子寮から人が来る様子は今のところはない。
「んふっそんな顔をしなくても、馬に蹴られるような真似はしませんよ。あなたの彼女なら、向こうで寮母さんと話をしているのを見ましたからね。早く出た方がいいですよ、あちらも確か大雪注意報が出ている。僕も早々に退散します」
「はあ……」
最早どこからつっこめば良いのかわからない。甲信越地方へ帰省する彼女を見送るために待ち合わせをしていることも、それを知られたくないと思っていることも見透かされているが、いつものことと言えばその通りだ。ならば、と開き直って改めて観月を見れば、大きなキャリーバッグを二つ、その上に薔薇柄のケースをそれぞれ二つずつ乗せている。山形ではなく海外にでも行くのだろうか。視線に気付いた観月は演技がかった仕草で肩をすくめた。
「帰省ですよ生憎ね。都会生まれ都会育ちの君にはわからないと思いますが」
「はあ」
一時間もあれば往復できてしまう気やすさの距離を疎ましいと思ったこともあったけれど、気だる気に見える観月を見れば、自身の境遇はありがたいことのように思えた。
重い荷物を持っているにしても、観月の表情は随分優れない。
「具合でも悪いんですか」
「ええ大いに悪いですよ。これから新幹線とローカル電車、三時間に一本の路線バスを乗り継いで帰った先には、苔が生えるほど見飽きた親戚や隣近所の大人たちの演歌と酒盛りです。田舎暮らしなんて最近もてはやされてますけど、つまらないものですよ、田舎の正月なんて」
「早く帰ってきてください。待ってますから」
「おや、気を遣わせてしまいましたね。家族に会うのは久しぶりですから、楽しみなこともあるんですよ一応」
良いお年を、と言い残した観月の背中を見送る。今日の観月は饒舌だった。いや、もともと口数の多い先輩だが、自分のプライベートをここまで詳らかにするのはとても珍しい。年末の学内の、この独特な雰囲気のせいだろうか。紆余曲折はしたけれど、裏表のない関係になった成果物かもしれない。
……それはまあ、良かったのかな。
向こうの廊下の奥に、キャリーバッグを持った彼女が見えた。
……あ、降ってきたな。寒いわけだ。
彼女と東京駅で別れてから、特に用事もないのですぐに帰路についた。最寄駅から家までは徒歩五分。頬を叩く冬の空気は、初めこそデートの余韻を冷ます効果があったが、すぐに人の免疫を低下させる凶器に変わった。
……寒っ! 帰ったらココアに砂糖いっぱい入れたの作ろ。
観月の不満は、内心理解できるつもりだ。去年の今頃は家に居るのが苦痛だった。何をするにも兄と比較されていると思い込み意固地になり、兄が執拗に絡んでくるのも不快で仕方がなかった。
……まあ兄貴がうざいのは変わらないけど。
苦笑する余裕が出来たなんて、自分も大人になったものだと思う。雪が止んだら、兄と沢山テニスをしよう。年越しは例年通り、隣の姉貴分も誘って三人で二年参りへ行こう。近所の神社に毎年出店する甘酒は絶品だ。
先のテニス合宿で、あの跡部景吾と中身が入れ替わるという珍事に見舞われた姉貴分だが、その後体調に異常がないことはラインで確認済みだ。
……観月さんとこと違って、俺の年越しは超平和だよな。
「ただいまー」
家の中からは返事も生活音も無い。それを気にする歳でもないので、手を洗ってココアパウダーの在庫を確認する。ブレッドケースにいちじくのスコーンを見つけて、幸せな気持ちになりながらココアにたっぷりグラニュー糖を投入した。一口含んでやはり幸福な甘さを満喫し、隣に顔を出そうかなと思う。青学も既に冬休みに入っているはずだ。兄が隣家にいる確率はかなり高い。
……コタツあるからな。俺もコタツで飲も。
不二家には無いコタツが子どもの頃から羨ましく、冬は隣家で過ごすことが多い。寒空の下、夏用のクロックスを引っ掛けてカップの温かさだけを頼りに隣家のリビングへ繋がる掃き出し窓を開ける。施錠はされていなかったが、中は予想に反して静かだった。
「ういー。姉貴いる?」
「「おかえりー」」
……なんだ居るじゃん。勉強でもしてたのか。
コタツのある和室へ直行すると、兄と姉貴分は予想通り二人でコタツに入っていた。テーブルの上には山盛りの冬蜜柑。兄はそれを丁寧に剥いており、姉貴分はスマホを片手に不機嫌そうな顔をこちらへ向けてくる。
「ちょっと裕太、まじでこの人なんとかしてくれない? 私虐められてるんだけど」
「人聞悪いな。裕太、相手にしなくていいよ」
「人のラインのトーク勝手に消したり、どこに行くにも着いてきたり、知ってる? この人最近この部屋にほぼ住んでるんだよ、意味わからないよね?」
「今朝の朝食も僕が作ったんだよ。おじさんおばさんにも好評。明日は何作ろうかな」
「帰れ!」
……あ〜、実家に帰ってきたって気がするな。年末だなぁ。
兄姉のくだらない喧嘩を聞いていると、そう実感する。
「兄貴に構われて嫌がる俺の気持ちがわかったろ?」
「度を越してるんだってば」
「姉貴が何か怒らせるようなことしたんだろ。それに兄貴は執拗すぎ」
「してないってば!」と、姉貴分がスマホをテーブルに投げ出した際に、見えてしまった。開かれていたトーク画面の、相手のアイコンが。跡部景吾が、紫に光るフリルを散りばめたブラウスの前を臍まで開けて、片手に余るワイングラスを傾けている様が。
「うわっ、えぐ」
「えぐくない。慣れれば平気」
……姉貴、感性死んでんな。
何故この服なのか、何故素肌を露出させるのか、何故未成年がワイングラスなのか、何故自撮り感が一切しないむしろプロのカメランマンによる撮影を疑わせるほどの出来栄えの写真なのか、裕太には全く理解できない。周助はここへ来て漸くふうわりと笑った。
「良くないよ裕太、本当のことだからって。家族の前以外では言ったらダメだからね」
いちいち嗜めてくれやがって、と裕太が思うのと同時に、姉貴分も周助を睨んだ。素早い動きでスマホを掴み、「裕太! 周助を抑えておいて!」とコタツを出て行ってしまう。
「もう、なんで自分ちで電話するのにわざわざ庭に出てかないといけないわけ⁈」
裕太が抑えるまでもなく、兄は動かなかった。不自然なくらい表情を消して、こたつの上の蜜柑にまた手を伸ばしている。手元には渋まで綺麗に向いた蜜柑がいくつも転がっているのに。
「兄貴それ食うの?」
「んん」
「姉貴の気になる人って跡部さんだったのか。まあ、兄貴が心配するのもわかるよ、相手があの跡部景吾サマじゃなあ」
……どう考えたって相手にされないって。
失恋の痛みは、裕太にも覚えがある傷だ。好きになった子の好きな人は、兄周助だった、というのは幾度も経験してきたつまらない出来事だった。泣くことになるだろう姉貴分は、寒空の下で通話を始めたようだ。気の毒に思いながら見ていると、兄は「別に心配してるわけじゃないさ」と呟いた。いつもの軽口だということはわかる。なんだかんだ言いながらも、自分たち兄弟は姉貴分を本当の家族のように思っているのだ。
「なら、嫌がらせの原因は何だよ。心配なら心配って素直に言ってやればいいのに。あの跡部さんとじゃ、住む世界が違いすぎるって」
合宿中、自身は「心配している」とは気恥ずかしくて言えなかったが、それはそれ、これはこれだ。珍しく兄に説教できる気配を感じ取って、裕太は小さく胸を張る。
「住む世界って、同じ日本に住んでるじゃない。しかも同じ東京」
兄が自分とは異なる価値観を持っているらしいことは最近発見した。関係改善には必要な気付きだったが、稀に宇宙人と話している気分になることがある。
「そうじゃなくてさ、財力が桁違いだろ。よくドラマとかであるじゃん。マナーとか語学とか血筋とか」
「後天的なものならあの子はなんとか出来るよ。マナーも教養も立ち居振る舞いも、きっと努力出来ると思う。血筋なんてアナクロニズム、あの跡部が選別の要素にするとは思えないし」
「すげーモテるじゃんあの人。うちの学園の女子もめっちゃファン多いよ。姉貴が選ばれるわけないって」
「客観的に見ても可愛いと思うけど」
……身内の欲目って言うんじゃねそれ。
真剣な表情を見るに、軽口を叩いているわけではないらしい。ならば、兄のこの不機嫌さは何なのか。このままでは籠の蜜柑が全て剥かれてしまう。
「じゃあ何なんだよ。姉貴が跡部さんに毒されてるのが気になるんじゃ無いのか? 全然別の理由?」
「…………気になるんじゃなくて、気に触るんだ」
「は?」
「僕の方があの子のこと好きなのに」
「はあっ⁈」
……いや嘘だろなんだそれ。ジョーク? 今までそんな素振り全然無……いことも無いか? え、ああいうの全部そういうことだったの?
確かに昔から、兄は姉貴分のことを大切にしていた。とびきり優しくしているのを何度も見ているが、しかし兄には確か恋人が居たはずだ。
「いや兄貴、俺と同い年の子と付き合ってるとかなんとか……しかもそれ俺、姉貴から聞いたんだけど?」
「勘違いだった。無くしそうになって気がつくこと、あるみたい」
「…………へえ」
他に言葉がなかった。身内の恋愛話など、居心地が悪くて仕方がない。しかも、自分にとっては両方家族なのだ。言いようがない気持ち悪さはあるが、けれど血なんか一滴も繋がっていないのだからこういうことも起こりうるのかもしれないと思い直す。
……観月さんちとは違う意味で、うちも平和じゃなかった……。
思わぬ衝撃告白に内心は騒ついたが、段々面白くなってきた。兄は姉貴分のどこが好きなのか、いつから好きなのか、揶揄うには持ってこいのテーマだ。今こそ積年の仕返しのチャンスに違いない。
「兄貴はさ」
「……。何」
……あーあ。こんな顔するのかよ。
裕太から視線を外す兄は、完全に不貞腐れていた。白い頬に僅かに朱色が走るのは、コタツのせいではないだろう。こちらとしても、揶揄おうとした気が逸れてしまう。
「恋する身内、きもい」
「裕太、怒るよ」
「もう怒ってんじゃん。てかさ、姉貴に全然伝わってなくね? 完全に嫌がらせだと思ってるし。ちゃんと言いなよ」
日頃の行いのせいで伝わらないのだ、とは言わないことにした。弟からの優しさである。彼女持ちという立場からは先輩でもある。淡い優越感に、裕太はにんまりと笑った。
「まさかとは思うけど、通話の相手、跡部さんかもよ。いいの、兄貴」
「……はあああああ。あの子に告白するとか、今更感強すぎて今まで生きてきた中で一番恥ずかしい……」
それは分かる、と思い切り頷く。こんなに挙動不審な兄の姿が見れて、人生で一番笑えるとは口が裂けても言わないが。
「ふふん、でもさ、言いたいんだろ」
「彼女居るからって、少し調子に乗ってるみたいだね」
掛け布団を乱暴な仕草で跳ね除けて、足音を消そうともせずに一目散に庭へと駆け出した兄の、なんとらしくないことか。
……いいじゃんか、ちょっとくらい先輩風吹かせてみたって。
庭に出た兄は、通話中の姉貴分からスマホを取り上げた。必死に取り返そうとするのを美しい所作で交わして、何やら勝手に操作をしている。
「周助⁈」
泣き出しそうな声が室内まで届いた。その腕を、兄が引き、抱き締める。
……うげ。
窓ガラス越しに姉貴分と目があった。『わけがわからない』と訴えていた瞳が、驚きに満ちていくのが手にとるるようにわかる。凍てつく空気に触れてすっかり青白くなった頬が、耳まで真っ赤に染まるのも。
……身内のラブシーンとかしんどい。
コタツの四辺を移動して、外が見えない場所を陣取った。兄が心を乱して美しく剥いた蜜柑を手に取る。それにしても、兄の気持ちもだが、手の速さにも驚かされた。好きな子を抱きしめたくなる気持ちは良くわかるが、と、内心深く同意しながら頷く。
もっとも、この優越感も長くは続かないだろう。
……兄貴が本気になったら、跡部さんだって霞むわ。姉貴、お気の毒様。天才不二周助の本気から、逃げられるだなんて思うなよ。
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