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「え! あの薔薇、跡部くんちのお庭のものなの? 毎日届けてもらってるの?」
「その辺りの薔薇では農薬が使われているからな、あれは薔薇風呂専用に育てているものだ」
「確かにすごく綺麗だったしなんだかほわほわした気持ちになれたけど」
「その感覚は正しいな。香り、見た目、成分の多方面から、心身をリラックスさせるしホルモンバランスや内臓の状態を整える……それが俺様の薔薇風呂だ」
……ホルモンバランスとか内臓を気にかけてるの、同い年なのに……。
体からほかほかと湯気を漂わせて、跡部と並んで薄暗い廊下を仲良く歩く。一緒に風呂に入ると同性でも距離が縮まる気がするけれど、奇怪な性転換をしている同志も例外ではなかったみたいだ。
跡部のつるつる肌を褒めたところ、つるつるの秘訣を教えてくれた。
……自分の好きなことに饒舌になるところ、意外と可愛いな。
敵対校ということもあって、キツくて厭味なイメージしかなかったけれど、一度話してみるとすごく話しやすい。こちらの話も聞いてくれるし、跡部の方から面白い話も沢山してくれる。やっぱり有名人は、人を惹きつける魅力を持っているのだろうか。
「跡部くんの話って面白いね」
「なんだそれは、別に普通だろ。褒めているつもりか? たまたまお前と話があっただけじゃねーの。俺だって話しづらい人間くらい居るぜ」
「……」
……ちょっと今のは、びっくりしたかも。
何気ない顔でさらりと言うのが、またカッコいい。思わず頬が緩みそうになるのは、暗闇で気づかれなければいいと思う。
こんな深刻な状況にいるはずなのに、こんなに短い時間で跡部景吾に惹かれている。入れ替わることがなかったら絶対に見つけられなかったであろう意外な一面が、いちいち刺さるのだ。跡部のことを一つ知るたびに、もっともっと知りたくなる。
はしゃいで跡部と会話をする傍ら、周助の元カノの顔が脳裏に浮かんで気持ちが少し翳る。
風呂上りの水分補給にと二人で向かった先は、談話室にある自販機だ。近づくにつれ、ぼんやりとした灯りと喧騒が届く。その喧騒の中に周助の苛立ちを含んだ声を見つけて、またぎくりとした。
……周助、すごく苛々してるなぁ。
合宿が始まる前から不機嫌そうだったけれど、今日の入れ替わり事件があってからというもの悪さマックスだ。
隣を歩く跡部がクツリと笑う。
「番犬は随分苛立っているようだな」
「そういう言い方したんでしょ本人にも。やめてよね」
「あーん? 少しからかっただけだろ。あの程度で腹を立てているようじゃ、人間の底が知れてるな」
「……」
違う。周助の機嫌が悪いのは、跡部に揶揄われたからじゃなくて、彼女を盗られてしまったせいだ。
……あ、まだ盗られたって決まったわけじゃないか。
跡部とは少しは話せる程度の仲になった。時間のあるときにでも、あの子ことを尋ねてみることは出来るだろうか。質問の仕方が大事だと思う。そんなことを考えていると、談話室の中に居る人が誰だか見えて来た。青学と氷帝の面々だ。
私たちを見つけた彼らは、どこか気まずそうに目を逸らした。跡部が挑発モードを崩さないからひやひやする。
「何だお前ら。こんなところに集まって内緒話か」
その態度に不満そうな顔になったのは青学の面々で、氷帝の面々は慣れているか忍足がのんびりと口を開いた。
「今日から跡部らがどこで寝泊りするかっちゅー話や」
「別棟の個室は、まだ内装工事中だからな。空いている部屋はあったろう、樺地」
8畳の部屋が一つ空いています、と樺地は教えてくれた。だったらそこに、私たちのどちらかが行けばいい。ここは跡部グループの施設だし、周助の厚意で連れて来てもらっている私が遠慮すべきだろう。
「ねえ朋香ちゃん、桜乃ちゃん。私と同じ部屋じゃ駄目? 外見は跡部くんでも、中身は私だよ? そうしたら跡部くんに空き部屋を使ってもらえれば……」
朋香と桜乃は困ったように顔を見合わせた。
……わかるよ気持ちは! すっごく!
外見がよりによってあの、跡部景吾なのだ。イケメンで、怖くて意地悪なイメージがある他校の三年生。一年生の女の子二人の気が引けるのはすごーくわかる。私が逆の立場だったら嫌だ絶対。
……実際の跡部くんは、イケメンだし怖くて意地悪だけど優しいところあるし面白いとこあるけど。
とうの跡部は、桜乃ちゃんたちの反応を見て面倒くさそうに片手を振った。
「ならば俺が氷帝の部屋に残る。元部長としてお前らを管理する責任があるしな。空き部屋はお前が使え」
提案を即座に却下したのは周助だ。
「客観的に、他校の男子生徒と一緒にこの子の身体を寝泊まりさせることは出来ないよ」
「はあ。だったら結論は一つだな」
跡部が指をパチンと鳴らすと、樺地がグラスを取り出し薄紅色の飲み物を注いだ。
「要は風呂と同じだろう? この俺様とコイツが同じ部屋ならなんの問題もないわけだ」
……ぐ……それもそうか。
氷帝部屋、お手伝い女の子チーム部屋のどちらからもやっかい払いされた二人を、同じ部屋に押し込んでしまえば全て丸く収まる。
……跡部くんと二人きりで寝るのもそれはそれで緊張するかもしれないけど……。
でも相手は自分の体なのだ。思うほど『他人』という気はしない。つい先日までは苦手に感じるほどの他人だったのに、今は跡部を非常に近くに感じる。
だったら女の子部屋に置いてある、荷物をまとめた方がいいかな、と意識をそちらにやると、考えを中断させるかのように両肩にパンと手を乗せられた。周助だ。
「いや、空き部屋に泊まるのは跡部だけでいいよ。ね、君は僕ら青学の部屋で寝なよ」
「周助?」
「うちの面子なら慣れているだろう?」
「でも……」
青学の選手部屋に泊まっているのは九人。そこにプラス一人となると、完全に寿司詰め状態だ。
「でも周ちゃん。私まで青学部屋にお世話になると、定員オーバーじゃない?」
「それなら僕が跡部と一緒に空き部屋に泊まるよ。これでプラマイゼロ。ね?」
「……うん、周がそれでいいなら……」
本音を言うと、青学メンバーと寝泊りするより、自分の体を使っている跡部と寝泊りするほうが気が楽な気はする。けれど周助が折角気を遣ってくれたのだ。元カノのことで色々あったというのに、その親切を無碍にするのは申し訳ないし、青学メンバーも「そうすればー」と言ってくれている。
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
「いや? 駄目だな」
今度は跡部が意を唱えた。全然纏まる気配が無いのだけれど、今度は何が問題なのか。
「それだとこの体が危険だろう?」
「……どういう意味かな」
「お前と同室では、コイツの体が危険だと言ってるんだ。普段なら不二周助が誰と夜をともにしようがどうでもいいが、今この体は俺様のもの。襲われでもしたら抵抗出来ないことは、コイツの体力のなさで実感済みだ」
……ひぇっ⁈ 跡部くんまだ周助を揶揄うつもりなの⁈ やめてやめてやめて今周助ガチで真剣に話してるのに!
いつもは穏やかに凪いでいる瞳が剣をあらわにして跡部を睨むから、本当に怖い。
「下世話な物言いはやめてもらえるかな。この子とは友だちなんだ。小さい頃からずっと一緒に居るんだよ、そんな間違いは起こりえない」
自分を獣扱いされたらそれは怒るだろう。しかも私相手に、だ。僕だってそういう対象は選ぶ、とでも思っているに違いない。
周囲に沈黙が落ちた。
そんな中で、跡部は「ふ」っと小さく笑いを漏らす。「周ちゃんはさ」と、そう続けた。私の口調を真似しているのだと、三秒かかって気がついた。
「周ちゃんは私の何?」
「……跡部? この子の真似のつもりかい。あんまりふざけないでもらいたいな」
「ねえ、周ちゃんは私の何? ただの友だちなんでしょう? それにしては干渉が過ぎない?あんまり馴れ馴れしくしないで、迷惑だよ」
「……」
……跡部くん……。
どこかで聞いたことがある台詞は、昨晩裕太に言われたことそのものだ。同じことを思ったのだろう裕太とばっちり目が合った。もちろん、お互い気まずくて瞬時に目を逸らしてしまう。あのやりとりを、跡部はどこかで聞いていたのだろうか。
周助は、とても傷ついた顔をしていた。裕太とのことに気を取られていて、気付くのが遅れてしまった。
……ダメ!
「跡部くん! 悪ふざけしないで!」
「お前だって俺様との方が気が楽だろう?」
「……」
「この感情は当事者じゃなけりゃわからねーよ。部外者が過剰に首をつっこむな。隔離されるのは俺とコイツで決定だ。わかったらお前らは布団と荷物を部屋へ運べ」
「……ごめんね周ちゃん。気を遣ってくれてありがとう」
「気にしないで」と周助は微笑む。でもちょっと悲しそうなのがありありとわかって、自分がその原因になってしまったことがすごくやるせない。
二枚並んで敷かれた布団の上で、跡部は腹筋をしている。なんだか苦しそうにしているけれど、数字をドイツ語で数えるだけの余裕はあるみたいだ。それともドイツ語は基本仕様なんだろうか。
……どうせすぐに元に戻れるんだから、私の体なんて鍛えたって仕方が無いのに。
鏡の前で柔らかな髪をとかしながら謎の努力を横目で見ていると、跡部が苦しそうに布団に倒れた。
「おいお前、この体筋肉がまるで無いぞ。なまりすぎだ。飼い犬とテニスをするべきじゃないか」
「もっと小さい頃にはやってたけど」
周助と裕太と、よく三人でテニスをしていた。テニスクラブなどではなく、近所の公園のテニスコートで。あの頃はまだ三人にテニスの上手い下手なんてなくて、笑いながらボールを追いかけていただけだった。それが、まず周助が群を抜い才能を発揮し始めて、裕太もその姿を追いかけてどんどん上手くなっていた。
……私はそこまで楽しいと思えなくて、やめちゃったんだよね。
「ふぅん」と別段興味もなさそうに呟いた跡部は、それきり黙ってしまった。
……もしかして今、周助の元カノのことを聞いてみる?
何気ない顔をしてブラシを置いて、空いているほうの布団へと入る。隣ではまだ跡部が私の体の腹筋を鍛えていた。間接照明の温かな光が、眠気を誘ってくる。秒で寝られるとか、跡部くんの体、のび太並み。
「ね、跡部くん。」
「なんだ」
「こういう子、知ってる? 青学の二年生なんだけど」
名前と特徴を思いつく限り挙げてみた。カノジョ、と言われてしまうかなと身構えたけれど、「知らねーな」と素っ気ない言葉が返って来ただけだった。嘘をついているようにも見えない。あの子の一方的な片想いなのだろうか。
「その女が、なんだってんだ」
「んーん、なんでもない。知らないならいいんだ」
「……ああ、サンフロー不動産の令嬢か」
「そう! それ!」
腹筋を続ける跡部の視線が宙をさまよう。大きな会社の社長の娘で、顔が可愛くて上品でおっとりしていて、周助はこういう子を好きになるんだなと、初めて見たときに納得したそんな子だった。
記憶を辿っていたのだろうか、「それなら」と少しぼんやりした口調で続けられた。
「先月のパーティー会場で言葉を交わしたな。それらしいのと」
「その程度の認識なの?」
「どうせ、その女が俺に惚れたとかいう話だろ。当然すぎて話のネタにもならないな」
「……ノーコメントで」
……あんなに可愛い子でも相手にされないのか。跡部くんの周りには芸能人とか外国人美女とかいっぱい居るんだろうな。
とすっと、跡部が布団に横たわった。自信満々の顔で笑っていて、自分がこんな顔できるなんて知らなかった。
「仕方がないことだ。この俺の美貌は万人を魅了する。惑った雌猫をいちいち覚えてなんていられねえよ」
「顔がタイプ、からの好きって、割と普通だと思うんだけど」
「ふっ。お前は今までそんな底が浅い恋愛しかしてこなかったのか」
「……ノーコメント」
私だけじゃない、周りの子だってそうだ。あの先輩イケメンとか、あのこ子アイドルみたいとか、そんなことを言ってきゃあきゃあ騒ぐのが楽しいのに。
何も言えなくなった私を見て跡部はまた笑った。同い年だというのにこの余裕、どれだけ恋愛をしてどれだけ百戦錬磨なんだこの人。
「それはつまり、今の『跡部景吾』を好きだと言っているようなものだろ」
「今の……今私が使っている、この体をってこと?」
「ああ。お前は今誰が見ても『跡部景吾』そのものだ。だが中身は別人。そんな状態を好きになられても、本当の俺を好きになったとは言えない。中身の無い空の入れ物に惚れたのと同じだ」
「……」
「それがどれ程底が浅いか、わかるだろう?」
……妙に説得力があるなぁ。
入れ替わり状態になっているからこそ実感が湧いてしまう。押し黙ってしまった私を小さく笑って、跡部は「電気消すぞ」とリモコンに手を伸ばした。
跡部の恋愛観が思いの外真面目だったことに驚いた。あれだけモテるのだから女性関係も相当乱れているとばかり思っていたのに、群がる女性は雌猫扱いらしい。
……じゃあ、今のこの状態で跡部くんに惹かれた私は、雌猫にならないってこと? そんなわけないよね。顔より中身を好きになったからって選んでもらえるわけでもないし、なんの強みにもならないよ。いやいやいや別にまだ好きになったわけじゃないし気になってるだけだし。
葛藤しているうちに部屋は暗くなった。明日の朝には戻っていたらいいのにと思うけれど、乾の予想ではそれも期待薄だろう。
疲れているのに気持ちがざわざわしていて眠気が遠くなってしまった。廊下からはどこの学校だろうか、小さな笑い声が部屋の中へ届く。
「ちっ、うるせーな。ガキじゃあるまい、夜くらい大人しく寝られねーのか」
「跡部くんが大人なんだよ」
「お前らが幼すぎるんだよ」
「……さっきも少しびっくりしちゃった」
「何が」
「跡部くんって意外に真面目なんだね。もっと遊んでる人かと思ってた」
「あーん? 遊びの女と恋人とは別だろう?」
「……遊んでるんじゃん!」
……もう! 感心して損した!
胸の奥に苦い、モヤモヤとしたものが広がっていく。同時に『相手になんてされるわけない』という悲しみに体の内側が支配される。
……私、跡部くんのこと好きなのかな。
「かっこいい」以上の感情を持っていることは確かだけれど、こんな短期間で、しかもこんな非常事態に恋になんて落ちるものだろうか。こっちはやるせなくてうじうじしてるのに、跡部は朗らかに笑っている。
「クッ、俺様に遊んで欲しけりゃ、もっといい女になって出直してくるんだな」
「ばっかじゃないの? 自意識過剰すぎ」
「そうか、そりゃ悪かったな」
ふふっと笑う声に、少しだけ幸せな気持ちになる。あの氷点下な視線で睨まれるよりも、嘲笑でもいいから笑ってくれていたほうがずっといい。
……跡部くんの声で、今の笑い声聞きたかったな。
こんな状況に陥っていなければ今みたいな距離感にはならなかっただろうけど、やはり乾薬汁試作品バージョンアルファを恨まずにはいられない。
横になっているうちにだんだん瞼が重くなる。目を閉じると今日一日の出来事が順に浮かんでくる。周助の悲しそうな顔。裕太の心配そうな顔。跡部が作った、見たことのない自分の笑顔。そういえば、さっき跡部が私に成りきったときのあの台詞はなんだったのだろう。
「……跡部くん」
「あぁ?」
「この間の夜の、裕太と私の喧嘩。聞いてたの?」
「いや……」
一度言葉を濁したように見えた跡部だけれど、静かにぽつりと呟いた。
「だた、夢で見ただけだ」
「え?」
「もう寝るぞ。睡眠は明日の糧だ」
「……うん。おやすみなさい……」
……夢? 夢って、なに?
気になるけれどそれきり跡部は何も言わない。聞こえ始めた寝息につられるように、睡魔が降りてくる。
◇
はあっ はあっ はあっ
真っ暗な空間で、私は懸命に走っていた。「日本人のくせに」「跡部グループの総裁に相応しいのか」「甘えたことを」「努力が足りないな」。振ってくる冷たい声。全てが鬱陶しい。気付けば、緑のコートの上をただひたすら黄色のボールを追って走っている。楽しい。最高の高みを目指したい。そのボールが、急に言うことをきかなくなった。どれだけ回転をかけようが、どれだけコーナーを狙おうが、ボールは相手の足元へと集まってしまう。悔しい、倒したい、負けたくない。相手の輪郭がしだいにはっきりしてくる。冷静な瞳でこちらにボールを打ち込んでくる相手は
……手塚……?
どうしても手塚が抜けない。ロブも上がってこない。得意技が出せない。自分の息遣いが心底五月蝿いと思った。跡部景吾ともあろうものが、無様に、息を、乱すな。必死に打ち返していると、相手の輪郭がぼやけ始めどんどん小さくなる。小柄な体格に収まった影は、次第にその正体を見せ始める。
……あれは、越前くん。
あの小さな体のどこにこんな才能が眠っているのかと思う。圧倒的な強さ。面白いと思う。でも同時に悔しくて悔しくて仕方が無い。悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、負けてたまるか、なめるなよ、忘れるな、悔しい、悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい。
次こそは、必ず。
次第に周囲がどんどん明るくなり、私は布団の中、はっと目を開けた。
……私、今の……夢……?
頬に違和感を感じ指でなぞると、一筋の水の流れた痕がついていた。今も胸に残る悔しさの残像は、誰のものだろう。この苦しみは、誰の。
……だれの……。
しばらくぼんやりと夢の余韻に浸っていたけれど、すぐに我に変える。慌てて自分の胸を触ってみる。柔らかな脂肪でなく、無情にも硬い胸板がついてるだけだった。現実って厳しい。
……やっぱり、昨日の今日で元に戻るわけないかぁ。
枕元のスマホを傾ける。もうすぐ朝の五時になる。そろそろ起きなければお手伝い作業に間に合わない。冬の夜はまだ明けておらず、部屋の中は暗い。隣の布団に居る跡部も背伸びをしていた。乾燥で少し乾いた喉を鳴らすと、「んんんっ」と歌うような美声がした。四日目のテニス合宿の始まりだ。
「ん……五時、か」
「おはよう跡部くん。起こしちゃったかな」
「いや、ランニングの時間だ。樺地を呼ぶが構わねえな?」
「樺地くんも早起きだね」
「当たり前だろ」
多分ドイツ語の格言で諭されたけれどよくわからなかった。跡部は筋肉痛の身体を痛がっている。すみません運動不足で。
「これも何かの縁だ。お前の代わりにこの俺様がお前の身体を鍛えてやるぜ。感謝しな」
「しない」
「しかし女ってのはなかなか不便だな。テニスでも筋トレでも胸が揺れて邪魔だ」
「それを言うなら男の子だって」
「あーん?」
「……いえ、なんでもないです。私先にいくね」
「ああ、せめてサポートに励め。少しはその体動かしとけよ、元に戻ったときに衰えていたらただじゃおかねーぞ」
すごまれなけれど、今まで跡部がこなしていた運動量を今の私がこなせるはずもない。返事をせずににっこり笑って部屋を出ると、ちょうど前を通りかかった乾と目が合った。
「おはよう乾。早いね」
「その様子じゃまだ君だな、データ通りだ。おはよう。折角設備のよいところで練習できるチャンスだからね」
「ふーん……本当、頑張るよね」
つい先日までなら、『テニスバカ』としか思えなかった。不二兄弟と距離が出来てしまった原因がテニスだと拗ねていたから。でも今は違う。
並んで歩きながら、乾を見上げる。
「乾、私夢を見たの。手塚や越前くんと試合をする夢」
「ほう?」
「私あの二人とテニスなんてしたことがないのに。でも感覚がすごくリアルでさ」
「ふむ」
「私、氷帝のジャージ着てた」
「面白い。それは体に残った跡部の記憶かもしれない」
一昨日の晩どこまでも続くコートを走っていたのも、昨晩手塚らと試合をしていたのも、跡部だ。
「いや、跡部の『想い』と言ったほうがいいかもしれないな。記憶が宿るのは脳。無論感情も能でコントロールされているが、人の想いは記憶より簡単なものじゃないのかもしれない……なんてな。全くの俺の私見だが」
「また朝食で」と言い、乾とは玄関前で別れた。
……跡部くんの、想い……。
誰かの感情をダイレクトに体感するなんて、当たり前だけど生まれて初めての経験だった。
圧倒された。
今思い返すだけど、胸がいっぱいになってしまいそうだ。私はこれまであんなに悔しい思いをしたことはない。何かに没頭して血の滲む努力をしたこともない。
……格が違う、って本人が言うだけのことがあるよ……。
近くに感じた瞬間に、自分とは遠く離れたところにいる人間なんだと実感した。理不尽や挫折に負けない心の強さも、テニスに対する真摯な思いも、全部に惹かれて眩しいくらいだ。
……こんな人好きになっても、辛いだけだよね。
好きになっちゃダメだ。辛いだけ。
お手伝いの作業準備にとりかかると、すぐに一年生たちの元気な挨拶が部屋に響いた。
◇
昨晩と同じく一緒にお風呂に入った後は、同じく水分補給のために談話室へ向かう。やっぱり跡部と過ごす時間は楽しい。教養があるから話題の種類も豊富で、つっこみは的確だし聞き上手だからつい色んなことを喋ってしまう。
……やばい、楽しい。
こんなにおしゃべり上手な男の子は、周助以外に知らない。一言一言、言葉を交わすたびに惹かれていく自分が情けない。引き寄せられる気持ちを止めることが出来ず、苦しい。
……駄目。あんまり一緒にいないほうがいい。
体が元に戻れば、もう全く接点のない人なのだ。今好きになってしまっても、これからの生活が辛いだけ。
そう思ううちに足は重くなる。談話室へと向かう足をぴたりと止めた。少し前で跡部が怪訝そうな顔をして、付いてくるのが当然という態度に足が勝手に進みそうになってしまう。
「どうした」
「やらなきゃいけないことあったんだった。跡部くん、先に行ってて」
「そうか」
私の片足を満たす未練の重さの欠片も無いのが明らかにわかるほどあっさりと跡部は頷いて、颯爽と歩いて行ってしまった。中身が跡部景吾だというだけで、自分の後ろ姿は驚くほど気品に溢れていた。
……これでいいんだよね。
もう部屋に戻って寝てしまおう。一緒に居たらきっと好きになってしまう。君子危うきに近寄らずだ。
部屋に戻って、荷物からペットボトルを取り出して喉を潤した。最初から談話室になんて行く必要はなかったのだ。押し入れを開けて布団を敷く。跡部との距離を昨夜よりも心持ち多くとっておいた。
横になると、後悔が押し寄せてきて胸がいっぱいになる。
……今からでも談話室に……いやいやいや!ダメでしょ!
気を紛らわそうとスマホを触る。安定の女友だちから、イブの予定についてのメッセージが入っていた。どれも色気のかけらもないものだ。イブも合宿だよ、と返信をしスマホの顔面を布団に押し付けた。天井を仰ぐ。合宿も残すところあと三日。それが終われば冬休み、年末と正月だ。両親も帰ってくるし、またいつもの生活に戻るだけ。そこに跡部は居ない。
……別にいいけどさ。
音が鳴ったスマホに、マナーモードにし損ねていたことき気がついて再び画面を見る。ふと気が付いた。暗転した画面に映る、綺麗すぎる顔。
……こういうことしないための監視なのに。跡部くん私から目を離しちゃダメだよ。
私はこんなにわるいやつなのに。
布団に横たわっている姿は流石にまずい。起き上がって髪型を整えて、自撮りモードで画面をタップした。
データフォルダに現われた『跡部景吾』は、穏やかに、優しげに、微笑んでいる。
……はあ。むなしい……。私、しょーもない。
意味がない。本物の跡部がこんなに優しく笑いかけてくれるわけがないのだから。削除をタップして、ゴミ箱からも完全に消去する。悪いことを無かったことにしても、罪悪感も虚しさも消えてはくれなかった。スマホを枕元に放り出し頭から布団を被ると、部屋の扉が空く音がした。
「なんだ、もうお休みか」
「ん」
「飼い犬の兄貴の方が探してたぜ。談話室で」
「明日の朝聞くから大丈夫」
スマホに連絡も来ていないからどうせ大した用事じゃない。跡部が溜息をつく音が、布団の中まで聞こえた。
「なにむくれてんだ」
「そんなことないよ」
「誰に向かって嘘をついている。ほらよ、これやるからいい子で寝るんだな」
「……」
枕もとの畳に、何かがコツンと置かれた音がした。布団の中から頭を出すと、談話室の自販機で売っているペットボトルのお水だとわかる。
……買って来てくれたのかな。
自分で飲むためだったのかもしれないし、要らなくなっただけかもしれない。
……嬉しい。
構ってもらえることが嬉しい。「ありがとう」と小さな声で呟くと、跡部は「おう」と機嫌良さそうに笑った。
「もう寝るのなら消すぞ」
「うん、お願いします」
暗くなった部屋に、二人無言で横たわる。さっきまでのモヤモヤが嘘みたいに晴れて、馬鹿みたい満ち足りた気分だ。段々眠気が落ちてきたけれど、ふと話しておきたくなった。
「跡部くん、私夢を見たよ」
「あぁ?」
もっと跡部と話しをしたい。跡部のことを知りたいし、自分のことを知ってもらいたい。もっとも跡部からしたら迷惑な話なのかもしれない。聞いているのかいないのかわからないような生返事が返ってきた。
……それでもいいや……ねむ……。
「……うん、夢。跡部くんが、先が見えないほど長いテニスコートをランニングしてる夢。それから手塚や越前くんと試合してる夢」
「ほう?」
「心臓つぶれちゃいそうなほど苦しいのに、諦めないんだね、跡部くんは」
「当たり前だろ」
「悔しくて死にそうなのに、それでも走るのやめないんだね」
「当然だ」
生返事のおかげで、睡魔はゆるゆると浸透してくる。うつらうつらしながら、感じたことを伝えたいと思う。
「テニスへの気持ち、すごい真摯なんだね」
「ああ」
「周や裕太もそうだけど……」
「だろうな」
「なんか跡部くんかっこいい……かもしれない」
「……」
「知らなかった……」
「……」
そうだ。こんなに『かっこいい』人だとは知らなかった。見た目は勿論かっこいいけれど、それ以上に中身までかっこいい人だったなんて知らなかった。
……好き、かもしれない。
体がふわりと軽くなって、またあのテニスコートが近づいてくるような気がした。
◇
「ふっ、告白だったらお断りだぜ?」
跡部は一人、布団の中で笑った。紡がれる声が高い女の声だというのにももう慣れたことだ。
世界中から絶え間なく届くメッセージに目を通すのはやめて、スマホの電源を切った。クリスマス前のこの時期は、充電の減りが早い。
「おい、聞いてんのか?」
「……」
暗い部屋を満たすのは健やかな寝息だけ。からかおうとした相手はとうに夢の中だ。
……俺も寝るか。
明日朝起きたら元の体に戻っていればいいと願いながら、跡部もゆっくりと目を閉じた。
睡魔がやってくるのと同時に、夢の帳が見えてきた。
跡部は走っていた。走り慣れたテニスコートではない。どこにでもある、しかし跡部にとっては全く縁のない、日本の住宅街の中にある小さな公園だ。どこまでも広がる青空と輝く太陽の下、跡部は必死になって走っていた。
「待って! 待ってよ!」
口から出た音は、幼い女児のそれ。前を走るのは小さな二人の男児。兄弟のように思っている、大好きで大切な幼馴染だ。二人は跡部を振り返ることなく、どんどん走っていく。
「周ちゃーん! 裕太ー! 待って……待ってよぉ……」
……置いていかれる……。
伸ばした腕は届かない。どれだけ必死に走っても、追いつかない。とうとう二人の姿は見えなくなる。悲しい、悲しい、寂しい、置いていかないで、頑張るから、置いていかないで。
場面は突然変わり、目の前に大きくなった裕太が現れる。ここはそう、合宿所の廊下だ。
「……馴れ馴れしくしないで欲しい」
……なんで。私のこと、嫌いになっちゃったの。
「姉貴が嫌いだとか、そういうわけじゃないんだ!」
……それは、本音?
「だから、迷惑なんだ。こういうの」
……置いていかれる。
その瞬間、はっと目を開けた。見えたのは合宿所の天井。目頭が痛いのは涙を流しているからだ。
……夢か。
体が入れ替わってから見るようになったこの夢は、おそらくこの体に残る記憶だろうと、跡部は思う。
……いや……記憶というより、感情か。
この夢を見たということは、今自分が置かれる状況はわかっている。布団の中で頬に手を当てる。自分のものではない、柔らかな女性の頬だ。
……一体いつになったら戻るんだよ。
枕元にある携帯で時間を確かめると、午前五時より少し前だった。夢見が悪くて目が覚めたのはわかる。普段跡部の起床時間は午前五時だが、その生活習慣が身についているのは跡部景吾の『体』の方だ。今のこの体のままでは、眠くて仕方が無い。
……世の中色々な人間がいたものだ。
この事態は非常に迷惑極まりない話だが、跡部には必ず元に戻れるという確信がある。それはもちろん乾のデータを信用しているのではなく、跡部家の研究所を信頼しているのだ。
……面白い。
素直に面白いと思う。違う性別の体がどんなものなのかということがわかった。自分が物理的に感じてきたものとほとんど同じ感覚を、他人も共有しているということがわかった。
……それに他人の記憶、か。
おそらくはこの体が覚えているのであろう、感情。まさか他人の感情を味わうことが出来る日が来るとは思っていなかった。不二兄弟に置いていかれるという不安。努力しても二人に追いつけない苛立ち。どれ程好きでも、本当の兄弟になどなれるはずがない悲しみ。
……寂しい女。つまらない女。
薄暗がりの中、隣で眠る顔を見下ろす。あの夢で感じた焦りや苛立ちは、今も胸の奥に残っている。
……あれは俺の感じていたものでもある、のか?
子どもの頃に受けた傷。二度も青学に負けたという事実。部長である自分の敗北が、チームの敗北を導いてしまったという事実。追いかける苦しみと、追いついてこられる焦り。どこか共感するところがあったから、あの夢を見るのではないかと思わなくもない。
……だが、俺様はそれに押しつぶされるような器量じゃねえよ。
自分はそれに負けないだけの強さを持っている。しかし隣の彼女はどうか。
手を差し伸べてやりたいと、跡部はぼんやりと思った。本来なら決して共有できるはずのない、他人の辛さ。それを知ってしまったら、同情したくもなる。自分ならばこの女の寂しさを、充分埋めてやることができるという自信がある。
隣で眠る体がもぞりと動いた。時計は午前五時。体内時計が起床を告げる時間だろう。
「ん……」
呟いた声に、微笑む。
……寝起きの俺様も、なかなか艶やかじゃねーの。
もぞもぞと動いていた体が、ふと動きを止める。鏡で見慣れた美しい泣きぼくろの隣に、美しい涙が一筋流れた。
……お前も昨夜の『悔しい』夢を見ているのか。
他人の悔しさを実感するのは面白いが、自分の悔しさを他人に知られてしまったのかと思うと腹が立つ。
……これ以上人の心を覗かれてたまるか。
涙を流したままピクリとも動かなくなった体を、優しく揺らす。相手が自分の体でなかったなら蹴り倒していただろう。
「おい、もうとっくに朝だぜ。そろそろ起きろ」
「んん……」
ぼんやりと開かれた美しい瞳が、こちらの姿を認識するなり落胆一色になる。
「……まだ元に戻ってないんだね……」
「安心しろ。俺様の研究所が必ず元に戻してやるよ」
「戻れない心配はしていないんだけどね。乾が大丈夫って言ってたから」
「ふんっ、仲がよろしいことだな、青学は」
彼女は極自然な仕草で、頬に未だ残る涙の跡を拭う。その動作を横目で見ながら、跡部は気恥ずかしさと気まずさを感じてあまり面白い気分ではない。さっさと着替えて朝練に行くのが正解だ。
背を向けて朝の身支度を開始する。その生活音に混じって、聞こえたのは小さな呟きだった。
「……私も、跡部くんみたいになれるように、もう一回頑張る」
「あーん?」
「なんでもない。独り言」
そう言って笑う彼女を美しいと思った。美しい顔立ちなのだから当然だと思う反面、それだけではないのは理解している。笑い出したい気分だった。
……なんだよ。勝手に立ち直りやがって。
なにかの気まぐれで手をさしのべたりせずに済んでよかったと、跡部は思う。けれど同時に、少しだけつまらないなとも思った。キャンキャンとよく吠える飼い犬をからかいながら、弱く頼ってくる女を飼ってみるのもいいかもしれないという気持ちが少なからずあったからだ。
「惜しかったな」
「ん? 何か言った?」
「いや、面白い魚を一匹、逃してしまった」
「え、釣りの話?」
そろそろ他のプレイヤーたちも朝練に繰り出し始めるのだろう、廊下に人の気配を感じる。「先に出るぞ」と立ち上がると、彼女は眩しいものを見る眼差しを寄越しながら頷いた。
瞳に宿る色は、向けられ慣れたものだ。
入れ替わって三日もすると、自分も周囲もこの異常に慣れてきたようだ。事件当初は近寄ってこなかった氷帝の選手たちも、今では以前と変わらない様子で話しかけてくる。
入浴時間も終わり、学園内うちの軽いミーティングを終えた今も、岳人がまじまじと見つめてきた。
「跡部さ、ぶっちゃけどんな感じなわけ?」
「ふっ、そんなことを知ってどうするよ。お前も入れ替わってみるか?」
「それは勘弁。なんつーか、ただの興味だよ」
「そうだな、この体はまず体幹を鍛えるところから始めるべきだと思っている。効果はお前らも知っているだろう? 初心者用にトレーニングを組んで実践を開始したところだ」
違うそうじゃない、と岳人は項垂れる。
「男も女も大した違いはねーよ。同じ人間だ」
テーブルを拳で叩いたのは忍足だ。珍しく粗暴な仕草をすると思いきや、表情は真剣だ。
「ちゃうわ、わかってへんな」
「何だ忍足」
「男と女が入れ替わるから生まれるんとちがうんか、ラブロマンスが」
何事かと思ったが通常運転だったか。無視をしてミーティング資料に目を落とすと、その横でまだ持論を力説される。
「体が入れ替わる男女に恋が芽生えるなんて王道中の王道やんな。最後にはこうや、『君の名は』、決まりやろ?」
「はっ。芽生えるかよ恋なんか。芽生えたとしても精々親近感くらいだろ」
思っていることを素直に教えてやると、返事がないどころか周囲から音が消えた。不審に思い顔を上げれば、視線が一身に突き刺さる。
……なんだ?
「……お前に親近感なんて感情あるのかよ⁈」
「それな百パー、一方通行だぞ」
「まあ待ちや自分ら、跡部はその感情大事にしたほうがええわ大人への第一歩やなあ」
「馬鹿馬鹿しい、寝る」
親近感くらいお前らに対してだって持っているとは死んでも言ってやるものか。
あるいは『親しみ』とも表現できるだろうか。樺地の随行を断り、一人部屋へと戻る。廊下の薄暗がりを抜けて部屋の扉を開けると、中では噂のアイツがスマホをいじっていた。顔を上げてにこりと微笑むその顔は、まるで自分の笑顔のようには思えず、寧ろここ数日鏡の中で見慣れた少女の顔に見えてしまう。
「跡部くん、お疲れ様」
「おう」
「明日、クリスマス会開いてくれるように提案してくれたんだってね? コックさんから聞いたよ」
「ああ、合宿最後の夜だしな。俺様の家で毎年開くパーティーには遠く及ばねーが、それなりに楽しめる夜にはするつもりだぜ」
「ふふ。こんな大人数でクリスマス祝うのなんて、小さい頃以来だよ」
笑うコイツはとても嬉しそうだ。その子供のような素直な感情表現は、見ているほうの心まで軽くさせる。
……可愛いところあるじゃねーの。
そういえば、と跡部は思う。昨夜の言葉にはやられた。『なんか跡部くんかっこいい……かもしれない……知らなかった……』と、ぼんやりとまどろみの中で呟かれた、おそらくはコイツの本音。内に秘めたものを全肯定した言葉だった。思わぬ口説き文句の一投に一瞬たじろぎ、形勢を逆転させるために揶揄おうと思った先に眠られてしまったのだ。
……あれはやばかった。
自分がそういう攻撃に弱いという自覚はある。一度でもその弱点をついてきた女を、みすみすこの場で逃してしまうのは惜しい気がした。何よりコイツには『飼い犬』という楽しいオプションもついてくる。
布団の上に胡坐をかいて、にたりと唇をゆがませる。
「お前、この合宿は急な参加だったな」
「うん。うちも周ちゃんの家も留守になっちゃうから、私一人残せないって周ちゃんとそのお姉さんが……ごめんね、私が参加したばっかりに、こんな厄介ごとに巻き込んじゃって」
「それは乾が言うべき台詞だろう。お前が居てもいなくても、俺が巻き込まれていた可能性はいくらでもある」
「……ありがとう。跡部くん、優しいね」
謝罪をさせたいわけではない。スムーズに進まない運びに小さく舌打ちをすると、目ざとくそれを咎められた。
「ちょと、私の顔で舌打ちとかしないでください」
「存外似合っているかもしれねーぜ」
「似合ってないもん!」
「だといいな。寝るぞバーカ」
……日が悪いな。やめだ、らしくねえ。
自分の顔に口説かれて靡く人間など居ないだろう。すぐにバカらしくなって布団の中にもぐりこむ。
「『バカ』って……! もう、電気消すよ跡部くん」
「ああ、消せ」
「おやすみなさい」
部屋から灯りが消える。消灯後の雑談は今夜は無い。合宿も五日目となると流石に疲れてくる。
その夜も跡部は夢を見た。
夢の中で、『跡部景吾』が楽しそうに笑っている。
……笑っているのは俺か? それともアイツか? ……どっちらでも嬉しいことには変わりないか。
久しぶりに、幸福な夢見だった。
◇
「お前ら! 存分に盛上がりな! メリークリスマス!」
跡部の乾杯の音頭に、各々がシャンメリーのグラスを上げた。食堂のテーブルを中央に集め、出来た大きな場所には豪華な料理が所狭しと並んでいる。
合宿も残すところあと一泊となった。明日は朝食をとり帰るだけ。誰とは言わないけれど、恋人の居る子は一刻も早く帰りたいみたいだけれど、今は合宿中だ。一方桜乃や朋香は、越前と一緒にイブのパーティーを過ごせてとても嬉しそうだ。
……そしてそれは私も同じなのでした……未だに戻れてないけどね!
十人十色の思いを乗せて、合宿所でのクリスマス立食パーティーは始まった。
「姉貴、食ってるか?」
「うん。食べてるよ」
大石や河村と話をしながら食事をとっていると、裕太が皿を片手に近づいてきた。裕太の好物を山盛りにしたその皿を、手渡してくれる。
……裕太らしいチョイスと盛り付けだなぁ。
皿を笑顔で受け取り、喧騒の輪から二人外れる。裕太が何か話したそうな顔をしているし、言いたいだろうことはなんとなくわかった。
壁際に用意した可愛い木の椅子に、並んで座った。
「何の話? 謝りたいのなら別に良いよ言わなくて」
「先に言うなよ! いや、謝らせてくれよ。ごめんな、きついこと言っちまって」
申し訳なさそうに頭を掻く裕太を、怒る気になどとてもなれない。むしろ私の方が悪かったのだ、裕太が迷惑がるのも当然だと今は素直に思う。
「その辺りの薔薇では農薬が使われているからな、あれは薔薇風呂専用に育てているものだ」
「確かにすごく綺麗だったしなんだかほわほわした気持ちになれたけど」
「その感覚は正しいな。香り、見た目、成分の多方面から、心身をリラックスさせるしホルモンバランスや内臓の状態を整える……それが俺様の薔薇風呂だ」
……ホルモンバランスとか内臓を気にかけてるの、同い年なのに……。
体からほかほかと湯気を漂わせて、跡部と並んで薄暗い廊下を仲良く歩く。一緒に風呂に入ると同性でも距離が縮まる気がするけれど、奇怪な性転換をしている同志も例外ではなかったみたいだ。
跡部のつるつる肌を褒めたところ、つるつるの秘訣を教えてくれた。
……自分の好きなことに饒舌になるところ、意外と可愛いな。
敵対校ということもあって、キツくて厭味なイメージしかなかったけれど、一度話してみるとすごく話しやすい。こちらの話も聞いてくれるし、跡部の方から面白い話も沢山してくれる。やっぱり有名人は、人を惹きつける魅力を持っているのだろうか。
「跡部くんの話って面白いね」
「なんだそれは、別に普通だろ。褒めているつもりか? たまたまお前と話があっただけじゃねーの。俺だって話しづらい人間くらい居るぜ」
「……」
……ちょっと今のは、びっくりしたかも。
何気ない顔でさらりと言うのが、またカッコいい。思わず頬が緩みそうになるのは、暗闇で気づかれなければいいと思う。
こんな深刻な状況にいるはずなのに、こんなに短い時間で跡部景吾に惹かれている。入れ替わることがなかったら絶対に見つけられなかったであろう意外な一面が、いちいち刺さるのだ。跡部のことを一つ知るたびに、もっともっと知りたくなる。
はしゃいで跡部と会話をする傍ら、周助の元カノの顔が脳裏に浮かんで気持ちが少し翳る。
風呂上りの水分補給にと二人で向かった先は、談話室にある自販機だ。近づくにつれ、ぼんやりとした灯りと喧騒が届く。その喧騒の中に周助の苛立ちを含んだ声を見つけて、またぎくりとした。
……周助、すごく苛々してるなぁ。
合宿が始まる前から不機嫌そうだったけれど、今日の入れ替わり事件があってからというもの悪さマックスだ。
隣を歩く跡部がクツリと笑う。
「番犬は随分苛立っているようだな」
「そういう言い方したんでしょ本人にも。やめてよね」
「あーん? 少しからかっただけだろ。あの程度で腹を立てているようじゃ、人間の底が知れてるな」
「……」
違う。周助の機嫌が悪いのは、跡部に揶揄われたからじゃなくて、彼女を盗られてしまったせいだ。
……あ、まだ盗られたって決まったわけじゃないか。
跡部とは少しは話せる程度の仲になった。時間のあるときにでも、あの子ことを尋ねてみることは出来るだろうか。質問の仕方が大事だと思う。そんなことを考えていると、談話室の中に居る人が誰だか見えて来た。青学と氷帝の面々だ。
私たちを見つけた彼らは、どこか気まずそうに目を逸らした。跡部が挑発モードを崩さないからひやひやする。
「何だお前ら。こんなところに集まって内緒話か」
その態度に不満そうな顔になったのは青学の面々で、氷帝の面々は慣れているか忍足がのんびりと口を開いた。
「今日から跡部らがどこで寝泊りするかっちゅー話や」
「別棟の個室は、まだ内装工事中だからな。空いている部屋はあったろう、樺地」
8畳の部屋が一つ空いています、と樺地は教えてくれた。だったらそこに、私たちのどちらかが行けばいい。ここは跡部グループの施設だし、周助の厚意で連れて来てもらっている私が遠慮すべきだろう。
「ねえ朋香ちゃん、桜乃ちゃん。私と同じ部屋じゃ駄目? 外見は跡部くんでも、中身は私だよ? そうしたら跡部くんに空き部屋を使ってもらえれば……」
朋香と桜乃は困ったように顔を見合わせた。
……わかるよ気持ちは! すっごく!
外見がよりによってあの、跡部景吾なのだ。イケメンで、怖くて意地悪なイメージがある他校の三年生。一年生の女の子二人の気が引けるのはすごーくわかる。私が逆の立場だったら嫌だ絶対。
……実際の跡部くんは、イケメンだし怖くて意地悪だけど優しいところあるし面白いとこあるけど。
とうの跡部は、桜乃ちゃんたちの反応を見て面倒くさそうに片手を振った。
「ならば俺が氷帝の部屋に残る。元部長としてお前らを管理する責任があるしな。空き部屋はお前が使え」
提案を即座に却下したのは周助だ。
「客観的に、他校の男子生徒と一緒にこの子の身体を寝泊まりさせることは出来ないよ」
「はあ。だったら結論は一つだな」
跡部が指をパチンと鳴らすと、樺地がグラスを取り出し薄紅色の飲み物を注いだ。
「要は風呂と同じだろう? この俺様とコイツが同じ部屋ならなんの問題もないわけだ」
……ぐ……それもそうか。
氷帝部屋、お手伝い女の子チーム部屋のどちらからもやっかい払いされた二人を、同じ部屋に押し込んでしまえば全て丸く収まる。
……跡部くんと二人きりで寝るのもそれはそれで緊張するかもしれないけど……。
でも相手は自分の体なのだ。思うほど『他人』という気はしない。つい先日までは苦手に感じるほどの他人だったのに、今は跡部を非常に近くに感じる。
だったら女の子部屋に置いてある、荷物をまとめた方がいいかな、と意識をそちらにやると、考えを中断させるかのように両肩にパンと手を乗せられた。周助だ。
「いや、空き部屋に泊まるのは跡部だけでいいよ。ね、君は僕ら青学の部屋で寝なよ」
「周助?」
「うちの面子なら慣れているだろう?」
「でも……」
青学の選手部屋に泊まっているのは九人。そこにプラス一人となると、完全に寿司詰め状態だ。
「でも周ちゃん。私まで青学部屋にお世話になると、定員オーバーじゃない?」
「それなら僕が跡部と一緒に空き部屋に泊まるよ。これでプラマイゼロ。ね?」
「……うん、周がそれでいいなら……」
本音を言うと、青学メンバーと寝泊りするより、自分の体を使っている跡部と寝泊りするほうが気が楽な気はする。けれど周助が折角気を遣ってくれたのだ。元カノのことで色々あったというのに、その親切を無碍にするのは申し訳ないし、青学メンバーも「そうすればー」と言ってくれている。
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
「いや? 駄目だな」
今度は跡部が意を唱えた。全然纏まる気配が無いのだけれど、今度は何が問題なのか。
「それだとこの体が危険だろう?」
「……どういう意味かな」
「お前と同室では、コイツの体が危険だと言ってるんだ。普段なら不二周助が誰と夜をともにしようがどうでもいいが、今この体は俺様のもの。襲われでもしたら抵抗出来ないことは、コイツの体力のなさで実感済みだ」
……ひぇっ⁈ 跡部くんまだ周助を揶揄うつもりなの⁈ やめてやめてやめて今周助ガチで真剣に話してるのに!
いつもは穏やかに凪いでいる瞳が剣をあらわにして跡部を睨むから、本当に怖い。
「下世話な物言いはやめてもらえるかな。この子とは友だちなんだ。小さい頃からずっと一緒に居るんだよ、そんな間違いは起こりえない」
自分を獣扱いされたらそれは怒るだろう。しかも私相手に、だ。僕だってそういう対象は選ぶ、とでも思っているに違いない。
周囲に沈黙が落ちた。
そんな中で、跡部は「ふ」っと小さく笑いを漏らす。「周ちゃんはさ」と、そう続けた。私の口調を真似しているのだと、三秒かかって気がついた。
「周ちゃんは私の何?」
「……跡部? この子の真似のつもりかい。あんまりふざけないでもらいたいな」
「ねえ、周ちゃんは私の何? ただの友だちなんでしょう? それにしては干渉が過ぎない?あんまり馴れ馴れしくしないで、迷惑だよ」
「……」
……跡部くん……。
どこかで聞いたことがある台詞は、昨晩裕太に言われたことそのものだ。同じことを思ったのだろう裕太とばっちり目が合った。もちろん、お互い気まずくて瞬時に目を逸らしてしまう。あのやりとりを、跡部はどこかで聞いていたのだろうか。
周助は、とても傷ついた顔をしていた。裕太とのことに気を取られていて、気付くのが遅れてしまった。
……ダメ!
「跡部くん! 悪ふざけしないで!」
「お前だって俺様との方が気が楽だろう?」
「……」
「この感情は当事者じゃなけりゃわからねーよ。部外者が過剰に首をつっこむな。隔離されるのは俺とコイツで決定だ。わかったらお前らは布団と荷物を部屋へ運べ」
「……ごめんね周ちゃん。気を遣ってくれてありがとう」
「気にしないで」と周助は微笑む。でもちょっと悲しそうなのがありありとわかって、自分がその原因になってしまったことがすごくやるせない。
二枚並んで敷かれた布団の上で、跡部は腹筋をしている。なんだか苦しそうにしているけれど、数字をドイツ語で数えるだけの余裕はあるみたいだ。それともドイツ語は基本仕様なんだろうか。
……どうせすぐに元に戻れるんだから、私の体なんて鍛えたって仕方が無いのに。
鏡の前で柔らかな髪をとかしながら謎の努力を横目で見ていると、跡部が苦しそうに布団に倒れた。
「おいお前、この体筋肉がまるで無いぞ。なまりすぎだ。飼い犬とテニスをするべきじゃないか」
「もっと小さい頃にはやってたけど」
周助と裕太と、よく三人でテニスをしていた。テニスクラブなどではなく、近所の公園のテニスコートで。あの頃はまだ三人にテニスの上手い下手なんてなくて、笑いながらボールを追いかけていただけだった。それが、まず周助が群を抜い才能を発揮し始めて、裕太もその姿を追いかけてどんどん上手くなっていた。
……私はそこまで楽しいと思えなくて、やめちゃったんだよね。
「ふぅん」と別段興味もなさそうに呟いた跡部は、それきり黙ってしまった。
……もしかして今、周助の元カノのことを聞いてみる?
何気ない顔をしてブラシを置いて、空いているほうの布団へと入る。隣ではまだ跡部が私の体の腹筋を鍛えていた。間接照明の温かな光が、眠気を誘ってくる。秒で寝られるとか、跡部くんの体、のび太並み。
「ね、跡部くん。」
「なんだ」
「こういう子、知ってる? 青学の二年生なんだけど」
名前と特徴を思いつく限り挙げてみた。カノジョ、と言われてしまうかなと身構えたけれど、「知らねーな」と素っ気ない言葉が返って来ただけだった。嘘をついているようにも見えない。あの子の一方的な片想いなのだろうか。
「その女が、なんだってんだ」
「んーん、なんでもない。知らないならいいんだ」
「……ああ、サンフロー不動産の令嬢か」
「そう! それ!」
腹筋を続ける跡部の視線が宙をさまよう。大きな会社の社長の娘で、顔が可愛くて上品でおっとりしていて、周助はこういう子を好きになるんだなと、初めて見たときに納得したそんな子だった。
記憶を辿っていたのだろうか、「それなら」と少しぼんやりした口調で続けられた。
「先月のパーティー会場で言葉を交わしたな。それらしいのと」
「その程度の認識なの?」
「どうせ、その女が俺に惚れたとかいう話だろ。当然すぎて話のネタにもならないな」
「……ノーコメントで」
……あんなに可愛い子でも相手にされないのか。跡部くんの周りには芸能人とか外国人美女とかいっぱい居るんだろうな。
とすっと、跡部が布団に横たわった。自信満々の顔で笑っていて、自分がこんな顔できるなんて知らなかった。
「仕方がないことだ。この俺の美貌は万人を魅了する。惑った雌猫をいちいち覚えてなんていられねえよ」
「顔がタイプ、からの好きって、割と普通だと思うんだけど」
「ふっ。お前は今までそんな底が浅い恋愛しかしてこなかったのか」
「……ノーコメント」
私だけじゃない、周りの子だってそうだ。あの先輩イケメンとか、あのこ子アイドルみたいとか、そんなことを言ってきゃあきゃあ騒ぐのが楽しいのに。
何も言えなくなった私を見て跡部はまた笑った。同い年だというのにこの余裕、どれだけ恋愛をしてどれだけ百戦錬磨なんだこの人。
「それはつまり、今の『跡部景吾』を好きだと言っているようなものだろ」
「今の……今私が使っている、この体をってこと?」
「ああ。お前は今誰が見ても『跡部景吾』そのものだ。だが中身は別人。そんな状態を好きになられても、本当の俺を好きになったとは言えない。中身の無い空の入れ物に惚れたのと同じだ」
「……」
「それがどれ程底が浅いか、わかるだろう?」
……妙に説得力があるなぁ。
入れ替わり状態になっているからこそ実感が湧いてしまう。押し黙ってしまった私を小さく笑って、跡部は「電気消すぞ」とリモコンに手を伸ばした。
跡部の恋愛観が思いの外真面目だったことに驚いた。あれだけモテるのだから女性関係も相当乱れているとばかり思っていたのに、群がる女性は雌猫扱いらしい。
……じゃあ、今のこの状態で跡部くんに惹かれた私は、雌猫にならないってこと? そんなわけないよね。顔より中身を好きになったからって選んでもらえるわけでもないし、なんの強みにもならないよ。いやいやいや別にまだ好きになったわけじゃないし気になってるだけだし。
葛藤しているうちに部屋は暗くなった。明日の朝には戻っていたらいいのにと思うけれど、乾の予想ではそれも期待薄だろう。
疲れているのに気持ちがざわざわしていて眠気が遠くなってしまった。廊下からはどこの学校だろうか、小さな笑い声が部屋の中へ届く。
「ちっ、うるせーな。ガキじゃあるまい、夜くらい大人しく寝られねーのか」
「跡部くんが大人なんだよ」
「お前らが幼すぎるんだよ」
「……さっきも少しびっくりしちゃった」
「何が」
「跡部くんって意外に真面目なんだね。もっと遊んでる人かと思ってた」
「あーん? 遊びの女と恋人とは別だろう?」
「……遊んでるんじゃん!」
……もう! 感心して損した!
胸の奥に苦い、モヤモヤとしたものが広がっていく。同時に『相手になんてされるわけない』という悲しみに体の内側が支配される。
……私、跡部くんのこと好きなのかな。
「かっこいい」以上の感情を持っていることは確かだけれど、こんな短期間で、しかもこんな非常事態に恋になんて落ちるものだろうか。こっちはやるせなくてうじうじしてるのに、跡部は朗らかに笑っている。
「クッ、俺様に遊んで欲しけりゃ、もっといい女になって出直してくるんだな」
「ばっかじゃないの? 自意識過剰すぎ」
「そうか、そりゃ悪かったな」
ふふっと笑う声に、少しだけ幸せな気持ちになる。あの氷点下な視線で睨まれるよりも、嘲笑でもいいから笑ってくれていたほうがずっといい。
……跡部くんの声で、今の笑い声聞きたかったな。
こんな状況に陥っていなければ今みたいな距離感にはならなかっただろうけど、やはり乾薬汁試作品バージョンアルファを恨まずにはいられない。
横になっているうちにだんだん瞼が重くなる。目を閉じると今日一日の出来事が順に浮かんでくる。周助の悲しそうな顔。裕太の心配そうな顔。跡部が作った、見たことのない自分の笑顔。そういえば、さっき跡部が私に成りきったときのあの台詞はなんだったのだろう。
「……跡部くん」
「あぁ?」
「この間の夜の、裕太と私の喧嘩。聞いてたの?」
「いや……」
一度言葉を濁したように見えた跡部だけれど、静かにぽつりと呟いた。
「だた、夢で見ただけだ」
「え?」
「もう寝るぞ。睡眠は明日の糧だ」
「……うん。おやすみなさい……」
……夢? 夢って、なに?
気になるけれどそれきり跡部は何も言わない。聞こえ始めた寝息につられるように、睡魔が降りてくる。
◇
はあっ はあっ はあっ
真っ暗な空間で、私は懸命に走っていた。「日本人のくせに」「跡部グループの総裁に相応しいのか」「甘えたことを」「努力が足りないな」。振ってくる冷たい声。全てが鬱陶しい。気付けば、緑のコートの上をただひたすら黄色のボールを追って走っている。楽しい。最高の高みを目指したい。そのボールが、急に言うことをきかなくなった。どれだけ回転をかけようが、どれだけコーナーを狙おうが、ボールは相手の足元へと集まってしまう。悔しい、倒したい、負けたくない。相手の輪郭がしだいにはっきりしてくる。冷静な瞳でこちらにボールを打ち込んでくる相手は
……手塚……?
どうしても手塚が抜けない。ロブも上がってこない。得意技が出せない。自分の息遣いが心底五月蝿いと思った。跡部景吾ともあろうものが、無様に、息を、乱すな。必死に打ち返していると、相手の輪郭がぼやけ始めどんどん小さくなる。小柄な体格に収まった影は、次第にその正体を見せ始める。
……あれは、越前くん。
あの小さな体のどこにこんな才能が眠っているのかと思う。圧倒的な強さ。面白いと思う。でも同時に悔しくて悔しくて仕方が無い。悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、負けてたまるか、なめるなよ、忘れるな、悔しい、悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい。
次こそは、必ず。
次第に周囲がどんどん明るくなり、私は布団の中、はっと目を開けた。
……私、今の……夢……?
頬に違和感を感じ指でなぞると、一筋の水の流れた痕がついていた。今も胸に残る悔しさの残像は、誰のものだろう。この苦しみは、誰の。
……だれの……。
しばらくぼんやりと夢の余韻に浸っていたけれど、すぐに我に変える。慌てて自分の胸を触ってみる。柔らかな脂肪でなく、無情にも硬い胸板がついてるだけだった。現実って厳しい。
……やっぱり、昨日の今日で元に戻るわけないかぁ。
枕元のスマホを傾ける。もうすぐ朝の五時になる。そろそろ起きなければお手伝い作業に間に合わない。冬の夜はまだ明けておらず、部屋の中は暗い。隣の布団に居る跡部も背伸びをしていた。乾燥で少し乾いた喉を鳴らすと、「んんんっ」と歌うような美声がした。四日目のテニス合宿の始まりだ。
「ん……五時、か」
「おはよう跡部くん。起こしちゃったかな」
「いや、ランニングの時間だ。樺地を呼ぶが構わねえな?」
「樺地くんも早起きだね」
「当たり前だろ」
多分ドイツ語の格言で諭されたけれどよくわからなかった。跡部は筋肉痛の身体を痛がっている。すみません運動不足で。
「これも何かの縁だ。お前の代わりにこの俺様がお前の身体を鍛えてやるぜ。感謝しな」
「しない」
「しかし女ってのはなかなか不便だな。テニスでも筋トレでも胸が揺れて邪魔だ」
「それを言うなら男の子だって」
「あーん?」
「……いえ、なんでもないです。私先にいくね」
「ああ、せめてサポートに励め。少しはその体動かしとけよ、元に戻ったときに衰えていたらただじゃおかねーぞ」
すごまれなけれど、今まで跡部がこなしていた運動量を今の私がこなせるはずもない。返事をせずににっこり笑って部屋を出ると、ちょうど前を通りかかった乾と目が合った。
「おはよう乾。早いね」
「その様子じゃまだ君だな、データ通りだ。おはよう。折角設備のよいところで練習できるチャンスだからね」
「ふーん……本当、頑張るよね」
つい先日までなら、『テニスバカ』としか思えなかった。不二兄弟と距離が出来てしまった原因がテニスだと拗ねていたから。でも今は違う。
並んで歩きながら、乾を見上げる。
「乾、私夢を見たの。手塚や越前くんと試合をする夢」
「ほう?」
「私あの二人とテニスなんてしたことがないのに。でも感覚がすごくリアルでさ」
「ふむ」
「私、氷帝のジャージ着てた」
「面白い。それは体に残った跡部の記憶かもしれない」
一昨日の晩どこまでも続くコートを走っていたのも、昨晩手塚らと試合をしていたのも、跡部だ。
「いや、跡部の『想い』と言ったほうがいいかもしれないな。記憶が宿るのは脳。無論感情も能でコントロールされているが、人の想いは記憶より簡単なものじゃないのかもしれない……なんてな。全くの俺の私見だが」
「また朝食で」と言い、乾とは玄関前で別れた。
……跡部くんの、想い……。
誰かの感情をダイレクトに体感するなんて、当たり前だけど生まれて初めての経験だった。
圧倒された。
今思い返すだけど、胸がいっぱいになってしまいそうだ。私はこれまであんなに悔しい思いをしたことはない。何かに没頭して血の滲む努力をしたこともない。
……格が違う、って本人が言うだけのことがあるよ……。
近くに感じた瞬間に、自分とは遠く離れたところにいる人間なんだと実感した。理不尽や挫折に負けない心の強さも、テニスに対する真摯な思いも、全部に惹かれて眩しいくらいだ。
……こんな人好きになっても、辛いだけだよね。
好きになっちゃダメだ。辛いだけ。
お手伝いの作業準備にとりかかると、すぐに一年生たちの元気な挨拶が部屋に響いた。
◇
昨晩と同じく一緒にお風呂に入った後は、同じく水分補給のために談話室へ向かう。やっぱり跡部と過ごす時間は楽しい。教養があるから話題の種類も豊富で、つっこみは的確だし聞き上手だからつい色んなことを喋ってしまう。
……やばい、楽しい。
こんなにおしゃべり上手な男の子は、周助以外に知らない。一言一言、言葉を交わすたびに惹かれていく自分が情けない。引き寄せられる気持ちを止めることが出来ず、苦しい。
……駄目。あんまり一緒にいないほうがいい。
体が元に戻れば、もう全く接点のない人なのだ。今好きになってしまっても、これからの生活が辛いだけ。
そう思ううちに足は重くなる。談話室へと向かう足をぴたりと止めた。少し前で跡部が怪訝そうな顔をして、付いてくるのが当然という態度に足が勝手に進みそうになってしまう。
「どうした」
「やらなきゃいけないことあったんだった。跡部くん、先に行ってて」
「そうか」
私の片足を満たす未練の重さの欠片も無いのが明らかにわかるほどあっさりと跡部は頷いて、颯爽と歩いて行ってしまった。中身が跡部景吾だというだけで、自分の後ろ姿は驚くほど気品に溢れていた。
……これでいいんだよね。
もう部屋に戻って寝てしまおう。一緒に居たらきっと好きになってしまう。君子危うきに近寄らずだ。
部屋に戻って、荷物からペットボトルを取り出して喉を潤した。最初から談話室になんて行く必要はなかったのだ。押し入れを開けて布団を敷く。跡部との距離を昨夜よりも心持ち多くとっておいた。
横になると、後悔が押し寄せてきて胸がいっぱいになる。
……今からでも談話室に……いやいやいや!ダメでしょ!
気を紛らわそうとスマホを触る。安定の女友だちから、イブの予定についてのメッセージが入っていた。どれも色気のかけらもないものだ。イブも合宿だよ、と返信をしスマホの顔面を布団に押し付けた。天井を仰ぐ。合宿も残すところあと三日。それが終われば冬休み、年末と正月だ。両親も帰ってくるし、またいつもの生活に戻るだけ。そこに跡部は居ない。
……別にいいけどさ。
音が鳴ったスマホに、マナーモードにし損ねていたことき気がついて再び画面を見る。ふと気が付いた。暗転した画面に映る、綺麗すぎる顔。
……こういうことしないための監視なのに。跡部くん私から目を離しちゃダメだよ。
私はこんなにわるいやつなのに。
布団に横たわっている姿は流石にまずい。起き上がって髪型を整えて、自撮りモードで画面をタップした。
データフォルダに現われた『跡部景吾』は、穏やかに、優しげに、微笑んでいる。
……はあ。むなしい……。私、しょーもない。
意味がない。本物の跡部がこんなに優しく笑いかけてくれるわけがないのだから。削除をタップして、ゴミ箱からも完全に消去する。悪いことを無かったことにしても、罪悪感も虚しさも消えてはくれなかった。スマホを枕元に放り出し頭から布団を被ると、部屋の扉が空く音がした。
「なんだ、もうお休みか」
「ん」
「飼い犬の兄貴の方が探してたぜ。談話室で」
「明日の朝聞くから大丈夫」
スマホに連絡も来ていないからどうせ大した用事じゃない。跡部が溜息をつく音が、布団の中まで聞こえた。
「なにむくれてんだ」
「そんなことないよ」
「誰に向かって嘘をついている。ほらよ、これやるからいい子で寝るんだな」
「……」
枕もとの畳に、何かがコツンと置かれた音がした。布団の中から頭を出すと、談話室の自販機で売っているペットボトルのお水だとわかる。
……買って来てくれたのかな。
自分で飲むためだったのかもしれないし、要らなくなっただけかもしれない。
……嬉しい。
構ってもらえることが嬉しい。「ありがとう」と小さな声で呟くと、跡部は「おう」と機嫌良さそうに笑った。
「もう寝るのなら消すぞ」
「うん、お願いします」
暗くなった部屋に、二人無言で横たわる。さっきまでのモヤモヤが嘘みたいに晴れて、馬鹿みたい満ち足りた気分だ。段々眠気が落ちてきたけれど、ふと話しておきたくなった。
「跡部くん、私夢を見たよ」
「あぁ?」
もっと跡部と話しをしたい。跡部のことを知りたいし、自分のことを知ってもらいたい。もっとも跡部からしたら迷惑な話なのかもしれない。聞いているのかいないのかわからないような生返事が返ってきた。
……それでもいいや……ねむ……。
「……うん、夢。跡部くんが、先が見えないほど長いテニスコートをランニングしてる夢。それから手塚や越前くんと試合してる夢」
「ほう?」
「心臓つぶれちゃいそうなほど苦しいのに、諦めないんだね、跡部くんは」
「当たり前だろ」
「悔しくて死にそうなのに、それでも走るのやめないんだね」
「当然だ」
生返事のおかげで、睡魔はゆるゆると浸透してくる。うつらうつらしながら、感じたことを伝えたいと思う。
「テニスへの気持ち、すごい真摯なんだね」
「ああ」
「周や裕太もそうだけど……」
「だろうな」
「なんか跡部くんかっこいい……かもしれない」
「……」
「知らなかった……」
「……」
そうだ。こんなに『かっこいい』人だとは知らなかった。見た目は勿論かっこいいけれど、それ以上に中身までかっこいい人だったなんて知らなかった。
……好き、かもしれない。
体がふわりと軽くなって、またあのテニスコートが近づいてくるような気がした。
◇
「ふっ、告白だったらお断りだぜ?」
跡部は一人、布団の中で笑った。紡がれる声が高い女の声だというのにももう慣れたことだ。
世界中から絶え間なく届くメッセージに目を通すのはやめて、スマホの電源を切った。クリスマス前のこの時期は、充電の減りが早い。
「おい、聞いてんのか?」
「……」
暗い部屋を満たすのは健やかな寝息だけ。からかおうとした相手はとうに夢の中だ。
……俺も寝るか。
明日朝起きたら元の体に戻っていればいいと願いながら、跡部もゆっくりと目を閉じた。
睡魔がやってくるのと同時に、夢の帳が見えてきた。
跡部は走っていた。走り慣れたテニスコートではない。どこにでもある、しかし跡部にとっては全く縁のない、日本の住宅街の中にある小さな公園だ。どこまでも広がる青空と輝く太陽の下、跡部は必死になって走っていた。
「待って! 待ってよ!」
口から出た音は、幼い女児のそれ。前を走るのは小さな二人の男児。兄弟のように思っている、大好きで大切な幼馴染だ。二人は跡部を振り返ることなく、どんどん走っていく。
「周ちゃーん! 裕太ー! 待って……待ってよぉ……」
……置いていかれる……。
伸ばした腕は届かない。どれだけ必死に走っても、追いつかない。とうとう二人の姿は見えなくなる。悲しい、悲しい、寂しい、置いていかないで、頑張るから、置いていかないで。
場面は突然変わり、目の前に大きくなった裕太が現れる。ここはそう、合宿所の廊下だ。
「……馴れ馴れしくしないで欲しい」
……なんで。私のこと、嫌いになっちゃったの。
「姉貴が嫌いだとか、そういうわけじゃないんだ!」
……それは、本音?
「だから、迷惑なんだ。こういうの」
……置いていかれる。
その瞬間、はっと目を開けた。見えたのは合宿所の天井。目頭が痛いのは涙を流しているからだ。
……夢か。
体が入れ替わってから見るようになったこの夢は、おそらくこの体に残る記憶だろうと、跡部は思う。
……いや……記憶というより、感情か。
この夢を見たということは、今自分が置かれる状況はわかっている。布団の中で頬に手を当てる。自分のものではない、柔らかな女性の頬だ。
……一体いつになったら戻るんだよ。
枕元にある携帯で時間を確かめると、午前五時より少し前だった。夢見が悪くて目が覚めたのはわかる。普段跡部の起床時間は午前五時だが、その生活習慣が身についているのは跡部景吾の『体』の方だ。今のこの体のままでは、眠くて仕方が無い。
……世の中色々な人間がいたものだ。
この事態は非常に迷惑極まりない話だが、跡部には必ず元に戻れるという確信がある。それはもちろん乾のデータを信用しているのではなく、跡部家の研究所を信頼しているのだ。
……面白い。
素直に面白いと思う。違う性別の体がどんなものなのかということがわかった。自分が物理的に感じてきたものとほとんど同じ感覚を、他人も共有しているということがわかった。
……それに他人の記憶、か。
おそらくはこの体が覚えているのであろう、感情。まさか他人の感情を味わうことが出来る日が来るとは思っていなかった。不二兄弟に置いていかれるという不安。努力しても二人に追いつけない苛立ち。どれ程好きでも、本当の兄弟になどなれるはずがない悲しみ。
……寂しい女。つまらない女。
薄暗がりの中、隣で眠る顔を見下ろす。あの夢で感じた焦りや苛立ちは、今も胸の奥に残っている。
……あれは俺の感じていたものでもある、のか?
子どもの頃に受けた傷。二度も青学に負けたという事実。部長である自分の敗北が、チームの敗北を導いてしまったという事実。追いかける苦しみと、追いついてこられる焦り。どこか共感するところがあったから、あの夢を見るのではないかと思わなくもない。
……だが、俺様はそれに押しつぶされるような器量じゃねえよ。
自分はそれに負けないだけの強さを持っている。しかし隣の彼女はどうか。
手を差し伸べてやりたいと、跡部はぼんやりと思った。本来なら決して共有できるはずのない、他人の辛さ。それを知ってしまったら、同情したくもなる。自分ならばこの女の寂しさを、充分埋めてやることができるという自信がある。
隣で眠る体がもぞりと動いた。時計は午前五時。体内時計が起床を告げる時間だろう。
「ん……」
呟いた声に、微笑む。
……寝起きの俺様も、なかなか艶やかじゃねーの。
もぞもぞと動いていた体が、ふと動きを止める。鏡で見慣れた美しい泣きぼくろの隣に、美しい涙が一筋流れた。
……お前も昨夜の『悔しい』夢を見ているのか。
他人の悔しさを実感するのは面白いが、自分の悔しさを他人に知られてしまったのかと思うと腹が立つ。
……これ以上人の心を覗かれてたまるか。
涙を流したままピクリとも動かなくなった体を、優しく揺らす。相手が自分の体でなかったなら蹴り倒していただろう。
「おい、もうとっくに朝だぜ。そろそろ起きろ」
「んん……」
ぼんやりと開かれた美しい瞳が、こちらの姿を認識するなり落胆一色になる。
「……まだ元に戻ってないんだね……」
「安心しろ。俺様の研究所が必ず元に戻してやるよ」
「戻れない心配はしていないんだけどね。乾が大丈夫って言ってたから」
「ふんっ、仲がよろしいことだな、青学は」
彼女は極自然な仕草で、頬に未だ残る涙の跡を拭う。その動作を横目で見ながら、跡部は気恥ずかしさと気まずさを感じてあまり面白い気分ではない。さっさと着替えて朝練に行くのが正解だ。
背を向けて朝の身支度を開始する。その生活音に混じって、聞こえたのは小さな呟きだった。
「……私も、跡部くんみたいになれるように、もう一回頑張る」
「あーん?」
「なんでもない。独り言」
そう言って笑う彼女を美しいと思った。美しい顔立ちなのだから当然だと思う反面、それだけではないのは理解している。笑い出したい気分だった。
……なんだよ。勝手に立ち直りやがって。
なにかの気まぐれで手をさしのべたりせずに済んでよかったと、跡部は思う。けれど同時に、少しだけつまらないなとも思った。キャンキャンとよく吠える飼い犬をからかいながら、弱く頼ってくる女を飼ってみるのもいいかもしれないという気持ちが少なからずあったからだ。
「惜しかったな」
「ん? 何か言った?」
「いや、面白い魚を一匹、逃してしまった」
「え、釣りの話?」
そろそろ他のプレイヤーたちも朝練に繰り出し始めるのだろう、廊下に人の気配を感じる。「先に出るぞ」と立ち上がると、彼女は眩しいものを見る眼差しを寄越しながら頷いた。
瞳に宿る色は、向けられ慣れたものだ。
入れ替わって三日もすると、自分も周囲もこの異常に慣れてきたようだ。事件当初は近寄ってこなかった氷帝の選手たちも、今では以前と変わらない様子で話しかけてくる。
入浴時間も終わり、学園内うちの軽いミーティングを終えた今も、岳人がまじまじと見つめてきた。
「跡部さ、ぶっちゃけどんな感じなわけ?」
「ふっ、そんなことを知ってどうするよ。お前も入れ替わってみるか?」
「それは勘弁。なんつーか、ただの興味だよ」
「そうだな、この体はまず体幹を鍛えるところから始めるべきだと思っている。効果はお前らも知っているだろう? 初心者用にトレーニングを組んで実践を開始したところだ」
違うそうじゃない、と岳人は項垂れる。
「男も女も大した違いはねーよ。同じ人間だ」
テーブルを拳で叩いたのは忍足だ。珍しく粗暴な仕草をすると思いきや、表情は真剣だ。
「ちゃうわ、わかってへんな」
「何だ忍足」
「男と女が入れ替わるから生まれるんとちがうんか、ラブロマンスが」
何事かと思ったが通常運転だったか。無視をしてミーティング資料に目を落とすと、その横でまだ持論を力説される。
「体が入れ替わる男女に恋が芽生えるなんて王道中の王道やんな。最後にはこうや、『君の名は』、決まりやろ?」
「はっ。芽生えるかよ恋なんか。芽生えたとしても精々親近感くらいだろ」
思っていることを素直に教えてやると、返事がないどころか周囲から音が消えた。不審に思い顔を上げれば、視線が一身に突き刺さる。
……なんだ?
「……お前に親近感なんて感情あるのかよ⁈」
「それな百パー、一方通行だぞ」
「まあ待ちや自分ら、跡部はその感情大事にしたほうがええわ大人への第一歩やなあ」
「馬鹿馬鹿しい、寝る」
親近感くらいお前らに対してだって持っているとは死んでも言ってやるものか。
あるいは『親しみ』とも表現できるだろうか。樺地の随行を断り、一人部屋へと戻る。廊下の薄暗がりを抜けて部屋の扉を開けると、中では噂のアイツがスマホをいじっていた。顔を上げてにこりと微笑むその顔は、まるで自分の笑顔のようには思えず、寧ろここ数日鏡の中で見慣れた少女の顔に見えてしまう。
「跡部くん、お疲れ様」
「おう」
「明日、クリスマス会開いてくれるように提案してくれたんだってね? コックさんから聞いたよ」
「ああ、合宿最後の夜だしな。俺様の家で毎年開くパーティーには遠く及ばねーが、それなりに楽しめる夜にはするつもりだぜ」
「ふふ。こんな大人数でクリスマス祝うのなんて、小さい頃以来だよ」
笑うコイツはとても嬉しそうだ。その子供のような素直な感情表現は、見ているほうの心まで軽くさせる。
……可愛いところあるじゃねーの。
そういえば、と跡部は思う。昨夜の言葉にはやられた。『なんか跡部くんかっこいい……かもしれない……知らなかった……』と、ぼんやりとまどろみの中で呟かれた、おそらくはコイツの本音。内に秘めたものを全肯定した言葉だった。思わぬ口説き文句の一投に一瞬たじろぎ、形勢を逆転させるために揶揄おうと思った先に眠られてしまったのだ。
……あれはやばかった。
自分がそういう攻撃に弱いという自覚はある。一度でもその弱点をついてきた女を、みすみすこの場で逃してしまうのは惜しい気がした。何よりコイツには『飼い犬』という楽しいオプションもついてくる。
布団の上に胡坐をかいて、にたりと唇をゆがませる。
「お前、この合宿は急な参加だったな」
「うん。うちも周ちゃんの家も留守になっちゃうから、私一人残せないって周ちゃんとそのお姉さんが……ごめんね、私が参加したばっかりに、こんな厄介ごとに巻き込んじゃって」
「それは乾が言うべき台詞だろう。お前が居てもいなくても、俺が巻き込まれていた可能性はいくらでもある」
「……ありがとう。跡部くん、優しいね」
謝罪をさせたいわけではない。スムーズに進まない運びに小さく舌打ちをすると、目ざとくそれを咎められた。
「ちょと、私の顔で舌打ちとかしないでください」
「存外似合っているかもしれねーぜ」
「似合ってないもん!」
「だといいな。寝るぞバーカ」
……日が悪いな。やめだ、らしくねえ。
自分の顔に口説かれて靡く人間など居ないだろう。すぐにバカらしくなって布団の中にもぐりこむ。
「『バカ』って……! もう、電気消すよ跡部くん」
「ああ、消せ」
「おやすみなさい」
部屋から灯りが消える。消灯後の雑談は今夜は無い。合宿も五日目となると流石に疲れてくる。
その夜も跡部は夢を見た。
夢の中で、『跡部景吾』が楽しそうに笑っている。
……笑っているのは俺か? それともアイツか? ……どっちらでも嬉しいことには変わりないか。
久しぶりに、幸福な夢見だった。
◇
「お前ら! 存分に盛上がりな! メリークリスマス!」
跡部の乾杯の音頭に、各々がシャンメリーのグラスを上げた。食堂のテーブルを中央に集め、出来た大きな場所には豪華な料理が所狭しと並んでいる。
合宿も残すところあと一泊となった。明日は朝食をとり帰るだけ。誰とは言わないけれど、恋人の居る子は一刻も早く帰りたいみたいだけれど、今は合宿中だ。一方桜乃や朋香は、越前と一緒にイブのパーティーを過ごせてとても嬉しそうだ。
……そしてそれは私も同じなのでした……未だに戻れてないけどね!
十人十色の思いを乗せて、合宿所でのクリスマス立食パーティーは始まった。
「姉貴、食ってるか?」
「うん。食べてるよ」
大石や河村と話をしながら食事をとっていると、裕太が皿を片手に近づいてきた。裕太の好物を山盛りにしたその皿を、手渡してくれる。
……裕太らしいチョイスと盛り付けだなぁ。
皿を笑顔で受け取り、喧騒の輪から二人外れる。裕太が何か話したそうな顔をしているし、言いたいだろうことはなんとなくわかった。
壁際に用意した可愛い木の椅子に、並んで座った。
「何の話? 謝りたいのなら別に良いよ言わなくて」
「先に言うなよ! いや、謝らせてくれよ。ごめんな、きついこと言っちまって」
申し訳なさそうに頭を掻く裕太を、怒る気になどとてもなれない。むしろ私の方が悪かったのだ、裕太が迷惑がるのも当然だと今は素直に思う。