VACANCY
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「あーいいお湯だった!」
「そうだね。広いお風呂最高」
合宿も二日目が終わる。朋香と桜乃と歩きながら、お手伝いメンバーに急に転がりこんだ三年生と、仲良くしてくれてありがたいと改めて思う。
私たち三人が寝る部屋はかなり広めの和室で、寝息すら少し遠い感覚の快適さだ。お風呂を終えその部屋へ帰る途中、桜乃が思いついたように立ち止まった。
「あ、私お茶が切れてるんだった。ちょっと買ってくるね」
「じゃあ私も行くー。先輩は?」
「行くよ、喉渇いちゃった」
一番近い自動販売機があるのは、二階の談話室のすぐ隣だ。階段を登り自販機を目指すと、向こうにぼんやりとした灯りと騒がしい話し声が聞こえてくる。
「きゃっ! お風呂上りのリョーマ様に会えるかしら!」
「と、朋ちゃん……!」
「越前くんの場合お風呂上がりでもそうじゃなくてもかわらないと思うけど……」
思ったことがつい口に出てしまった。「先輩はわかってない!」と朋香に叱られる。
「い・ろ・け! 色気があるんです! お風呂上りには!」
「えー、うん」
「わかる人だけわかればいいんです!」とそっぽをむかれてしまったけれど、談話室の灯りに照らされたお顔は見る間に可愛い笑みになる。
談話室にはいろいろな学校の選手たちが集まっていて、ソファでスマホをいじっていたり集まってゲームをしていたりているようだ。越前のもとへ飛んでいく朋香と、恥ずかしそうに寄って行く桜乃がすごく可愛い。奥の方では周助がこちらに手を振っている。
「ね、こっちでビリヤード混ざらない?」
周りにはキューを持った宍戸と千石。宍戸とは話したことがないけれど、千石はすごく優しい。ちょっと楽しそうだ。
「うん、混ざー……らない、駄目、混ざれない」
足を進ませかけて、ビリヤード台をよく見た瞬間に辞退する。千石は不思議そうだ。
「えー? どうしてー? 一緒にやろうよ、ルールなら俺が教えてあげるよ?」
「……だって、ラッキーポケットがあるもん」
「ふふ」
私の言葉に周助は笑った。悪人だ。
ラッキーポケット。そのブラックホールにボールを入れてしまうと、『お年玉=落とし玉』と称したなんらかの汁を飲まされる羽目になる。悪人の笑みを受けて、宍戸と千石は訝しげだけれど、二人とももっと慌てた方がいいと思う。
「おい、『ラッキーポケット』ってなんだよ」
「不二クン、楽しそうだねえ」
「うん、楽しよ。ゲームを始めようか」
汁に巻き込まれる前に早く部屋へ帰ったほうが絶対いい。改めて自販機へ向かったけれど、今度は大石に呼び止められた。
「それならこっちに混ざらないか?」
「んふっ。暇ならおいでなさい。ちょうど一人抜けたところですから」
「誰が来ようと、この俺様には敵わねーよ」
大石と一緒に卓を囲んでいたのは、観月と跡部だ。まるでマジシャンみたいな手つきで、観月がトランプを切っている。
「何してるの?」
「大富豪だよ。今まで乾が居たんだが、部屋に戻っちゃってさ。大方ラッキーポケットの『お年玉』を取りに行ったんだろうけど」
大石が憐れみの視線をビリヤード台へと向けている。分かる、あの二人が可哀想すぎる。
朋香と桜乃の動向を確認すると、向こうのソファでファンタを片手にするリョーマを囲んで、談笑が始まっていた。まだ時間も遅くないし、跡部も観月も悪い人じゃない。少なくともビリヤード台の隣で笑っている周助よりは。
「混ざる」
「そうこなくっちゃ!」
跡部も昨日ほど、私に悪いイメージを持ってないみたいで、その晩はなごやかムードで幕を閉じた。
はずだった。
「ダメ、無理、負けた!」
「ックソ!俺様としたことが……」
「はい、お前が貧民で」
「跡部くんが大貧民ですか。いいんじゃないですか、そう呼ばれてみるのも。現実ではあり得ませんからね」
勝負はサクサク進んで、大富豪の観月と富豪の大石は楽しそうに笑った。跡部は心底面白くなさそうに、テーブルの上に散らばったトランプを睨みつけている。
「このままで終われるか! もう一回だ!」
「んふっ。言うと思っていましたよ。けれど回を重ねるたび大富豪が有利になることが、このゲームの名称の由来ですよ? ましてこの僕が大富豪だ。逆転は無理かと思われますが」
「ふっ。そんな偉そうな口を叩いていられるのも今のうちだぜ。俺様の美技に不可能は無い!」
「二回戦する? 私きろうか?」
大石くらいなら抜けるかもしれないと内心ちょっとだけ闘志を燃やして、トランプを集め始めたときだった。背後から激しい悪寒と殺気が漂ってくる。
「その前に、これを飲んでもらおうか」
低いバリトンヴォイスは汁魔王のそれ。恐る恐る振り向いた目前には、怪しげなジョッキを持った怪しげな男。
「乾……」
「貧民と大貧民にはコレ。乾薬汁試作品バージョンアルファ」
「なんで貧民も! 普通罰ゲームはビリだけでしょ!」
思わず本気で引いて、椅子がぎぎぎと嫌な音を立てた。逃すものかと言わんばかりに、妙に甘ったるい臭いのジョッキ近づいてくる。
「アルファは二人同時に飲まなければ意味がないんだよ」
「どういう意味?」
「それはひ・み・つ。飲んでからのお楽しみというわけだ」
「ふざけるな。何故俺様がそんなもの。大体『試作品』ってなんだよ。せめて完成品を持って来い」
「跡部、見るに堪えないな。君ともあろうものがまるで負け犬の遠吠えじゃ無いか」
「あーん? 言うじゃねえか」
乾が急に安い挑発をし始めたからびっくりしたけど、跡部は簡単なのかノリがいいのか、にやりと笑ってジョッキを持った。いつの間にか談話室に来ていた忍足が、「跡部がなんや変なもん飲むで」と廊下の向こうに声をかけている。
……よし逃げよう。
立ちあがろうとした肩を、乾の大きな両手で押さえつけられた。
「これは、セクハラでは? 違う、汁ハラ……汁ハラスメント反対!」
「汁ハラ、か。丹精込めて作り上げたレシピを、飲む前から不味いと決めつけて忌避されることを指すんだな」
「作った張本人が罰ゲームに使おうとしてる程度には不味いんでしょ」
攻防を繰り広げる私たちに、跡部が「内輪揉めしてねえで覚悟決めろ」と見下した笑みを浮かべてくるけれどそんな余裕は絶対に今だけだ。超資産家のおぼっちゃんなんて、飲みつけない大珍味を飲んで打ちひしがれるに決まってる。
仕方なく、本当に仕方なく、渋々受け取ったジョッキの中身は、オレンジ色に煌めいている。今まで見たことも飲んだことも無い色なのも、『ひ・み・つ』と効能を隠されているのも不安しかない。
『跡部の変な物一気飲み』という珍事に、人が集まってきた。神妙な顔でノートを取り出した乾は、遂に呪いの言葉を吐く。
「それではご一緒に。せーの。」
ごく。
やっていることとは正反対の、穏やかな優しげな掛け声と一緒に、変な液体が喉の奥を通過していく。ジョッキを受け取ったときは確かに冷たかったのに、喉を通るのがわかるほどその液体は熱かった。鼻につくほどの甘みはマンゴーに似ている。
……全然不味くない。乾でも美味しい飲み物作れるんだ……あっ。ちがう……? 体が、冷え、て?
体が勝手に震え出す。視界がカチカチと点滅する。心臓が経験したことのない動きをする。体中に恐怖がぶわりと広がった。
……まさか、私、死、こわ……。
最後に感じたのはめまいでも寒気でもなく、胸の痛みだった。
◇
はあっ はあっ はあっ
暗闇の中、私は追い立てられるように走っていた。息があがって心臓がつぶれそうだ。
……なんで私走ってるんだっけ?
足元に広がるのはオムニコート。その緑が、闇の奥深くまで延々と続いている。ウェアが汗で肌に纏わり付き、足元はふらついている。吐く息ばかりが五月蝿くて、泣き出したい気分だ。
それでも、止まることは許されなかった。
「……ろ、おきろ。起きろってば!」
「っ!」
父親ではない男性の声で起こされて、驚いて目を開けた。まず見えたのは天井。それからさらりと揺れる赤い髪の毛だ。綺麗な瞳とばちっと目があって、一瞬で意識がはっきりした。
「やっと起きたのかよ。もう朝練の時間終わっちまったぜ。朝飯行けるか?」
「……向日、くん?」
私を覗き込んでいるのは間違いなく氷帝の向日岳人。大きな目を更に大きく見開いて、向日は「あはは!」と笑う。
「おいおい、目え覚ませって」
「……」
何故向日が居るのか、汁を飲んだ後の記憶が全くない。朝というからには一晩気を失っていたのかもしれない。最悪だ。
……なんで向日くんがこんな親しげなの?
解せない。氷帝の選手はみんなイケメンだから、私は向日のことは知っているるけれど一方的にだ。合宿が始まってからも、挨拶以外に会話を交わしたことはない。
「あの、私……?」
「うわすっげレア。俺お前が寝ぼけてるところ初めて見た」
「……」
……私、声めっちゃおかしい……!
枯れているのとは違う、まるで男の人みたいな声が出た。視線を落とした先、自分の手なのに、見慣れた自分のものじゃない。ゴツゴツ骨張った長い指に、豆を何度も潰した凸凹の手のひら。
「う、そ……」
両手で顔に触れると、肌の質感がいつもと違う。あるべきはずの場所に髪がない。昨夜はあったはずの胸の膨らみがない。
……まさか、まさか、夢だ、夢だ夢だ夢だ!
改めて部屋を見回すと、昨日までお手伝い女の子組が使っていた部屋とは造りが違う。薄暗い室内のカーテンの向こう側から溢れる朝日。散乱する布団も荷物も全く見覚えがない。
……嘘、嘘だよね?
布団の上で固まっていると、部屋の扉が音を立て開いた。宍戸と忍足が、汗を拭きながら立っている。
「お、起きたのかよ跡部」
「ほんま聞いてた通りのすごい破壊力やなぁ。乾のなんとか汁は」
あとべ……跡部。氷帝の選手が親しげに話しかけるこの体は、艶のある声は、引き締まった体は、美しい手は、そう、跡部景吾。
瞬間昨夜の行動が脳裏に浮かぶ。思い当たることは一つしかない。
「乾……」
「あ?」
「あいつ!」
向日のぎょっとした顔を押し退けて、跡部の形をした私は布団から跳ね起きた。彼の大きな瞳に映っているのは、昨日一緒にトランプをした跡部の顔。間違いない、私の体が跡部景吾になっている。
「あのバカ!」
「相変わらず変なヤツ」
部屋を飛び出た私の背中に、向日の呆れたような呟きだけが追いかけてきた。
とりあえず廊下へ飛び出したけれど、向かうべき場所はすぐにわかった。朝だというのに妙に騒々しい場所、二階の談話室だ。
……まさかまさか、信じられないけどでも!
こんなことが現実にあっていいわけないけど、間違いなく夢ではない。走り抜ける廊下の窓ガラスに映る自分は、跡部景吾だ。
談話室が近づくと、聞きなれた青学メンバーの話し声が聞こえてくる。その中に低い乾の声色も見つけて、談話室に滑り込むなり私は叫んだ。
「乾!」
途端に、室内は静まり返った。中に居た面々が驚いた顔でこちらを振り向くけれど、驚いたのは彼らだけではない。私自身もすごくびっくりした。
……そんなに怖い声出したつもりないのに……。
跡部の体から発された声は、発した本人が驚くほど冷たく苛立った声だった。それは合宿が始まったときに叱れられた、あのとき聞いた冷たい声と同じもの。
……あのときも、跡部くんからしたらそれほどきついこと言ったつもりじゃなかったのかもしれない。
などと納得しかけて、目の前にいる人物に思考が止まった。
……『私』が、乾の胸倉掴んでる……。
襟を引っ張られて、身を屈めながら乾はにたりと笑った。
「おはよう跡部。いや、中身は君か」
青学と氷帝の面々にぐるりと回りを囲まれて、『私』は不機嫌そうに眉をしかめ、自分の体が勝手に動いていることにぞっとして、隣の周助を見上げる。
忍足が不思議な生物を見るような目で私たちを見た。
「へえ? きょどった跡部なんて初めて見たわ」
「俺様はこっちだっつってんだろ!」
周助と裕太は困ったように顔を見合わせる。わかる、私はここまで柄が悪くない。その瞳にはぎらぎらと怒りが滲んでいて、自分がこんな顔で怒ることを初めて知った。
「本当にあと一週間でもとに戻るんだろうな」
「おそらく」
乾の曖昧な返答に、全員がため息をついた。
全国大会優勝後、乾は新たなデータテニスを模索していたらしい。他人を巻き込みさえしなければ、大変結構なことだ。模索する中でテーマの一つが、記憶力の強化だった。全国大会で出会った選手の中には全てのデータを脳に刻み込める超天才がいたらしいけれど、乾には無理だった。けれど、記憶力は強化できるに越したことはない。
乾がまず行ったのは、ラットを使った記憶力増強実験だった。部活を引退し、かつ理科の教員ととても仲のいい乾には時間も設備も充分に確保できたとか。
数々の実験を終えてラットともすっかり仲良くなった頃、乾はふと開発中の汁の効果をラットで研究してみようと思いつく。
それを二匹のラットに飲ませたところ、不思議なことが起こった。記憶力の実験として刺激を記憶させていない方のラットが、何故かその後記憶をしているかのような動きを見せたのだ。逆に、記憶しているはずのラットが、刺激を忘れたかのような動きを見せた。最初は何かの偶然かとも思ったが、実験に使った3組のラット全てに同様の効果が見られた。
「それでこれはもしやと思ってね。悪いが試させてもらったよ。乾薬汁試作品バージョンアルファ。これには飲んだものの人格を入れ替えてしまう効果があるらしい」
「そ、んな……」
泣きそうになるのを必死に我慢した。
……酷い、人を実験台にするなんて!
乾の向こうでは、菊丸が「すげ、跡部が泣きべそかいてる」と大石にこそこそ耳打ちをしている。傷つくからやめて。
「俺様のナリでグズグズするんじゃねえ!」
「だって、こんなこと……!」
今私の気持ちを一番理解しているのは跡部に違いない。瞳に溜まる怒りの向こう側は、途方にくれているのがわかる。私だってそうだから。
押し黙ってしまった当事者二人とは別に、低い、怒りの声を出したのは周助だった。
「つまり乾はこの子を実験台にしたってこと?」
「人聞きが悪いな。これは人類史に残る大発明かもしれないんだぞ」
「ふざけるな。この子を元に戻してくれ」
……周助偉い! 優しい!
本気で怒ってくれているのがわかって、少し嬉しい。普段にこにこしている周助が怒ると結構怖いのだけれど、乾はそんなの全然気にしてないみたいな態度で小さく息を吐いただけだった。手に持っていたノートをぱらぱらとめくって、中指で眼鏡を上げる。
「実験に用いた三組のラットのうち、一組は二日後、一組は四日後、一組は一週間後にもとに戻った。これは飲ませた汁の量と比例している。跡部たちが口にした程度の量なら……そうだな、一週間で元に戻ると予想できる」
「ラットと人間は違う」
「いや。俺のデータに基づくとこの予想の信憑性は高い。今までのドリンクは全てラットで効果を実験済みだ。一週間以内に元に戻る確立、九十九点ニパーセント」
「……百パーセントじゃないじゃない……」
絶望してそうつぶやく。「俺様の顔で女言葉を使うな」と叱咤が飛んできた。
それからは検証会が始まってしまう。『ただふざけているだけじゃないのか』という忍足の疑問に答えるために、私と跡部は様々な質問を浴びせられた。三十分も要したその質疑応答の結果導き出されたのは、『マジだ』。
竜崎先生は困り顔で溜息をつく。
「お前たち、もう一度だけ聞くよ? 本当にふざけているんじゃないんだね?」
「この俺がこんな茶番に時間を割くような人間に見えますか?」
「ふざけてるんだったらどんなにいいか……スミレ先生、助けて!」
アノ『跡部景吾』が泣きべそかきながら縋る姿に、顔をひきつらせながら担任は一歩引いた。
……このまま一生元に戻れなかったらどうしよう……。
不安で涙目が押し出されそうになるが、泣いたりしたらまた跡部本人に怒鳴られてしまう。ぎゅっと拳を握った私の肩に、温かい体温が優しく添えられた。勿論周助だ。
「大丈夫だよ。さっきは僕も感情的になっちゃったけど、乾のデータが信用できることは、僕らが一番よく知っているだろう?」
「……うん」
「もっとも、乾の人間性は信用に値しないって今回のことではっきりしたけどね」
「うん」
それはその通りすぎる。乾の言う通りに元に戻れるのだろうけど、乾が作ったものは二度と飲まない。私が落ち着いたのを察してか、周囲の調子も元に戻っていく。興味深そうに私と跡部を見比べて、菊丸はにやりと笑った。
「でもまあすごいはすごいよ。桃とおちびも飲んでみな」
「なんで俺がそんな変なもの飲まなきゃならないんすか!」
「特に桃先輩とだなんて、絶対に御免っす。」
「おまっ……越前!」
私だって寄りによってあの跡部景吾様となんてこんな珍事に巻き込まれたくなかった。せめて不二兄弟や青学の誰かとなら……と想像しかけて、やっぱりそれも嫌だと首を振る。誰と一緒でもこんな事態は嫌すぎる。
菊丸に向かって、「残念だが」と呟いた乾は眼鏡を押し上げた。
「乾薬汁試作品バージョンアルファは今のもので最後だ」
「へ? どゆこと? また作ればいいじゃん」
「あれは偶然の産物なんだ。正直何を入れたのかも覚えていない」
……そ、そんなわけがわからないモノ飲まされたの⁈
普段から汁を飲まされている青学の面々が青くなって絶句している。「そんなに黙らなくとも、食べられるものしかブレンドしていないが?」とキョトン顔で首を傾げる乾をぶっ飛ばしたい。
恐怖の沈黙を破ったのは、女の人の高笑いだった。吃驚したけれど、笑っているのが『私』だったことにまた吃驚する。
「はーはっはっはっ! おい乾、件の汁が入っていた容器はまだあるのか」
「あるが、既に洗ってしまったぞ」
「ふんっ。問題ねーよ、よこしな。うちの研究機関に成分を分析させる。水洗いしたくらいじゃあの汁は完全には落ちねーよ」
「確かにな。だが心配せずとも一週間以内には」
「黙れ。青学の連中はどうだか知らねーが、俺様はテメーのデータなんぞ全く信用してねーんだよ。元に戻る手がかりはその容器に必ずあるはずだ」
容器を持ってくるよう乾に命令する『私』を、私はすごく変な気持ちで気持ちで見つめた。鏡で見慣れている自分の顔が、自分以外の意思のもとで動いている。正直とても気持ち悪い。
暫く忍足と話していた『私』は、こちらに向き直ると吐き捨てるように言った。
「おいお前、ついて来な」
「え?」
「暫くこの体のままで過ごすことになる。色々と策を講じておくことがあるだろう」
そう言って立ち上がった『私』は、顎をクイっと動かして着いてこいと促した。私、こんなに偉そうに怖そうに振舞えたらしい。
……跡部くんと私、相性すごく悪いな多分。
そもそも初対面のときから険悪だった。今もこんなトラブルに巻き込まれてしまうし、もう散々だ。
もう一度叱責を受けて、私は仕方なしに『私』の後を追った。
向かったのは、それぞれが寝泊まりしている部屋だ。お互いにスマホを持ってきて、廊下にあるベンチに腰をかけた。何故か一緒に着いてきた氷帝の樺地は、『私』の隣に立ったままだ。「樺地くん、座ったら?」と声を掛けたけれど、困惑した表情で首を振られただけだった。
「樺地に構うな。まず、家族友人仕事上の連絡で電話は極力使用するな」
「うん、そうだね。……仕事?」
「俺様の事情だ。どうしても電話が必要な場合は、必ず協力しろ。細かい打ち合わせは必要になったときでいい」
「はい」
「それから」と『私』は矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。随分とおしゃべりな『私』だ。マシンガントークで告げられるもっともな連絡事項に頷いていたけれど、突然頷けない提案をされた。
「この合宿の練習に、お前も参加しろ」
「ええっ⁈ 何言ってるの⁉︎」
「当たり前だろう? それは俺様の体だ。お前が怠ければ怠けた分、俺様の体が衰える」
「ええー……自信ないなぁ……」
「お前に自信がなくとも、俺は俺の体に自信がある。当然、俺様もこの体で参加するぜ?」
「どうして?」
「精神面を鍛えるにしろ、他校のプレイヤーのプレイを見るにしろ、得るところはあるからな」
「……ふーん」
……この人もテニスオタクか。
大好きな幼馴染たちと同じで、寝ても醒めてもテニスのことばかり考えてそのために努力している人なんだろう。
「これからうちの研究機関に例の容器を預ける。使いの者が来たらお前も一緒に来い。事情を話す」
「わかった。でも普通の大人が信じてくれるかな。スミレ先生は乾の変な汁のことも、規格外の頭の良さも知っているから信じてるくれたけど……」
「信じる信じないは別にして、この俺様の依頼を無碍にするような無能の研究者は揃えていない」
『私』は笑った。唇の端と眉を吊り上げ、見下すような微笑はまさに跡部景吾だった。そのままの顔で、「行くぞ、ついて来い」と顎で指示された。
「え? 行くってまさか」
「朝飯を済ませて練習に参加する」
前に観戦した周助の試合が脳裏に浮かぶ。格闘技の闘技場みたいなあのテニスコートに自分が入らなければならないなんて考えるだけで足の力が抜けてしまいそうだ。
……由美姉、最悪の合宿になっちゃったよ……。
◇
跡部景吾は、目の前の悲惨な光景に溜息をついた。耳に届いたその音が、聞き慣れない少女のものだったことに、また溜息をつく。逆境に強い自負はあるが、後悔をしないわけではない。
……あんな得体の知れないものを口にするべきじゃなかった。
人知れず盛大に後悔をしながら、跡部はテニスコートの上で繰り広げられる地獄もう一度視線を移した。
コートに入っているのは『跡部』と鳳だ。鳳が大きく振りかぶり得意のサーブを繰り出す。悪くない軌道とスピードだが、自身ならば難なく返すことが出来るその球を、コートの『跡部』はびくりと体を震わせて見送った。美しいノータッチエースだ。
……見てられねぇ。
隣にいる向日に芥川、そして忍足が、一切隠す気も無いくせに態と声を顰めた会話をしているのもまた癪に触る。
「うわ、長太郎のやつ決めやがった。跡部からノータッチ」
「マジマジ、初めて見たC! 気持ちわり」
「なんや失望やなぁ。あんな跡部、見たくなかったわ」
いつもなら鼻で笑い飛ばす揶揄が癇に障る。
「跡部景吾はこの俺様だっつってんだろうが!」
テニスコートに、女生徒の怒鳴り声がキンキンと響いた。
◇
跡部の体で、私は一人青い顔をしながら調理場へと向かっていた。『私』にどやされて仕方なく入ったコートの中、飛んできたのは人を殺せる黄色い凶器だった。
……あんなの取れるわけないじゃん!
すごい音を立てて迫ってくる黄色に、体が竦む。目では確かに捉えられるのにラケットをふるタイミングがわからない。ランニングも腕立て伏せも腹筋も、跡部の体ならできるはずのことが何故か出来ない。業を煮やした『私』によって、とうとうコートを追い出されてしまった。とすると行くところはひとつしかない。再びお手伝いチームに逆戻りだ。
……なんで出来ないんだろうね?
自分のものになってしまった、両手ををじっと見つめてみる。豆が潰れ硬くなり、ところどころ皮の剥けたスポーツマンの手。跡部の体なのだから、当然跡部の身体機能は引き継いでいるはずなのに。
散々怒られなじられて、再びしょんぼり歩きはじめると、後ろから声をかけられた。
「なんだ、コートを追い出されたのか。」
「乾……」
スポーツドリンクを入れているサーバーの取手を両手にいくつも持っている。ドリンクを補充しに行くならば私の役目だ。
「補充だったら私やるから、練習戻っていいよ」
「……跡部の顔で『私』といわれると心底気持ちが悪いな」
「ねえ、誰のせい? 誰のせい誰のせい?」
「少々やりすぎたと反省しているさ。不二も怒髪天だしね。おかげでいい具合にパシリだ」
肩を竦めた乾は両手でサーバーを少し持ち上げて見せた。行きは良いけれど、帰りは何往復する気だろうか。
周助の怒りがこれで収まるならばと、出しかけた手を引っ込めた。ドリンクを作るならば向かう場所は一緒だ。
「……ね、乾。今この体、テニスものすごく下手なんだけどどうしてかな。体は跡部くんのものなんだから、ある程度のことは出来てもいいような気がするんだけど……」
「お前のプレイはさっき少し見させてもらったよ。目を疑うほど酷かったな」
「だから追い出されちゃった」
「ふむ……。過去にこんな例がないから単なる俺の想像だが……。精神と肉体は非常に密接に関連している」
寒空の下、乾は呪文でもつぶやくかのようにぼそぼそと自論を述べ始める。
「おそらく君の得意だったことも、跡部が中に入った『君』には出来ないはずだ」
「何でだろ。不思議だね」
「例えば君という人間は、精神と肉体が両方合わさって初めて君になるということだ」
「それじゃあ、今の私は誰?」
「どちらでもない。お前の言う『私』が指すもの自体が、不在だからだ」
「……」
「お前の精神に視点をおけば、肉体の不在。肉体に視点をおけば、精神の不在。今お前が自分のものだと感じるこの体も」
言いながら乾は私の腕をとる。
「『跡部』という観点からすれば、空っぽだ。『跡部』たりえない、ただの空の入れ物」
「うん?」
「まあ、それも他者という観測媒体があっての話だがな」
「うんもういい。わからない」
「なんだ、人が折角意見を展開しているのに。」
「聞いて欲しいならもう少しわかりやすく話してください」
わかり辛い理論展開も含みのある言い方もともに乾の特徴だ。責任など微塵も感じていないかのようないつも通りすぎる友人に、そっと溜息をついた。
「本当に一週間経てばもとに戻るよね?」
「データは嘘をつかないよ」
「……乾が反省してるように見えない」
「おや、心外だな。……では面白いデータを一つ提供してやろう」
「え?」
話しているうちにいつのまにかロビーまで来ていた。厨房はもうすぐだ。乾は長方形の眼鏡を光らせ、淡々と語る。
「不二が彼女と別れたのは知っているな」
「ノーコメント」
「隠さずともこれくらいの情報は軽い。では別れた理由を知っているか?」
「……んーん。もう少し気持ちが落ち着いたら話すって」
「言いたがらないのも当然だな。不二の元恋人は、跡部に気持ちが移ったのだから」
「……え?」
……跡部くんに? 冗談でしょう?
驚いて見上げた先、いつもより近くに見える乾の顔は無表情だ。
「面白くないだろうな。不二としては、かなり」
「……」
「さて、ついたな。プロテインは、と。補充を手伝ってくれるか」
「……うん」
……嘘でしょ? あの周助が……。
頭が混乱している。あの子は周助から跡部へ乗り換えたってことだろうか。窓ガラスに映る跡部景吾の顔は、確かに美しい。周助とはまた違った系統のイケメンだ。
……でも、だからって。
落ち込んでいた周助の顔が浮かんできて、腹の底がざらりとした。どうしてこんなときに限って、こういう人と災難に巻き込まれてしまうのか。こんな不安なときにこそ周助に頼りたいのに、跡部の外見では近づいたらきっと周助に嫌な思いをさせてしまう。
……だいたい、馬鹿じゃないのあの子。確かに跡部くんは超美形だけど、周助のいいとこ知ってれば金持ちイケメンも霞むでしょ?
不安と苛立ちと自分のついてなさに、今日何度目か知れない溜息をついた。
「朋香ちゃん。それ終わったら洗濯物の仕分けに行こうか」
「……う、あ、はい……」
「なに?」
「だってぇ……!」
一緒に夕食の食器片付けをしながら、朋香は叫んだ、けれどもっともだとは思う。ピンクのエプロンと三角巾をつけた『跡部』に、親しげに名前を呼ばれればそれはそれは複雑な心境だろう。ごめん。
そうは言っても練習に参加できないならば、元通り手伝いの仕事を懸命にやるほかにない。
……気持ちはわかるけど。
一日中ともに仕事をしていたのに、まだ跡部の姿に慣れないのだろう。繰り返すが、わかる。ごめん。
「でもちょっとだけ羨ましいかもしれないわ。私もリョーマ様と入れ替わってみたい! そしたらあんなこととか、こんなこととか、キャー!」
「……好きな人と入れ替わるのだけはやめておいたほうがいいと思うよ。」
「え? どうしてですか?」
「……色々ね。」
跡部景吾の体でトイレにいったことは、人生のイベントの中でもワーストを誇ると思う。きっと死ぬまで覚えている。なにより跡部も同じように私の体でトイレに行っているのだ。好きな人には一番見せたくない光景を否応なく見せてしまう。この合宿以後顔を合わせることもないだろう相手だとわかっていても、考えるだけで恥ずかしくて死にそうになる。
「憂を帯びてる跡部景吾も綺麗ですね、若干むかつくけど」
私のしつこい溜息に気を遣ってくれたのか、朋香が笑ってくれたので場の空気が変わった。
……じゃあこんなのはどうよ。
舌を出して片目を閉じ、目元でダブルピースを作ってみた。朋香は吹き出して危うく皿が割れるのころだった。
「ぶはっ! ちょ、先輩お皿落とすから! 笑わせないで!」
「あーわかった、ごめんごめん」
そんなに期待されては頑張らざるを得ない。顎を突き出して渾身の変顔をすると、今度こそ朋香の手からコップが落ちた。プラスチックだから問題ない。
「ぐっ! はははははやめて死ぬ!」
二人厨房でキャアキャアと騒いでると、ふと人の気配がした。
……やば。
入り口に立っていたのは周助と忍足、そして『私』だ。私と朋香を一瞥し、『私』は首を振って溜息をついた。
「中身が原始人であっても俺様の気品は失われねえという貴重な観測だったな。願わくば中身が知性を備えた生き物であって欲しかったところだが」
忍足が必死に笑いを堪えているあたり、気品が保たれていたかは定かではない。
朋香と二人で悪ふざけを謝罪すると、「くだらないことに時間を使うな」と軽蔑の色を含んだ声が返って来た。怖い。
ふと時計を見る。針は八時を少し回ったところ。もうミーティングは終わったのだろうか。
「周ちゃん、もうミーティング終わったの?」
「とっくにね。それでお風呂に入ろうとしてたら……」
言いながら周助はちらりと『私』を見る。機嫌が悪いのは跡部と一緒だからだろうか。だとしたら、視覚的に不快感を与えているのは私だ。
周助の綺麗な色素の薄い瞳が、『私』を鋭く睨んだ。私に向けられているわけじゃないけど、私の体に向けられているという絵面は心臓に悪い。
……普段こんな怒った顔見せることないのに……やっぱり元カノのことで跡部くんをよく思ってないんだ。
周助の視線を完全に無視している『私』の横で、漸く笑いが収まったらしい忍足は優しげに微笑んだ。
「跡部がな、男風呂の脱衣室で普通に服脱ぎだすから、慌てて連れてきたところや」
「……跡部くん、お願いだからもうちょっと謹んで」
「俺様のは過失だが、お前の先ほどの変顔は故意だろう? どちらが罪深いと思う」
「裸と変顔を一緒にしないでもらえます?」
……信じられない! 流石の私だって桜乃ちゃんたちの前で脱いだりなんてしな……いよね?
憮然とそこまで考えて、いや、するかもと思い直す。だってこの体、完全に自分の意思で動くから自分の体のような気持ちがしちゃうのだ。
「おいお前、俺様の顔をそんな不細工にしかめるな」
「だったら跡部くんの顔が不細工なんじゃない? 本当にかっこいい人はどんな顔しててもかっこいいと思うけど?」
「ほう、言うじゃねーか。話を戻すが、九時に浴場の前に来い。俺たちがともに入れば問題はないだろう」
「は⁈」
周助と朋香と忍足と私の気持ちが一つになった瞬間だった。「何言ってやがるこいつ」である。『私』はにやりと、余裕綽々で笑っている。
「お前たちの危惧はそういうことだろう? 俺もコイツも、互いの体は避けようがなく目に入るんだ。だったら互いが目の届くところで監視しあったほうがいい」
「監視?」
「この俺様の裸体を拝むんだ、妙なことをされてはかなわないからな」
「え……しないよそんなん」
「なあ、お前もドン引きだろうこの思考。だがお前の飼い犬はそれが心配のようだぜ。目隠しをして入浴しろ、体には一切触れるな、だとよ。馬鹿馬鹿しい」
飼い犬って何のことだ、と一瞬わけがわからなかったけれど、『私』の視線の先に居る周助のことかと思い至る。こんなおっかない犬飼いたくないし、どっちかというと私の方が手のひらでころころされているイメージがある。
途端、周助が『私』の二の腕を掴んだ。開かれた瞳には本気の怒りが浮かんでいて、「やっぱり」と心が沈む。
「僕の幼馴染の体だよ。大切に扱って欲しいな」
「今は俺の体だぜ? 周チャン」
「あんまり目に余ることすると、本気で怒らざるを得ないよ」
「今が本気でないとすると、お前の本気がどれほどのものか楽しみだな。是非見てみたいものだ」
「……」
ゆっくりと手を離した周助は、私に向き直りいつもの笑顔で笑う。
「跡部の奇天烈な思考に付き合うことないよ。みんなが上がった後に一人で入ればいい。シャワー室使ったって」
「周助の意見通りだと、私も一人で入るのに目隠ししなくちゃじゃない?」
「……。君が滑って転んで死にかねないのはわかるよ。……はぁ……君の体に変なことされないように、ちゃんと見てるんだよ」
最後の言葉は耳元で囁かれた。少し困っているような柔和な笑みを残して、周助は静かに厨房を出て行ってしまった。
九時を少し回った頃合いで、言われたとおりに浴場へ行く。廊下に立っていたのは『私』ではなく裕太だった。少し気まずそうに「姉貴」と片手を上げる。もちろん気まずいのはこっちも同じだ。
……なんか喧嘩っぽくなっちゃったままだったな。
自分のほうが年上なんだから気まずさを見せないようにしたくて、笑った。
「裕太、どうしたの?」
「いや……はあ。兄貴から聞いてさ、跡部さん、もう中だぜ」
「そう。周ちゃんが気にしすぎなんだよ」
「や、普通心配だろ」
「ふーん? 裕太も心配して来てくれたんだ?」
ついいつものように軽口を叩いてしまい、一瞬この前ように拒絶されるかもしれないとヒヤリっとした。けれど裕太はすごく嫌そうな顔で「ちげーよバカ!」と言っただけだった。昔から変わらない、可愛い弟分の反応だ。
……よかった、裕太、普通だ。
自然な関係を保てていることが嬉しくて、安心した。私が一方的にショックだっただけで、あの程度は今までも何度もしてきた小さな喧嘩のうちの一つにすぎなかったのかもしれない。
「ありがとう。でも周や裕太が心配するようなことはないから、大丈夫だよ」
「だから別に心配なんかしてねーって」
「はいはい、そうだね。それじゃ、私行くから。おやすみなさい」
「……一応嫁入り前なんだし、跡部さんはそんな人じゃないだろーけど、一応男だしさ。ちゃんと気をつけて見てろよ、居眠りとかするなよな」
……信用ないのは跡部くんだけじゃないのかよ。
出来の悪い姉が心配だ、と顔に書いてある裕太をその場に残して、浴場の引き戸を引く。ガラガラと音を立て開いた先は、むんと湿気が立ち込めている。冬の空気で覚めた頬に、その暖かさが心地いい。浴室からは水の流れる音が絶え間なく聞こえた。
……裕太と仲直り、できたんだよね?
そもそも最初から仲違いもしていないのかもしれないし、普通に話せて安心はした。けれど胸のなかに残るもやもやは消えない。
……やだなぁ、こんな気持ち……。
タオルや着替えを籠の中に入れ、シャツのボタンに手をかける。一枚一枚脱いでいくうちに現われる、筋肉質の体。裕太とそう身長は変わらないように見えるが、跡部の方が体つきはしっかりしていそうだ。何度もトイレに行っているから、紫の薔薇が刺繍されたボクサーパンツを脱ぐときも大した抵抗はなかった。
一応タオルを巻いて浴室の扉を開けると、中では『私』が体を洗っている最中だった。音でこちらを振り向いた『私』は、「来たか」と笑う。
……あ、私だ。背中を見るとか新鮮。
その程度の感想だった。周助や裕太の心配はそもそも杞憂なのだ。今は他人のものといえども、目の前にあるのは自分の体だ。それ相手に『妙な気分』になどなるはずがない。第三者から見れば『跡部と二人で風呂に入る』という光景に見えるが、当事者としてさ『大きな鑑に裸の自分が映っている』程度の感覚だ。
……この身体も、自分のって感覚無いから羞恥心も湧かないんだよね。違和感はあるけど。
これは流石に当事者でないと理解できない感情だろう。
体を洗うべくシャワーの前へと座る。少し離れたところで『私』が声をかけてきた。
「俺様の体だ。丁寧にちゃんと洗えよ」
「そっちこそ。大切な体なんだから、大事に扱ってよね」
「扱ってるぜ? 隅々までな」
「……跡部くん、私をからかって遊んでるでしょう?」
わざと人の頭にくるような台詞を吐いているのではないかと思いそう言ってみると、『私』はあははと笑った。友だちにはなれそうにない。
「お前みたいな女を見るとついからかいたくなる」
「……『おもしれぇ女』って言ってる? リアルでそれ言う人居るの? お前みたいってどんなの?」
「よく喋るな。吠え面が間抜けな犬を二匹、飼ってるだろう?」
「……不二兄弟のことじゃないよね」
「わかってるじゃねーか。さっきも弟のほうに待ち伏せされてキャンキャン吠えられた、躾直しておきな」
「そんな言い方しないで」
「わざとだよ」
……腹立つな、いちいち。
裸で軽口を叩き合う関係は、まるで昔からの友だちのような変な感覚だ。『体』という、本来なら誰とも共有しえないものを交換したことで、お互いに親近感が芽生えでもしているのだろうか。
……跡部くんも意外と単純なところあるのかな?
近寄り難い存在が親しげに話しかけてくれるのは、単純に嬉しかった。言い返しながら体を洗うと、これでもかというほどきめの細かい肌が、ポロポロと透明の湯をはじく。見慣れた自分の肌なんかとは比べ物にならないくらい、白くて美しいのだ。思わず睨まずを得ない。
「おいおい、見とれるのは分かるが手を動かせ」
「見とれてない!」
「ふっ、隠すことねーだろ。折角の機会だ、存分に俺様の肉体美に酔いな!」
「……寛大ですね」
冬の夜の風呂場はどこまでもなごやかだった。
……早く元に戻りたい!
「そうだね。広いお風呂最高」
合宿も二日目が終わる。朋香と桜乃と歩きながら、お手伝いメンバーに急に転がりこんだ三年生と、仲良くしてくれてありがたいと改めて思う。
私たち三人が寝る部屋はかなり広めの和室で、寝息すら少し遠い感覚の快適さだ。お風呂を終えその部屋へ帰る途中、桜乃が思いついたように立ち止まった。
「あ、私お茶が切れてるんだった。ちょっと買ってくるね」
「じゃあ私も行くー。先輩は?」
「行くよ、喉渇いちゃった」
一番近い自動販売機があるのは、二階の談話室のすぐ隣だ。階段を登り自販機を目指すと、向こうにぼんやりとした灯りと騒がしい話し声が聞こえてくる。
「きゃっ! お風呂上りのリョーマ様に会えるかしら!」
「と、朋ちゃん……!」
「越前くんの場合お風呂上がりでもそうじゃなくてもかわらないと思うけど……」
思ったことがつい口に出てしまった。「先輩はわかってない!」と朋香に叱られる。
「い・ろ・け! 色気があるんです! お風呂上りには!」
「えー、うん」
「わかる人だけわかればいいんです!」とそっぽをむかれてしまったけれど、談話室の灯りに照らされたお顔は見る間に可愛い笑みになる。
談話室にはいろいろな学校の選手たちが集まっていて、ソファでスマホをいじっていたり集まってゲームをしていたりているようだ。越前のもとへ飛んでいく朋香と、恥ずかしそうに寄って行く桜乃がすごく可愛い。奥の方では周助がこちらに手を振っている。
「ね、こっちでビリヤード混ざらない?」
周りにはキューを持った宍戸と千石。宍戸とは話したことがないけれど、千石はすごく優しい。ちょっと楽しそうだ。
「うん、混ざー……らない、駄目、混ざれない」
足を進ませかけて、ビリヤード台をよく見た瞬間に辞退する。千石は不思議そうだ。
「えー? どうしてー? 一緒にやろうよ、ルールなら俺が教えてあげるよ?」
「……だって、ラッキーポケットがあるもん」
「ふふ」
私の言葉に周助は笑った。悪人だ。
ラッキーポケット。そのブラックホールにボールを入れてしまうと、『お年玉=落とし玉』と称したなんらかの汁を飲まされる羽目になる。悪人の笑みを受けて、宍戸と千石は訝しげだけれど、二人とももっと慌てた方がいいと思う。
「おい、『ラッキーポケット』ってなんだよ」
「不二クン、楽しそうだねえ」
「うん、楽しよ。ゲームを始めようか」
汁に巻き込まれる前に早く部屋へ帰ったほうが絶対いい。改めて自販機へ向かったけれど、今度は大石に呼び止められた。
「それならこっちに混ざらないか?」
「んふっ。暇ならおいでなさい。ちょうど一人抜けたところですから」
「誰が来ようと、この俺様には敵わねーよ」
大石と一緒に卓を囲んでいたのは、観月と跡部だ。まるでマジシャンみたいな手つきで、観月がトランプを切っている。
「何してるの?」
「大富豪だよ。今まで乾が居たんだが、部屋に戻っちゃってさ。大方ラッキーポケットの『お年玉』を取りに行ったんだろうけど」
大石が憐れみの視線をビリヤード台へと向けている。分かる、あの二人が可哀想すぎる。
朋香と桜乃の動向を確認すると、向こうのソファでファンタを片手にするリョーマを囲んで、談笑が始まっていた。まだ時間も遅くないし、跡部も観月も悪い人じゃない。少なくともビリヤード台の隣で笑っている周助よりは。
「混ざる」
「そうこなくっちゃ!」
跡部も昨日ほど、私に悪いイメージを持ってないみたいで、その晩はなごやかムードで幕を閉じた。
はずだった。
「ダメ、無理、負けた!」
「ックソ!俺様としたことが……」
「はい、お前が貧民で」
「跡部くんが大貧民ですか。いいんじゃないですか、そう呼ばれてみるのも。現実ではあり得ませんからね」
勝負はサクサク進んで、大富豪の観月と富豪の大石は楽しそうに笑った。跡部は心底面白くなさそうに、テーブルの上に散らばったトランプを睨みつけている。
「このままで終われるか! もう一回だ!」
「んふっ。言うと思っていましたよ。けれど回を重ねるたび大富豪が有利になることが、このゲームの名称の由来ですよ? ましてこの僕が大富豪だ。逆転は無理かと思われますが」
「ふっ。そんな偉そうな口を叩いていられるのも今のうちだぜ。俺様の美技に不可能は無い!」
「二回戦する? 私きろうか?」
大石くらいなら抜けるかもしれないと内心ちょっとだけ闘志を燃やして、トランプを集め始めたときだった。背後から激しい悪寒と殺気が漂ってくる。
「その前に、これを飲んでもらおうか」
低いバリトンヴォイスは汁魔王のそれ。恐る恐る振り向いた目前には、怪しげなジョッキを持った怪しげな男。
「乾……」
「貧民と大貧民にはコレ。乾薬汁試作品バージョンアルファ」
「なんで貧民も! 普通罰ゲームはビリだけでしょ!」
思わず本気で引いて、椅子がぎぎぎと嫌な音を立てた。逃すものかと言わんばかりに、妙に甘ったるい臭いのジョッキ近づいてくる。
「アルファは二人同時に飲まなければ意味がないんだよ」
「どういう意味?」
「それはひ・み・つ。飲んでからのお楽しみというわけだ」
「ふざけるな。何故俺様がそんなもの。大体『試作品』ってなんだよ。せめて完成品を持って来い」
「跡部、見るに堪えないな。君ともあろうものがまるで負け犬の遠吠えじゃ無いか」
「あーん? 言うじゃねえか」
乾が急に安い挑発をし始めたからびっくりしたけど、跡部は簡単なのかノリがいいのか、にやりと笑ってジョッキを持った。いつの間にか談話室に来ていた忍足が、「跡部がなんや変なもん飲むで」と廊下の向こうに声をかけている。
……よし逃げよう。
立ちあがろうとした肩を、乾の大きな両手で押さえつけられた。
「これは、セクハラでは? 違う、汁ハラ……汁ハラスメント反対!」
「汁ハラ、か。丹精込めて作り上げたレシピを、飲む前から不味いと決めつけて忌避されることを指すんだな」
「作った張本人が罰ゲームに使おうとしてる程度には不味いんでしょ」
攻防を繰り広げる私たちに、跡部が「内輪揉めしてねえで覚悟決めろ」と見下した笑みを浮かべてくるけれどそんな余裕は絶対に今だけだ。超資産家のおぼっちゃんなんて、飲みつけない大珍味を飲んで打ちひしがれるに決まってる。
仕方なく、本当に仕方なく、渋々受け取ったジョッキの中身は、オレンジ色に煌めいている。今まで見たことも飲んだことも無い色なのも、『ひ・み・つ』と効能を隠されているのも不安しかない。
『跡部の変な物一気飲み』という珍事に、人が集まってきた。神妙な顔でノートを取り出した乾は、遂に呪いの言葉を吐く。
「それではご一緒に。せーの。」
ごく。
やっていることとは正反対の、穏やかな優しげな掛け声と一緒に、変な液体が喉の奥を通過していく。ジョッキを受け取ったときは確かに冷たかったのに、喉を通るのがわかるほどその液体は熱かった。鼻につくほどの甘みはマンゴーに似ている。
……全然不味くない。乾でも美味しい飲み物作れるんだ……あっ。ちがう……? 体が、冷え、て?
体が勝手に震え出す。視界がカチカチと点滅する。心臓が経験したことのない動きをする。体中に恐怖がぶわりと広がった。
……まさか、私、死、こわ……。
最後に感じたのはめまいでも寒気でもなく、胸の痛みだった。
◇
はあっ はあっ はあっ
暗闇の中、私は追い立てられるように走っていた。息があがって心臓がつぶれそうだ。
……なんで私走ってるんだっけ?
足元に広がるのはオムニコート。その緑が、闇の奥深くまで延々と続いている。ウェアが汗で肌に纏わり付き、足元はふらついている。吐く息ばかりが五月蝿くて、泣き出したい気分だ。
それでも、止まることは許されなかった。
「……ろ、おきろ。起きろってば!」
「っ!」
父親ではない男性の声で起こされて、驚いて目を開けた。まず見えたのは天井。それからさらりと揺れる赤い髪の毛だ。綺麗な瞳とばちっと目があって、一瞬で意識がはっきりした。
「やっと起きたのかよ。もう朝練の時間終わっちまったぜ。朝飯行けるか?」
「……向日、くん?」
私を覗き込んでいるのは間違いなく氷帝の向日岳人。大きな目を更に大きく見開いて、向日は「あはは!」と笑う。
「おいおい、目え覚ませって」
「……」
何故向日が居るのか、汁を飲んだ後の記憶が全くない。朝というからには一晩気を失っていたのかもしれない。最悪だ。
……なんで向日くんがこんな親しげなの?
解せない。氷帝の選手はみんなイケメンだから、私は向日のことは知っているるけれど一方的にだ。合宿が始まってからも、挨拶以外に会話を交わしたことはない。
「あの、私……?」
「うわすっげレア。俺お前が寝ぼけてるところ初めて見た」
「……」
……私、声めっちゃおかしい……!
枯れているのとは違う、まるで男の人みたいな声が出た。視線を落とした先、自分の手なのに、見慣れた自分のものじゃない。ゴツゴツ骨張った長い指に、豆を何度も潰した凸凹の手のひら。
「う、そ……」
両手で顔に触れると、肌の質感がいつもと違う。あるべきはずの場所に髪がない。昨夜はあったはずの胸の膨らみがない。
……まさか、まさか、夢だ、夢だ夢だ夢だ!
改めて部屋を見回すと、昨日までお手伝い女の子組が使っていた部屋とは造りが違う。薄暗い室内のカーテンの向こう側から溢れる朝日。散乱する布団も荷物も全く見覚えがない。
……嘘、嘘だよね?
布団の上で固まっていると、部屋の扉が音を立て開いた。宍戸と忍足が、汗を拭きながら立っている。
「お、起きたのかよ跡部」
「ほんま聞いてた通りのすごい破壊力やなぁ。乾のなんとか汁は」
あとべ……跡部。氷帝の選手が親しげに話しかけるこの体は、艶のある声は、引き締まった体は、美しい手は、そう、跡部景吾。
瞬間昨夜の行動が脳裏に浮かぶ。思い当たることは一つしかない。
「乾……」
「あ?」
「あいつ!」
向日のぎょっとした顔を押し退けて、跡部の形をした私は布団から跳ね起きた。彼の大きな瞳に映っているのは、昨日一緒にトランプをした跡部の顔。間違いない、私の体が跡部景吾になっている。
「あのバカ!」
「相変わらず変なヤツ」
部屋を飛び出た私の背中に、向日の呆れたような呟きだけが追いかけてきた。
とりあえず廊下へ飛び出したけれど、向かうべき場所はすぐにわかった。朝だというのに妙に騒々しい場所、二階の談話室だ。
……まさかまさか、信じられないけどでも!
こんなことが現実にあっていいわけないけど、間違いなく夢ではない。走り抜ける廊下の窓ガラスに映る自分は、跡部景吾だ。
談話室が近づくと、聞きなれた青学メンバーの話し声が聞こえてくる。その中に低い乾の声色も見つけて、談話室に滑り込むなり私は叫んだ。
「乾!」
途端に、室内は静まり返った。中に居た面々が驚いた顔でこちらを振り向くけれど、驚いたのは彼らだけではない。私自身もすごくびっくりした。
……そんなに怖い声出したつもりないのに……。
跡部の体から発された声は、発した本人が驚くほど冷たく苛立った声だった。それは合宿が始まったときに叱れられた、あのとき聞いた冷たい声と同じもの。
……あのときも、跡部くんからしたらそれほどきついこと言ったつもりじゃなかったのかもしれない。
などと納得しかけて、目の前にいる人物に思考が止まった。
……『私』が、乾の胸倉掴んでる……。
襟を引っ張られて、身を屈めながら乾はにたりと笑った。
「おはよう跡部。いや、中身は君か」
青学と氷帝の面々にぐるりと回りを囲まれて、『私』は不機嫌そうに眉をしかめ、自分の体が勝手に動いていることにぞっとして、隣の周助を見上げる。
忍足が不思議な生物を見るような目で私たちを見た。
「へえ? きょどった跡部なんて初めて見たわ」
「俺様はこっちだっつってんだろ!」
周助と裕太は困ったように顔を見合わせる。わかる、私はここまで柄が悪くない。その瞳にはぎらぎらと怒りが滲んでいて、自分がこんな顔で怒ることを初めて知った。
「本当にあと一週間でもとに戻るんだろうな」
「おそらく」
乾の曖昧な返答に、全員がため息をついた。
全国大会優勝後、乾は新たなデータテニスを模索していたらしい。他人を巻き込みさえしなければ、大変結構なことだ。模索する中でテーマの一つが、記憶力の強化だった。全国大会で出会った選手の中には全てのデータを脳に刻み込める超天才がいたらしいけれど、乾には無理だった。けれど、記憶力は強化できるに越したことはない。
乾がまず行ったのは、ラットを使った記憶力増強実験だった。部活を引退し、かつ理科の教員ととても仲のいい乾には時間も設備も充分に確保できたとか。
数々の実験を終えてラットともすっかり仲良くなった頃、乾はふと開発中の汁の効果をラットで研究してみようと思いつく。
それを二匹のラットに飲ませたところ、不思議なことが起こった。記憶力の実験として刺激を記憶させていない方のラットが、何故かその後記憶をしているかのような動きを見せたのだ。逆に、記憶しているはずのラットが、刺激を忘れたかのような動きを見せた。最初は何かの偶然かとも思ったが、実験に使った3組のラット全てに同様の効果が見られた。
「それでこれはもしやと思ってね。悪いが試させてもらったよ。乾薬汁試作品バージョンアルファ。これには飲んだものの人格を入れ替えてしまう効果があるらしい」
「そ、んな……」
泣きそうになるのを必死に我慢した。
……酷い、人を実験台にするなんて!
乾の向こうでは、菊丸が「すげ、跡部が泣きべそかいてる」と大石にこそこそ耳打ちをしている。傷つくからやめて。
「俺様のナリでグズグズするんじゃねえ!」
「だって、こんなこと……!」
今私の気持ちを一番理解しているのは跡部に違いない。瞳に溜まる怒りの向こう側は、途方にくれているのがわかる。私だってそうだから。
押し黙ってしまった当事者二人とは別に、低い、怒りの声を出したのは周助だった。
「つまり乾はこの子を実験台にしたってこと?」
「人聞きが悪いな。これは人類史に残る大発明かもしれないんだぞ」
「ふざけるな。この子を元に戻してくれ」
……周助偉い! 優しい!
本気で怒ってくれているのがわかって、少し嬉しい。普段にこにこしている周助が怒ると結構怖いのだけれど、乾はそんなの全然気にしてないみたいな態度で小さく息を吐いただけだった。手に持っていたノートをぱらぱらとめくって、中指で眼鏡を上げる。
「実験に用いた三組のラットのうち、一組は二日後、一組は四日後、一組は一週間後にもとに戻った。これは飲ませた汁の量と比例している。跡部たちが口にした程度の量なら……そうだな、一週間で元に戻ると予想できる」
「ラットと人間は違う」
「いや。俺のデータに基づくとこの予想の信憑性は高い。今までのドリンクは全てラットで効果を実験済みだ。一週間以内に元に戻る確立、九十九点ニパーセント」
「……百パーセントじゃないじゃない……」
絶望してそうつぶやく。「俺様の顔で女言葉を使うな」と叱咤が飛んできた。
それからは検証会が始まってしまう。『ただふざけているだけじゃないのか』という忍足の疑問に答えるために、私と跡部は様々な質問を浴びせられた。三十分も要したその質疑応答の結果導き出されたのは、『マジだ』。
竜崎先生は困り顔で溜息をつく。
「お前たち、もう一度だけ聞くよ? 本当にふざけているんじゃないんだね?」
「この俺がこんな茶番に時間を割くような人間に見えますか?」
「ふざけてるんだったらどんなにいいか……スミレ先生、助けて!」
アノ『跡部景吾』が泣きべそかきながら縋る姿に、顔をひきつらせながら担任は一歩引いた。
……このまま一生元に戻れなかったらどうしよう……。
不安で涙目が押し出されそうになるが、泣いたりしたらまた跡部本人に怒鳴られてしまう。ぎゅっと拳を握った私の肩に、温かい体温が優しく添えられた。勿論周助だ。
「大丈夫だよ。さっきは僕も感情的になっちゃったけど、乾のデータが信用できることは、僕らが一番よく知っているだろう?」
「……うん」
「もっとも、乾の人間性は信用に値しないって今回のことではっきりしたけどね」
「うん」
それはその通りすぎる。乾の言う通りに元に戻れるのだろうけど、乾が作ったものは二度と飲まない。私が落ち着いたのを察してか、周囲の調子も元に戻っていく。興味深そうに私と跡部を見比べて、菊丸はにやりと笑った。
「でもまあすごいはすごいよ。桃とおちびも飲んでみな」
「なんで俺がそんな変なもの飲まなきゃならないんすか!」
「特に桃先輩とだなんて、絶対に御免っす。」
「おまっ……越前!」
私だって寄りによってあの跡部景吾様となんてこんな珍事に巻き込まれたくなかった。せめて不二兄弟や青学の誰かとなら……と想像しかけて、やっぱりそれも嫌だと首を振る。誰と一緒でもこんな事態は嫌すぎる。
菊丸に向かって、「残念だが」と呟いた乾は眼鏡を押し上げた。
「乾薬汁試作品バージョンアルファは今のもので最後だ」
「へ? どゆこと? また作ればいいじゃん」
「あれは偶然の産物なんだ。正直何を入れたのかも覚えていない」
……そ、そんなわけがわからないモノ飲まされたの⁈
普段から汁を飲まされている青学の面々が青くなって絶句している。「そんなに黙らなくとも、食べられるものしかブレンドしていないが?」とキョトン顔で首を傾げる乾をぶっ飛ばしたい。
恐怖の沈黙を破ったのは、女の人の高笑いだった。吃驚したけれど、笑っているのが『私』だったことにまた吃驚する。
「はーはっはっはっ! おい乾、件の汁が入っていた容器はまだあるのか」
「あるが、既に洗ってしまったぞ」
「ふんっ。問題ねーよ、よこしな。うちの研究機関に成分を分析させる。水洗いしたくらいじゃあの汁は完全には落ちねーよ」
「確かにな。だが心配せずとも一週間以内には」
「黙れ。青学の連中はどうだか知らねーが、俺様はテメーのデータなんぞ全く信用してねーんだよ。元に戻る手がかりはその容器に必ずあるはずだ」
容器を持ってくるよう乾に命令する『私』を、私はすごく変な気持ちで気持ちで見つめた。鏡で見慣れている自分の顔が、自分以外の意思のもとで動いている。正直とても気持ち悪い。
暫く忍足と話していた『私』は、こちらに向き直ると吐き捨てるように言った。
「おいお前、ついて来な」
「え?」
「暫くこの体のままで過ごすことになる。色々と策を講じておくことがあるだろう」
そう言って立ち上がった『私』は、顎をクイっと動かして着いてこいと促した。私、こんなに偉そうに怖そうに振舞えたらしい。
……跡部くんと私、相性すごく悪いな多分。
そもそも初対面のときから険悪だった。今もこんなトラブルに巻き込まれてしまうし、もう散々だ。
もう一度叱責を受けて、私は仕方なしに『私』の後を追った。
向かったのは、それぞれが寝泊まりしている部屋だ。お互いにスマホを持ってきて、廊下にあるベンチに腰をかけた。何故か一緒に着いてきた氷帝の樺地は、『私』の隣に立ったままだ。「樺地くん、座ったら?」と声を掛けたけれど、困惑した表情で首を振られただけだった。
「樺地に構うな。まず、家族友人仕事上の連絡で電話は極力使用するな」
「うん、そうだね。……仕事?」
「俺様の事情だ。どうしても電話が必要な場合は、必ず協力しろ。細かい打ち合わせは必要になったときでいい」
「はい」
「それから」と『私』は矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。随分とおしゃべりな『私』だ。マシンガントークで告げられるもっともな連絡事項に頷いていたけれど、突然頷けない提案をされた。
「この合宿の練習に、お前も参加しろ」
「ええっ⁈ 何言ってるの⁉︎」
「当たり前だろう? それは俺様の体だ。お前が怠ければ怠けた分、俺様の体が衰える」
「ええー……自信ないなぁ……」
「お前に自信がなくとも、俺は俺の体に自信がある。当然、俺様もこの体で参加するぜ?」
「どうして?」
「精神面を鍛えるにしろ、他校のプレイヤーのプレイを見るにしろ、得るところはあるからな」
「……ふーん」
……この人もテニスオタクか。
大好きな幼馴染たちと同じで、寝ても醒めてもテニスのことばかり考えてそのために努力している人なんだろう。
「これからうちの研究機関に例の容器を預ける。使いの者が来たらお前も一緒に来い。事情を話す」
「わかった。でも普通の大人が信じてくれるかな。スミレ先生は乾の変な汁のことも、規格外の頭の良さも知っているから信じてるくれたけど……」
「信じる信じないは別にして、この俺様の依頼を無碍にするような無能の研究者は揃えていない」
『私』は笑った。唇の端と眉を吊り上げ、見下すような微笑はまさに跡部景吾だった。そのままの顔で、「行くぞ、ついて来い」と顎で指示された。
「え? 行くってまさか」
「朝飯を済ませて練習に参加する」
前に観戦した周助の試合が脳裏に浮かぶ。格闘技の闘技場みたいなあのテニスコートに自分が入らなければならないなんて考えるだけで足の力が抜けてしまいそうだ。
……由美姉、最悪の合宿になっちゃったよ……。
◇
跡部景吾は、目の前の悲惨な光景に溜息をついた。耳に届いたその音が、聞き慣れない少女のものだったことに、また溜息をつく。逆境に強い自負はあるが、後悔をしないわけではない。
……あんな得体の知れないものを口にするべきじゃなかった。
人知れず盛大に後悔をしながら、跡部はテニスコートの上で繰り広げられる地獄もう一度視線を移した。
コートに入っているのは『跡部』と鳳だ。鳳が大きく振りかぶり得意のサーブを繰り出す。悪くない軌道とスピードだが、自身ならば難なく返すことが出来るその球を、コートの『跡部』はびくりと体を震わせて見送った。美しいノータッチエースだ。
……見てられねぇ。
隣にいる向日に芥川、そして忍足が、一切隠す気も無いくせに態と声を顰めた会話をしているのもまた癪に触る。
「うわ、長太郎のやつ決めやがった。跡部からノータッチ」
「マジマジ、初めて見たC! 気持ちわり」
「なんや失望やなぁ。あんな跡部、見たくなかったわ」
いつもなら鼻で笑い飛ばす揶揄が癇に障る。
「跡部景吾はこの俺様だっつってんだろうが!」
テニスコートに、女生徒の怒鳴り声がキンキンと響いた。
◇
跡部の体で、私は一人青い顔をしながら調理場へと向かっていた。『私』にどやされて仕方なく入ったコートの中、飛んできたのは人を殺せる黄色い凶器だった。
……あんなの取れるわけないじゃん!
すごい音を立てて迫ってくる黄色に、体が竦む。目では確かに捉えられるのにラケットをふるタイミングがわからない。ランニングも腕立て伏せも腹筋も、跡部の体ならできるはずのことが何故か出来ない。業を煮やした『私』によって、とうとうコートを追い出されてしまった。とすると行くところはひとつしかない。再びお手伝いチームに逆戻りだ。
……なんで出来ないんだろうね?
自分のものになってしまった、両手ををじっと見つめてみる。豆が潰れ硬くなり、ところどころ皮の剥けたスポーツマンの手。跡部の体なのだから、当然跡部の身体機能は引き継いでいるはずなのに。
散々怒られなじられて、再びしょんぼり歩きはじめると、後ろから声をかけられた。
「なんだ、コートを追い出されたのか。」
「乾……」
スポーツドリンクを入れているサーバーの取手を両手にいくつも持っている。ドリンクを補充しに行くならば私の役目だ。
「補充だったら私やるから、練習戻っていいよ」
「……跡部の顔で『私』といわれると心底気持ちが悪いな」
「ねえ、誰のせい? 誰のせい誰のせい?」
「少々やりすぎたと反省しているさ。不二も怒髪天だしね。おかげでいい具合にパシリだ」
肩を竦めた乾は両手でサーバーを少し持ち上げて見せた。行きは良いけれど、帰りは何往復する気だろうか。
周助の怒りがこれで収まるならばと、出しかけた手を引っ込めた。ドリンクを作るならば向かう場所は一緒だ。
「……ね、乾。今この体、テニスものすごく下手なんだけどどうしてかな。体は跡部くんのものなんだから、ある程度のことは出来てもいいような気がするんだけど……」
「お前のプレイはさっき少し見させてもらったよ。目を疑うほど酷かったな」
「だから追い出されちゃった」
「ふむ……。過去にこんな例がないから単なる俺の想像だが……。精神と肉体は非常に密接に関連している」
寒空の下、乾は呪文でもつぶやくかのようにぼそぼそと自論を述べ始める。
「おそらく君の得意だったことも、跡部が中に入った『君』には出来ないはずだ」
「何でだろ。不思議だね」
「例えば君という人間は、精神と肉体が両方合わさって初めて君になるということだ」
「それじゃあ、今の私は誰?」
「どちらでもない。お前の言う『私』が指すもの自体が、不在だからだ」
「……」
「お前の精神に視点をおけば、肉体の不在。肉体に視点をおけば、精神の不在。今お前が自分のものだと感じるこの体も」
言いながら乾は私の腕をとる。
「『跡部』という観点からすれば、空っぽだ。『跡部』たりえない、ただの空の入れ物」
「うん?」
「まあ、それも他者という観測媒体があっての話だがな」
「うんもういい。わからない」
「なんだ、人が折角意見を展開しているのに。」
「聞いて欲しいならもう少しわかりやすく話してください」
わかり辛い理論展開も含みのある言い方もともに乾の特徴だ。責任など微塵も感じていないかのようないつも通りすぎる友人に、そっと溜息をついた。
「本当に一週間経てばもとに戻るよね?」
「データは嘘をつかないよ」
「……乾が反省してるように見えない」
「おや、心外だな。……では面白いデータを一つ提供してやろう」
「え?」
話しているうちにいつのまにかロビーまで来ていた。厨房はもうすぐだ。乾は長方形の眼鏡を光らせ、淡々と語る。
「不二が彼女と別れたのは知っているな」
「ノーコメント」
「隠さずともこれくらいの情報は軽い。では別れた理由を知っているか?」
「……んーん。もう少し気持ちが落ち着いたら話すって」
「言いたがらないのも当然だな。不二の元恋人は、跡部に気持ちが移ったのだから」
「……え?」
……跡部くんに? 冗談でしょう?
驚いて見上げた先、いつもより近くに見える乾の顔は無表情だ。
「面白くないだろうな。不二としては、かなり」
「……」
「さて、ついたな。プロテインは、と。補充を手伝ってくれるか」
「……うん」
……嘘でしょ? あの周助が……。
頭が混乱している。あの子は周助から跡部へ乗り換えたってことだろうか。窓ガラスに映る跡部景吾の顔は、確かに美しい。周助とはまた違った系統のイケメンだ。
……でも、だからって。
落ち込んでいた周助の顔が浮かんできて、腹の底がざらりとした。どうしてこんなときに限って、こういう人と災難に巻き込まれてしまうのか。こんな不安なときにこそ周助に頼りたいのに、跡部の外見では近づいたらきっと周助に嫌な思いをさせてしまう。
……だいたい、馬鹿じゃないのあの子。確かに跡部くんは超美形だけど、周助のいいとこ知ってれば金持ちイケメンも霞むでしょ?
不安と苛立ちと自分のついてなさに、今日何度目か知れない溜息をついた。
「朋香ちゃん。それ終わったら洗濯物の仕分けに行こうか」
「……う、あ、はい……」
「なに?」
「だってぇ……!」
一緒に夕食の食器片付けをしながら、朋香は叫んだ、けれどもっともだとは思う。ピンクのエプロンと三角巾をつけた『跡部』に、親しげに名前を呼ばれればそれはそれは複雑な心境だろう。ごめん。
そうは言っても練習に参加できないならば、元通り手伝いの仕事を懸命にやるほかにない。
……気持ちはわかるけど。
一日中ともに仕事をしていたのに、まだ跡部の姿に慣れないのだろう。繰り返すが、わかる。ごめん。
「でもちょっとだけ羨ましいかもしれないわ。私もリョーマ様と入れ替わってみたい! そしたらあんなこととか、こんなこととか、キャー!」
「……好きな人と入れ替わるのだけはやめておいたほうがいいと思うよ。」
「え? どうしてですか?」
「……色々ね。」
跡部景吾の体でトイレにいったことは、人生のイベントの中でもワーストを誇ると思う。きっと死ぬまで覚えている。なにより跡部も同じように私の体でトイレに行っているのだ。好きな人には一番見せたくない光景を否応なく見せてしまう。この合宿以後顔を合わせることもないだろう相手だとわかっていても、考えるだけで恥ずかしくて死にそうになる。
「憂を帯びてる跡部景吾も綺麗ですね、若干むかつくけど」
私のしつこい溜息に気を遣ってくれたのか、朋香が笑ってくれたので場の空気が変わった。
……じゃあこんなのはどうよ。
舌を出して片目を閉じ、目元でダブルピースを作ってみた。朋香は吹き出して危うく皿が割れるのころだった。
「ぶはっ! ちょ、先輩お皿落とすから! 笑わせないで!」
「あーわかった、ごめんごめん」
そんなに期待されては頑張らざるを得ない。顎を突き出して渾身の変顔をすると、今度こそ朋香の手からコップが落ちた。プラスチックだから問題ない。
「ぐっ! はははははやめて死ぬ!」
二人厨房でキャアキャアと騒いでると、ふと人の気配がした。
……やば。
入り口に立っていたのは周助と忍足、そして『私』だ。私と朋香を一瞥し、『私』は首を振って溜息をついた。
「中身が原始人であっても俺様の気品は失われねえという貴重な観測だったな。願わくば中身が知性を備えた生き物であって欲しかったところだが」
忍足が必死に笑いを堪えているあたり、気品が保たれていたかは定かではない。
朋香と二人で悪ふざけを謝罪すると、「くだらないことに時間を使うな」と軽蔑の色を含んだ声が返って来た。怖い。
ふと時計を見る。針は八時を少し回ったところ。もうミーティングは終わったのだろうか。
「周ちゃん、もうミーティング終わったの?」
「とっくにね。それでお風呂に入ろうとしてたら……」
言いながら周助はちらりと『私』を見る。機嫌が悪いのは跡部と一緒だからだろうか。だとしたら、視覚的に不快感を与えているのは私だ。
周助の綺麗な色素の薄い瞳が、『私』を鋭く睨んだ。私に向けられているわけじゃないけど、私の体に向けられているという絵面は心臓に悪い。
……普段こんな怒った顔見せることないのに……やっぱり元カノのことで跡部くんをよく思ってないんだ。
周助の視線を完全に無視している『私』の横で、漸く笑いが収まったらしい忍足は優しげに微笑んだ。
「跡部がな、男風呂の脱衣室で普通に服脱ぎだすから、慌てて連れてきたところや」
「……跡部くん、お願いだからもうちょっと謹んで」
「俺様のは過失だが、お前の先ほどの変顔は故意だろう? どちらが罪深いと思う」
「裸と変顔を一緒にしないでもらえます?」
……信じられない! 流石の私だって桜乃ちゃんたちの前で脱いだりなんてしな……いよね?
憮然とそこまで考えて、いや、するかもと思い直す。だってこの体、完全に自分の意思で動くから自分の体のような気持ちがしちゃうのだ。
「おいお前、俺様の顔をそんな不細工にしかめるな」
「だったら跡部くんの顔が不細工なんじゃない? 本当にかっこいい人はどんな顔しててもかっこいいと思うけど?」
「ほう、言うじゃねーか。話を戻すが、九時に浴場の前に来い。俺たちがともに入れば問題はないだろう」
「は⁈」
周助と朋香と忍足と私の気持ちが一つになった瞬間だった。「何言ってやがるこいつ」である。『私』はにやりと、余裕綽々で笑っている。
「お前たちの危惧はそういうことだろう? 俺もコイツも、互いの体は避けようがなく目に入るんだ。だったら互いが目の届くところで監視しあったほうがいい」
「監視?」
「この俺様の裸体を拝むんだ、妙なことをされてはかなわないからな」
「え……しないよそんなん」
「なあ、お前もドン引きだろうこの思考。だがお前の飼い犬はそれが心配のようだぜ。目隠しをして入浴しろ、体には一切触れるな、だとよ。馬鹿馬鹿しい」
飼い犬って何のことだ、と一瞬わけがわからなかったけれど、『私』の視線の先に居る周助のことかと思い至る。こんなおっかない犬飼いたくないし、どっちかというと私の方が手のひらでころころされているイメージがある。
途端、周助が『私』の二の腕を掴んだ。開かれた瞳には本気の怒りが浮かんでいて、「やっぱり」と心が沈む。
「僕の幼馴染の体だよ。大切に扱って欲しいな」
「今は俺の体だぜ? 周チャン」
「あんまり目に余ることすると、本気で怒らざるを得ないよ」
「今が本気でないとすると、お前の本気がどれほどのものか楽しみだな。是非見てみたいものだ」
「……」
ゆっくりと手を離した周助は、私に向き直りいつもの笑顔で笑う。
「跡部の奇天烈な思考に付き合うことないよ。みんなが上がった後に一人で入ればいい。シャワー室使ったって」
「周助の意見通りだと、私も一人で入るのに目隠ししなくちゃじゃない?」
「……。君が滑って転んで死にかねないのはわかるよ。……はぁ……君の体に変なことされないように、ちゃんと見てるんだよ」
最後の言葉は耳元で囁かれた。少し困っているような柔和な笑みを残して、周助は静かに厨房を出て行ってしまった。
九時を少し回った頃合いで、言われたとおりに浴場へ行く。廊下に立っていたのは『私』ではなく裕太だった。少し気まずそうに「姉貴」と片手を上げる。もちろん気まずいのはこっちも同じだ。
……なんか喧嘩っぽくなっちゃったままだったな。
自分のほうが年上なんだから気まずさを見せないようにしたくて、笑った。
「裕太、どうしたの?」
「いや……はあ。兄貴から聞いてさ、跡部さん、もう中だぜ」
「そう。周ちゃんが気にしすぎなんだよ」
「や、普通心配だろ」
「ふーん? 裕太も心配して来てくれたんだ?」
ついいつものように軽口を叩いてしまい、一瞬この前ように拒絶されるかもしれないとヒヤリっとした。けれど裕太はすごく嫌そうな顔で「ちげーよバカ!」と言っただけだった。昔から変わらない、可愛い弟分の反応だ。
……よかった、裕太、普通だ。
自然な関係を保てていることが嬉しくて、安心した。私が一方的にショックだっただけで、あの程度は今までも何度もしてきた小さな喧嘩のうちの一つにすぎなかったのかもしれない。
「ありがとう。でも周や裕太が心配するようなことはないから、大丈夫だよ」
「だから別に心配なんかしてねーって」
「はいはい、そうだね。それじゃ、私行くから。おやすみなさい」
「……一応嫁入り前なんだし、跡部さんはそんな人じゃないだろーけど、一応男だしさ。ちゃんと気をつけて見てろよ、居眠りとかするなよな」
……信用ないのは跡部くんだけじゃないのかよ。
出来の悪い姉が心配だ、と顔に書いてある裕太をその場に残して、浴場の引き戸を引く。ガラガラと音を立て開いた先は、むんと湿気が立ち込めている。冬の空気で覚めた頬に、その暖かさが心地いい。浴室からは水の流れる音が絶え間なく聞こえた。
……裕太と仲直り、できたんだよね?
そもそも最初から仲違いもしていないのかもしれないし、普通に話せて安心はした。けれど胸のなかに残るもやもやは消えない。
……やだなぁ、こんな気持ち……。
タオルや着替えを籠の中に入れ、シャツのボタンに手をかける。一枚一枚脱いでいくうちに現われる、筋肉質の体。裕太とそう身長は変わらないように見えるが、跡部の方が体つきはしっかりしていそうだ。何度もトイレに行っているから、紫の薔薇が刺繍されたボクサーパンツを脱ぐときも大した抵抗はなかった。
一応タオルを巻いて浴室の扉を開けると、中では『私』が体を洗っている最中だった。音でこちらを振り向いた『私』は、「来たか」と笑う。
……あ、私だ。背中を見るとか新鮮。
その程度の感想だった。周助や裕太の心配はそもそも杞憂なのだ。今は他人のものといえども、目の前にあるのは自分の体だ。それ相手に『妙な気分』になどなるはずがない。第三者から見れば『跡部と二人で風呂に入る』という光景に見えるが、当事者としてさ『大きな鑑に裸の自分が映っている』程度の感覚だ。
……この身体も、自分のって感覚無いから羞恥心も湧かないんだよね。違和感はあるけど。
これは流石に当事者でないと理解できない感情だろう。
体を洗うべくシャワーの前へと座る。少し離れたところで『私』が声をかけてきた。
「俺様の体だ。丁寧にちゃんと洗えよ」
「そっちこそ。大切な体なんだから、大事に扱ってよね」
「扱ってるぜ? 隅々までな」
「……跡部くん、私をからかって遊んでるでしょう?」
わざと人の頭にくるような台詞を吐いているのではないかと思いそう言ってみると、『私』はあははと笑った。友だちにはなれそうにない。
「お前みたいな女を見るとついからかいたくなる」
「……『おもしれぇ女』って言ってる? リアルでそれ言う人居るの? お前みたいってどんなの?」
「よく喋るな。吠え面が間抜けな犬を二匹、飼ってるだろう?」
「……不二兄弟のことじゃないよね」
「わかってるじゃねーか。さっきも弟のほうに待ち伏せされてキャンキャン吠えられた、躾直しておきな」
「そんな言い方しないで」
「わざとだよ」
……腹立つな、いちいち。
裸で軽口を叩き合う関係は、まるで昔からの友だちのような変な感覚だ。『体』という、本来なら誰とも共有しえないものを交換したことで、お互いに親近感が芽生えでもしているのだろうか。
……跡部くんも意外と単純なところあるのかな?
近寄り難い存在が親しげに話しかけてくれるのは、単純に嬉しかった。言い返しながら体を洗うと、これでもかというほどきめの細かい肌が、ポロポロと透明の湯をはじく。見慣れた自分の肌なんかとは比べ物にならないくらい、白くて美しいのだ。思わず睨まずを得ない。
「おいおい、見とれるのは分かるが手を動かせ」
「見とれてない!」
「ふっ、隠すことねーだろ。折角の機会だ、存分に俺様の肉体美に酔いな!」
「……寛大ですね」
冬の夜の風呂場はどこまでもなごやかだった。
……早く元に戻りたい!