VACANCY
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
……にんじん、たまねぎ、じゃがいも、おにく。
夕暮れの住宅街ですれ違うのは見知った人ばかりだ。終わりが見えてきた家路にほっとしながら、買い物袋の中身をちらりと見た。こう寒い日は鍋に限る、と言いたいところだけれど、生憎これから一週間は一人暮らしだ。
……カレー沢山作って、冷凍したら一週間は持つよね。
本当なら全て外食で済ませたいけれど、浮いた食費はそのままお小遣いになる。お財布に残ったお札の使い道を考えると頬が勝手に緩んでしまう。
……不二ママも気を遣ってくれるだろうし。
我が家と隣の家の不二家とは私が生まれる前からの付き合いだ。うちの両親はバリキャリの共働きで、私が中学に上がってからは出張も増えた。もっとも、今回のように両親とも同時に、しかも一週間も帰って来ないことは初めてだけれど。留守番慣れしている身しては寂しいというわけでもないし、何よりお隣には親戚よりも親戚らしい付き合いをしている不二家がある。
……あれ? なんだろ。
たどり着いた我が家のさらに先にある不二家の前にタクシーが止まっていて、不二母が足早に乗り込んでいるのが見えた。運転手は大きなスーツケースをトランクに積む。
……不二ママもお出掛けなのかな。
タクシーがあっという間に小さくなっていくのをぼんやり見ていたけれど、食材の重さに早く家に入ろうと門に手をかける。
「今帰り? 遅かったね」
「周。ただいま」
向こうの門から顔を出して私を呼び止めたのは、隣のクラスの不二周助だった。
十二月も半ばに差し掛かって、夜が近づく空の下で吐く息は白い。制服にコートを着ている私とは違って、周助は薄手のシャツ一枚だ。これは長く話してはいけないと思い、手短に尋ねる。
「不二ママ旅行?」
「北海道に急なお義理が出来ちゃったんだ」
「冬の北海道かぁ……寒そ」
「コートを何着も詰め込んでたよ。一週間くらで戻るってさ」
「そうなんだ。じゃあ周も由美姉さんと二人暮らしだね」
「いや僕は……まあいいや。寒いから後でそっちへ行くよ」
「うん、わかった」
細身の体を震わせながら、周助は家の中へと戻っていった。私もお家に入ろう。
父親が外資系の一流商社に勤める不二家。忙しなく共働きをしている我が家。その庭の境には、ブルーグレーの柵と同じ色をした小さな扉がある。今でこそ腰丈程のその扉は、小さな頃から不二姉弟と私をつなぐ扉だった。
「にんじん、たまねぎ」
歌いながら、野菜室へ買ってきたものを詰め込む。コートとマフラーをソファーにかけて、居間の大きな窓の鍵を開けると制服を着替えに二階へ上った。生まれたときからの幼馴染が、玄関から入ってきたことなど最近の記憶にない。
……周、あの噂本当なのかな……聞いてみてもいいのかな。
周助の噂話は、望まずとも真っ先に私の耳に入ってくる。幼馴染ということは学園内に知れ渡っているから、真偽を検証してもらおうという魂胆だと思う。今日聞いた噂話もそうだった。
……いつもどうでもいい話しかしてないんだから、立ち入った話が本当かどうかなんてわかんないよ。
着替えを終えて降りていくと、予想通り周助は既にソファーに座っていた。こちらに視線も寄越さずに、ぼんやりとテーブルのミカンを見つめている。
「……今日カレーなの? そのルー好きだよね」
「今日っていうか、一週間カレー」
「僕はそんな女の子とは付き合いたくないな」
「私だって周と付き合いたいなんて思わないもん」
「ふーん、まあそうだろうね。僕はモテないから」
……うわぁ、機嫌わる。
涼やかな瞳は穏やかな様子で細まっているのに、口角は一ミリも上がっていない。何より纏う雰囲気が投げやりだ。これは相当機嫌が悪いうえに、かなり落ち込んでいる。
『不二周助が彼女にふられたらしい』
それが今日聞いた噂の内容だった。周助の彼女は一つ年下の二年生。何とかの委員会で一緒になって、周助のほうが好きになって付き合い始めた子だった、というところまでは本人の口から聞いて知っている。つい先日も仲良さ気に歩いていたのを目撃したばかりだったから、私は噂を一蹴してしまったのだけれど、この様子を見ると本当なのかもしれない。
……そうっとしとこう。
部屋の中に小さな沈黙が落ちた。その空気を断ち切るために、カレーの準備をしようとエプロンをつけたけれど、実際に断ち切ったのは居間の窓が開く音だった。顔を出したのは不二家長女の由美子だ。誰もが振り返る美女が、長い髪をサラリと揺らしてこちらを覗き込んでいる。
「あら、周助も居たの?」
「居ちゃ悪いのかな」
「随分ご機嫌斜めね」
一瞬で周助の不機嫌を見抜いた由美子は困ったように嫋やかに笑う。ファー付きのコートにエレガントなワンピースを着こなす様は今日も強くて美しい。
「今日またお客様から色々戴いてしまったから、何か欲しいのあったら貰ってくれない?」
「わぁ本当、嬉しい!」
「また貰ったの。姉さんも人が悪いよね」
由美子の常連客には、占い目的ではなく由美子目的の男性客も多い。IT企業の社長から政界に至るまで由美子人気は計り知れず、そういった客は来るたびにプレゼントを持参するらしい。けれど由美子にとってはあくまで客と占い師の付き合い。彼女の好みを正確に把握している客は少ないし、中には二十歳過ぎの由美子が身につけるには幼すぎる物を贈る客もいる。そういったおこぼれを、由美子は妹分である私に時折贈ってくれる。「断っているのに押し付けていくのだから、捨てるよりずっと良い」とは由美子の言い分だが、私としてもとてもありがたい。
「あ、姉さん。母さんはお葬式で北海道に行ったよ」
「ええ? そうなの? もう居ないの?」
「今さっき出てったよ。七時の飛行機だって。姉さんに留守をよろしくって言ってたよ」
「えー……やだ、困ったわ……色々困ることはあるけど、さしあたり今日の夕食ね」
「由美姉、カレーでよかったら食べる? これから作るけど」
「食べる食べる」
着替えてから手伝うと言い残し、由美子は不二家へと戻っていった。慌しいが明るい姉のおかげで張り詰めていた空気は霧散して、私たちは顔を見合わせ小さく笑った。
ミカンでお手玉をはじめた不二を横目に、野菜を切りながら話しかける。
「由美姉が手伝ってくれるなら、本格スパイスカレーになるね」
「うんと辛くして」
「やだ」
「弱ってる幼馴染が可哀想だと思わない? 噂聞いたでしょ。あれ本当だから」
……うっそ⁈ 周がふられたの⁈
シンクにじゃがいもが落ちる。
「周をフる子なんて居るの⁈」
「それが居るんだよ。理由は教えてあげないけど。面白くない話だから」
最初は二つで始まったミカンのジャグリングが、いつのまにか三つ四つ、五つと増えている。
……いつも器用なくせに、肝心なときに不器用なんだから……。
周助は、私が知る中で誰よりも優しい男の子だ。しかも洞察力が鋭くて、周囲の気持ちにすごく敏感。それで損をしている場面を、小さな頃から何度も見てきた。今回もきっと、彼女を想って何かしたりしなかったりしたことが、原因なんじゃないだろうか。でなければ、ふられるなんて有り得ないことだと思うのだ。
じゃがいもの皮を丁寧にむきながら、慎重に言葉を選んでいく。これ以上嫌な気持ちになって欲しくなかった。
「私、彼氏とか居たことないからわかんないけど、絶対に周は悪くないと思う」
「そういうの依怙贔屓って言うんだよ。不公平だね」
おどけた口調でそう言った周助だったけれど、それっきり黙ってしまった。少しの沈黙のあと、長い溜息がリビングに響く。ソファーに深く腰掛けた周助は天井を仰いで、両目を手のひらで隠してしまった。
「……流石に、ちょっと堪えたなぁ」
「うわぁ絶許。彼女、許さん」
「はは、怖いね」
……うう、モヤモヤする……!
周助を悲しませたあの子に対する怒りと、周助が悲しんでいることが辛くて、玉ねぎを切ることにする。揶揄われるから口には出さないけれど、私にとって周助は同い年の兄のような感覚なのだ。大事な人を大事にしてくれない人なんて嫌いだし、もっともっと大事にして欲しかった。
「二人ともお待たせ。周助、だらだらしてないでほら、にんじんの皮剥く。落ち込んでるときには体を動かした方がいいんだから」
「はいはい。姉さんには敵わないよ」
色々なスパイスを抱えて窓から入ってきた由美子の指揮のもと、器用すぎる周助の力技もあって夕食はすぐに出来上がった。
さっそくカレーにお気に入りの香辛料をふりかけている弟を横目で見て、苦笑しながら由美子が口を開く。
「それで? お母さんはいつ帰ってくるの?」
「一週間後だから……ちょうどクリスマスの日だね」
「そんなに? 私明後日から仕事で海外なんだけど、お隣も大人は出張でしょう? 二人きりで大丈夫かしら?」
不二家の父親は海外へ単身赴任中、次男の裕太は寮暮らしだ。
……周もいざとなれば色々してくれるし。大丈夫でしょ。
そう答えようとした矢先、先に口を開いたのは周助だった。困り顔で眉を顰めている。
「困ったな。僕も明日から合宿なんだよね」
「合宿?」
テニス部はもう引退しているから、塾か何かだろうか。由美子が首を傾げる。
「そんな話、私初めて聞いたわよ?」
「姉さんに言ったって仕方が無いじゃない。母さんには言ってあったよ」
「合宿って、塾?」
そう聞いてみると、周助は「テニスだよ」と首を振った。
「ここ最近のテニスブームで、ジュニアも盛んにメディアに取り上げられるでしょう? 支援するために、少し前に財団が立ち上がったんだ。背景はさておいても、理念なんかは共感できるものだよ」
「ふうん?」
「その設立に榊・跡部両グループが一枚噛んでいるらしい。運営の手始めに、ジュニアテニス強化合宿のスポンサーをしようってことになったみたいだよ」
「へえ、すごいのね。んー、でも困ったわ、それじゃ貴女が一人になってしまうじゃない」
そっくりの困り顔をする不二姉弟に、私は笑った。一週間くらい一人で過ごしても、なんの問題もない。
「私は平気だよ全然」
「駄目よ女の子一人で!」
「まあ、よくないよね……。……合宿、一緒についてくる?」
周助はそう言って首を傾げた。「あらそれいいじゃない」と由美子は即断で乗り気だが、私自身はそう簡単に頷けない。
「無理でしょ。だって明日も学校だよ?」
「公欠扱いになるよ」
「選手じゃなくても?」
「僕らもう引退しているから、厳密にはテニス部の活動じゃないしね。いつもの一年生お手伝いメンバーも来るだろうから、大丈夫じゃないかな」
「でもそんな……いきなり一人増えても迷惑なんじゃない?」
「うーん、大丈夫だと思うよ。手塚に聞いてみるからちょっと待ってて」
スマホを片手に周助はリビングを出て行ってしまった。相変わらず、柔らかな態度の割に強引だ。残された女二人は、カレーを口に運びながらヒソヒソと内緒話をする。
「ねえ、周助今日随分機嫌が悪いみたいだけど、何かあったの?」
「んー……彼女にふられちゃったんだって」
「ええっ⁈ あの子をふる女の子なんて居るの⁈ 見る目がないわねその子信じられない‼︎」
「うん。周、結構堪えてるみたい」
「年末年始のデートスポットとかこっそり調べてたものあの子、お姉ちゃん知ってる。はぁ……もう、貴女たちが恋人になればいいのに」
「それは無理、お互い」
由美子がこの冗談を言うのはいつものことだから真剣には返さない。廊下からは周助の話し声が漏れてくる。手塚相手となると、喋るのはほとんど周助のほうだ。
「貴女は今も彼氏居ないの? 好きな子とか」
「両方、作ろうと思って作れるものじゃなの」
当然クリスマスイブの予定は無い。好きな人もおらず、部活は引退、高校は内部進学のため受験もなく、リア充な不二姉弟と違って枯れた毎日を送っている自覚はある。
「電話長いわね。先にプレゼントを見てちょうだい」
電話の行方に後ろ髪を引かれながらも、楽しい気分で由美子が持ってきた紙袋を覗き込んだ。
……今回もどれも高そう……だけど、由美姉の持ち物に加えて貰えるような感じじゃ無いなぁ。
個性的なブランドバッグ、サイズの合わない靴、エレガントなレースがふんだんに使われたショール、小さな宝石がついた小物入れ。
「送り主は、由美姉を狙いがほんとんどでしょ? 可愛いけどさ、全然由美姉のことわかってないじゃん」
「理解こそ、全ての友情の果実を育てる土壌であるということね」
「友情もそうだけどさ、中身を知らないでなんで好きだなんてわかるんだろう。由美姉は格別の美人だけど、中身だって格別に素敵なのに。折角知り合ったのに詳しく知らないままでいるなんて勿体無いよね」
「なんて可愛いこと言うの我が妹は!」
抱き寄せて頭をぐりぐり撫でて貰えた。大人の香水の香りと豊かなお胸にドキドキする。
「相手が理解したいと思っていても、こちらがそれを望まなければ解り得ないもの。だって、占い師はミステリアスであるべきでしょう?」
……由美姉の方から情報をシャットダウンしてるのか。つまり送り主は全員脈無し、と。
自分に置き換えてみれば、クラスの男子とは普通に仲が良いけれど、趣味や好みを詳しく知っているわけでは無いし別段知りたいとも思わない。男子の方だって私に興味の欠片も無いだろう。
……私このさき一生、好きな人なんて作れないんじゃ。
そう嘆くと、大丈夫よと由美子は笑った。いつか、自分のことを知ってもらいたいと願う人と出会えると言う。
「でもさ、その相手が私のこと知りたいって思ってくれるとは限らないじゃん。ていうか、絶対無理だと思う」
……つまり結局は中身より外見ってこと⁈
由美子は声を出して笑い出し、プレゼントの中から大きなリボンのついたヘアアクセサリーを取り出すと、「可愛いから大丈夫よ」と私の頭にあてる。由美子が言う「大丈夫」も、このリボンを由美子につけて欲しいと願う贈り主も、わけがわからない。背中でとびらが開く音がする。
「手塚としては構わないけど、跡部にきいてみるって。ねえそのリボン似合わないよ」
「わかってるし! 跡部くんが良いって言っても、急に『明日公欠します』なんて通らないでしょ。前に公欠とったときは教科担当と担任のサインが必要だったもん」
「氷帝のあの辺りのやることは段違いだから、大丈夫だと思うよ。跡部が手塚の頼みを無碍にするはずもないだろうし、確認は念のため、ね。あとでラインくれるっていうから。待ってて」
学園テニス部のレギュラーとは、幾人かと面識がある。過去同じクラスだったり、委員会や選択授業が一緒だったからだ。
……みんなかっこいいけど、好きいぃぃって思うほどじゃ無いんだよね。ちょっと心細いけど、一人暮らしを好きに満喫してた方がいいよ。
周助はいじわるな顔をして笑っている。
「あんまり行きたくないって顔してるね。どうせ怠惰な生活を満喫しようと思っているんでしょう。カレー女さん」
「一言も二言も多いよ」
「じゃあいいことを教えてあげる。裕太も参加するよ」
「え、行く」
不二家次男の裕太は、私にとっても可愛い可愛い弟だ。ルドルフに転校してからというもの、まともに遊んでもらったためしがない。「それに」と、目の前でまた意地悪な笑みが咲く。
「都内女子生徒の憧れ、氷帝の元レギュラーも全員参加するんだ」
「わぁ、私遠くからしか見たことないよ。だってアイドル並みの人気じゃんあの人たち」
「ふふ。あんまり夢見ないほうがいいよ」
「周助さま、誘ってくださってありがとうございます」
「喜ばれるとそれはそれで面白くないな。やっぱやめようかな」
そこまでにしなさいと、由美子に笑顔で嗜められた。白く美しい手のひらをふわりと差し出されると、そこにはいつの間にかアンティークな柄のタロットカードが積まれている。数多の男女を惑わす妖艶な笑顔に、思わず息を呑む。
「どんな合宿になるか、二人を占ってあげるわ」
「え、僕はいいよ」
「遠慮しない」
繊細なデザインの爪が煌めく指先が、涼しい音を立ててテーブルを滑らかに動く。並べている途中周助のスマホが鳴って、「参加許可降りたよ」と微笑まれた。一枚のカードが、私たちの前に差し出される。
「ふぅん? 珍しいわね。二人とも同じ卦が出ているわ」
「同じ?」
「ええ。実り多い合宿になるようね。二人とも、それぞれ大切なものが見つかりそうよ」
「そうかな。僕は今日失くしたばかりなんだけど?」
「別物よ。ただ、見つけたあとにどうするかはあなたたち次第よ。自分の気持ちに真っ直ぐ行動するのが良いわ……素敵なクリスマスになりますように」
赤いルージュを纏う唇は見守るように笑う。
……大切なもの……なんだろう。ちょっとドキドキするかも。
◇
「あれー? 先輩、不二先輩と同伴出勤っすか」
桃城がにやにや揶揄ってきたから、周助が氷点下の笑顔で睨みをきかせている。昨日彼女にふられたばかりなのだから、知らなかったとしても桃城が悪い。
朝は早かった。目的地はリゾート地という名の山の中の施設らしく、昨晩突然参加が決まった身としては荷物の準備に両親への連絡と非常に忙しかったのだ。学園の門近くに停められた部活共用の中型のバスの前には、参加選手とお手伝いの一年生が荷物を手に集合している。
「私もお手伝いで参加することになったの」
学園の有名人不二周助と平々凡々な私が幼馴染なのは知られていることだ。飛び入りの手伝い参加もそう驚くことでもないのか、「よろしく」「頑張れ」と素っ気ない返事だった。唯一ひときわ大きな反応を返したのは、一年の小坂田朋香だ。
「わぁ先輩おはようございます! 三年生レギュラーの丸秘話、いっぱい聞かせてくださいね!」
「よ、よろしくお願いします」
恥ずかしそうに笑う竜崎桜乃も加わり、女三人の井戸端会議が始まる。
「朋香ちゃんは朝から元気だね。桜乃ちゃんもよろしくね。でも期待に沿えるようなネタは持ってないよ」
「先輩は不二先輩ネタの宝庫じゃないですか」
「皆んなが知ってるようなことしか知らないよ……」
実は皆んなが知ってることも知らない。学園新聞で読んだ「好きなタイプは指が綺麗な人、花の香りがする人」については、「つまり実姉か」と沢山揶揄ったところ「鬱陶しいからもう家に来るな」と出禁を喰らった。しかも二週間も。つまり、私が周助について知っていることなどほぼ皆無なのである。
「今回の合宿も、イケメン選手ばっかりなんですよ! あ、勿論一番素敵でかっこいいのはリョーマ様ですけどね」
バスの通路を挟んだ向かい側で、朋香は楽しそうにはしゃぐ。その隣で桜乃は恥ずかしげに視線を『リョーマ様』の座る方へ向けたけれど、当の王子様は生憎深い居眠り中だ。カーブの度に肘置きの肘が落ちそうになるのを見ているとヒヤヒヤするので、もう見ないことにする。
「うちと氷帝と、他には……」
先ほど手塚から貰ったばかりのプリントに目を落とす。青春学園元レギュラー。氷帝学園元レギュラー。聖ルドルフ学院からは観月、赤澤、柳沢、木更津、そして不二裕太。不動峰中から橘、神尾、伊武、石田。山吹中から千石。
「周、この合宿の参加要件って何なのかなぁ?」
「財団側で事前協議して選抜したらしいよ。基準はよくわからない」
「へえ……」
参加者は選手が二十八人。監督として青学から竜崎スミレコーチ。手伝いとして青学から堀尾、加藤、水野、竜崎、小坂田、私の六人。合宿所には専属の料理人たちが居て、館内清掃や衣服のクリーニングは委託業者が、雑務を手伝ってくれるスタッフやトレーナーも居るらしい。
……お手伝いって、私何が出来るの? 必要なくない?
自分の部活の合宿のときは、料理は自炊と部員の父母による持ち寄りだったし、掃除や洗濯も自分たちでやったし、練習の補助にしても交代制だった。金策の当ての有るなしでここまで違うのは驚きだ。
……よく参加させて貰えたよね。
後悔したところで時は遅い。バスは既に高速道路を快適に進み、ワイワイと和やかな空気の中に埋もれてしまっている。
……精一杯やるしかないかぁ……。
『やっぱり必要なかった』と思われないように頑張る他にはにない。『お手伝い』の仕事内容を尋ねることから始めようと朋香に話しかけようとしたところで、スマホが小さく震えた。今の時間、学園は授業中だ。ラインの相手は裕太だった。
『合宿来るんだって? 何しに来るの?』
……それは私が聞きたい。
たった二言のそっけないライン。いつもは私から送ってもまともに返信もしないくせに、と、弟分大好きな姉貴分は顔をしかめる。すぐ前の座席から、「裕太から連絡来た?」と周助が微笑みながら顔を出した。
「来た。なんか歓迎されてない」
「そういう年頃なんだよ」
「年子だよね」
『裕太とイブを過ごしたいからだよ』とふざけたメッセージを返したら、そのあとの返信はなかった。どうせ『バカ言ってやがる』と呆れているんだろう。
周助の隣に座った菊丸が、シートの上から顔だけのぞかせて、「なんだなんだー?」と大きな目をさらに大きくしている。
「元気ないじゃーん」
「裕太が冷たいの……」
「えー弟くん狙いなの? 不二狙いじゃないんだ?」
「そういうのいいから」
「まま、どっちでもよし! こういうときは、楽しまなきゃ! UNOしよーぜ、そこのシート倒してさ」
周りがどんなテンションでも、自分のペースに巻き込めてしまうのが菊丸節だ。空いているシートを倒して、バッグから大量のお菓子とUNOを取り出す。遠足みたいでちょっと楽しくなってきた。
「桃! UNOやるぜUNO!」
「お、いいっすねー! ほら起きろ越前!」
「俺はいいっす」
「先輩がやろうっつったらやるんだよ!」
自分の席で渋っていた越前だったけれど、周助の「そろそろ運動部の縦社会に馴染んでもいいんだよ」という言葉にとても嫌そうな顔をしてこちらにやってきた。そういう周助本人は、菊丸の誘いを「次の次から入るよ」とふんわり笑って断っている。
「おっし、それじゃ一回戦は俺とお前と桃とおちびだな!」
「……」
四人仲良くカードを囲んだところで、頭上から悪意が落ちてきて背筋に寒気が走る。もっと前の方の席で手塚と話していたはずの乾が、いつの間にかすぐ近くで笑っていた。眼鏡を光らせるな。
「ビリの人間にはこれ。改良型乾汁だ」
「……私やっぱ抜ける」
「後々の練習のことも考えて、青酢や鰯水は不適切と考えた。君は一応女の子だしね。」
「乾先輩。比較対象から間違ってるっすよ。鰯水と比べたら乾汁の破壊力は大したことないけど、普通のジュースと比べたら破壊力は計り知れないっす」
心なしか越前の必死さが伝わってくる。残りの三人は無言で頷いたけれど、データを取りたいのか嗜虐趣味があるのかわからない男は聞く耳を持たない。
「さあ、ゲームを始めよう」
◇
不二裕太は、合宿施設のエントランスで溜め息をついた。跡部グループの所有するスポーツ施設は、緑豊かな山の中を贅沢に利用した広大なものだ。いち早く到着した聖ルドルフ学園のメンバーは、他の学校が到着するのを待っている。ラインに返信がないことを確認し、裕太はもう一度息を吐く。
……何考えてんだ兄貴。姉貴つれてくるなんて。俺とイブ過ごしたいからって、本気で言ってんのか?
隣人の姉貴分は裕太のことが大好きだ。そんなことは物心付く頃から知っている。ずっと姉弟のように育ってきたから、彼女のことは本当の姉のように思っている。
その認識が変わり始めたのは、つい最近のことだ。
「遅いな他の学校の奴ら」
「んふっ、まあそう苛立つこともないでしょう。こういうときは早く着いた方が落ち着いて練習に臨めますよ」
「今回こそ青学と氷帝に借りを返すだーね」
「そうだね。裕太もお兄さんと試合できるの、楽しみだろう?」
クスクスと笑みを漏らしながら木更津が話しかけても、裕太はぼんやりとスマホを見つめたまま。
「裕太くん?」
怪訝そうな観月の声も勿論届かない。『僕を無視しようなどいい度胸だ』と、観月がもう一度声をあげようとしたとき、静かなホールに騒めきが届いた。
「お、ようやくどこかの学校が着いたみたいだーね」
「そのようですね」
観月らが目を向けた先、中型のバスから降りてきたのは、顔を真っ青に変えた青学の面々だった。
◇
……ありえない。吐く……。
下を向くと内臓が出そうになる強烈な不快感に襲われながら、口元をハンカチで押さえてなんとかバスから降りた。隣で爽やかな顔をしている周助が憎らしい。
車内UNO大会は文字通りデスマッチだった。対戦を重ねていくごとに、死者の数は増え、結局手塚の一人勝ち。乾汁には耐性のある不二と二人だけが生き残り、残りの参加者はゾンビと化した。
「周はなんで平気なの」
「結構美味しいよあれ」
「信じられない、だって、まず臭いが……んーん、やめる、何でもない……」
小学生のときクラスで飼っていたカブトムシの匂いがしたことは今すぐ忘れたい。
なんとか荷物を持ち、美術館のような造りのエントランスを進む。ロビーには既にルドルフのジャージが何人か居て、やけに高圧的な声色が静かな空間に響いた。
「まったく、何をやっているんですかあなたたちは。合宿が始まる前からそのような状態でどうするんです」
「心配は要らない。すぐに回復するはずだ」
手塚が涼しい顔で答えると、観月はじめもそれ以上深くは追求してこなかった。
……これ本当にすぐ回復するの?
朋香や桜乃の隣で座り込んで、機嫌の悪そうな裕太を見つけた。周助は可愛い可愛い弟に会えて心底嬉しそうだ。
「裕太、こっち。久しぶりだね、ちゃんと元気?」
「おう。つか姉貴さ、本当に来たのかよ」
「……気持ち悪い……」
隣に立った裕太の腕に縋り付いたけれど、「くっつくな」とものの数秒で払われた。なんて冷たい。また床にへたり込んだ私を呆れたように見やって、裕太は周助を睨む。
「兄貴、なんで連れて来たんだよ」
「あれ? 聞いてないの?」
「はあ?」
「お隣夫妻は揃って出張。母さんは北海道にお義理で姉さんも海外出張。一週間も一人になっちゃうから、無理言って参加させてもらったんだ」
「……なんだぁ、そっか」
胸を撫で下ろしている裕太の意味がわからない。周助も同じようで、首を傾げている。
「どうしたの裕太」
「いやさ、姉貴がふざけたメール送ってくるから」
「裕太って可愛いから。ついからかいたくなっちゃう気持ちはわかるよ」
「どういう意味だバカ兄貴」
兄弟が微笑ましい会話をする中、続々と氷帝、不動峰、山吹のバスや車が到着する。頭上で繰り広げられるたわいない兄弟喧嘩を聞きながら、内心で周助と同じように首を傾げた。
……裕太が変だ。
私に対する態度が挙動不審なのだ。少し前まではそんなことはなかったのに。最後に会ったのは、二ヶ月くらい前だろうか。買い物に出たときに、偶然あったけれどそのときはいつも通りだった。ばったり会って、少し立ち話をして、五分もしないうちに別れたように思う。たったそれだけの間に、何か裕太を怒らせてしまうようなことをしてしまったのだろうか。
……それなら、後で謝らなきゃ。
溜息をつくと、床に一つの影が落ちた。誰だろうと見上げると、そこにはコートでしか見たことの無い顔。
……跡部景吾、様。
魔等空気が違う気がした。研ぎ澄まされた雰囲気も、鋭利につりあがった瞳も、整いすぎている顔も、全部が怖い。
「お前かよ、手塚が言っていたオマケは」
「あ、の私」
「そんなところに座り込んで何を考えている? 遊びにでも来たつもりか。ふざけるな」
「!」
最後の一言があまりに尖っていた。跡部の澄んだ声は、高い天井のロビー中に響く。それまでざわざわとしていた空気が一瞬にして静まり返った。何事かと、視線が一身に集まったのがわかる。
「プレイヤーだろうがサポーターだろうが同じだ。やる気がないなら今すぐ出て行け」
「……」
……え……。
頭が真っ白だ。ただ座っていただけなのに、何故突然きつい言葉を浴びせられなければいけないのか。やる気だってそれなりにある。言いたいことは頭の中に浮かぶのに、即座に言葉にならなかった。憤る心とは別に、涙腺が勝手に緩み出す。氷のような冷たさと痛さに、圧倒される。
すっと、無言で私と跡部の間に立ったのは傍に居た周助だった。跡部に向かい立つ周助は私からは背中しか見えないけれど、きっといつものように穏やかに微笑んでいるはずだ。
「ごめんね跡部、君の闘志に水を差したかな。この子は今少し具合がよくないだけなんだ」
「ふっ、不二。お前が手塚に頼んだらしいな。合宿に女を連れてくるなんて随分と余裕だなぁ、青学の天才さんは」
「ただの友人だよ。それにこの子の参加は君が許可したんだろ? 合宿を前に気持ちが昂ぶるのはわかるけど、この子あたらないでくれるかな」
「……」
周助の言葉は最後のほうで少しだけトーンが落ちた。跡部は小さく笑いを漏らすと建物の奥へと踵矢を返す。その後ろを、氷帝の選手たちも慣れた様子で着いて行った。
跡部が姿を消すと、ロビーに落ちた緊張もようやく霧散した。裕太が気遣う表情でこちらを覗き込む。
「姉貴、大丈夫か?」
「……びっくりした、何、あの人、怖い。」
「あれくらいで泣くなって。けど跡部さん、今日はまた随分とピリピリしてるみたいだな」
「コロシアムに入場したファイターだね」
周助がくすくすと笑いながら手を差し出してくれた。手のひらに伝わる心地よい体温に、ようやく心が落ち着いてくる。
「なんか、周助まで巻き込んじゃってごめんね」
「あの程度。それだけ跡部がこの合宿に懸ける思いは強いってことだよ」
「あそこは二回も青学に負けてるからなぁ。ま、うちも人のことは言えないけど。今日こそあのときの借りを青学に返してやるぜ!」
「……」
ロビーの雰囲気はすっかり元通りだ。不二兄弟もいつもどおりテニスの話をし始めるが、こちらは未だにもやもやしている。
……あんな言い方するくらいなら、最初から参加を許可しなきゃいいじゃん。
だいたい、青学の選手たちも未だ具合が悪そうな顔をしているのだ。汁まで予想はつかないにしても、車に酔ったのかもしれないくらいの想像はしたっていいと思う。
……ものっすごい働いてやる。
限界突破上等で、思い切り働こう。謝罪までは期待しないものの、『自分が間違っていた』くらいは思わせてやりたい。
……よし! やる気倍増!
小さく拳を握りしめたところで、竜崎先生の集合の合図がロビーに響いた。
大量の食器が入ったコンテナを業務用の食洗機へ入れて、スイッチを押す。あとは機械が勝手に洗ってくれるのを待つだけだ。ブザーが鳴ったら取り出して軽く拭き棚に戻す。それだけで夕食の片付けは完了だ。待っている間にランドリールームを確認に行こうとしたところへ、一年生トリオがコートから戻ってくる。
「先輩、ボール数え終わりました。」
「お疲れ様。あとはコート整備でよかった?」
「はい、そうっす!」
空はもう星が見え始めていて、夜風はかなり冷たい。コートへ向かう途中、明るすぎるほどの照明の下で朋香は「あーあ」と面白くなさそうに白い息を吐いた。
「結局今回も忙しくて、まともにリョーマ様を応援する時間すらないわ」
「そうだね。選手と話をする時間さえ無いよね」
練習時間は勿論、選手の休憩時間はお手伝いにとって一番忙しい時間帯だ。
「何言ってるんだよ小坂田! お前も跡部さんにどやされるぜ!」
「うっさいわよ堀尾のくせに! 大体あの跡部さんの態度! 感じわるっ!」
「……びっくりしたよねぇ」
朝の跡部の態度に朋香はともに腹を立ててくれたが、私と同じ気持ちなのはどうやら朋香や桜乃だけのようだ。青学の面々でさえも、「災難だったな」のあとに「気を引き締めていけよ」と笑顔でたしなめられた。
……はぁ。やっぱり私が悪かったのかな……。
普段は軽い青学テニス部の面々にまで諭されては、流石に反省せざるをえないけれど、でもどうしても納得いかないのだ。いくらテニスが大事だからといって、初対面の相手にあの態度は非常識だと思う。
……周ちゃんも裕太も、テニステニステニステニス!
不二兄弟がテニスを始めたのはもうずっと昔。物心つくころにはラケットを握っていたけれど、でも今ほど夢中にはなっていなかったと思う。小さな頃はもっと、別のことをして遊ぶ時間が多かった。それが今では口を開けばテニステニス。
「……先輩、先輩!」
「え! あ、はい!」
目の前で手を振る朋香の膨ら面に、我に帰る。「もー! ちゃんと聞いてくださいよ!」と可愛いほっぺを膨らませている。
「ごめんね。何の話だっけ?」
「うふふ。こういうのは夜のお楽しみにしようと思ってたんだけど……我慢できない! ぶっちゃけ! 先輩と不二先輩の関係は⁈」
「……だから、ただ家が隣なだけだって」
中学に入ってから何度も何度も繰り返された質問と答え。三年生の中ではもう私たちの仲を間を勘ぐる子は居ないけれど、一、二年生の中にはまだ疑っている子が居る。周助の魅力が怖い。
『不二先輩と付き合っているんですか?』
呼び出されたり、通りすがりだったり。もう何回聞かれたか数えるのはやめた。周助の五分の一でいいから私もモテたいとは、常日頃から思っている言わないけれど。
「えー本当ですかー? 私の情報によると、不二先輩は二年の彼女と先日別れてるんですよ」
「……」
「あ、先輩が黙ったってことは信憑性高いわね。その破局に、先輩が一枚絡んでるんじゃないかって噂なんですよ」
「冗談やめてよ。なんで悪役みたいになってるの。私、その彼女とも普通に面識あるし……」
その彼女のことを初めて認識したのは、周助から紹介されたからじゃない。第三者から聞いたのだ、『あの子が不二くんの彼女なんでしょ』と。委員会の仕事で彼女と話すようになったのは、それからすぐあとのことだった。
「なーんだ、つまらないの」
「面白くなくて結構です。ほら、ブラシ止まってまーす」
「はぁい」
ブラシを動かす手が重い。気持ちがずくんと沈んでいく。私が一枚咬んでいるという噂が立っているらしい。どこからそんな話が出てきたのだろう。異性の友だちが仲良くしているのなんて、よくある話なのに。周助がイケメンすぎるのが悪いのか。
……あの子、その噂信じたりしてないよね?
周助がそんな噂を信じるわけがないとは思う。二人の間に何があったのかは知らないけれど、もし彼女がその噂を信じていたら、今私は見当違いに恨まれているかもしれない。
……本当、冗談じゃない。
山の夜風が、頬に痛い。
「よし、それじゃ明日も頑張りましょう!」
「はい!」
食堂の一角で『お手伝いミーティング』を終えて、少しほっとした気分で笑いあった。明日のスケジュール確認と今日の反省会。プレイヤーが気持ちよく練習出来るよう、改良すべき点もみつかった。時計を見ると九時を少し回ったところ。
「お風呂に入れる時間だね」
ホテルとは違って、お風呂が各部屋に無いことは荷物を置いたときに確認した。大浴場が豪華なのは跡部の趣味、というようなことを昼間にスタッフから聞いているので楽しみではある。選手のミーティングとお手伝いチームの後片付けの都合で、九時から十時までがお手伝いチームの入浴時間らしい。
「スタッフさんは別のお風呂なんでしょう? わたしたちの貸切ね!」
「朋ちゃん、おばあちゃんも居るかもしれないよ?」
「あ、そっか。先生も入浴時間一緒なの?」
歩きながら忘れ物に気がついた。足を止めると、二人が振り返る。
「先輩?」
「ごめん、洗顔フォーム忘れちゃったから先に行ってて」
「私持ってますよ。使ってください」
「ありがと。でもすぐだから、戻るよ」
折角持ってきたのだから、自分のものを使いたい。急げば部屋まで三分だ。高級ホテルのような、お洒落な間接照明で少し暗い廊下を早歩きで部屋に戻る途中、前方に道草の原因を見つけてしまった。
……裕太。
廊下で一人、壁に寄りかかってスマホをいじっている。照らされる表情は少し微笑んでいて、なんだか知らない人みたいだ。「裕太」と小声で呼ぶと、上げた顔はいつもの裕太だった。
「姉貴。これから風呂?」
「うん。裕太は何してるのこんなところで」
「別に、ただのライン。部屋だと柳沢……センパイが邪魔するから」
「そう? ……久しぶりだよね、こうやって夜に裕太と会うの」
「そうだな」
そっけない返事が、妙に気まずい。実家にいたころは夜でも昼間でも、会えば沢山色んな話をしたのに。
「冷たいなぁもう!」
「別に、普通だろ」
「普通じゃない! ちっちゃいころはねーちゃんねーちゃんってまとわりついてきたのに!」
言いながら裕太の腕に自分の腕を絡める。昔からのいつも通りの、なんてことない仕草だ。だけど。
「! やめろよ!」
「わっ」
絡めた腕を乱暴に振り払われて、よろけた。そんなに強い力じゃなかった。私が、大きな声にびっくりしただけだ。面倒そうに、でも本気で嫌がってはいないいつもの感じとは全然違う。
……本気の嫌……?
裕太は一瞬「あ」の口を作ったけれど、すぐに何かを決めたように真剣な顔をして私を見つめる。内側がざわざわする。
「姉貴さ、……きついこと言うようだけど、もうこういうの、やめて欲しいんだ」
「『こういうの』って?」
「腕を組んだり抱きついたり……もう俺に、馴れ馴れしくしないで欲しい」
……あ……。
これは本気の拒絶だ。こんな顔でこんなこと、これまで言われたこと、無い。
あまりに急で、驚いてしまって、勝手に目が潤んでくるのを必死に堪える。自分で言ったくせに今度はすごく驚いた顔をして、「あ! そうじゃなくて!」と、いつもの顔に戻った裕太はこっにに唾を飛ばした。
「姉貴が嫌いだとか、そういうわけじゃないんだ!」
「じゃあ、なに」
「俺たちはさ、確かにほぼ一緒に育ったけど、本当の姉弟じゃないだろ?」
「あたりまえじゃん」
「だから、迷惑なんだ。こういうの」
「……」
「ごめんな。でも本当に、姉貴が嫌いなわけじゃねーから……」
気まずそうに髪をくしゃくしゃと撫でた裕太は、視線を逸らしたまま「おやすみ」と呟いて廊下の向こうへ行ってしまった。
『馴れ馴れしくしないで欲しい』
『迷惑なんだ』
怖い。今まで一方的に好いていたのは、私だけだったのかもしれない。もしかしたらずっと嫌われていたのかもしれない。もしかしたら周助も、裕太と同じように私のことを疎ましく思っているのかもしれない。
「っ……ぅ……」
物音ひとつしない廊下に、嗚咽が洩れるのをどうしても止められなかった。迷惑だと、思われていた。
「僕が思うに」
「ひぁっ⁈」
突然湧いて出てきた男の人の声に、驚きすぎて心臓が止まるかと思った。いつの間にか私のすぐ後ろに立っていたのは観月はじめ。持っていたタオルで急いで顔を擦する。
「観月くん⁈ いつから居たの⁈」
「あなたたちが素通りしにくい話をしはじめる前からですよ」
「ぐ……」
「まったくいい迷惑です。少し夜風に当たって戻るつもりが、無駄な時間を過ごすことになってしまいました」
紫の薔薇が刺繍されたカバー付きの、ポケットティッシュを差し出された。
……ええ、観月くんいい人じゃん……。
周助は『極悪非道』『虫以下』と言っていたけれど。ありがたくティッシュを受け取り改めて涙を拭くと、観月は満足したように笑った。
「僕が思うに、裕太くんも彼なりに悩んだ結果なんでしょう」
「え?」
「二ヶ月前、彼が恋人と大きな喧嘩をしたのをご存知ですか?」
「……知らないです」
裕太に彼女が居ることすら知らなかった。観月の登場で驚きのあまり忘れていた胸の痛みが、また湧き上がってくる。いつの間にか、知らないことだらけだ。昔は距離なんて少しもなかったのに。
「喧嘩の原因はあなたです。」
「私?」
「ええ。町で偶然、あなたと裕太くんが寄り添っていたところを、彼の恋人が目撃したそうです」
「え……」
「さっきの言葉も、彼に悪意はないと思いますよ。頭が足りず語彙力もないから、あなたを傷つけずに済む言葉がみつからなかったんでしょうね」
「はぁ……」
観月の、励ましなのか侮辱なのかよくわからない言葉のおかげで、胸の痛みは小さくなった。
……なんだ、そうか。じゃあ悪いのは私だ。
やるせない。
落とした視線が捉えた腕時計は、もう九時を大分回っていた。
「あ、入浴の時間」
「まだ済ませていなったのですか。この僕の往来を邪魔している暇があるのならばやるべきことをなさい」
「……」
……観月くんが呼び止めたんだよね?
とは思っても言わない。観月のフォローがなかったら、まだ一人でメソメソ泣いていたかもしれない。
「観月くん、ありがとう」
「ただの気まぐれですよ」
「周助が言ってたよりずっと良い人だね」
「……。んふっ、まあいいでしょう。僕に感謝するなら、今のその気持ちを是非不二周助に伝えてやってください」
「わかった。じゃあ、おやすみなさい」
「明日も早いですよ。気にせず早く寝ることですね。おやすみなさい」
天使みたいに柔らかな笑みで、観月も暗がりのなかに消えていった。
……観月くんは周と仲直りしたいんだね。
嫌われるのは辛いと、今は特に身に染みて思う。勿論、裕太の『嫌いなわけじゃない』という言葉は本当のことだと思う。でもただ、悲しいのだ。頭ではわかっていても、心がシクシクと音を立てる。
……あ。そういえば周助も。
周助たちの破局に私が関係しているという噂も、私が周助に馴れ馴れしくしすぎているからかもしれない。
……どんどん変わっていくんだね。
ため息を飲み込んだ。
洗顔フォームを取りに行く気は完全に失せた。お風呂で全部洗い流してしまうため、もと来た暗い廊下を戻る。
◇
「やあ、おはよう。」
「おはよう大石。よく眠れた?」
「ああ、やっぱり山の空気は気持ちいいな」
大石が吸えば、排気ガスがだらけの車道の空気だって爽やかになると思う。そんな風に笑う大石のトレイに、ご飯をもった茶碗を乗せる。色んな穀物たっぷりのご飯茶碗は、こちらの気持ちとは正反対で幸せの香りに満ちている。
お手伝いメンバーの朝一の仕事はネット張りとドリンク作り。その間に料理人が厨房に立ち、お皿に出来上がった料理を配るのはお手伝いメンバーの仕事だ。
「おっすー! ん~いい匂い!」
「おはよ菊丸」
「はよーす! 先輩俺超特盛りね!」
「みんなおんなじだよ。おかわりしてね」
……よく食べるなぁ。
同じ数のおやつを食べていた周助や裕太が、信じられない量を食べるようになったのは中等部に上がってからだ。また心が傾いていきそうになるのをとどめたのは、今まったく聞きたくない鋭い声だ。
「朝からぼけっとした顔してんじゃねーよ。顔洗って出直して来い」
「……おはよう跡部くん」
『ふん』と、挨拶の代わりに返ってきたのは高貴な鼻息だった。
……私だって一生懸命やってるんですけどー。
勝手にうるっと来たのは、跡部のきつい言葉のせいではない。もう昨晩からずっと泣きたいのだ。これ以上何か言われる前にと、手早くお皿をトレーに乗せる。
「昨日は悪かったな」
「え?」
……なに?
予想だにしない言葉だった。まじまじと見てしまったお顔は、朝日を浴びて神々しいほど涼やかだ。
「だがまだ効率が悪い。無駄をなくすよう心がけて万全のサポート体制をとれ」
「……」
「返事は」
「……はい」
たまたま列が滞って、跡部が目の前に居る時間が長かった。謝罪の言葉なんて全く期待していなかったのに、ぐずぐずしている私の方が恥ずかしいくらいの潔さだ。
……うぅ……大人だ……。
過ぎて行くその背中をなんとなく追っていると、柔らかい声に名前を呼ばれる。
「こらこら、ぼーっとしない」
「周おはよう、今ね、跡部くんが」
「跡部が?」
謝ってくれたんだよ、と続けようとしたけれど、後ろの列で観月の咎めるような声がする。
「なにをしているんですか。後ろが詰まっていますよ」
「……また後で」
「うん」
一瞬観月を睨んだ周助だったけれど、今は観月の方が正しい。慌ててトレイにお皿を乗せると、列は順調に進んでく。
周助の次に並んでいたのは、裕太だった。気まずそうに私から目を逸らすと、「おはよ」と小さく呟やく。昨日のことをちょっと後悔してるのはわかった。
……でも、裕太が正しいんだよ。
「おはよう。はい、どうぞ」
「ありがと」
名前を呼んでもいいのかわからない。どこまでが迷惑で、どこまでならいいのか。今は嫌われていなくとも、いつか嫌われてしまうことが怖い。さっきの跡部の余裕のある表情とは、きっと真逆の顔をしている。
……私もあの人くらい、余裕持てたらいいのに。
夕暮れの住宅街ですれ違うのは見知った人ばかりだ。終わりが見えてきた家路にほっとしながら、買い物袋の中身をちらりと見た。こう寒い日は鍋に限る、と言いたいところだけれど、生憎これから一週間は一人暮らしだ。
……カレー沢山作って、冷凍したら一週間は持つよね。
本当なら全て外食で済ませたいけれど、浮いた食費はそのままお小遣いになる。お財布に残ったお札の使い道を考えると頬が勝手に緩んでしまう。
……不二ママも気を遣ってくれるだろうし。
我が家と隣の家の不二家とは私が生まれる前からの付き合いだ。うちの両親はバリキャリの共働きで、私が中学に上がってからは出張も増えた。もっとも、今回のように両親とも同時に、しかも一週間も帰って来ないことは初めてだけれど。留守番慣れしている身しては寂しいというわけでもないし、何よりお隣には親戚よりも親戚らしい付き合いをしている不二家がある。
……あれ? なんだろ。
たどり着いた我が家のさらに先にある不二家の前にタクシーが止まっていて、不二母が足早に乗り込んでいるのが見えた。運転手は大きなスーツケースをトランクに積む。
……不二ママもお出掛けなのかな。
タクシーがあっという間に小さくなっていくのをぼんやり見ていたけれど、食材の重さに早く家に入ろうと門に手をかける。
「今帰り? 遅かったね」
「周。ただいま」
向こうの門から顔を出して私を呼び止めたのは、隣のクラスの不二周助だった。
十二月も半ばに差し掛かって、夜が近づく空の下で吐く息は白い。制服にコートを着ている私とは違って、周助は薄手のシャツ一枚だ。これは長く話してはいけないと思い、手短に尋ねる。
「不二ママ旅行?」
「北海道に急なお義理が出来ちゃったんだ」
「冬の北海道かぁ……寒そ」
「コートを何着も詰め込んでたよ。一週間くらで戻るってさ」
「そうなんだ。じゃあ周も由美姉さんと二人暮らしだね」
「いや僕は……まあいいや。寒いから後でそっちへ行くよ」
「うん、わかった」
細身の体を震わせながら、周助は家の中へと戻っていった。私もお家に入ろう。
父親が外資系の一流商社に勤める不二家。忙しなく共働きをしている我が家。その庭の境には、ブルーグレーの柵と同じ色をした小さな扉がある。今でこそ腰丈程のその扉は、小さな頃から不二姉弟と私をつなぐ扉だった。
「にんじん、たまねぎ」
歌いながら、野菜室へ買ってきたものを詰め込む。コートとマフラーをソファーにかけて、居間の大きな窓の鍵を開けると制服を着替えに二階へ上った。生まれたときからの幼馴染が、玄関から入ってきたことなど最近の記憶にない。
……周、あの噂本当なのかな……聞いてみてもいいのかな。
周助の噂話は、望まずとも真っ先に私の耳に入ってくる。幼馴染ということは学園内に知れ渡っているから、真偽を検証してもらおうという魂胆だと思う。今日聞いた噂話もそうだった。
……いつもどうでもいい話しかしてないんだから、立ち入った話が本当かどうかなんてわかんないよ。
着替えを終えて降りていくと、予想通り周助は既にソファーに座っていた。こちらに視線も寄越さずに、ぼんやりとテーブルのミカンを見つめている。
「……今日カレーなの? そのルー好きだよね」
「今日っていうか、一週間カレー」
「僕はそんな女の子とは付き合いたくないな」
「私だって周と付き合いたいなんて思わないもん」
「ふーん、まあそうだろうね。僕はモテないから」
……うわぁ、機嫌わる。
涼やかな瞳は穏やかな様子で細まっているのに、口角は一ミリも上がっていない。何より纏う雰囲気が投げやりだ。これは相当機嫌が悪いうえに、かなり落ち込んでいる。
『不二周助が彼女にふられたらしい』
それが今日聞いた噂の内容だった。周助の彼女は一つ年下の二年生。何とかの委員会で一緒になって、周助のほうが好きになって付き合い始めた子だった、というところまでは本人の口から聞いて知っている。つい先日も仲良さ気に歩いていたのを目撃したばかりだったから、私は噂を一蹴してしまったのだけれど、この様子を見ると本当なのかもしれない。
……そうっとしとこう。
部屋の中に小さな沈黙が落ちた。その空気を断ち切るために、カレーの準備をしようとエプロンをつけたけれど、実際に断ち切ったのは居間の窓が開く音だった。顔を出したのは不二家長女の由美子だ。誰もが振り返る美女が、長い髪をサラリと揺らしてこちらを覗き込んでいる。
「あら、周助も居たの?」
「居ちゃ悪いのかな」
「随分ご機嫌斜めね」
一瞬で周助の不機嫌を見抜いた由美子は困ったように嫋やかに笑う。ファー付きのコートにエレガントなワンピースを着こなす様は今日も強くて美しい。
「今日またお客様から色々戴いてしまったから、何か欲しいのあったら貰ってくれない?」
「わぁ本当、嬉しい!」
「また貰ったの。姉さんも人が悪いよね」
由美子の常連客には、占い目的ではなく由美子目的の男性客も多い。IT企業の社長から政界に至るまで由美子人気は計り知れず、そういった客は来るたびにプレゼントを持参するらしい。けれど由美子にとってはあくまで客と占い師の付き合い。彼女の好みを正確に把握している客は少ないし、中には二十歳過ぎの由美子が身につけるには幼すぎる物を贈る客もいる。そういったおこぼれを、由美子は妹分である私に時折贈ってくれる。「断っているのに押し付けていくのだから、捨てるよりずっと良い」とは由美子の言い分だが、私としてもとてもありがたい。
「あ、姉さん。母さんはお葬式で北海道に行ったよ」
「ええ? そうなの? もう居ないの?」
「今さっき出てったよ。七時の飛行機だって。姉さんに留守をよろしくって言ってたよ」
「えー……やだ、困ったわ……色々困ることはあるけど、さしあたり今日の夕食ね」
「由美姉、カレーでよかったら食べる? これから作るけど」
「食べる食べる」
着替えてから手伝うと言い残し、由美子は不二家へと戻っていった。慌しいが明るい姉のおかげで張り詰めていた空気は霧散して、私たちは顔を見合わせ小さく笑った。
ミカンでお手玉をはじめた不二を横目に、野菜を切りながら話しかける。
「由美姉が手伝ってくれるなら、本格スパイスカレーになるね」
「うんと辛くして」
「やだ」
「弱ってる幼馴染が可哀想だと思わない? 噂聞いたでしょ。あれ本当だから」
……うっそ⁈ 周がふられたの⁈
シンクにじゃがいもが落ちる。
「周をフる子なんて居るの⁈」
「それが居るんだよ。理由は教えてあげないけど。面白くない話だから」
最初は二つで始まったミカンのジャグリングが、いつのまにか三つ四つ、五つと増えている。
……いつも器用なくせに、肝心なときに不器用なんだから……。
周助は、私が知る中で誰よりも優しい男の子だ。しかも洞察力が鋭くて、周囲の気持ちにすごく敏感。それで損をしている場面を、小さな頃から何度も見てきた。今回もきっと、彼女を想って何かしたりしなかったりしたことが、原因なんじゃないだろうか。でなければ、ふられるなんて有り得ないことだと思うのだ。
じゃがいもの皮を丁寧にむきながら、慎重に言葉を選んでいく。これ以上嫌な気持ちになって欲しくなかった。
「私、彼氏とか居たことないからわかんないけど、絶対に周は悪くないと思う」
「そういうの依怙贔屓って言うんだよ。不公平だね」
おどけた口調でそう言った周助だったけれど、それっきり黙ってしまった。少しの沈黙のあと、長い溜息がリビングに響く。ソファーに深く腰掛けた周助は天井を仰いで、両目を手のひらで隠してしまった。
「……流石に、ちょっと堪えたなぁ」
「うわぁ絶許。彼女、許さん」
「はは、怖いね」
……うう、モヤモヤする……!
周助を悲しませたあの子に対する怒りと、周助が悲しんでいることが辛くて、玉ねぎを切ることにする。揶揄われるから口には出さないけれど、私にとって周助は同い年の兄のような感覚なのだ。大事な人を大事にしてくれない人なんて嫌いだし、もっともっと大事にして欲しかった。
「二人ともお待たせ。周助、だらだらしてないでほら、にんじんの皮剥く。落ち込んでるときには体を動かした方がいいんだから」
「はいはい。姉さんには敵わないよ」
色々なスパイスを抱えて窓から入ってきた由美子の指揮のもと、器用すぎる周助の力技もあって夕食はすぐに出来上がった。
さっそくカレーにお気に入りの香辛料をふりかけている弟を横目で見て、苦笑しながら由美子が口を開く。
「それで? お母さんはいつ帰ってくるの?」
「一週間後だから……ちょうどクリスマスの日だね」
「そんなに? 私明後日から仕事で海外なんだけど、お隣も大人は出張でしょう? 二人きりで大丈夫かしら?」
不二家の父親は海外へ単身赴任中、次男の裕太は寮暮らしだ。
……周もいざとなれば色々してくれるし。大丈夫でしょ。
そう答えようとした矢先、先に口を開いたのは周助だった。困り顔で眉を顰めている。
「困ったな。僕も明日から合宿なんだよね」
「合宿?」
テニス部はもう引退しているから、塾か何かだろうか。由美子が首を傾げる。
「そんな話、私初めて聞いたわよ?」
「姉さんに言ったって仕方が無いじゃない。母さんには言ってあったよ」
「合宿って、塾?」
そう聞いてみると、周助は「テニスだよ」と首を振った。
「ここ最近のテニスブームで、ジュニアも盛んにメディアに取り上げられるでしょう? 支援するために、少し前に財団が立ち上がったんだ。背景はさておいても、理念なんかは共感できるものだよ」
「ふうん?」
「その設立に榊・跡部両グループが一枚噛んでいるらしい。運営の手始めに、ジュニアテニス強化合宿のスポンサーをしようってことになったみたいだよ」
「へえ、すごいのね。んー、でも困ったわ、それじゃ貴女が一人になってしまうじゃない」
そっくりの困り顔をする不二姉弟に、私は笑った。一週間くらい一人で過ごしても、なんの問題もない。
「私は平気だよ全然」
「駄目よ女の子一人で!」
「まあ、よくないよね……。……合宿、一緒についてくる?」
周助はそう言って首を傾げた。「あらそれいいじゃない」と由美子は即断で乗り気だが、私自身はそう簡単に頷けない。
「無理でしょ。だって明日も学校だよ?」
「公欠扱いになるよ」
「選手じゃなくても?」
「僕らもう引退しているから、厳密にはテニス部の活動じゃないしね。いつもの一年生お手伝いメンバーも来るだろうから、大丈夫じゃないかな」
「でもそんな……いきなり一人増えても迷惑なんじゃない?」
「うーん、大丈夫だと思うよ。手塚に聞いてみるからちょっと待ってて」
スマホを片手に周助はリビングを出て行ってしまった。相変わらず、柔らかな態度の割に強引だ。残された女二人は、カレーを口に運びながらヒソヒソと内緒話をする。
「ねえ、周助今日随分機嫌が悪いみたいだけど、何かあったの?」
「んー……彼女にふられちゃったんだって」
「ええっ⁈ あの子をふる女の子なんて居るの⁈ 見る目がないわねその子信じられない‼︎」
「うん。周、結構堪えてるみたい」
「年末年始のデートスポットとかこっそり調べてたものあの子、お姉ちゃん知ってる。はぁ……もう、貴女たちが恋人になればいいのに」
「それは無理、お互い」
由美子がこの冗談を言うのはいつものことだから真剣には返さない。廊下からは周助の話し声が漏れてくる。手塚相手となると、喋るのはほとんど周助のほうだ。
「貴女は今も彼氏居ないの? 好きな子とか」
「両方、作ろうと思って作れるものじゃなの」
当然クリスマスイブの予定は無い。好きな人もおらず、部活は引退、高校は内部進学のため受験もなく、リア充な不二姉弟と違って枯れた毎日を送っている自覚はある。
「電話長いわね。先にプレゼントを見てちょうだい」
電話の行方に後ろ髪を引かれながらも、楽しい気分で由美子が持ってきた紙袋を覗き込んだ。
……今回もどれも高そう……だけど、由美姉の持ち物に加えて貰えるような感じじゃ無いなぁ。
個性的なブランドバッグ、サイズの合わない靴、エレガントなレースがふんだんに使われたショール、小さな宝石がついた小物入れ。
「送り主は、由美姉を狙いがほんとんどでしょ? 可愛いけどさ、全然由美姉のことわかってないじゃん」
「理解こそ、全ての友情の果実を育てる土壌であるということね」
「友情もそうだけどさ、中身を知らないでなんで好きだなんてわかるんだろう。由美姉は格別の美人だけど、中身だって格別に素敵なのに。折角知り合ったのに詳しく知らないままでいるなんて勿体無いよね」
「なんて可愛いこと言うの我が妹は!」
抱き寄せて頭をぐりぐり撫でて貰えた。大人の香水の香りと豊かなお胸にドキドキする。
「相手が理解したいと思っていても、こちらがそれを望まなければ解り得ないもの。だって、占い師はミステリアスであるべきでしょう?」
……由美姉の方から情報をシャットダウンしてるのか。つまり送り主は全員脈無し、と。
自分に置き換えてみれば、クラスの男子とは普通に仲が良いけれど、趣味や好みを詳しく知っているわけでは無いし別段知りたいとも思わない。男子の方だって私に興味の欠片も無いだろう。
……私このさき一生、好きな人なんて作れないんじゃ。
そう嘆くと、大丈夫よと由美子は笑った。いつか、自分のことを知ってもらいたいと願う人と出会えると言う。
「でもさ、その相手が私のこと知りたいって思ってくれるとは限らないじゃん。ていうか、絶対無理だと思う」
……つまり結局は中身より外見ってこと⁈
由美子は声を出して笑い出し、プレゼントの中から大きなリボンのついたヘアアクセサリーを取り出すと、「可愛いから大丈夫よ」と私の頭にあてる。由美子が言う「大丈夫」も、このリボンを由美子につけて欲しいと願う贈り主も、わけがわからない。背中でとびらが開く音がする。
「手塚としては構わないけど、跡部にきいてみるって。ねえそのリボン似合わないよ」
「わかってるし! 跡部くんが良いって言っても、急に『明日公欠します』なんて通らないでしょ。前に公欠とったときは教科担当と担任のサインが必要だったもん」
「氷帝のあの辺りのやることは段違いだから、大丈夫だと思うよ。跡部が手塚の頼みを無碍にするはずもないだろうし、確認は念のため、ね。あとでラインくれるっていうから。待ってて」
学園テニス部のレギュラーとは、幾人かと面識がある。過去同じクラスだったり、委員会や選択授業が一緒だったからだ。
……みんなかっこいいけど、好きいぃぃって思うほどじゃ無いんだよね。ちょっと心細いけど、一人暮らしを好きに満喫してた方がいいよ。
周助はいじわるな顔をして笑っている。
「あんまり行きたくないって顔してるね。どうせ怠惰な生活を満喫しようと思っているんでしょう。カレー女さん」
「一言も二言も多いよ」
「じゃあいいことを教えてあげる。裕太も参加するよ」
「え、行く」
不二家次男の裕太は、私にとっても可愛い可愛い弟だ。ルドルフに転校してからというもの、まともに遊んでもらったためしがない。「それに」と、目の前でまた意地悪な笑みが咲く。
「都内女子生徒の憧れ、氷帝の元レギュラーも全員参加するんだ」
「わぁ、私遠くからしか見たことないよ。だってアイドル並みの人気じゃんあの人たち」
「ふふ。あんまり夢見ないほうがいいよ」
「周助さま、誘ってくださってありがとうございます」
「喜ばれるとそれはそれで面白くないな。やっぱやめようかな」
そこまでにしなさいと、由美子に笑顔で嗜められた。白く美しい手のひらをふわりと差し出されると、そこにはいつの間にかアンティークな柄のタロットカードが積まれている。数多の男女を惑わす妖艶な笑顔に、思わず息を呑む。
「どんな合宿になるか、二人を占ってあげるわ」
「え、僕はいいよ」
「遠慮しない」
繊細なデザインの爪が煌めく指先が、涼しい音を立ててテーブルを滑らかに動く。並べている途中周助のスマホが鳴って、「参加許可降りたよ」と微笑まれた。一枚のカードが、私たちの前に差し出される。
「ふぅん? 珍しいわね。二人とも同じ卦が出ているわ」
「同じ?」
「ええ。実り多い合宿になるようね。二人とも、それぞれ大切なものが見つかりそうよ」
「そうかな。僕は今日失くしたばかりなんだけど?」
「別物よ。ただ、見つけたあとにどうするかはあなたたち次第よ。自分の気持ちに真っ直ぐ行動するのが良いわ……素敵なクリスマスになりますように」
赤いルージュを纏う唇は見守るように笑う。
……大切なもの……なんだろう。ちょっとドキドキするかも。
◇
「あれー? 先輩、不二先輩と同伴出勤っすか」
桃城がにやにや揶揄ってきたから、周助が氷点下の笑顔で睨みをきかせている。昨日彼女にふられたばかりなのだから、知らなかったとしても桃城が悪い。
朝は早かった。目的地はリゾート地という名の山の中の施設らしく、昨晩突然参加が決まった身としては荷物の準備に両親への連絡と非常に忙しかったのだ。学園の門近くに停められた部活共用の中型のバスの前には、参加選手とお手伝いの一年生が荷物を手に集合している。
「私もお手伝いで参加することになったの」
学園の有名人不二周助と平々凡々な私が幼馴染なのは知られていることだ。飛び入りの手伝い参加もそう驚くことでもないのか、「よろしく」「頑張れ」と素っ気ない返事だった。唯一ひときわ大きな反応を返したのは、一年の小坂田朋香だ。
「わぁ先輩おはようございます! 三年生レギュラーの丸秘話、いっぱい聞かせてくださいね!」
「よ、よろしくお願いします」
恥ずかしそうに笑う竜崎桜乃も加わり、女三人の井戸端会議が始まる。
「朋香ちゃんは朝から元気だね。桜乃ちゃんもよろしくね。でも期待に沿えるようなネタは持ってないよ」
「先輩は不二先輩ネタの宝庫じゃないですか」
「皆んなが知ってるようなことしか知らないよ……」
実は皆んなが知ってることも知らない。学園新聞で読んだ「好きなタイプは指が綺麗な人、花の香りがする人」については、「つまり実姉か」と沢山揶揄ったところ「鬱陶しいからもう家に来るな」と出禁を喰らった。しかも二週間も。つまり、私が周助について知っていることなどほぼ皆無なのである。
「今回の合宿も、イケメン選手ばっかりなんですよ! あ、勿論一番素敵でかっこいいのはリョーマ様ですけどね」
バスの通路を挟んだ向かい側で、朋香は楽しそうにはしゃぐ。その隣で桜乃は恥ずかしげに視線を『リョーマ様』の座る方へ向けたけれど、当の王子様は生憎深い居眠り中だ。カーブの度に肘置きの肘が落ちそうになるのを見ているとヒヤヒヤするので、もう見ないことにする。
「うちと氷帝と、他には……」
先ほど手塚から貰ったばかりのプリントに目を落とす。青春学園元レギュラー。氷帝学園元レギュラー。聖ルドルフ学院からは観月、赤澤、柳沢、木更津、そして不二裕太。不動峰中から橘、神尾、伊武、石田。山吹中から千石。
「周、この合宿の参加要件って何なのかなぁ?」
「財団側で事前協議して選抜したらしいよ。基準はよくわからない」
「へえ……」
参加者は選手が二十八人。監督として青学から竜崎スミレコーチ。手伝いとして青学から堀尾、加藤、水野、竜崎、小坂田、私の六人。合宿所には専属の料理人たちが居て、館内清掃や衣服のクリーニングは委託業者が、雑務を手伝ってくれるスタッフやトレーナーも居るらしい。
……お手伝いって、私何が出来るの? 必要なくない?
自分の部活の合宿のときは、料理は自炊と部員の父母による持ち寄りだったし、掃除や洗濯も自分たちでやったし、練習の補助にしても交代制だった。金策の当ての有るなしでここまで違うのは驚きだ。
……よく参加させて貰えたよね。
後悔したところで時は遅い。バスは既に高速道路を快適に進み、ワイワイと和やかな空気の中に埋もれてしまっている。
……精一杯やるしかないかぁ……。
『やっぱり必要なかった』と思われないように頑張る他にはにない。『お手伝い』の仕事内容を尋ねることから始めようと朋香に話しかけようとしたところで、スマホが小さく震えた。今の時間、学園は授業中だ。ラインの相手は裕太だった。
『合宿来るんだって? 何しに来るの?』
……それは私が聞きたい。
たった二言のそっけないライン。いつもは私から送ってもまともに返信もしないくせに、と、弟分大好きな姉貴分は顔をしかめる。すぐ前の座席から、「裕太から連絡来た?」と周助が微笑みながら顔を出した。
「来た。なんか歓迎されてない」
「そういう年頃なんだよ」
「年子だよね」
『裕太とイブを過ごしたいからだよ』とふざけたメッセージを返したら、そのあとの返信はなかった。どうせ『バカ言ってやがる』と呆れているんだろう。
周助の隣に座った菊丸が、シートの上から顔だけのぞかせて、「なんだなんだー?」と大きな目をさらに大きくしている。
「元気ないじゃーん」
「裕太が冷たいの……」
「えー弟くん狙いなの? 不二狙いじゃないんだ?」
「そういうのいいから」
「まま、どっちでもよし! こういうときは、楽しまなきゃ! UNOしよーぜ、そこのシート倒してさ」
周りがどんなテンションでも、自分のペースに巻き込めてしまうのが菊丸節だ。空いているシートを倒して、バッグから大量のお菓子とUNOを取り出す。遠足みたいでちょっと楽しくなってきた。
「桃! UNOやるぜUNO!」
「お、いいっすねー! ほら起きろ越前!」
「俺はいいっす」
「先輩がやろうっつったらやるんだよ!」
自分の席で渋っていた越前だったけれど、周助の「そろそろ運動部の縦社会に馴染んでもいいんだよ」という言葉にとても嫌そうな顔をしてこちらにやってきた。そういう周助本人は、菊丸の誘いを「次の次から入るよ」とふんわり笑って断っている。
「おっし、それじゃ一回戦は俺とお前と桃とおちびだな!」
「……」
四人仲良くカードを囲んだところで、頭上から悪意が落ちてきて背筋に寒気が走る。もっと前の方の席で手塚と話していたはずの乾が、いつの間にかすぐ近くで笑っていた。眼鏡を光らせるな。
「ビリの人間にはこれ。改良型乾汁だ」
「……私やっぱ抜ける」
「後々の練習のことも考えて、青酢や鰯水は不適切と考えた。君は一応女の子だしね。」
「乾先輩。比較対象から間違ってるっすよ。鰯水と比べたら乾汁の破壊力は大したことないけど、普通のジュースと比べたら破壊力は計り知れないっす」
心なしか越前の必死さが伝わってくる。残りの三人は無言で頷いたけれど、データを取りたいのか嗜虐趣味があるのかわからない男は聞く耳を持たない。
「さあ、ゲームを始めよう」
◇
不二裕太は、合宿施設のエントランスで溜め息をついた。跡部グループの所有するスポーツ施設は、緑豊かな山の中を贅沢に利用した広大なものだ。いち早く到着した聖ルドルフ学園のメンバーは、他の学校が到着するのを待っている。ラインに返信がないことを確認し、裕太はもう一度息を吐く。
……何考えてんだ兄貴。姉貴つれてくるなんて。俺とイブ過ごしたいからって、本気で言ってんのか?
隣人の姉貴分は裕太のことが大好きだ。そんなことは物心付く頃から知っている。ずっと姉弟のように育ってきたから、彼女のことは本当の姉のように思っている。
その認識が変わり始めたのは、つい最近のことだ。
「遅いな他の学校の奴ら」
「んふっ、まあそう苛立つこともないでしょう。こういうときは早く着いた方が落ち着いて練習に臨めますよ」
「今回こそ青学と氷帝に借りを返すだーね」
「そうだね。裕太もお兄さんと試合できるの、楽しみだろう?」
クスクスと笑みを漏らしながら木更津が話しかけても、裕太はぼんやりとスマホを見つめたまま。
「裕太くん?」
怪訝そうな観月の声も勿論届かない。『僕を無視しようなどいい度胸だ』と、観月がもう一度声をあげようとしたとき、静かなホールに騒めきが届いた。
「お、ようやくどこかの学校が着いたみたいだーね」
「そのようですね」
観月らが目を向けた先、中型のバスから降りてきたのは、顔を真っ青に変えた青学の面々だった。
◇
……ありえない。吐く……。
下を向くと内臓が出そうになる強烈な不快感に襲われながら、口元をハンカチで押さえてなんとかバスから降りた。隣で爽やかな顔をしている周助が憎らしい。
車内UNO大会は文字通りデスマッチだった。対戦を重ねていくごとに、死者の数は増え、結局手塚の一人勝ち。乾汁には耐性のある不二と二人だけが生き残り、残りの参加者はゾンビと化した。
「周はなんで平気なの」
「結構美味しいよあれ」
「信じられない、だって、まず臭いが……んーん、やめる、何でもない……」
小学生のときクラスで飼っていたカブトムシの匂いがしたことは今すぐ忘れたい。
なんとか荷物を持ち、美術館のような造りのエントランスを進む。ロビーには既にルドルフのジャージが何人か居て、やけに高圧的な声色が静かな空間に響いた。
「まったく、何をやっているんですかあなたたちは。合宿が始まる前からそのような状態でどうするんです」
「心配は要らない。すぐに回復するはずだ」
手塚が涼しい顔で答えると、観月はじめもそれ以上深くは追求してこなかった。
……これ本当にすぐ回復するの?
朋香や桜乃の隣で座り込んで、機嫌の悪そうな裕太を見つけた。周助は可愛い可愛い弟に会えて心底嬉しそうだ。
「裕太、こっち。久しぶりだね、ちゃんと元気?」
「おう。つか姉貴さ、本当に来たのかよ」
「……気持ち悪い……」
隣に立った裕太の腕に縋り付いたけれど、「くっつくな」とものの数秒で払われた。なんて冷たい。また床にへたり込んだ私を呆れたように見やって、裕太は周助を睨む。
「兄貴、なんで連れて来たんだよ」
「あれ? 聞いてないの?」
「はあ?」
「お隣夫妻は揃って出張。母さんは北海道にお義理で姉さんも海外出張。一週間も一人になっちゃうから、無理言って参加させてもらったんだ」
「……なんだぁ、そっか」
胸を撫で下ろしている裕太の意味がわからない。周助も同じようで、首を傾げている。
「どうしたの裕太」
「いやさ、姉貴がふざけたメール送ってくるから」
「裕太って可愛いから。ついからかいたくなっちゃう気持ちはわかるよ」
「どういう意味だバカ兄貴」
兄弟が微笑ましい会話をする中、続々と氷帝、不動峰、山吹のバスや車が到着する。頭上で繰り広げられるたわいない兄弟喧嘩を聞きながら、内心で周助と同じように首を傾げた。
……裕太が変だ。
私に対する態度が挙動不審なのだ。少し前まではそんなことはなかったのに。最後に会ったのは、二ヶ月くらい前だろうか。買い物に出たときに、偶然あったけれどそのときはいつも通りだった。ばったり会って、少し立ち話をして、五分もしないうちに別れたように思う。たったそれだけの間に、何か裕太を怒らせてしまうようなことをしてしまったのだろうか。
……それなら、後で謝らなきゃ。
溜息をつくと、床に一つの影が落ちた。誰だろうと見上げると、そこにはコートでしか見たことの無い顔。
……跡部景吾、様。
魔等空気が違う気がした。研ぎ澄まされた雰囲気も、鋭利につりあがった瞳も、整いすぎている顔も、全部が怖い。
「お前かよ、手塚が言っていたオマケは」
「あ、の私」
「そんなところに座り込んで何を考えている? 遊びにでも来たつもりか。ふざけるな」
「!」
最後の一言があまりに尖っていた。跡部の澄んだ声は、高い天井のロビー中に響く。それまでざわざわとしていた空気が一瞬にして静まり返った。何事かと、視線が一身に集まったのがわかる。
「プレイヤーだろうがサポーターだろうが同じだ。やる気がないなら今すぐ出て行け」
「……」
……え……。
頭が真っ白だ。ただ座っていただけなのに、何故突然きつい言葉を浴びせられなければいけないのか。やる気だってそれなりにある。言いたいことは頭の中に浮かぶのに、即座に言葉にならなかった。憤る心とは別に、涙腺が勝手に緩み出す。氷のような冷たさと痛さに、圧倒される。
すっと、無言で私と跡部の間に立ったのは傍に居た周助だった。跡部に向かい立つ周助は私からは背中しか見えないけれど、きっといつものように穏やかに微笑んでいるはずだ。
「ごめんね跡部、君の闘志に水を差したかな。この子は今少し具合がよくないだけなんだ」
「ふっ、不二。お前が手塚に頼んだらしいな。合宿に女を連れてくるなんて随分と余裕だなぁ、青学の天才さんは」
「ただの友人だよ。それにこの子の参加は君が許可したんだろ? 合宿を前に気持ちが昂ぶるのはわかるけど、この子あたらないでくれるかな」
「……」
周助の言葉は最後のほうで少しだけトーンが落ちた。跡部は小さく笑いを漏らすと建物の奥へと踵矢を返す。その後ろを、氷帝の選手たちも慣れた様子で着いて行った。
跡部が姿を消すと、ロビーに落ちた緊張もようやく霧散した。裕太が気遣う表情でこちらを覗き込む。
「姉貴、大丈夫か?」
「……びっくりした、何、あの人、怖い。」
「あれくらいで泣くなって。けど跡部さん、今日はまた随分とピリピリしてるみたいだな」
「コロシアムに入場したファイターだね」
周助がくすくすと笑いながら手を差し出してくれた。手のひらに伝わる心地よい体温に、ようやく心が落ち着いてくる。
「なんか、周助まで巻き込んじゃってごめんね」
「あの程度。それだけ跡部がこの合宿に懸ける思いは強いってことだよ」
「あそこは二回も青学に負けてるからなぁ。ま、うちも人のことは言えないけど。今日こそあのときの借りを青学に返してやるぜ!」
「……」
ロビーの雰囲気はすっかり元通りだ。不二兄弟もいつもどおりテニスの話をし始めるが、こちらは未だにもやもやしている。
……あんな言い方するくらいなら、最初から参加を許可しなきゃいいじゃん。
だいたい、青学の選手たちも未だ具合が悪そうな顔をしているのだ。汁まで予想はつかないにしても、車に酔ったのかもしれないくらいの想像はしたっていいと思う。
……ものっすごい働いてやる。
限界突破上等で、思い切り働こう。謝罪までは期待しないものの、『自分が間違っていた』くらいは思わせてやりたい。
……よし! やる気倍増!
小さく拳を握りしめたところで、竜崎先生の集合の合図がロビーに響いた。
大量の食器が入ったコンテナを業務用の食洗機へ入れて、スイッチを押す。あとは機械が勝手に洗ってくれるのを待つだけだ。ブザーが鳴ったら取り出して軽く拭き棚に戻す。それだけで夕食の片付けは完了だ。待っている間にランドリールームを確認に行こうとしたところへ、一年生トリオがコートから戻ってくる。
「先輩、ボール数え終わりました。」
「お疲れ様。あとはコート整備でよかった?」
「はい、そうっす!」
空はもう星が見え始めていて、夜風はかなり冷たい。コートへ向かう途中、明るすぎるほどの照明の下で朋香は「あーあ」と面白くなさそうに白い息を吐いた。
「結局今回も忙しくて、まともにリョーマ様を応援する時間すらないわ」
「そうだね。選手と話をする時間さえ無いよね」
練習時間は勿論、選手の休憩時間はお手伝いにとって一番忙しい時間帯だ。
「何言ってるんだよ小坂田! お前も跡部さんにどやされるぜ!」
「うっさいわよ堀尾のくせに! 大体あの跡部さんの態度! 感じわるっ!」
「……びっくりしたよねぇ」
朝の跡部の態度に朋香はともに腹を立ててくれたが、私と同じ気持ちなのはどうやら朋香や桜乃だけのようだ。青学の面々でさえも、「災難だったな」のあとに「気を引き締めていけよ」と笑顔でたしなめられた。
……はぁ。やっぱり私が悪かったのかな……。
普段は軽い青学テニス部の面々にまで諭されては、流石に反省せざるをえないけれど、でもどうしても納得いかないのだ。いくらテニスが大事だからといって、初対面の相手にあの態度は非常識だと思う。
……周ちゃんも裕太も、テニステニステニステニス!
不二兄弟がテニスを始めたのはもうずっと昔。物心つくころにはラケットを握っていたけれど、でも今ほど夢中にはなっていなかったと思う。小さな頃はもっと、別のことをして遊ぶ時間が多かった。それが今では口を開けばテニステニス。
「……先輩、先輩!」
「え! あ、はい!」
目の前で手を振る朋香の膨ら面に、我に帰る。「もー! ちゃんと聞いてくださいよ!」と可愛いほっぺを膨らませている。
「ごめんね。何の話だっけ?」
「うふふ。こういうのは夜のお楽しみにしようと思ってたんだけど……我慢できない! ぶっちゃけ! 先輩と不二先輩の関係は⁈」
「……だから、ただ家が隣なだけだって」
中学に入ってから何度も何度も繰り返された質問と答え。三年生の中ではもう私たちの仲を間を勘ぐる子は居ないけれど、一、二年生の中にはまだ疑っている子が居る。周助の魅力が怖い。
『不二先輩と付き合っているんですか?』
呼び出されたり、通りすがりだったり。もう何回聞かれたか数えるのはやめた。周助の五分の一でいいから私もモテたいとは、常日頃から思っている言わないけれど。
「えー本当ですかー? 私の情報によると、不二先輩は二年の彼女と先日別れてるんですよ」
「……」
「あ、先輩が黙ったってことは信憑性高いわね。その破局に、先輩が一枚絡んでるんじゃないかって噂なんですよ」
「冗談やめてよ。なんで悪役みたいになってるの。私、その彼女とも普通に面識あるし……」
その彼女のことを初めて認識したのは、周助から紹介されたからじゃない。第三者から聞いたのだ、『あの子が不二くんの彼女なんでしょ』と。委員会の仕事で彼女と話すようになったのは、それからすぐあとのことだった。
「なーんだ、つまらないの」
「面白くなくて結構です。ほら、ブラシ止まってまーす」
「はぁい」
ブラシを動かす手が重い。気持ちがずくんと沈んでいく。私が一枚咬んでいるという噂が立っているらしい。どこからそんな話が出てきたのだろう。異性の友だちが仲良くしているのなんて、よくある話なのに。周助がイケメンすぎるのが悪いのか。
……あの子、その噂信じたりしてないよね?
周助がそんな噂を信じるわけがないとは思う。二人の間に何があったのかは知らないけれど、もし彼女がその噂を信じていたら、今私は見当違いに恨まれているかもしれない。
……本当、冗談じゃない。
山の夜風が、頬に痛い。
「よし、それじゃ明日も頑張りましょう!」
「はい!」
食堂の一角で『お手伝いミーティング』を終えて、少しほっとした気分で笑いあった。明日のスケジュール確認と今日の反省会。プレイヤーが気持ちよく練習出来るよう、改良すべき点もみつかった。時計を見ると九時を少し回ったところ。
「お風呂に入れる時間だね」
ホテルとは違って、お風呂が各部屋に無いことは荷物を置いたときに確認した。大浴場が豪華なのは跡部の趣味、というようなことを昼間にスタッフから聞いているので楽しみではある。選手のミーティングとお手伝いチームの後片付けの都合で、九時から十時までがお手伝いチームの入浴時間らしい。
「スタッフさんは別のお風呂なんでしょう? わたしたちの貸切ね!」
「朋ちゃん、おばあちゃんも居るかもしれないよ?」
「あ、そっか。先生も入浴時間一緒なの?」
歩きながら忘れ物に気がついた。足を止めると、二人が振り返る。
「先輩?」
「ごめん、洗顔フォーム忘れちゃったから先に行ってて」
「私持ってますよ。使ってください」
「ありがと。でもすぐだから、戻るよ」
折角持ってきたのだから、自分のものを使いたい。急げば部屋まで三分だ。高級ホテルのような、お洒落な間接照明で少し暗い廊下を早歩きで部屋に戻る途中、前方に道草の原因を見つけてしまった。
……裕太。
廊下で一人、壁に寄りかかってスマホをいじっている。照らされる表情は少し微笑んでいて、なんだか知らない人みたいだ。「裕太」と小声で呼ぶと、上げた顔はいつもの裕太だった。
「姉貴。これから風呂?」
「うん。裕太は何してるのこんなところで」
「別に、ただのライン。部屋だと柳沢……センパイが邪魔するから」
「そう? ……久しぶりだよね、こうやって夜に裕太と会うの」
「そうだな」
そっけない返事が、妙に気まずい。実家にいたころは夜でも昼間でも、会えば沢山色んな話をしたのに。
「冷たいなぁもう!」
「別に、普通だろ」
「普通じゃない! ちっちゃいころはねーちゃんねーちゃんってまとわりついてきたのに!」
言いながら裕太の腕に自分の腕を絡める。昔からのいつも通りの、なんてことない仕草だ。だけど。
「! やめろよ!」
「わっ」
絡めた腕を乱暴に振り払われて、よろけた。そんなに強い力じゃなかった。私が、大きな声にびっくりしただけだ。面倒そうに、でも本気で嫌がってはいないいつもの感じとは全然違う。
……本気の嫌……?
裕太は一瞬「あ」の口を作ったけれど、すぐに何かを決めたように真剣な顔をして私を見つめる。内側がざわざわする。
「姉貴さ、……きついこと言うようだけど、もうこういうの、やめて欲しいんだ」
「『こういうの』って?」
「腕を組んだり抱きついたり……もう俺に、馴れ馴れしくしないで欲しい」
……あ……。
これは本気の拒絶だ。こんな顔でこんなこと、これまで言われたこと、無い。
あまりに急で、驚いてしまって、勝手に目が潤んでくるのを必死に堪える。自分で言ったくせに今度はすごく驚いた顔をして、「あ! そうじゃなくて!」と、いつもの顔に戻った裕太はこっにに唾を飛ばした。
「姉貴が嫌いだとか、そういうわけじゃないんだ!」
「じゃあ、なに」
「俺たちはさ、確かにほぼ一緒に育ったけど、本当の姉弟じゃないだろ?」
「あたりまえじゃん」
「だから、迷惑なんだ。こういうの」
「……」
「ごめんな。でも本当に、姉貴が嫌いなわけじゃねーから……」
気まずそうに髪をくしゃくしゃと撫でた裕太は、視線を逸らしたまま「おやすみ」と呟いて廊下の向こうへ行ってしまった。
『馴れ馴れしくしないで欲しい』
『迷惑なんだ』
怖い。今まで一方的に好いていたのは、私だけだったのかもしれない。もしかしたらずっと嫌われていたのかもしれない。もしかしたら周助も、裕太と同じように私のことを疎ましく思っているのかもしれない。
「っ……ぅ……」
物音ひとつしない廊下に、嗚咽が洩れるのをどうしても止められなかった。迷惑だと、思われていた。
「僕が思うに」
「ひぁっ⁈」
突然湧いて出てきた男の人の声に、驚きすぎて心臓が止まるかと思った。いつの間にか私のすぐ後ろに立っていたのは観月はじめ。持っていたタオルで急いで顔を擦する。
「観月くん⁈ いつから居たの⁈」
「あなたたちが素通りしにくい話をしはじめる前からですよ」
「ぐ……」
「まったくいい迷惑です。少し夜風に当たって戻るつもりが、無駄な時間を過ごすことになってしまいました」
紫の薔薇が刺繍されたカバー付きの、ポケットティッシュを差し出された。
……ええ、観月くんいい人じゃん……。
周助は『極悪非道』『虫以下』と言っていたけれど。ありがたくティッシュを受け取り改めて涙を拭くと、観月は満足したように笑った。
「僕が思うに、裕太くんも彼なりに悩んだ結果なんでしょう」
「え?」
「二ヶ月前、彼が恋人と大きな喧嘩をしたのをご存知ですか?」
「……知らないです」
裕太に彼女が居ることすら知らなかった。観月の登場で驚きのあまり忘れていた胸の痛みが、また湧き上がってくる。いつの間にか、知らないことだらけだ。昔は距離なんて少しもなかったのに。
「喧嘩の原因はあなたです。」
「私?」
「ええ。町で偶然、あなたと裕太くんが寄り添っていたところを、彼の恋人が目撃したそうです」
「え……」
「さっきの言葉も、彼に悪意はないと思いますよ。頭が足りず語彙力もないから、あなたを傷つけずに済む言葉がみつからなかったんでしょうね」
「はぁ……」
観月の、励ましなのか侮辱なのかよくわからない言葉のおかげで、胸の痛みは小さくなった。
……なんだ、そうか。じゃあ悪いのは私だ。
やるせない。
落とした視線が捉えた腕時計は、もう九時を大分回っていた。
「あ、入浴の時間」
「まだ済ませていなったのですか。この僕の往来を邪魔している暇があるのならばやるべきことをなさい」
「……」
……観月くんが呼び止めたんだよね?
とは思っても言わない。観月のフォローがなかったら、まだ一人でメソメソ泣いていたかもしれない。
「観月くん、ありがとう」
「ただの気まぐれですよ」
「周助が言ってたよりずっと良い人だね」
「……。んふっ、まあいいでしょう。僕に感謝するなら、今のその気持ちを是非不二周助に伝えてやってください」
「わかった。じゃあ、おやすみなさい」
「明日も早いですよ。気にせず早く寝ることですね。おやすみなさい」
天使みたいに柔らかな笑みで、観月も暗がりのなかに消えていった。
……観月くんは周と仲直りしたいんだね。
嫌われるのは辛いと、今は特に身に染みて思う。勿論、裕太の『嫌いなわけじゃない』という言葉は本当のことだと思う。でもただ、悲しいのだ。頭ではわかっていても、心がシクシクと音を立てる。
……あ。そういえば周助も。
周助たちの破局に私が関係しているという噂も、私が周助に馴れ馴れしくしすぎているからかもしれない。
……どんどん変わっていくんだね。
ため息を飲み込んだ。
洗顔フォームを取りに行く気は完全に失せた。お風呂で全部洗い流してしまうため、もと来た暗い廊下を戻る。
◇
「やあ、おはよう。」
「おはよう大石。よく眠れた?」
「ああ、やっぱり山の空気は気持ちいいな」
大石が吸えば、排気ガスがだらけの車道の空気だって爽やかになると思う。そんな風に笑う大石のトレイに、ご飯をもった茶碗を乗せる。色んな穀物たっぷりのご飯茶碗は、こちらの気持ちとは正反対で幸せの香りに満ちている。
お手伝いメンバーの朝一の仕事はネット張りとドリンク作り。その間に料理人が厨房に立ち、お皿に出来上がった料理を配るのはお手伝いメンバーの仕事だ。
「おっすー! ん~いい匂い!」
「おはよ菊丸」
「はよーす! 先輩俺超特盛りね!」
「みんなおんなじだよ。おかわりしてね」
……よく食べるなぁ。
同じ数のおやつを食べていた周助や裕太が、信じられない量を食べるようになったのは中等部に上がってからだ。また心が傾いていきそうになるのをとどめたのは、今まったく聞きたくない鋭い声だ。
「朝からぼけっとした顔してんじゃねーよ。顔洗って出直して来い」
「……おはよう跡部くん」
『ふん』と、挨拶の代わりに返ってきたのは高貴な鼻息だった。
……私だって一生懸命やってるんですけどー。
勝手にうるっと来たのは、跡部のきつい言葉のせいではない。もう昨晩からずっと泣きたいのだ。これ以上何か言われる前にと、手早くお皿をトレーに乗せる。
「昨日は悪かったな」
「え?」
……なに?
予想だにしない言葉だった。まじまじと見てしまったお顔は、朝日を浴びて神々しいほど涼やかだ。
「だがまだ効率が悪い。無駄をなくすよう心がけて万全のサポート体制をとれ」
「……」
「返事は」
「……はい」
たまたま列が滞って、跡部が目の前に居る時間が長かった。謝罪の言葉なんて全く期待していなかったのに、ぐずぐずしている私の方が恥ずかしいくらいの潔さだ。
……うぅ……大人だ……。
過ぎて行くその背中をなんとなく追っていると、柔らかい声に名前を呼ばれる。
「こらこら、ぼーっとしない」
「周おはよう、今ね、跡部くんが」
「跡部が?」
謝ってくれたんだよ、と続けようとしたけれど、後ろの列で観月の咎めるような声がする。
「なにをしているんですか。後ろが詰まっていますよ」
「……また後で」
「うん」
一瞬観月を睨んだ周助だったけれど、今は観月の方が正しい。慌ててトレイにお皿を乗せると、列は順調に進んでく。
周助の次に並んでいたのは、裕太だった。気まずそうに私から目を逸らすと、「おはよ」と小さく呟やく。昨日のことをちょっと後悔してるのはわかった。
……でも、裕太が正しいんだよ。
「おはよう。はい、どうぞ」
「ありがと」
名前を呼んでもいいのかわからない。どこまでが迷惑で、どこまでならいいのか。今は嫌われていなくとも、いつか嫌われてしまうことが怖い。さっきの跡部の余裕のある表情とは、きっと真逆の顔をしている。
……私もあの人くらい、余裕持てたらいいのに。
1/5ページ