8話
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前回ジーンがネグロ侯爵邸を訪れたのは約一年前のこと。そのときもちょうどこんな天気だった。冷気が漂ってくるような屋敷とは違い、庭園は素敵だと笑っていたロッタを思い出す。彼女の言う通り庭園はよく手入れされていて、色とりどりの花が咲き乱れていた。あの時と決定的に違うのはむしろロッタの方である。
春とはいえ外に出ると思いのほか暑く、二人は庭園の一角で休憩を取った。そこは、レンガ造りの壁と柱の間に植物の天井が掛けられ、その中に椅子とテーブルが置かれている。
「せっかく付き合ってくださったのに上の空でごめんなさい。兄はああ言ってましたけど、お見舞いにいらっしゃんじゃないんでしょう?」
まさか一年越しに来るとは彼女も信じられなかったらしい。非常識な自覚は持ちつつ、ジーンは難しい顔をした。
「いや。ほとんどその通りなんだよ。エリック殿が王宮に来ることが少なくなったから、しばらくぶりに様子を窺いに来たんだ」
「……そうだったのですか。それなら、良かったです」
ロッタは心底安心したように肩の力を抜いた。日陰から庭園を見渡し気の抜けた顔をする。
「エリック殿が倒れたことは、君に余程心配を与えたみたいだ」
「そう見えますか?」
「ああ。さっきも彼の様子を探っていたようだったし、彼が倒れてから落ち込むことが多いんじゃないかと思っていた」
ロッタは庭園の方を向いたまま、ジーンの言葉に耳を傾ける。風が音を立てて彼女の髪を揺らす。のどかに景色を眺めていた表情は徐々になりを潜め、苦しそうに歪められた。何かをこらえるようにきつく閉じられた目を見て、ジーンは彼女が意図してエリックに明るく振舞っていたのだと知る。
「ジーン様に、エリック兄様の考えていることが分かりますか?」
唐突に開かれた薄茶色の瞳がジーンの方を向いた。彼女の瞳の中に自分が映っているのを見ながら、彼は首を横に振る。
「私には彼の意図していることはほとんど分からないよ。今までに何をしてきたのかも、これから何をしようとしているのかも」
「そういうことじゃないんです。ただ……」
彼女はそこで言葉を詰まらせた。口に出していいのかを迷うように視線を左右に動かす。
「ただ、このままでいいのかと聞きたくて。だけど、兄様が出す答えが絶対に望み通りのものじゃないから……。わたし、ずっと兄様が侯爵家を継ぐ人間だってこと、分かってたつもりでした。だけど本当は分かってなかった。兄様が何を考えてあんなに苦しい思いをするのか、今も何一つ分からないんです」
彼女の問いは、もっと根本的なところを突いていた。なぜエリックは身を削ってまでネグロ侯爵家の存亡にこだわるのか。政治的な立場は違えど、ジーンもまたいずれリヒトルーチェ公爵位を継ぐ人間だ。エリックが背負っているもの、そしてジーンが背負うことになるものに、どのような価値があるのかと彼女は聞いていた。
「……君は昔、ネグロ侯爵領に住んでいたと言っていたね」
ジーンは静かに語りかける。悲痛を訴える表情が、少しだけ緩んで彼を見た。視線をそのままに彼女は首だけを上下する。
「侯爵領にいたときのことを思い出してごらん。城の中でも外でもいい。形があるものでもないものでもいい。とにかくたくさんのことだ。……君が思い浮かべたのとは少し違うがよく似たものを、エリック殿も私も思い浮かべることが出来るだろう。家族や、領民、自然、都市の姿。伝統や、誇りなんかもあるだろう」
爵位を継ぐ人間でなくとも確かに思い浮かぶもの。しかし爵位を継ぐ人間ならば、はっきり認識するべきものだ。
「ずっと、それを考えている。きっと彼も」
ロッタはわずかに目を見開き、ゆっくりとした動きで再び庭園に顔を向けた。風に吹かれるままに彼女の髪がなびく。突き抜けるようだった青空には、いつの間にか薄い雲が張っていた。
屋敷に戻るまで彼女は終始何かを考え込んでいるようだった。しかし先ほどまでの思いつめた様子ではない。むしろ、エアデルト滞在中に一人で行動しようとしていたときの様子に近い。屋敷が目の前にまで近づいたとき、ジーンは思わず口を開く。
「ロッタ、」
「ジーン様、わたし決めました」
彼が話しかけるのと同時に、ロッタは日傘の端から顔を覗かせた。決意に裏打ちされたその表情を、ジーンは久しぶりに見た気がした。
「いつまでもエリック兄様のそばで落ち込んでいたって仕方がありません。兄様がわたしを頼らないのなら、頼ろうと思えるくらい成長します。いつか絶対、兄様をぎゃふんと言わせてみせます」
大体兄様はわたしに過保護すぎるから――。
ロッタははにかんで歩き出す。ジーンの言葉が彼女にどのような心境の変化を与えたのか、当のジーンですら分からなかった。
(余計なことを言ったのかもしれないな)
ネグロ侯爵家や彼女自身を取り巻く諸問題はエリックが一番隠したいことだろう。ジーンの頭に多少の後悔が過る。しかしきっと、彼らがエアデルトでロッタを遠ざけるのに失敗したように、エリックも隠し通せなくなる日は近い。先を進む彼女の動きに合わせて白い日傘が揺れた。
「ジーン様?」
くるりと振り返って様子を窺うロッタに、ジーンは懐かしいような、それでいて今までに抱いたことのない気分を覚えた。
「君の努力に私も付き合うよ。何より、あのエリック殿が驚く顔が見てみたい」
しかし彼はいつもの紳士然とした態度で冗談を口にした。ロッタは一瞬言葉を失い、次いで心からの笑顔を浮かべたのだった。