5話
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そこから半日、相談するとき以外は、執務室はペンを走らせる音と、紙のこすれる音しか聞こえなかった。
「あー、やってられるか! 何なんだこのふざけた上奏は!」
急に大声を出したリュシオンに、ジーンは反射的に眉をひそめる。
「リュシオン、お忘れかもしれませんが、今は深夜ですよ。連日働きづめの文官たちの眠りまで邪魔する気ですか」
「眠れるだけいいだろう」
「あとは私がやっておくのであなたも睡眠を取ってください」
決意は固いとはいえ巻き込んでしまった後ろめたさはあるらしい。リュシオンは、口を動かしながらも一切こちらを見ず仕事をこなしつづけるジーンを、片肘をついて眺めた。
「いや、いい。今寝たら半日は起きられん。その代わり休憩だ。色々押し付けているからと、エリックから『特製、健康茶』が差し入れられたぞ。これを飲めば眠気が吹っ飛び、三日後まで活力がみなぎるらしい」
「嫌な予感しかしないのですが。というか嫌味ですか。そもそもそんなことしてるから倒れるんじゃないですか」
ジーンも色々限界なようだ。普段より饒舌かつ歯に衣着せぬ物言いである。しかしリュシオンが完全に休憩を取る体勢に入ると、彼もキリの良いところで手を止める。
「前から思っていたんだが、公爵に出された条件がエリックの説得なら、ロッタを振り向かせたあとの方が何倍もやりやすいだろ」
女官が健康茶を持ってくる間、既に冷め切った紅茶を片手にリュシオンは当然の意見を口にした。公爵から提示された順序とは多少前後するが、同時並行ならば問題ない。何より、ロッタの言うことなら人が変わったように首を縦に振るエリックだ。彼女が頼めば、この地獄のような状況から解放されるのではないかという期待もあった。
しかしジーンは難しい顔を崩さない。
「簡単なように見えてほとんど不可能でしょう」
「どういうことだ?」
「エリック殿の溺愛ぶりは分かりやすいですが、ロッタもロッタで彼のことを心配しています。彼女は、『家の問題は片付いていないが、好きだからその人についていく』と判断できる人間ですか?」
「……ありえない、か」
「はい。リヒトルーチェとネグロの間に確執があることは避けられない事実ですが、『恐らく大丈夫』くらいの状態でないと、彼女の意思を確かめる以前の問題です」
ジーンはネグロ侯爵邸でのことを思い出す。本気でエリックを心配し、彼がなぜ無理をするのか分からないと言っていた彼女と、その後自分が放った言葉を。
「おまえの話を聞いてもロッタの縁談を推し進めないのを見ると、エリックの計算上ではどちらでも構わないんじゃないか? 個人的には死ぬほど嫌だろうがな」
「そのようですね。彼は元々ロッタを使って利益計算していません。突き詰めると、ロッタが良いなら誰でもいいんでしょう」
「となるとこれは清々しいまでの八つ当たりだ。……やはり、睡眠を取るとするか」
リュシオンが席から立ち上がりかけたちょうどその時、女官が執務室にやってきた。紅茶よりもさらに茶色がかった、いかにも薬湯のようなお茶を持って。
「残念ですね、しっかり二人分あります。諦めて一緒に三日三晩働いてください」
異様な色合いの『健康茶』に顔を引きつらせたリュシオンを見ながら、ジーンは穏やかだが有無を言わせない笑みを浮かべる。仕事をしない国王にアイヴァンが向ける笑顔にそっくりだった。
ゴクリと喉を鳴らし、カップの中身を凝視するリュシオンを横目に見ながら、ジーンもまたカップを手に取る。そこに映る自分の顔とともに、つい半日前のことを思い返す。
ロッタは時折心配になるほどに、自分より他人を優先する人間である。ネグロ侯爵の虐待じみた育児放棄や、エリックの虚弱体質、それとは正反対のランデンの迷惑極まる行為などにさらされ続けた結果なのだろう。
それならばきっと結婚でさえ、彼女は誰かにとって一番いい選択をするはずだった。頭のどこかでは、今彼が立てている計画は、彼女の性格上無駄なのではないかという気がかりもあった。しかし――
(寂しい、か)
『それでも』と彼女は言った。薄茶色の瞳には誰に気兼ねするわけでもない、純粋な個人としての思いだけが映っていた。それはジーンにとって最近で一番の収穫だった。すべてを投げ出してでもとは言えないかもしれない。しかし誰の利益にならなくてもと言ってくれるのなら、勝算はある。勝つ自信ももちろんある。
未だに口を付けることをためらっているリュシオンに先駆けて、ジーンは濁った茶色い液体をあおった。