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「まったく信じられんな、ここがあのやかましいバーだったとは」

来店からしばらくの間、メールのチェックか何かをしていたスマートフォンの画面から顔を上げたハイドが、ふとそんなことを言った。朝からしとしとと降り続く雨のカーテンに包まれた店内の、まるで世の中から切り離されたような心地よい静けさのことを言っているのであれば喜ばしいのだが、暗に客が少なすぎることを心配されている可能性が頭を過る程度には、店の中は閑散としていた。というより、言ってしまえば今日の客は未だ彼ひとりであった。近頃は新しい客が増えたとは言え、こういった日がまったくなくなったということはない。
カウンターの上、空になったカップにバリスタが目を留めたが、ハイドはゆるく首を振った。今はいい、のジェスチャー。

「そういえば、前にそんな話をしていたね。ここって昔はどんなだったんだい?」

ここが以前はバーであったというのは、彼が初めて来店した時に上がった話題た。問うと、ハイドはひとつ息をついて、

「そこそこ繁盛していたと思うが、お世辞にも客層が良いとは言えなかったな。よくない連中も出入りしていたし、殴り合いの喧嘩もたまに見かけたものだ」
「それは怖いね。この店は真逆で安心だ」
「治安が良いという点には同意するが、真逆ではまずいところまで真逆だな……」

しかし今夜は最低でも、あと一人の客足が見込める。そう呟いて、ハイドはカウンターに置いたスマートフォンにちらりと視線をやった。今日の彼は待ち合わせをしており、そしてあの独り言は、店の客入りの悪さを心配してのものだったことがわかった。バリスタは苦笑いし、軽く肩をすくめる。

「……というか他人事みたいに言ってるけど、あなただって喧嘩に参戦する側だったことがあるんじゃないのかな、ハイドさん?」
「うん? まあ、当時は私もちょいと“血の気”が多かったのでね……」
「ああ、なるほどね?」

おい、ここは笑うところだぞと訴えかける赤い瞳から視線を外し、カウンター裏の在庫を念のためにチェックする。紅茶よし、ミルクよし、ショウガもまだたっぷり……おっと、そろそろはちみつを切らしてしまいそうだ……近いうちに買い出しに行かなければ。

「しかしあのガラを用心棒として雇ってからは、そういったトラブルは激減した」

ぴん、と、ハイドは得意気に人差し指を立ててみせる。爪の先までよく手入れされていて、何気ない仕草すらいちいち絵になる。

「何せ後ろに控えている岩のような大男を見て、それでも私に喧嘩を吹っ掛けることができる奴はそう多くはなかったのでね」
「いやあ……なんというか……ハイドさんが無事でいてくれてよかったよ」

それでもまだゼロではないところが恐ろしいけれど。ハイドは愉快そうに、そして昔を懐かしむように、目を細めている。

「そうだな。少なくとも君は、常連をひとり失わずに済んだ」

もし過去の彼の身に何かが起こっていたら、今日ここにいる客の数はゼロだったのだ。雇い主だけはなくこの店すらも恐ろしい未来から守ってくれた素晴らしい用心棒に、今度ちょっとしたお菓子でもサービスでもしたほうがいいのだろうか……。バリスタがそんなことを考えていると、ハイドは「それに」と続けた。しばらく何かを思案するように、人差し指の先でカップの取っ手をなぞっている。

「……それに、私自身も多少は考えが変わったのかもしれん。言葉が過ぎることをガラに咎められるようになったんだ」
「ああ……」

バリスタは気の抜けた相槌を返した。きっと、ある程度の信頼関係が出来上がった頃のことなのだろう。なんとなく想像はつく。

「それはつまり……ハイドさんが行く先々でいろんな人を怒らせるから危ない目に遭うんだ、みたいなことを?」
「…………そんなところだな」

つまりおおよその予想は正解のようで、わかりやすく視線を背けたハイドにバリスタは含み笑いを返した。日頃何を言われても知ったことかというような態度を貫くハイドが、その時ばかりは叱られた子どものように、ばつの悪そうな表情を浮かべる様子が目に浮かぶようだ。

「そういったようなことも確かに言われはした。だが……私にとって最も重要だったことは他にあって……」

カップに触れていた手を離したハイドは、道路に面した窓の外に目をやった。勢いは多少弱まったが未だ降り続く雨の中を小走りで駆けていった人影は、彼の待つ人のそれではなかった。

「あいつは私にこう言ったんだ……“お前の言うことの中にある正しさとかやさしさを、すぐに見つけられる奴はそう多くない”と」

彼はそこまで言うと、ふっ、と吹き出すように肩を震わせた。

「だから大抵の奴はまず怒るんだ、と言われたよ。なんと言おうか……正しさ云々はともかく、“やさしさ”だなんていうのは、あまりに耳慣れていなくて……」
「驚いただろうね」
「ああ、しばらく笑いが止まらなかったよ!」
「うーん、でも、ぼくもわかる気がするよ。少しだけどね」

店にいるときのハイドの様子を思い返す。この世の中に蔓延っている、誰の役に役に立っているかも分からないしがらみをざくざくと切り払った先にある本当に大切なものを、彼はまっすぐに見ることができる。が、それを伝えるために如何せん最短ルートを突っ走りがちなのだ。時に誰かを傷つけかねないその正しさをガラは“やさしさ”と名付け、必要とあらば咎め、敢えて遠回りの道を示す。そういったことができるからこそ、彼らはまだ一緒にいるのだろう。

「どうやらよき理解者に恵まれたらしいな。ありがたいことだ」
「ありがたいついでに、そろそろおかわりでもいかがかな?」
「まったく調子のいい奴め……」

ひとしきり笑って満足したらしい彼が頬杖をついたところで、来客を知らせるドアベルが鳴った。ちりりん、と軽快な音色に続いて、ゴトンと重そうな靴音。

「すまんな、遅れた」
「構わないさ。貸し切りの店内でのびのびと過ごさせてもらったよ」

振り向くこともなくハイドが告げる。「貸し切りだって?」カウンターまで真っ直ぐやって来た大柄な彼は、ハイドの隣のチェアに腰かける前に店の中を見渡して、「ああ……」と、なんとも言えない声を漏らした。

「いらっしゃい、ガラさん」
「どうも、バリスタさん。今日はずっとハイドの相手を?」
「興味深い話を聞かせてもらっていたよ」
「お疲れさん、あとは俺が代わるよ」
「疲れているのはお前じゃないのか?」

席に着いたガラに、ハイドはやや上目遣いの視線を送る。

「なんなら、今日の約束は無しにしてもよかった」
「いや、特に今日みたいなバタバタした日なんかは、尚更ここでひと息つきたい。ようやく一日の終わりを実感できる」

話を聞くと、ガラは職場の急なトラブル対応で約束の時間に間に合わず、ハイドを随分と待たせてしまったらしい。しかし当のハイドは遅刻に文句を言うどころか、いっそ何か誇らしげにすら見えるのは気のせいだろうか……気のせいではないだろう。

「ということで、お疲れのガラさんに今日は一杯奢ってやろう。何せ私は“やさしい”のでな……そうしたら、私にも同じものを淹れてくれ」
「……? どうした、えらく上機嫌だな。なんだか気味が悪いぞ」
「おい!」
「ま、奢ってもらえるんならありがたく頂いておくが……」

穏やかな空気が満ちる。彼らのやりとりを聞きながら、バリスタは温めたカップをふたつ、取り出した。


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