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好きだよと言われたから、好きだと答えた。
愛してるって意味だよと念を押すように問われて、分かっていると答えた。
こころでは受け入れたつもりで居たが、しかしからだはなぜかその手を拒んだ。彼のおだやかでひややかな温度とみずからのそれが混ざり合うことを、からだが怖いと言っていた。思わず平らな胸を押し返した拍子にマツバの首元を守る薄手のストールがはらりと解けて、向かいあったわたしと彼の間に音も無く落ちた。
午後の気だるい西日が縁側からななめに降り注いで、茶の間の年季の入った畳の色はくっきりと分かたれていた。マツバは、その眩しいほどの金色をきらきらときらめかす、日の当たる側に。わたしは、箪笥の陰となったまっくろな側に。お互い続くことばのひとつも継げず、ただ間抜けな棒立ちで、そこに居た。

「す、」

すまない、と。沈黙に耐えかね、なんとも情けない蚊の鳴くような声で謝ったのはわたしだ。マツバはただ深く深く嘆息した。何をどうすまないと思っているか説明できると言ったら嘘になるが、兎も角わたしは謝った。「いいんだ」金色の髪とヘアバンドの隙間から覗く瞳に宿っているのは、わたしを責める色ではなかった。
そのとき、マツバの屋敷の住人のひとりであるゲンガーが暗い廊下からひょっこりと、心なしか心配そうな顔で現れ、わたしと主人を交互に見遣った。が、マツバの「喧嘩じゃないよ」のひと声に、彼は歯を見せてニカッと破顔してみせた。彼はやんちゃで悪戯好きだが、それ以上にやさしい子であった。
満足そうな笑みを見せたまま、再びゲンガーが廊下の暗がりにすうっと消えていくのを、マツバの垂れ目がちな瞳がじっと見つめていた。ゴースト特有の、あのひんやりとした気配が、すっかり部屋から消えるまで。
「でも、そうだ、喧嘩であったほうが、幾分かはマシだったね。そうは思わないかい?」

よいしょ、とあまり若々しさを感じないかけ声とともにストールを拾い上げたマツバは、西日に向かって歩いていった。それはつまり、私から離れていくということだ。

「やっぱり僕たちは、あまりに長い間“ともだち”でいすぎたんだろう」

それを悲しむわけではなく、やっぱり、などという平淡なことばをつかって、わかりきっていた問題の答え合わせをするように然したる感慨もなく、わたしに触れることのできなかった手を握ったりひらいたりしながらマツバは呟いた。むかし、そこの中庭には木が立っていてね。そう、唐突に語り出す。

「あれは……そうだな、エンジュのご神木たちに比べればそんなに立派では無かったけどさ、それでも、重ねたとしつきを誇るように、胸を張るようにまっすぐ伸びた老木だった。でもいつのまにかすっかりからからに干涸らびてしまったので、あんまり可哀想になって、数年前に切り倒したのだけど。君は気づいていたかい」

西日に包まれた縁側で、何も無い(ように見えるだけで、彼には何かが視えているのかもしれないが)中庭を見詰めて居る。これまでマツバの家には旅の途中で幾度となく訪れていたが、わたしにはいつのまにか消えていたという中庭の老木の姿を思い出すことはできなかった。いつだってせわしなく、ばたばたとあちこちを駆け抜けてきたわたしの目には映ることのなかった、ほんの些細な変化が、きっとほかにもたくさんあったのだ。この屋敷に。中庭に。そして、マツバ自身にも。しかしマツバはそれを決して責めない。そのことに悲しみよりも安堵を覚えているわたしの中を見透かして、ただ静かに笑っている。

「そう、まだ、あのゲンガーがちいさなゴースだった頃だ。きらきらしたちいさな実があの木のてっぺんにひとつ成っていたものだから、あれがもっと色づいたら、もっと大きくなったら、もっと良い匂いがするようになったら、この子に食べさせてあげようと、僕はずっと待っていたんだ。でも、そうしているうちに、いつのまにかそれは熟しすぎて、ぐずぐずとまっくろになって、地面に落ちてしまっていたよ」

つまり、これ以上先に進むこともできなければ、戻ることもできなくなってしまったのだと、視線が言外に語る。陽射しの中で、静かな夜の色を湛えたふたつの紫色が、わたしをまっすぐに捉えていた。

「こんな目を持っていながら……、いや、持っているからこそ、なのだろうか。じっと『そのとき』を待っているうちに、いつもいちばん大事なものを取りこぼしてしまう」ふ、と息をつく。わたしはようやく初めて、マツバという男に対してあわれみを覚えた。「ぼくたちは、一緒におとなになっていくうちに、いろいろなものを無くしすぎたんだ。ねえ、」ミナキくん、と。甘すぎる香りを放つしずくのような声が、わたしの名前を呼んだ。

ジムを継ぐため、そして務めを果たすための修行が本格的に始まるから、これまでのようにきみを自由に家にあげて、いっしょに遊んだりはできないと。まだ年端もゆかぬ少年だったマツバにそう告げられた日。それでもずっと友だちでいようと、幼い小指を絡めて約束したことを、何故か今、わたしはふと、思い出していた。


≫あとのまつり

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