BARステラアビス

 
本日のヨイの世界の探索は無事、終わりを告げた。夢の世界の最深部、ここから先は行き止まり。サマヨイが手を触れた時計の鐘の音が、があん、があんとけたたましく鳴り響く度、一面の雪景色が崩れるように溶け、やがて辺りは真っ暗になる。
目の奥に微かな光がちらついて、それは不規則に明滅。しばらく見つめていると、そこから一本の光の筋が細く細く伸びて、腕に絡みつく。そしてぬるま湯の中から少しずつ掬い上げられるように、意識が浮上していく。

(……何度やっても慣れないな、これは)

カジがゆっくりと目を開けると、そこはバー・ステラアビスのカウンター席だった。控えめな照明にゆったりとしたBGM、そして楽しげにグラスが合わせられたり、氷の揺れる涼しげな音をひとつずつ確かめることで、ここはついさっきまで旅をしていた世界ではない、と認識する。握りしめていた斧の柄の感触が残っているような気がして仕方ない掌を握ったり、開いてみたりするうちに、どこかに預けていた「現実感」というものを、徐々に身体に返してもらえる。そんな感覚が、カジは少しだけ苦手だった。もちろん、たったその程度で“ヨイガミ様の片割れ”に協力したい気持ちが失くなるようなことはないのだが。

「おつかれさまです。何かもう一杯、お作りしましょうか?」
「……あ、今は……少し休憩を」

カウンターの中から声をかけられ、未だ夢と現の狭間をふらふらとしていたカジの意識はようやく、完全に現実へと返った。足を休めるための椅子に腰掛けたまま、ステラアビスの女主人は今日も柔らかく、しかし誰にも心の内に触れさせないように微笑んでいる。カジが首を振ると彼女は静かに頷き、手元のグラスを磨き始めた。

(サマヨイさんは……)

店の奥に目をやると、探していた人物はすぐに見つかった。特徴的なツートンカラーの髪をハーフアップでまとめ、華奢な体つきを隠すようなゆったりとした服をまとい、見る者に限りなく中性的な印象を与える彼―――サマヨイは、壁に設置された小さな木箱の前で何やら考え事をしているところだった。やがて結論が出たのか、今日の旅で得た雑多な道具の数々を、「預かり箱」にぽいぽいと放り込み始める。本来は客の忘れていったアクセサリーなどの小物をしまっておくはずの箱に、どう見てもそれ以上のサイズの酒瓶やラッピングの施された箱などが次々と吸い込まれていく様子は相変わらず異様ではあるが、まあ、何も考えないようにしようとカジは思った。時にこのバーでは、世界のルールというものがまるで通用しなくなることなど、とっくに知っていたから。

「―――、―――」

ふと、今見ているのと反対側、入り口に近いほうの席から、鼻歌が聞こえた。

「……?」

視線を移すと、その正体は今日の探索を共にしたキャスの声だった。小柄なキャスはカジの目線よりだいぶ低いところにいるせいで今の今まで見逃してしまっていたが、どうやら一足先にカウンターで目覚めていたらしい。扱いを得意とする双子座のステラを多く集められたこともあり、戦闘で大活躍を見せていた彼女は、すっかりご機嫌な様子でグラスを傾け、冒険終わりの一杯を味わっている。

カウンターチェアに腰かけると床からすっかり浮いてしまう足を揺らしてリズムを取りながら、ふんふん、と鼻歌は続く。手持ち無沙汰でなんとなく耳を傾けていると、その中にふと、聞き覚えのあるフレーズが混じっていることにカジは気がついた。

―――仕事終わりの帰り道、玄関のドア、夕食の匂い、リビングのソファでクッションを抱き締めながら、ハラハラした様子で画面を見つめる横顔、渋い声のナレーションで読み上げられるタイトル。
ヨイの世界に行く前のアルコールが残した浮遊感に満たされた頭で、なんとか記憶を探って、

「……なんだったかな……カス……ポル……」
「カストル&ポルクスwithギガントマキア!」
「わっ!」

ぽつりと漏らした呟きにほんの数秒の間も置かず返ってきた声に、カジは思わずびくりと肩を跳ねさせた。

「え、何ですか?」
「そう、カストル&ポルクスwithギガントマキアのオープニングテーマ! ま、まさかそれを知る者がここに現れるとは……!?」

元から若者たちの中でも特にテンションの高い子であるとは認識していたが、今はそれに輪をかけてすっかり興奮した様子だ。カジが呆気に取られていると、キャスは手元の華奢なカクテルグラスに半分ほど残っていた中身を、キュッと勢いよく喉に流し込んだ。

「こうしちゃあいられねえ、マスター、いちばんいい酒を頼む……」
「そんな注文で大丈夫なんですか?」
「大丈夫、問題ございませんよ。少しお待ちくださいね」
「はーい」
「あ、通じるのですか……」

きっと、常連である彼女のお気に入りのカクテルや、不思議な言い回しの真意までをすっかり熟知しているのだろう。マスターは何も聞くことなくテキパキとグラスや氷を取り出し、流れるような手つきでシェイカーを振り始めた。シャカシャカと涼しげな音が、耳に心地いい。なんとも懐の広い店である。

「このこの~、お堅そうなリーマンに見えて、意外とマニアックなところもあるんですにゃあ」

空になったグラスを置いたキャスは肘でカジを小突くようなジェスチャーを見せたが、しかしカジは慌てて否定する。

「と、そうは言っても内容については全然知らなくて…………その…………最近どこかで聞いた覚えがある気がする、という程度ですよ」
「えー、そうなのー?」
「はい、お待たせいたしました」

やがて静かにカウンターに載せられるのは、一杯の鮮やかなピンク色。キャスは残念そうに唇を尖らせながらもグラスを持ち上げた。

「うーん、そっかぁ。勝手に盛り上がっちゃってごめんなさい、オタクってのはこういう生き物なもんでしてぇ……」
「いえ、こちらこそぬか喜びをさせてしまって申し訳ない」

謝るカジに、キャスは首を横に振ってみせる。大きなリボンと、結んだ髪に引っかけられた熊のマスコットがふるふると揺れている。

「いや、でもね、でもでも、自分の好きなものが誰かにほんのちょびっとでも認知されてた、ってだけで百点満点。キャスたんは嬉しいのだ」

彼女はそう言って静かにグラスに口をつけたが、やがて我慢しきれないと言った様子で肩を震わせ、カジのほうに向き直って、

「だけどね、だけど、もし、もしもほんとにちょ~~っ……とでも興味が出てきたっていうんなら、布教用の円盤、貸してあげちゃってもいいんですぜ、旦那……」
「ふ、布教……?」

しかし、キャスは急に何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。小動物を思わせる彼女の表情はくるくると目まぐるしく動いて、微笑ましくもあるが忙しい。

「でも今、ヨイたんに貸し出し中だった……」

ヨイたん、というのはキャスがつけたサマヨイのあだ名のことである。

「あう~忘れてた……もう一個コンプリートBOXがあるんだけど、こっちは保存用だから未開封でとっときたいんだよねえ、ってことで今は貸せないや。残念……」
「いや、まだ借りるとはひと言も……? まあいいか……ええと、サマヨイさんも、そういうのがお好きなんですね。いやあ、知らなかったな」

たはは、と笑う。そう、まさにそのヨイたんが夜に家のリビングで毎日一話ずつ見ているので曲を覚えてしまった、などとは流石に言うことができず、カジは言葉を濁したのだ。

毎回律儀に最後まで流されるOPとEDテーマについて、「必ず全部見ないとならないんですか?」と尋ねてみたことがあるのだが、サマヨイ曰く「たまに絵が変わってたり伏線があるから毎回どっちも見逃せない」とのことだ。つまりとても面白い、と言っているのだろうとカジは認識しているので、もし目の前の彼女にそのことを伝えたら、跳び跳ねて喜びそうなものだが。

「それにしても、どこで聞いたんだろねえ。ほんとに覚えてないの?」

おっと、そこを掘り返すか。カジは思わず身構える。といっても、元はと言えばぼんやりとしていて口を滑らせてしまった自分が悪いのだが。
キャスは人差し指を顎に当てて、しばらく考え込むように唸っていたが、やがて表情をぱっと輝かせた。

「あっ、もしかして職場にカスポギのオタクがいるとか……? うんうん、大学とかに比べて年齢層高めのところなら、思春期にカスポギ直撃世代の濃ゆいオタクが潜んでてもおかしくない! ひらめきキャスたん名推理! キラーン!」
「……ん?」

ふと違和感を覚え、カジは首を傾げる。
―――ちょっと待て、今何かおかしなことを聞かなかっただろうか。年齢層が高めだの、思春期を直撃だの何だのと。別に「高めの年齢層」カテゴリに自分がナチュラルに放り込まれているっぽくて若干ショックを受けている、とかではなく。

「ええと、キャスさん?」
「もしそうだったら、ステラアビスに連れてきてほしいなぁ……呑み明かしたい……もしやキャスたんが当時は高くて手が出せなかったようなグッズとかも持ってたりして……?」
「あの、キャスさん。それって最近流行ってるアニメとかではないんですか?」

遮るように尋ねれば、キャスはぽかんとしたような表情を見せる。

「も~、何言ってんのカジりんってば」

そう言って、キャスはヨイの世界でも持ち歩いている(というかこれで戦っている、どういう仕組みだ?)ビビッドなバイカラーのテディベアを、顔の前までさっと持ち上げた。まるで本当に生きているかのように、短い手足をぐねぐねと器用に動かしてみせる。

「カスポギは、十年前に放送された深夜アニメなのだ! いつまでも色褪せない名作だと言っても、さすがに今リアルタイムでカスポギの話をしているような人は、なかなか滅多に見つからないのだ!」
「じゅっ……」
「だからキャスたんは、まだ見ぬ同士が近くにいるかもしれない可能性にウキウキハッピー。おわかり? オーケー? アンダースタン? ―――と、ポルポルは言ってるよ」
「…………あれ、あの、……え? ええ? 失礼ですけど、いったい今何歳……」
「キャス、カジさん、今日は最後までありがとう。助かったよ」

頭の中の算数の雲行きがやや怪しくなってきたところで、カジとキャスの間に涼しげな声が割って入った。キャスは声の聞こえた方に、ぱっと笑顔を向けて、

「おーヨイたんきたー! うぇい、改めておっ疲れ~」

預かり物箱の整理を済ませたらしいサマヨイが、カウンター近くまでやって来ていた。そして相変わらずご機嫌なキャスと、テンション高めにハイタッチ。

「ねえねえヨイたん、カスポギどこまで見た?」
「21話が終わったところかな、キャスの言うとおりかなりアツいね」
「く~っ! ちょうどいちばん盛り上がってくるトコ……もう次の話からそのまま駆け抜けちゃって、25話まで!」
「じゃあ、明日は少し夜更かししちゃおうかな? ちょうど土曜日でお休みだしね」

そう言ってサマヨイもはキャスの肩越しにカジをほんの一瞬ちらりと見遣り、うっすらと笑む。

「それで、キャスにちょっと聞きたかったんだけど。OPに途中から増えたカットで映る影の形って、あれはもしかしてさ……」
「マ!? 初見であれに気づいた……だと……!? このキャスたんですら、ネットで有識者の書き込み見るまでスルーしてたのに……」

なんだかよくわからないが、まあアニメが面白いという話をしているんだろうな、程度の理解で傍観者の立場を決め込もうとしていたカジだったが、キャスは唐突にくるりと振り向いて、

「カジ氏、い、今の聞いたぁ……? すごいよぉ……ヨイたんの才能がどんどん開花していくよぉ……こりゃあ布教した側としてもオタク冥利に尽きるってぇもんよ……」
「は、はい、それは何よりで……」

オタクというのは、こんなにも感情があっちに行ったりこっちに行ったりと忙しないものなのだろうか……それはともかく、どうやら布教相手が立派な同士に成長したことに感銘を受けているらしいキャスは、両手を合わせてサマヨイを拝んでいる。大げさだなあとサマヨイは笑っているが、この店の多くの常連にとって、サマヨイは誇張抜きでもそういった存在に近いのかも知れない。―――というより、実際のところ彼は本当に、半分ほど“カミサマ”になってしまったのだし。

「あ~でもでも、このまま今のテンションで喋るとうっかり先の先までネタバレしちゃいそう……それは何よりも許されぬ、故にキャスたんはお口にチャック……」
「そっか、じゃあ語り合うのはもうちょっと先のお楽しみということで」
「うん!」

キャスが元気よく頷いたちょうどその時、店のドアが開いた。さっぱりしたショートヘアのよく似合う女性が、誰かを探すようにきょろきょろと店内を見回している。

「あ、マイマイも来た。おーい」

ドアの方に向かって、くるり、と椅子を回転させながらキャスが声を上げる。すると、マイマイことマイアは、カウンター周りに集まったメンバーの姿を認めて笑顔で手を振ってみせた。カジも軽く会釈を返す。
彼女とは以前ひと悶着あった間柄だが、今はお互い変わったこともあり、ほどほどの距離感を保ちながらオトナとして接するようになっている。サマヨイがしたことが、巡り巡って店の全体にも少しずつ良い作用をもたらしていると感じるのは、恐らく気のせいではないだろう。

「今日も作戦会議かい?」
「そうそう。マイマイが新しい動画のアイデアを考えてみるーってこの前言ってたから、今日は相談に乗ってあげる約束をしてたってわけ」
「それまでにヨイの世界から帰ってこられてよかったよ。さすが大先輩、やさしいね」

やわらかく微笑むサマヨイの言葉に、キャスはふふん、と胸を張る。

「まあ、マイマイの動画が伸びると回り回ってキャスたん王国の更なる発展にも繋がるわけですし?」
「私も陰ながら応援しておりますよ、国王様」
「陰ながらじゃダ~メ~! コラボ動画一億回再生して~っ!」

しばらくきゃっきゃとはしゃいでいたキャスだったが、やがてカウンターに留まるサマヨイたちに手を振りながら、マイアの待つテーブルに移動していった。話していると彼女の明るさに元気がもらえることはあるが、今日はまるで台風が去った後のようだ。カジは、ふう、と溜め息をつく。

「……キャスさん、若いなぁ……」
「なんだかおじさんみたい」

力のないカジの声に、サマヨイは、ふふ、と肩を揺らして笑っている。

「……さてと、お待たせ、カジさん。ほったらしにされてちょっと寂しかった? なんてね」

先程までとは少し雰囲気の違う、静かな笑みだ。やはりサマヨイは相手ごとに、いちばん話のしやすい空気というものを無意識のうちに作っているのだろう。

「この後はどうする?」
「……あ、実はそろそろ引き上げようかと思っていて……もう結構な時間でしょう」

しかし、胸ポケットにしまっていた腕時計を取り出すと、まだ普段であれば次の一杯をどうするか悩んでいるような時間帯だった。ヨイの世界を旅した後は、もっと多くの時間が経っているような錯覚に陥る。カジは首を傾げた。

「いや、そうでもないか……? 呑み足りないのでしたら、私でよければお付き合いしますが」
「あ、違うんだ。私も今日は帰ろうかなと思っていたところ。奇遇だね」

サマヨイは、少し疲れてしまったから、と溜め息をついた。今日の探索で、スピリットホールと呼ばれるモンスターの巣のようなところに幾度か足を踏み入れてしまったのだ。三人でなんとか切り抜けたが、いつもより重い疲労感がカジの肩にのし掛かっている。その中でも最前線で攻撃を避け、強烈なカウンターを打ち返し続けていたサマヨイは、特に疲れているのだろう。

「なら今日は、このまま帰ってゆっくりしましょうか」
「そうだねカジさん、途中まで・・・・、一緒に帰ろう?」
「……お、っと……」

噛んで含めるようなサマヨイの物言いに、カジはややぎこちなく頷く。カウンター越しにマスターと目が合った。彼女はいつもどおりにおっとりと微笑んで、

「……それではお二人とも、よい夜を。またのお越しをお待ちしております」
















「……それにしてもカジさん、今日はなんだか、ずっとうっかりしていたね」
「すみません、疲れているのかな……」

ステラアビスを出て、表通りに繋がる路地を歩く。二人で暮らしているマンションは、ここからさほど遠くはない。酔い醒ましがてら、いろいろなことを話しながら歩いて帰ることは、カジとサマヨイの間で日課となっていた。

それにしても、サマヨイの指摘通り、たいして酔ってもいないはずなのに今日は口が滑りすぎた。最後のマスターの挨拶は、言葉通りに“おやすみなさい”と受け取って構わないのだろうか。いつも通り微笑みかけてくれた彼女の目が怖かった気がするのだが。カジは腕を組んで唸る。

「まあ、きっと大丈夫だよ。バーのマスターは口が堅いものだから」

見かねたサマヨイがフォローを入れてくれたが、途中でふと思い出したように「あれ、でもあの人おじさんのお仕事ばらしちゃったことあるな」と、小さく呟くのをカジは聞いた。聞かなかったことにしていいだろうか。

「それもそうだけど……キャスとおしゃべりしてた時のほうがね。ちょっと面白かったな」

雑居ビルに挟まれた高い空から、狭い路地に月の明かりが漏れている。隣り合う長い影が、時折ひとつになったり、ふたつに離れたりしている。

「……聞いていたんですか?」
「うん。カジさん、カスポギのこと最近流行りのアニメだと思っていたんだね」

くっくっ、とサマヨイは歯を見せていたずらっぽい笑みを作った。時に性別というものを感じさせなくなるほどの儚げな容姿を持っているはずが、こういった表情を見せる時、彼はしっかりと少年になる。

ほかの常連たちとサマヨイのことについて話す時もあるが、皆が彼に対して抱いている印象というものはほんの少しずつ異なっていた。しかし、それぞれが口々に語る姿のどれもが間違いなく彼のものなのだろうとカジには納得もできた。きっと人の正体というものは、目にする角度によって色が変わって見える、蝶の翅のようなものなのだ。

「何しろ十年前だからね。最近どこかで、なんて言っただけでも、古参オタクには食いつかれてしまうよ?」

キャスのマシンガントークに狼狽えるカジの様子をよほど気に入ったのか、サマヨイはバーでのやりとりを思い出して忍び笑いを漏らしている。カジもまさか、聞こえているかも怪しいような独り言にあそこまで食いつかれるとは思わなかったのだ。驚くくらいは許してもらいたい。

「それにあの店のお客さんもみんな、けっこう勘が鋭いから。あまり深く突っ込まれると、もしかしたらばれちゃっていたかもしれないね……」



―――私たちの帰り道が、最後まで一緒だってこと。



中性的でやわらかな声に普段より低く耳元で囁かれ、細い指先で手の甲を、すり、と撫でられた。ぞわぞわと背筋を這う寒気に似た何かをごまかすように、カジは咳払いをひとつ。

「……いけませんよ、サマヨイさん。ほら、手を離して……」
「大丈夫だよ、どこにも人なんていないじゃないか」

そう言って、サマヨイはカジの元へと一歩、ぴったりとくっ付くように寄り添う。

「酔ってますね」
「そうだよ、だからヨイの世界にいた」

互いの手のひらを合わせ、歯車を噛み合わせるように指を絡ませ、まるで逃げられないように手を繋がれる。彼の言う通り、何度通っても隠れ家のようなバー以外に何があるのか未だによくわからないような路地裏に、他の人通りはなかった。

「もう少し放っておいたら、面白いものが見られたかも。エリートビジネスマンさんがキャスのなぜなぜどうして攻撃を躱しきれるのか、私は少し興味があるよ」
「あなたって人は、案外……」

続く言葉が見つからなくて、はあ、とため息。

「意地悪されるの、嫌い?」
「…………ノーコメントです」
「あはは、正直」

だって仕方ないだろう、こうしてひと回りも歳下の相手にからかわれて、まったく嫌な気分はしないのだから。ほんのりと頬を赤くしたサマヨイはまたしばらく笑っていたが、

「でも、少し意外かな」

ふと、そんなことを呟いた。

「私はてっきり、カジさんは全力で自分のものアピールをしたがるタイプで、すぐにみんなに言ってしまうと思っていたよ」

まるで、大切なものをガラスケースにしまい込むように。
確かに彼の言う通り、過去付き合ってきた相手に、いわゆる独占欲のような感情を抱くことはあった。しかし皆、鍵のかかっていたはずのケースからあっさり抜け出し、カジのもとを去っていったのだ。その後は自棄になってまた愛を求めて、逃げられて、同じように空っぽのガラスケースばかりが残される。今思えば相当な悪循環だった。

「……まだ、私には許されないのかなと」

それが素直な気持ちだった。自分はまだ、彼の隣に立つのに相応しい人間であると、胸を張ることはできない。

「その、無理をしてまで皆さんに隠し通したいわけではないのですが、いま自分から言って回るのは、おかしな感じだな……と、私は思ってしまいます」

そうは言っても、そもそも隠せているのか怪しいところがあるが。近頃は年下の学生にすら自身の雰囲気の変化を悟られ、客の様子を特によく気にかけているマスターや、年長者のサオトメなどからは、時折なんというかひどく生温かい(と共に、見張りをしているかのような、若干鋭い)視線を送られている。

「まだ自分に自信が持てないからですね、きっと。ステラアビスにいるといつも思いますが、やはりあなたは“みんなのサマヨイさん”でいる時が、いちばん生き生きとしているように見える。もちろん私が、いちばんあなたを愛しているつもりではいますが」

小さくて可愛らしい口をぽかんとしたように開けたまま、サマヨイはカジのことを見つめていたが、やがて顔をふいと逸らしてしまった。しかし頭ひとつ分高い所から彼を見下ろせるカジには、柔らかな髪の隙間から、ほんのりと色づいた耳が見えている。

「……はは、真面目か」
「真面目にだってなりますよ、約束したではありませんか」

ちゃんと変わってみせます、と。
依然としてサマヨイの顔は伏せられたままだったが、繋がれた手に力が込められた。

「私が“みんなのものでいる”ことと、“たまにはあなただけのものになる”ことは、ぜんぜん普通に、両立するから……そこはもう少し、カジさんは自惚れてみたっていいと思う」

そして、カジのことを見上げて、続ける。

「でも、一緒に暮らしてる、って、いつかみんなに当たり前みたいにお話できるようになったら、それはいいことなのかもしれないね」
「……ですが、その場合……私は無事にバーから帰してもらえるでしょうか……?」
「まあ、それは今後のあなた次第じゃないかな」

そこは何の根拠がなくても「大丈夫」と太鼓判を押してほしいというか、物騒なことを言わないでほしいところだが。カジは溜め息をついた。
くすくすと笑うサマヨイの横顔が、強い明かりにさっと照らされる。通りを走り抜けるタクシーのヘッドライトだった。

「まだ、少し明るいね」
「そうですね」
「人もたくさんいる」
「はい」
「……手、離したくなった?」
「……いえ」
「今は、誰も気にしてなんていないよ。私たちのこと」

このままでいい。このままがいい。

繋いだ手を引かれ、ステラアビスに続く路地を抜けると、店や車、街灯、たくさんの光がちらついて、それらは不規則に明滅。夜遅いとも言えないような時間帯の表通りには、まだたくさんの人がいた。大きなスポーツバッグを背負って自転車を漕ぐ部活帰りの高校生、仕事帰りのスーツ姿の集団、笑い声をあげる大学生たち、ファミレスから出てきた親子連れ、ネオンが瞬く路地裏に向かう男女のカップル。カジはサマヨイと手を繋いだまま、人の流れの中で幾つもの背中とすれ違う。

「誰も気にしない」というサマヨイの言葉通り、自分たちはただそこにいることを許されているようだとカジは思った。お互いの本当の名前すらうまく呼ぶことができないまま手を繋いで歩くふたりであっても、それは単なる世界の一部であって、それ以上でも、それ以下でも、他の何でもなく、誰からもその存在を咎められることがない。


今はふたりのものになった家に続く道を、ただただ歩く。言葉は見つからなかったのではなく、探す必要がないのだと、互いの手の温かさが訴えているように思えた。無数の星の煌めく夜空の下、ほんの少しだけ、涙が出そうになった。


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