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「こんなふうになりたくはなかったんだ」

カップに注いだコーヒーとバターを塗ったトーストと、冷蔵庫に中途半端に残った生野菜を消費するにはちょうどよい簡単なサラダと。家主から次々と手渡された朝食を食卓へと運び、席に着いてしばらくしたミナキの口からふとこぼされた声は、まだ夜のにおいを引き摺るような色を僅かに帯びているとマツバには感じられた。自嘲と呼ぶにも懺悔と呼ぶにも耐えない、名前を与えることすら躊躇う形容しがたいことばのつらなりを真正面からぶつけられながら、マツバは自身でも驚くほどの冷静さを保ったまま、もそもそと生野菜を噛んでいた。

「きみと、こんなふうになりたくなかった」

好きだと告げたら私もそうだと返された。互いの言葉に意味の違いがないことを確かめたくて伸ばした手は、すんなりと熱に触れることができた。つまり成就したと思った。そんな夜が明けたとたんにこのようなことを言われたとしたら、やはり「普通は」傷つくものなのだろうとマツバは理解している。理解はしているというのに、投げつけられたものが自分のなかにある「普通のところ」を掠りもせずに飛んでいって、すぐそばで口を開けている真っ暗な「普通じゃないところ」に音もなく飲み込まれていく感覚は、いつになっても恐ろしい。

「それって、ぼくを……」

やっぱりすきじゃないってこと。卑怯だとわかっていながら喉に引っ掛かったそれを野菜とともに飲み下して、別の言葉を探す。

「……。後悔しているのかい」
「…………」
「だったら今ならまだ、なかったことにできるかもしれないよ。お互い努力すればね」

口をつけたいのかテーブルに置きたいのか、どっちつかずの半端な高さまで持ち上げたカップの中身をじっと見つめながら、ミナキは口をつぐんでいる。代わりに返事をするかのように、なにか軽いものが屋根をぱらぱらと叩く音がした。今朝マツバが目覚めた時からまるで誰かの気分のようにどんよりと沈んだ色を見せていた空が、今になって雨粒を落とし始めたらしい。台所にある小窓の外は薄暗く、土のにおいがした。本格的な梅雨が始まる前に、最近サボっていた雨樋の掃除をしないとならない。しかし前回は脚立の留め具からなんだかぎしぎしと嫌な音がしたので途中で切り上げたのだということまでマツバは思い出したが、ミナキは黙っている。そういえばジムの倉庫にちょうどよさそうな脚立があるので借りてこられないかということに思い至っても、まだミナキは黙っていた。

「……別に、怒ったりなんてしていないよ。ただ、いつもの君みたいに、思っていることをちゃんと言ってくれないから、少し困ってるだけだ」
「わからないんだ」
「……うん」

ようやく返ってきた言葉の先を促すように、マツバは軽く口の端を持ち上げ、うなずいて見せる。すると普段の振る舞いからは想像がつかないほど頼りなく目線をさまよわせながら、ミナキは口を開いた。

「……昨夜、き、きみと、ああいうことをして」

口もとに手をやり、赤く火照った頬を隠すような仕草を見せながら、訥々と、続ける。

「勘違いをしないでほしいんだが、その、それ自体は、ぜんぜん嫌なんかじゃなかった。朝も普段の時間に起きられたし、身体だってそんなに変な感じはしてなくて、いつもと同じように腹は減っていたし……。でも、皿を渡されている間、きみの顔を見て、おはようと言うことだけが、どうしてもできなくて」
「ぼくが変わってしまったように見えた?」
「わ、わからない。変わったのは、私のほうかもしれないが、それも……自信が持てない」

カップを持ち上げていた手はいつの間にかテーブルに下りて、小刻みに震えている。わからない。わからない。先程からその言葉が繰り返される取っ手を握りしめる彼の指先は、力が入りすぎて白くなっていた。

「だから、怖くなって、あんなことを言ってしまった」
「うん」
「嫌いなわけがない。きみのことはとても好ましい、好きだ、そばにいてほしい。だから怖かった、以前のように振る舞えない自分が」

ばたばた、ばたた、たた。屋根を叩く音は次第に勢いを増して、やがてバケツをひっくり返したような雨になった。この調子だと、枯れ枝やら葉っぱやらが詰まった雨樋から雨水が溢れ出すのも時間の問題だ。

「それできみが怒るのも、逆に怒ってくれないのも、どちらも怖くて、さっきようやく、困ってるだけ、と、すこし笑ってくれたから、やっと思い出せた。これまできみとどう喋っていたか、どういうふうに触れていたか、そういう当たり前にしていたことを」

それまでずっと呼吸の仕方を忘れていて、自分が溺れていることにすら気がついていなかったみたいで、それがひどく恐ろしかった。昨日きみに抱かれて、きっとこれまでのわたしは内側からばらばらにされてしまったのだ。布団のなかでぐちゃぐちゃになってしまったひとつひとつのかけらを、眠っている間にわたしのかたちに組み立て直されたのだ。だからこんなふうに、なにかがすこしおかしい。
ミナキはしばらく黙ったり、言葉を探したりを繰り返しながら、そんなことをマツバに伝えた。ひどくたどたどしく、まるで幼い子どもが初めて目にした光景を、自分なりの表現で精いっぱい説明してみせるように。

「それは、ミナキくんにとっていいことなのかな。それとも悪いことなのかな」
「……あ……」

問われたミナキの肩がびくり、と跳ねる。意図せずとも少し硬い口調になってしまったようで、マツバは小さくため息をついた。怖がらせたくなんてないのに。

「……ごめん。責めてるみたいになってしまったね。無理に言わなくてもいいよ」
「ちが……」

反論を遮るようにゆるゆると首を振り、マツバはトーストを齧った。自分がミナキにとって「つらい時に寄り添ってくれた人間」であるのか、それとも「弱ったところに付け入った男」だったのかは、どうせそのうち明らかになるのだ。例えば明日の朝起きたら机にぽつんと合鍵が置かれているとか、ポケギアに何度コールしても、持ち主の不在を告げる味気ない電子音声しか返ってこなくなるとか、そういうわかりやすい形で。

「違うんだ。それは、もう一度、」

ほんの僅か強められた語調にマツバが弾かれるように顔を上げると、ミナキはこちらをじっと見据えていた。しばらく見つめ合っていると、やがて濁りのない翠色の中に、昨日の夜見た色がじわりと溶け出して、飴のように粘り気を帯びながら潤んでいくように感じられた。

「……確かめて、みないと、わからないから」

形の良い眉を困ったように下げて、縋るような目で、僅かに掠れた声音で、

「確かめたい……」

がちゃん。椅子から立ち上がった拍子に床へ転がり落ちたコーヒーカップは、幸いにも飲み干されて空になったマツバのものだった。ばくばくと、信じられないほど高まった心音が、頭のなかで反響している。気配などという曖昧なものではない。昨日の夜に見た彼がいた。確かに、はっきりと、感じた。

「……ぜんぶ、ぼくが片付けるから。先に、戻ってて……」

どこにとまで言わずとも、それだけで全て通じるくらいには少なくない年月を共にしてきた。用意された朝食がほとんど減っていないことを一言詫びてからミナキは席を立ち、廊下へと消える。それを見送ったマツバはミナキの前に置かれていた皿を冷蔵庫に、自分の空いた皿をシンクに手荒く放り込んだ。
絞り出すように吐き出した息が熱い。湿った土と雨の匂いの混じるを空気を吸い込んでも、気持ちは一向に落ち着くことはなかった。それどころか、この雨の中ならいくら声を上げようと物音を立てようと、どこにも届かず搔き消える、そんな下卑たことばかり考えている。

「……確かめて、あげないと……」

憐れだからか。愛おしいからか。それとも自分も確かめたいからか。彼がこの腕の中で背中を丸めながら、必死で息をするだけのいきものに戻ったあの瞬間を思い描くと、くらりと目眩を覚えることだけは確かだ。
昨夜自分がばらばらにされたのだという場所で、ミナキはマツバのことを待っている。壊されるために。確かめるために。そしてきっと、また呼吸の仕方を忘れる。これから先、塗り重ねるように何度も何度も繰り返す。果たして望んでいたのはこんなことだったか。心臓をぎゅうと引き絞られるような心地がした。


きみと、こんなふうになりたくはなかった。

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