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ドアを開いた瞬間、部屋の中から黒い人影が音も無くやってくるのをガラは見た。薄暗い玄関先で妖しげに光る真っ赤なふたつの瞳は、こちらをじっと見据えている。ああ、そういえば今日はこいつが家にいたんだっけか―――そんなことを思い出しながらその黒い影、ではなくハイドに声をかけようと口を開いた瞬間、突然彼の顔が近づいてきて。

「ん?」

直後、ふに、とどこか間抜けな、しかし柔らかな感触を残してぶつかったのは互いの鼻だった。

「……?」
「む……」

唇にかかった微かな吐息にガラがくすぐったさを覚えるのも束の間、鼻先わずか数センチのところにあった、まるで冗談みたいに整った顔が離れていく。やがて彼はゆっくりと一歩後ずさり、ダークブルーのシャツによく映える生白い腕を組んで、ふう、とため息をつく。何故かガラを非難するような視線のおまけ付きで。……いったい何なんだ、こいつは。それからしばらくの間、玄関先になんとも言えない沈黙が蔓延したが、先にそれを破ったのはガラのほうだった。

「ハイドさんよ……」

呼びかけると、ハイドは視線の動きだけでそれに応じた。おそるおそる、念のため、

「……なんなんだ、今のは?」

尋ねると、

「何って、一日の仕事を終えて帰ってきたお前への労いのキスだが?」

まあ多少狙いは逸れたが……などとぶつぶつ呟いているハイドに、今度はガラがため息をつく番だった。唇に掠りもしなかったそれを「おかえりのキスだ」などと自信満々に宣う彼を見ていると、キスというものの定義が根幹から揺らいでいく気がして仕方ない。

「公園の猫たちから習ったのか? 可愛いもんだな」

手を伸ばし、ハイドの形の良い鼻のてっぺんを指でつついてからかってやる。公園の小さな猫たちが時折見せる、鼻先を相手につんつんと押しつける愛らしい仕草を思い出したのだ。あれは互いの匂いを確認し合い、敵対心を持っていないことを示す猫たちの挨拶のようなものらしい。今度の休みには、日向のベンチで微睡む小さなお嬢さん方に、猫流の挨拶をする変わった吸血鬼の話でもしてやろうかと思った。きっと大ウケ間違いなしだ。

「くそ、やはり失敗だと認めざるを得ないな。もう一度やってやる」
「いいから早く上がらせてくれ」
「だめだ。私の気が済まん」

事もあろうに家に上がろうとする家主の前に立ち塞がり、(なんてやつだ……)ツラを貸せ、と凄んでみせるハイドにジャケットの襟を掴まれる。彼には案外、子供じみた負けず嫌いなところがあるのだ。こうなるともはやムードも色気も何もあったものではないが、こうしてハイドが自分に対して様々な感情を見せる様子をガラは密かに面白いと感じているので、好きにやらせてやることにした。

「うまく距離感が掴めないんだ」
「お前らは夜目が利くんじゃないのか」
「そんなもの、目を閉じてしまえばなんの意味も持たない。それに、私には初めてのことだ」

―――自分よりもでかい男に、こうやって背伸びをしてキスするのなんて。そう囁いて、ふっと表情を柔らげてみせるハイドに、思わずガラの口の端も持ち上がる。

「……まあ、そいつは光栄なことだな」
「よし、いい子だ、動くなよ……」

色気の有無とかいう問題を通り越して、もはや人質に取った善良な市民に銃を突きつけるサスペンスドラマの犯人である。モデルの次は役者でも目指すのかと言いたくなるような物騒な台詞を残して、ハイドは目を閉じた。長い睫毛が一瞬ふるりと揺れて、そして、ジャケットの襟を掴んだまま、背の高いガラに合わせてゆっくりと踵を浮かせているのだろう。周囲に見せる表情こそ時とともに移り変わっていったが、造りそのものは何十年も同じままの顔が近づいてくる。

「おかえり、ガラ」

大多数の「人に言えること」とか、あとはほんのひとつまみの「人に言えないようなこと」とか。世の中の大概のことはやり尽くしたような涼しげな顔で今日も生きているハイドが、ガラに渡すことの出来る「初めて」をまだいくつも隠し持っているというのは、それはとても楽しいことのように思えた。笑いながら目を閉じたガラの唇に今度こそしっかりと触れた唇にも、確かなあたかい血が通っていて、それは確かな救いだった。
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