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虹色に駆けるのじゃずさんより頂きました。
ありがとうございます。




 

波の音がする。
耳慣れない潮騒と、見慣れない白い天井に記憶が混濁し、先ほどまで見ていた夢の光景が、現実のものであるかのように思わされる。
ようやく意識を取り戻したところで何気なく寝返りを打って、レンブはやっと、昨夜隣で眠っていたはずの青年がいないことに気がついた。
はっとして飛び起きれば、開け放たれた窓から薫る潮風が運ばれてきたことにも、また気がつく。
振り返った先にある開けた窓の向こう側で、着流しを着た一人の男が、波打ち際をぼんやりと眺めていた。





放っておいたらまた、一人でどこかに行ってしまいそうだったのだ。





ようやく辿り着いた南の島国で、彼はまるでこの数年の歳月などなかったことかのように、
「やあ」
と軽く笑ってみせた。
まるで街中で同僚に出会ったかのような気軽な挨拶に対して、レンブは何も、言えなかった。
あの艶やかだった黒髪は、少し油っ気を失くしてほんのり白髪を混じらせていて、気高さを意地の悪さで誤魔化していたかのような瞳は、どこか昏い色があった。
レンブが名前を呼ぼうとするよりも先に、彼は可笑しそうにくつくつと笑って、
「酷い顔をしているぜ」
何も言えないレンブに、彼は続けて言った。
「少し老けたんじゃないか。やつれたみたいだ」
「お、」
お前は。
今までどこに。
何をしていたんだ。
聞きたいことは山ほどあったはずだった。
それなのに、何も言葉は出てこなかった。
ただただ、二人の間は潮風が通り過ぎていくばかりで、彼は自らが従え使役する手持ちたちと同じような目をしながら、レンブをじっと見詰めていた。
「……酷い顔をしているぜ」
彼は目を細めて、からかうように、けれど自分にだけはそれと分かるように―――心配りの色を混ぜて、そう繰り返した。
まるで、この数年の歳月など、なかったことかのように。
「きみが素直になるのなら」
さく、と砂を踏んで、レンブとの距離を一歩詰めながら、彼は言った。
「久しぶりに、添い寝でもしてやらなくもないが」
「…………」
レンブは、黙ってギーマの腕を取った。



半ば強引に、近場のモーテルへと連れ込んだ。
最早怪訝そうな顔をすら見せない無関心な受付から、鍵をもぎ取るように受け取って、されるがままの彼の腕をしっかりと握ったまま、部屋に入るまで、お互い一言も発さなかった。
「……怯えてるのか?」
彼がそう言ったのは、最低限の家具だけがある『泊まるため』の部屋に入ってからだった。
「どこにも行きやしないさ」
彼はそう言って笑った。
「君に捕まっちまったんなら、もう仕方がない」
それが揶揄なのか比喩なのか、レンブにはいくら考えてもわからない。
大体彼の言うことは、いつも霞のように揺らめいていて、いつしか欺瞞と誤魔化しで嘘のように消えてしまう。
そのくせ妙なところで急所をついては、やっぱりからかうように笑うのだ。
「だから、もうそろそろ離してくれないか」
―――言われてやっと、レンブは自分が、そう弱くはない力で彼の腕を握っていたことを思い出した。
半ば慌てて手を離すと、彼は袖を捲り、細く青白い腕に着いた、赤い手のひらの痕を確かめた。
「やれやれ……折れちまうところだった」
彼の一言は、あながち嘘ではないような気がして、レンブは思わず眉尻を下げる。
「す、まない、」
ようやく、彼に言えた一言がそれだった。
ギーマは軽い水鉄砲を食らわされたかのような顔をしてから、ぷっと小さく吹き出して、
「……相変わらず、馬鹿真面目なことだ」
と、昔のようにまたからかってきた。
気づけば彼の顔は、すぐ近くにあった、
果たしてどちらから口づけ合ったのか、今となってはもう覚えていない。
ただ、かさついた唇が、妙に懐かしく感じられたのを、やけに鮮明に覚えている。





「ギーマ」
レンブが名前を呼ぶと、彼は海に何かをばらまく手を止めて、気怠げな視線を振り返って寄越した。
「ああ、起きたのか」
彼はそう言ってから、
「ゆうべはよく眠れたかな」
と、明らかな揶揄を込めて笑った。
こういう時は、いつも相手をしないに限る。
「……何をしているんだ?」
受け流して訊ねたレンブに、
「これかい?ああ、うん、これはだね」
ギーマは、片手で持っていた巾着袋を開けてみせた。
「死骸さ」
「な」
思いがけない答えに、レンブは思わず身構える。
「なにをいって―――?」
中身は――飼料だった。
レンブは一瞬面食らってから、そういえばこういうことをするやつだったと思い直す。
要は水辺のポケモンたちに、餌を与えてやっていたのだろう。
何となくやるせなさを覚えて――こんな感情を味わうのはいつ以来だろう――レンブは小さく溜め息を吐いた。
「……趣味の悪いことを言う」
「嘘じゃないさ」
ギーマは目を細めて笑った。
「考えてもみたまえ。わたしたちだって命を繋ぐために、何かの死骸を食べて生きている」
そう言って、彼はまた飼料を海にばらまいた。
波打ち際がばちゃばちゃと騒がしくなり、我先にと集まってきたポケモンたちが、奪い合うように餌を食べ始める。
彼はそれをしばらく眺めてから、
「実はね、レンブ」
にんまりと、意地の悪い笑みをレンブに向ける。
「わたしはもう、死んでいるんだよ」
「…………」
レンブは、黙って眉をしかめた。
「この身は死体というわけさ。どういうわけか、今は生きて動いているように見えるけれど」
「ギーマ、おまえは、」
「要するに、この袋に入っているものたちとわたしは、さして変わらないものということになるね」
「何が言いたい……」
「どうだろう、ここはひとつ――」
ぼちゃりと、巾着袋が海に落ちた。
こぼれ落ちた飼料が波に乗ってて広がり、ばちゃばちゃと、ばちゃばちゃと、ひたすらに波打ち際が騒がしくなる。
「わたしを食べて、これからの人生の先を、生きてみるというのは」
「…………」
絶句するレンブに、ギーマはただただ笑っていた。
「どうせこの身は、とうに死んでいる」
それなら、と、彼は言った。
「きみの糧になるのも、悪くない」
「……、……お」
おまえは。
おまえは。
おまえは。
「おまえは……」
やっと、レンブは言葉を絞り出す。
「……生きているだろう。どう見たって……」
「……やれやれ」
ギーマはつまらなそうな顔をすると、首元に巻いた襟巻きを払うようにして、くるりと踵を返した。
「相変わらず、馬鹿真面目な男だ」
「……何が言いたい」
「今言った通りだよ」
「ギーマ……」
レンブが呼び止めるのも聞かずに、ギーマはさくさくと砂を踏みながら、モーテルの方へと歩いて行く。
「ギーマ」
レンブは少し叱るような口調で、青年の名前を繰り返した。
「おまえが何を言いたいのか、わたしがわからないのはいつものことだろう。拗ねたような物言いをするのなら、最初からわかりやすく言ってくれと、いつもあれほど……」

いつも。
いつものこと。

そう自分で言って、レンブははっとする。
――あれから。
あれからいったい、何年が経ったのだろう。
お互い年月を重ね、知らぬ時を過ごし、きっとどこかは変わっていて、お互い知らぬ姿があるに違いない。
それなのに――何故。
何故こんなにも、お互い、変わっていないような気がするのだろう。

目の前にいる男が、数年前と全く同じ存在だなどという根拠は、どこにもないというのに。

「……どうせ」
レンブが思わず言葉を失っていると、ギーマはまるで――あの頃見せたのと変わらない、拗ねたチョロネコのような顔をして、レンブをちろりと睨んだ。
「どうせきみのことだから、馬鹿を言うなと受け流すに決まっているさ」
「……なんのことだ」
「それしれたことか」
「お、おい。ギーマ……」
「わたしはもう一眠りしてくるよ」
ギーマはそう言って、再びレンブに背中を向ける。
「……隣は空けておくから、早く来るんだね」
「…………」
先に歩いていくギーマの背中を、レンブはしばらく見送った。
「…………」
生ぬるい朝の風が、潮の匂いを運ぶ。
レンブは黙って波打ち際から巾着袋を拾い上げ、ギーマの付けた砂の痕を追った。



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