BARステラアビス



「ごめんねカジさん、晩ごはん、カレーでいいかな?」

サマヨイから唐突に謝られ、いったい何が「ごめんね」なのかと、カジは玄関先でつい考え込んでしまう。仕事を終えて家のドアを開けた先に、好きな人がいて、部屋の奥からは夕食のいい匂いがして、これ以上何を求めるものがあるというのだろうか。そう思いながら首を傾げると、

「あの、ちょっとバイトのほうがバタバタしてて、買い物に寄れなくて、普段よりも簡単に……というか、実はまだ支度が全部終わってなくて」
「なんだ、そんなことで申し訳なさそうにしなくても……それに、好きですから、カレー」

特に仕事が立て込んでいる時期などは、調理はおろか片付けすらも面倒で、ほとんどの夕食を外で済ませてから帰宅していたほどである。簡単だろうと何だろうと、帰宅の時間に合わせて用意されている食事に文句をつけるなど、バチが当たると言うものだ。靴を脱いで部屋に上がりながら、カジが「サマヨイさんも、お仕事お疲れさまでした」と微笑むと、サマヨイも思い出したように、「お、お帰りなさい」と返す。

「でも、そうだな……私に何かできることはありますか?」
「あ、ううん、途中って言っても、本当にあともう少しだから。ごはんも炊けてる、だから、先にお風呂、どうぞ」

問いかけに、サマヨイは慌てた様子で首を横に振る。そうですか、とカジは小さく息をついた。

「もし大変な日は、言ってもらえたら何か、すぐ食べられるものでも買って帰りますから。あまり遠慮しないでくださいね」

少し落ち込んだ様子のサマヨイの頭を撫でる。細く柔らかな髪に指を通すと、シャンプーのいい香りがふわりと広がったが、よほど急いでバスルームを出たのか、まだわずかに湿り気を帯びている。
家事の分担を決め、生活を共にするようになってからもまだ日は浅く、それに加えてサマヨイは最近、少しずつではあるがアルバイトを始めたばかりだ。まるで完璧に噛み合った歯車のように、暮らしの全てがすぐに上手く回り始めるはずなどない。カジはそう理解していたし、これは年長者である自分にできる気遣いだ。しかしサマヨイは何か言おうと口をぱくぱくとさせた後、しゅんとしたように眉尻を下げて、

「私が、要領悪いだけで……カジさんのほうが忙しいのに、おつかいなんて頼めない」

そんなことを言って、ひどく申し訳なさそうな顔をする。

「ごはんの支度は私がするって、ふたりで決めているわけだし……」
「…………」

バーで話をしていた頃にも感じることはあったが、この儚く柔和な雰囲気を纏う彼は時々、自らがこうだと決めたことに対して少し、頑なになりすぎるところがある。他の常連との酒の席で、ちょっとした言い合いになったこともある、と聞く程度には。もちろんその後にもしっかり会話を重ねて、無事に仲直りすることができたというが。

まっすぐな性格、と呼べばそれは美点ではあるものの、行きすぎれば時に自らを追い詰めてしまう。自分は面倒を見られている立場であるといった負い目がサマヨイにそうさせるのか、それについてはまだ話し合いの余地ありだ。互いが互いを必要としたから一緒にいるのであって、そこにどちらが偉くてどちらが偉くない、などといった立場は存在しない。軽く呑みながらでもいいので、そういった話をする時間を少し取ろうとカジは考える。バーで大っぴらにできるような話ではないため、当然家の中で、だが。









普段より気持ち長めに時間をかけてシャワーを浴びてから、ダイニングに向かう。テーブルの上にはサマヨイの言った通りカレーと、サラダの小皿が並んでいた。彼は、簡単、などと言って謙遜していたが、なんとか定時に上がれるようにはなりつつも連日ぐったりしながら帰宅している身には十分にありがたい。引け目を感じることなんてないのに、と改めて思いながら席についたカジだったが、視線がふと、カレーの上に留まった。

「やっぱり、珍しいのかな?」

冷蔵庫からドレッシングを取り出し、カジより少し遅れてテーブルにやって来たサマヨイが言う。カレーのルーと白米のちょうど境目には、小さな黄色いつぶつぶがちょこんと盛られていた。それは缶詰のスイートコーンだ。そのうち何かに使おうと買い置きしてあったものだっただろうか、カジは今の今まですっかり忘れてしまっていたが。

「これ、うちではよくやってたんだけど」
「そうですね、あまり見かけないかな、とは思いましたが……」

ふたり向かい合って座り、いただきます、と手を合わせる。ルーとご飯と一緒に、コーンをスプーンで掬って、ひと口。スタンダードな中辛のカレーに、コーンの甘みとシャキシャキの食感がいいアクセントになっている。

「おいしいですよ」
「よかった」

カジが頷くと、サマヨイはほっとしたように表情を綻ばせる。それからようやくスプーンを手に取り、自分もひと口。「ちなみに、びちゃびちゃにならないようにしっかり水切りするのが大事」と教えてくれた。少し笑顔が戻った。

それから少し、今日のサマヨイの話を聞いた。バイト先で初めてミスをしてしまったこと。余計に待たせてしまった客も、一緒に謝ってくれた店長も、笑って許してくれたこと。途中でカジの言った「まだ慣れないのだから仕方ない」という慰めと、まったく同じ言葉を店でもかけられたこと。本来受け入れるべき周りのやさしさを、素直に受け取りきれない卑屈な自分が未だにいるのが、少しだけ嫌だということ。

「そういったフォローも上司の仕事の内ですし、最初のうちはちょっと図々しいくらい頼ったっていいと思いますけどね。大事なのは、何度も同じミスをしないこと……って、なんだか若者に絡んで説教するおじさんっぽいですか、これ」

カジは思わず眉をひそめたが、サマヨイはくすくすと笑う。

「ううん。やっぱり、ある程度割り切って働いてる人の言葉って、さっぱりしていて気持ちがいいよ。少し元気が出た」
「……そうですか? ならいいのですが……まあ、遠慮も反省も大切ですけど、多少は図太くないとやっぱり色々しんどいですよ、とだけ言っておきますね」

サマヨイはこくりと頷く。グラスの水をひと口飲んでから、「ごめんね、暗くなっちゃった」と謝って、再びスプーンを手に取る。この話はここでおしまい、の合図。

「話、戻るけど……当たり前だと思って食べてるけど、カレーって家ごとにだいぶ違ってて、びっくりすることがあるよね。お友達の家なんかだと、自分では考えたこともないような具が入ってたり……」
「……ああ、確かにそうですね。サマヨイさんが驚いたよそのカレーって、何かあるんですか?」

―――友達の家に遊びに行って、何かをご馳走になるような機会など、ほとんどなかった。唐突に変えられた話題は自分にとってあまりピンと来るものではなかったので、返事のタイミングが少し遅れたように思う。そんなカジの様子を敏感に察したのか、サマヨイはやや気まずそうに視線を泳がせたあと、再び水の入ったグラスに口をつけた。なんだか、あまり上手く噛み合わない日だ。

「えっと、高校の頃、友達の家に泊まったら、カレーにちくわが入ってた、かな……」
「……合うんですか?」
「意外と、というか普通に? 気になって調べてみたら、食品会社のホームページにもちくわカレーのレシピが載ってたりしたんだ。びっくりしたな」

スプーンを箸に持ち替えて、サマヨイはサラダを食べ始めた。彩りに添えられたプチトマトを箸の先で器用に摘まんで、ぱくり。

「……ええとね、私は、大きめに切った野菜がゴロゴロしてるカレーが好きで」

また、話題が変わる。確かに、今日のカレーの具も大きめだ。ざっくりとカットされたじゃがいもやニンジンは食べ応えがある。

「だから今日は、本当は夏野菜がいっぱい入ったカレーを作りたかったんだ。焼いたかぼちゃと、オクラと、それからナスと……」

旬の野菜を指折り数えながら並べて、まあ、ぜんぜん時間が足りなかったんだけど、と最後にサマヨイは苦笑い。彼の言う通り、通常のカレー作りの工程にプラスして更に野菜を焼いたり揚げたり、バイトが長引いてしまった後には難しいだろう。

「……」

ここで、そんなに無理をしなくてもいい、と、などと言うのは、果たして正解なのだろうか。カジの喉まで出かけた言葉が、ふと止まる。それは突然変わった環境に慣れることで精一杯のサマヨイに対して、歳上の自分が向けるべき100パーセントの配慮と善意であったが、受ける側の彼がその全てを上手に受け取ることができるとは限らない。ほんのついさっき、そういう話をしたばかりだ。
例えば期待をされていない、役に立てない、そんな風に受け止めて、傷ついてはしまわないだろうか。ただ家の中でカジを迎え入れるだけの、よくない言い方をすれば、愛玩動物じみた役割を求められていると、そう思ってしまわないだろうか。互いの真意は伝えあったが、またいつ疑われてしまっても仕方がないような言動を、過去の自分は見せたのだから。

―――やっぱり難しいな、と、カジはひっそり息をつく。客先であれば、流れるようにすらすらと、自分を信用させるためにいちばん効果のある言葉を選び、いくらでも吐けるというのに。サマヨイに手渡すためのたったのひと言は、床にばらまかれたパズルのピースの中から、唯一の正しい形を手探りで見つけなければならない。そんな感覚。これほどまでに悩むのは、彼を大切に思っている証であると分かってはいるのだが、同時にこれまでの自らの行いに対して、ツケを払わされているといった気持ちが拭えない。

「そうだ、カジさん、他にカジさんの好きな野菜と……あと苦手な野菜はある? そういうの、先に聞いておくべきだったよね」
「……ああ、いえ、なんでも食べますよ。基本的に好き嫌いはありませんので、そのあたりはお気遣いなく」

本当は食べたくないものだってあったかもしれないけど、食べられるように躾けられましたから―――などとは、わざわざ口にしたりしないが。表面は穏やかだが、実は危ういところで均衡が保たれているような今日の食卓の空気を、これ以上妙なものすることもあるまい。

「あなたと一緒に食べるものが、今の私にとって一番好きなものです」
「…………あの、そういう恥ずかしいこと、癖で誰にでも言ってないよね?」
「だ、っ」

真正面から投げ掛けられた言葉に、カジは思わず咳き込んだ。しかしこういったことに関して自分は前科持ちとも言えるので、彼のじと、と訝しむような視線を甘んじて受け入れるしかない。というか、まあ、これはこれで可愛らしいので役得だ、などと言ったら、反省していないとまた叱られてしまうだろうけど。

「……誰にもは、言ってません、から」
「うむ、よろしい」

満足そうに頷いて、サマヨイはカレーをぱくぱくと食べ進める。

「じゃあ、楽しみにしていてね。今度こそ余裕があるときに作るから、夏野菜カレー」
「……そうだ、好きな野菜といえば……サマヨイさん、ズッキーニはお好きですか? 輪切りにしてから素揚げして最後に乗せると、シャキシャキしておいしいですよ」
「それは……やったことがない。ねえ、他にも何かおいしくなりそうなものを知っていたら、教えてほしいな」

グラスの水で喉を潤しながら、カジは考えを巡らせる。せっかくなら先ほどサマヨイが挙げた野菜にズッキーニの素揚げ、それからパプリカも加えて、スプーンを入れた鶏もも肉がほろほろと崩れるくらいまで火を通して……美味しそうだが、結構な手間がかかりそうだ。

「生クリームを用意して、バターチキンカレーにするのもいいかと思いましたが……」
「やったことないな。難しい?」
「まあ、手順さえ分かっていれば……でしたらサマヨイさん、休みの日にでも一緒に作ってみましょうか。もちろん、買い物も」
「え、嬉しい。ちゃんと覚えたら、次はひとりでも作れるかな」

カジからの提案に、サマヨイはうっすらとはにかむ。前に住んでいた部屋のキッチンは、ふたり並んで料理ができるほど広くなかったから。そう話す姿が、たまらなく可愛らしかった。どうやら正解のピースを上手く拾えたようだと、カジは安堵する。

「と言っても、あまりすぐだとカレーばかりになってしまいますが……」
「じゃあ、来週あたり?」
「そのくらいがちょうどいいかもですね」

それにしても、“うちのカレー”は、どんなものだったか。手元のスプーンに視線を落とし、カジはふと、そんなことを考えてしまう。
厳しかった母は、体面や世間体というものをひどく気にする人だった。身につけるものは当然、食べるものも、世間の水準と照らし合わせれば十分に良質とされるものを幼い頃から与えられてきた。食卓に並ぶものの中には当然、いわゆる「愛情と手間がたっぷりと詰まった」ように見える、手の込んだ料理もあったはずだ。しかしカジの記憶の中ではその見た目も味もひどく曖昧で、まるで靄がかかったようにぼんやりとしている。

「……」

実家でのあらゆる出来事を早く忘れたい、と思っていたことも理由のひとつではあるが、そもそも家ではいつも母に怯えて、食事の時間すら安心することが出来なかったせいだろう。計算されて整えられた彩りも、栄養のバランスも、突き詰めればそれらすべては、きっとピアノで結果を出すためのものだったから。だから自分は母の料理のことを、うちのカレーなどというものが存在していたかどうかを、よく覚えていない。

―――お金ならあったが、逆に言えばお金くらいしかなかった、空っぽの家だな、と。サマヨイとの穏やかな暮らしを手に入れた今、カジは改めてそう思う。子供を追い詰めた母、家庭に興味を示さない父、あんな実家に未練などは欠片もない。しかし要らないものを切り捨てるように家を離れても、虫食い穴に似た欠落が自らを、そして関わり合った周囲の人間までを、化膿した傷がじわじわと広がるように苦しめていたのだと思うとやるせない。
気持ちが引きずられてしまったと彼のせいにしたくはないが、やはり自分まで少しネガティブになってしまっているのかもしれない。空になったグラスを握る手に、僅かに力が込もる。

「あのね」
「はい」

サマヨイの声に、カジは顔を上げる。自分の失敗を話す時より、彼はどうしてか苦しそうな表情をしていた。

「ごめんね、ちょっと嫌な話をしてしまったよね」
「……いえ、さっきは少し、ぼんやりしてしまっていただけですから」

だから気にしないで、と、カジはカレーを口に運ぶ。サマヨイだけでなく、おおよそ世間の大多数にとっての「普通の話」が、返事をいちいち考えて取り繕わなければならないような「嫌な話」に変わってしまう、異常な家庭で育ったのはこちらなのだから。
しかし、サマヨイは首を横に振る。

「急いで作った今日のカレーも、ちょっと手の込んだ夏野菜のカレーも、カレーだけじゃない、これから作って食べるおいしいものを全部、全部、カジさんの“うちのごはん”にしたらいいよ」

やはりサマヨイには、こちらの考えていることが伝わってしまうのだろうか。それとも、思っている以上に自分がわかりやすいだけなのだろうか。そのどちらでも構わない、とカジは思う。それにしても、全部、とはずいぶん大きく出たものだ。

「……ふふ、なんだかさっきから、カレーを食べながらずっとカレーの話をしていますね」

つい笑ってしまうが、サマヨイの表情は真剣だ。いつの間にか空になっていたカレーの皿にスプーンを置いて、カジの顔をじっと見つめて、

「少し欲張りかもしれないけど、これまでたくさん我慢してきたあなたには、きっとそれくらいがちょうどいい」

そんなことを言うのだから、あまり甘やかされると、少しだけ泣きたくなって、困ってしまう。



「……あなたは、本当にやさしい人だ」



つい綻んだ口元から、ふふ、と笑みがこぼれる。サマヨイはまだしばらく黙ってカジのことを見つめていたが、やがてその真っ白な頬と耳にほんのりと朱が差し始めた。やがて根負けしたように「もうちょっと食べちゃおう」となどと独り言にしては大きな声をこぼし、空いた皿を持って席を立つのを、カジは口元を緩めたまま見送る。彼がその華奢な体つきに反し、若い男の子らしくよく食べる様子を見るのは、いつだって楽しい。

「ねえサマヨイさん。夕食が済んだら、少しお酒を呑みませんか」
「……いいの? また暗くなってしまうかもしれないよ」
「構いませんよ。それでも、私はあなたと話がしたい」

テーブルから少し離れたキッチンで、ごはんのおかわりをぽんぽんと皿に盛るサマヨイにカジが声をかけると、彼はこちらに振り向いて、少しだけ恥ずかしそうに笑ってみせた。

本物の愛なんていうものが、どういう形をしているのか、未だにうまく掴めてはいないけど。しかしこうした小さな幸せをひとつずつ、拾い集めて歩いた先で、何かを見つけることができそうだ、と。ここがふたりの家に変わって、孤独すら少しずつ分け合えるようになってから、自分はそんなことを、ずっとずっと、思っている。


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