BARステラアビス
以前の自分からしたら信じられないことではあるが、サマヨイと生活を共にするようになってしばらく経ち、「ただ一緒に寝たいから」と夜に気安く互いの部屋を行き来するようになった。そしてこのように思わぬ形で、相手の習慣をひとつ知ることもある。
「あ。日記が出しっぱなし」
「⋯⋯?」
小さな呟きとともに、腕の中にあったぬくもりがするりとベッドを抜け出して、うとうとと瞼を閉じかけていたカジの意識はふっと現実に連れ戻された。ひとり取り残されたベッドの中から辺りを見回せば、部屋の主はこちらに背中を向けて、シンプルなデスクの引き出しに何かを片付けようとしているところだった。
「サマヨイさん⋯⋯?」
カジからの呼びかけに、サマヨイが振り向く。明かりを絞ったデスクライトがほんのりと照らす手元には、一冊の青い手帳があった。それを引き出しにしまい込み、彼は「ごめんね」と口にしながら再びベッドの中に―――正確に言うならば、カジの腕の中に戻ってきた。毛布がふわりと持ち上げられて、まだ少しひんやりとした春の夜の空気とともに、つい先程まで隣にあった温度が迷わず帰ってきてくれることが、あまりにも心地よい。迎え入れる腕に力を込めると、彼は困ったように笑う。
「日記を書いた後、しまうのを忘れていてさ。一度気がついたら、ちょっと落ち着かなくなってしまって」
あ、別にカジさんに覗かれるかもとか、覗かれて困るようなことを書いてるとか、そういうのではなくて、ただ私の気持ちの問題というか。もぞもぞと毛布をかけ直しながら早口で何やら言っているが、半ば眠りに落ちかけていたカジにはただ「日記⋯⋯?」と聞き返すだけで精一杯だ。やや舌足らずな問いかけに、サマヨイは「うん、日記」と頷く。なるほど、先ほどの青い手帳は彼の日記帳で、普段は書き終えたら引き出しの中にしまっているものを、今日は忘れていたということらしい。ぼんやりとした頭でようやく理解をする。
「そんなに大した内容じゃないんだ⋯⋯。その日のごはんのメニューとか、行った場所、買ってよかった物とかを、メモみたいに書き留めてる」
「毎日書いているんですか?」
「一応ね。最近はバーのこととか⋯⋯色々あったから、ちょっとサボってしまっていたけど。ようやく落ち着いたから再開したところ」
「そうですか。それは⋯⋯よかったです」
たとえ多くの友人の心とヨイの世界を救ったと言えども、サマヨイもまた例外ではなく、傷ついてステラアビスに誘われた、「心の弱った人間」のひとりなのだ。そんな彼が腰を落ち着けることのできる場所を、再び日記に残し始めてもいいと思えるような新しい毎日を、一緒に作ることができている。少しくらい、自惚れてもいいのだろうか。そんなことを思う。
ゆったりとした厚手のストールを身につけていないとより際立つ、あまりに華奢な体を抱き寄せれば、彼は「寒い?」と首を傾げる。そうではないのだ。あたたかい。しばらくじっとしていれば、やがてカジの胸にサマヨイの額が甘えるように擦り寄せられた。
「⋯⋯でも、前よりちょっとだけ、書くことが増えたんだよ。カジさんのこととかね」
「えっ?」
不意に囁かれた言葉に、カジは思わず瞠目する。すると元から丸い瞳を更に大きくさせたサマヨイと目が合って、
「え、な、俺ですか? えっと、何で⋯⋯?」
「そんなに驚かれるほうが驚く、かも⋯⋯だってさ、それは書くよ、一緒に住んでるんだし⋯⋯嫌だった?」
慌てて首を横に振れば、サマヨイは「よかった」と、ほっとしたように小さく息をついた。
「す、すみません、嫌だなんてことは⋯⋯少し、その、照れくさいだけで」
「⋯⋯別に、変なことは書いていないから。一緒にどこに出かけて、何をして、カジさんはどんなものを美味しいって言ってたか、とか。そういう、ずっと忘れたくないなっていうことを、書き残しておきたいだけ⋯⋯みたいなやつ⋯⋯」
もにょもにょ、と次第に不明瞭になっていく言葉尻と赤らんでいく頬に、こちらの顔まで熱くなってくる。ということは、書かれているのだろうか。先月出かけた水族館で、サマヨイからひと口分けてもらった黒ごまソフトクリームを妙に気に入ってしまって、帰りに売店の前を通った時に自分も買っていたこととか。
「⋯⋯ええと、それは、嬉しいです」
「だから、そんなに心配しなくていいよ。あの、⋯⋯もう寝るね、おやすみ!」
「あっ」
律儀に挨拶を残して、サマヨイは毛布に潜り込んでしまった。照れ隠しにやっているだけかと思いきや、しばらくするとすうすうと、どこか子どもじみた寝息が聞こえてくるものだからカジはつい苦笑いをしてしまう。どこでもすぐ寝られるというのは本当のようだ。しかしバーのカウンターなんかで寝られると、見ている方は気が気ではないものだが。
「本当に寝てしまった⋯⋯」
寝苦しくないように顔を出してあげて、でも肩が冷えてしまわないように、ちょうどよいところまで慎重に毛布をずらす。そして明日の朝に洗面台を占領されないよう、特徴的なツートンカラーの髪を手櫛で軽く整えてから、カジは小さく息をつく。
ベッドの中から見えるデスク、上からニ番目の引き出し。そこにしまわれた青い日記帳の中には、大切な人の目から見た自分がいる。その事実はカジをどうにも気恥ずかしいような、むず痒いような、しかし決して嫌ではない、不思議な心地にさせた。目を閉じる。サマヨイの背中に回した手のひらに、微かな息づかいと確かな熱を感じる。
「⋯⋯」
これから先、他の誰よりも、どんなことよりも、たくさん。彼が毎晩ペンを走らせる紙の上、そこに自分との思い出が在り続けることができたなら。時折ページを捲って、この日はこんなことがあったなと、この春の夜のようにやわらかく微笑んでもらえるなら。それはとてもとても、幸せなことなのかもしれない。