BARステラアビス


引っ越しの手続きに必要なものを、ここから適当に持っていってくれていい。そう言って彼が差し出してきた小さな鞄の中にあった身分証には、当然ながらバーで通用しているあだ名ではなく彼の本当の名前が記されていて、その小さな文字の並びを目にした瞬間、カジはまるで世界が淡く色づくような心地を覚えた。それは個を識別するための単なる文字列などではない、美しい名前だった。■■さん、■■さん! 胸の高鳴るままに思わず呼びかけると、彼は知らない英単語を耳にしたようなぼんやりとした顔を見せたあと、一拍遅れてうっすらと微笑んでみせた。その反応を、久々に呼ばれたみずからの名前に照れてしまっているのだとカジは信じて疑わなかったし、本当の名前すら知らぬままに彼をこの手の中に収めて、家に招き入れたことを、大きな過ちの第一歩だとはまるで感じていなかった。ただただ、美しい名前だと思って、彼がバーで親しくしていた人々ですら知らないであろうその響きに酔いしれたのだ。

それからの日々はとても幸せだった。何と言っても朝目覚めたらいとしい人がすぐ隣にいて、いってらっしゃいと自分を仕事に送り出し、そして夜にはおかえりなさいと、やさしい灯りの灯る部屋に迎え入れてくれるのだから。どうしようもない渇きに突き動かされるまま、手当たり次第に欲を貪っていたような日々は唐突に終わりを告げた。あれだけ焦がれて求めていたものは、ここにあったのだ。まるで運命に引かれるように路地裏のバーで出会った、この不思議な青年のなかに。
彼がつまらない家事に割く時間の一分一秒が惜しくて、調理器具や洗濯機などのあらゆる家電を新調した。休日には時間の許す限り彼と睦み合ったし、彼もそれを拒まない。だからそれでいいのだとカジは思っていた。ただ、彼にやわらかく抱き締められても、時折冷たい指先で背筋を撫でられるような感覚に襲われること、それだけが不安で不快で不満だった。いったいどうしてそんな心地になるのか。それはきっと、そうやって自分のことを抱き止める時の彼が泣きそうな顔をしているからだとようやく気づいた頃には、彼をこの家に招き入れてから半年が過ぎていた。彼はあまり笑わなくなった。それでも、ようやく手にしたこのあたたかな暮らしを手放すことなどできるはずがなかった。

好きなことに使っていいと渡したカードにはほとんど手がつけられていなかった。本当に欲しいものはないのかと尋ねても「なにもない」と首を振る。逆に、少しでもバイトか何かをしたいという彼の申し出は断った。自分が働きに出て十分な生活ができているんだから仕事なんてする必要はないし、大切なあなたにわざわざ厄介な目にあったり、他人の悪意に傷ついたりしてほしくない。その代わりに、自分が帰る時には必ず家にいて欲しいのだと懇願すると、彼の表情が歪んだ。自分はただあなたのことを想っている。何かおかしなことを言っているかと問うた。彼は何も言わなかった。
そう、ただそこにいて、この溢れんばかりの愛を受け取ってくれればいい。夜空で一際明るくきらめく星のように。額縁に収まる夜の海の絵のように。ガラスの花瓶に挿された可憐な白い花のように。銀の指輪のてっぺんに輝く青い石のように。まるい皿のまんなかに置かれた甘い甘いケーキのように。

「あなたにとっての私は、やっぱりそういうものなんだ」

彼の華奢な手を取った両手の上に、ぽつん、と何かが落ちて濡れた。いたいよ、はなして。力のない声に指摘され慌てて手を話すと、彼のほっそりとした手首には痛々しい痣が残っていた。

「だったら私は、私にしかできないことを、もっとがんばるから」





















「おはようございます、■■さん」

普段と同じ時間に目覚めて、隣で眠る彼に声を掛けたが、すぐに目を覚ます様子はない。ひとりで食事と身支度を済ませ、玄関先で靴を履いているとようやく起きてきたパジャマ姿の彼は身体を引きずるようにカジのもとにやって来て、「いってらっしゃい」と抑揚のない声で呟く。薄く開いた口許にキスをして、朝食は用意してありますから、と伝えれば、彼は聞いているのかいないのかわからないようなぼんやりとした面持ちのまま頷いて、キッチンではなく自室に向かう。きっとまた今日も、テーブルの上ですっかり冷めて固くなってしまったトーストと目玉焼きを、仕事から帰るなり処分することになるのだろう。
初めての喧嘩、と、呼んでもいいのだろうか。あれはお互いを愛し合う故の些細なすれ違いだと思うが……とにかくあの言い合いの日以来、彼は朝なかなか起きてこられなくなったり、夜もカジの帰宅を待たずに眠ってしまうことが増えたように思う。初めのうちは疲れてしまっているのかと思い彼と触れ合う頻度を抑え、彼が寝たいと言うだけ寝かせておくようになったが、原因が他にあることは分かっていた。

「そうだ、■■さん、そろそろ瓶と缶の回収日ですから……お部屋にあるようでしたら、洗ってまとめておいてくださいね」

呼びかけにも返事はなく、やはり聞いているのかいないのか……ぱたん、と静かに閉じられたドアの向こうに消えていく後ろ姿を見送り、やれやれと溜め息をついて、カジは仕事に向かう。

最近の彼は、平日は昼夜を問わずにヨイの世界に入り浸り、溜まった疲れを無理やり清算するように土日は眠り続けている。本人は隠しているつもりらしいが、彼がこっそりと片付けているごみの中でアルコール類の瓶や缶がその数を増やしていることに、同じ家にいて気がつかない筈がなかった。仕事を終えて帰宅したカジが予想通り手付かずの朝食を処分してようやくひと息つく時間には、彼は与えられている自室で本物の眠りに落ちているらしく、追いかけるように少しばかり深酒をしても、たどり着いたヨイの世界で彼と出会うことはなかった。

「……」

薄暗い深夜のリビングで目を覚まし、カジは大きく嘆息した。結局ヨイの世界では、ベンチで誰かに声をかけられるのをぼんやりと待つ無駄な時間を過ごしただけで、身体が休まったような感覚はまるでない。しっかりと空調は効いているはずなのに、この家はあまりにも寒く感じることも要因のひとつだろうか。それでも明日はやって来るし(正確に言うともう今日、なのだが)仕事にだって行かなければならないので、部屋のベッドで休むため文字通り重い腰を上げ、ソファから立ち上がった。
ひとつきりのグラスを片づけて寝室に戻る途中、廊下に何かが置いてあるのを見つけた。疲れて帰宅した時には気がつかなかったが、彼の自室のドアの横に、口を縛ったビニール袋がふたつ置いてある。瓶と缶が詰まった袋の瓶のほうに、小さな文字で何かが書かれたメモが一枚、貼り付けてあった。







ちゃんと片づけできなくて ごめんなさい







残されたメッセージに、じわり、と視界が歪んだ。決して咎めたつもりなどないのに彼がこんなふうに謝るのも、ふたりでいるはずなのにずっとひとりみたいなのも、ヨイの世界で会えないことも。自分の好みに合わせて作ってもらう美味しいカクテルの味を知っているならばとても飲めたようなものではない、まるで酔うことさえできればそれでいいとでもいうような安上がりできつい酒のごみばかりが、目の前のビニール袋に詰まっていることも。全てが悲しかった。一人で暮らしていた頃よりも、ふたりだからこそ今ここにいる自分はより独りでしかなく、彼と出会う前よりももっともっと渇いていて、寂しい。

「■■さん、今度久しぶりに、ふたりでお酒を呑みませんか。ちゃんと美味しいお酒です、おつまみも用意しますから、食べたいものを教えてください」

扉の向こうから、返事はなかった。


















次の土曜日、彼は夕方にようやく起きてリビングにやって来た。カジが朝食のつもりで作って冷蔵庫にしまっておいたサンドイッチひとつを、少しずつ少しずつ、おおよそ信じられないほどの時間をかけて食べた。それからはソファで時折うとうとと船を漕いだりしながら、窓の外の夕焼けをぼんやりと眺めている。それが次第に薄暗く、すっかり夜と呼んでも差し支えない景色に変わった頃、カジはソファの前のローテーブルにグラスをひとつ、置いた。

「これは?」
「ホットワインですよ。温かい飲み物でもどうかな、と思いまして……初めてですか?」
「……うん」
「なら、お口に合えばいいのですけど」

彼はほかほかと湯気の立ち上るグラスを持ち上げて、中身の赤い液体を見つめている。
レモンを絞ったりんごジュースを鍋にかけてシナモンパウダーを散らし、煮立ったら同量の赤ワインを加える。数分温めたらグラスに注いで、小匙一杯ほどの蜂蜜を垂らす。最後に輪切りにしたオレンジを浮かべると、鮮やかな赤と相俟って見た目も華やかだ。もともと度数が低めの赤ワインをジュースで割っている上、ひと煮立ちさせる間に幾分かアルコールが飛んでしまっているので、今の彼には到底満足できない代物かもしれないが。

「……ん、おいし」

ふう、と何度か息を吹き掛けてからグラスに口をつけた彼は、確かにそう呟いた。自分用のもう一杯のホットワインと、チョコチップクッキーと塩気のあるクラッカーを半分ずつ盛った小皿を手にキッチンから戻ったカジが「お隣、よろしいですか?」と声を掛ければ、グラスを持ったまま小さく頷く。
少しの隙間を空けて隣に座って、すこし好みが別れるがこれにはショウガとかマーマレードを入れても美味しい、だとか、定番は赤ワインだけど白ワインを使うこともある、だとか、そんな他愛もない話をした。身体が温まって少し食欲も出てきたのだろうか、時折クラッカーを口に運びながらゆっくりと頷く彼の頬に僅かな赤みが差していることに、ひどく安堵した。クラッカーばかりが減っていくが、甘いものより塩気のあるもののほうが好みなのだろうか。思えば自分は、そんなことすら知らない。

「……あの、少しだけ、触れても?」
「そんなこと、今さら聞くの、なんか変だよ」

もっといろいろなことをしているじゃないかと、暗にからかわれている。首を傾げる彼の頬に触れると、とても温かかった。熱と輪郭を確かめるように身体のあちこちに触れていると、やがて彼は「すこしねむい」と呟いた。テーブルに置かれたグラスの中身は互いに3分の1ほどしか減っていないというのに、いつの間にふたりとも、眠りに落ちていた。



























「カジさん!」

豊かな緑の広がるヨイの世界の入り口で立ち尽くしていたカジの肩を、誰かが後ろからぽん、と叩いた。

「最近会わなかったね、元気だった? 相変わらずお仕事忙しい?」
「え、あ……?」

思わず振り返ると、そこには見知らぬ青年がいた―――いや、まるで見知らぬ青年のように見える、彼がいた。にこにこと笑いながら再会を喜び、近況を尋ねてくるこの彼は果たして本物だろうかと、カジはまずそんなことを疑う。何故なら今、家にいる彼は、こんなにも明るく笑ったりしなくて、表情も動かなくて、ハキハキと喋ることもなくて。そもそも同じ家で暮らしている人間の様子をわざわざ質問するはずがない。カジは目を見開いたまま、斧を持つ片手に少しだけ力を込めて、絞り出すような声で、

「■■、さん……?」
「?」

すると、彼は知らない英単語を耳にしたようなぼんやりとした顔を見せて、

「誰、それ」

やがて何かに合点がいったように「あ、わかった」と声をあげて、カジの周りをおどけるようにくるりと一周してみせた。ブーツの踵がコンクリートの地面を打つ。

「それ、前にお付き合いしてた人の名前でしょう。ここに来るまでに結構呑んだ? しっかりしてよ、私はサマヨイだよ」
「あ……」

悪戯っぽい笑みを浮かべた彼はとても冗談を言っているようには見えず、カジが呟いた名前をみずからのものだと認識していないらしい。もう一度彼の本当の名前を口にすることは憚られたが、しかし自分はそれを知っているのだというプライドがささやかな優越感を捨てることを邪魔して、今さら「サマヨイさん」と以前のようにあだ名で呼び直すこともできず、結局カジの口からこぼれたのは「あなたは」という中途半端な呼びかけだった。

「あなたは、どう……ですか、最近」
「どうって、どうかな。どうだろう?」

うーん、と唸りながら腕を組んで考え込む彼は、やがてどこか遠くを見つめながら、

「……あんまりしっかり覚えてないんだけど、なんだかずっと、苦しくて、つらくて、嫌な夢を見てる感じがする、かも」

だから、ずっとここにいる。そう言って、寂しそうに微笑んだ。

ああ、とカジは力なく声を漏らした。ほんの一瞬でも、目の前の彼が本物であるか疑ったことを恥じて、自らが犯した過ちのすべてを悟った。彼にとっての「現実」は、とっくにこちらの世界へとすり変わっていたのだ。だからきっと、本当の名前を忘れてしまった。

もう、ここにはいられない。この「彼」の前に、自分はいてはならない。手元の斧を思い切り振り抜いて、自らの腕を切りつけた。ぱっ、と散った赤の鮮やかさと鋭い痛み、それから彼の引き攣った表情は、カジの意識を強制的に現実に引き戻すには十分だった。

















「っ…………う……」

気がつくと、そこはリビングのソファだった。当然ながら腕に切り傷など残っていなかったか、目覚まし時計にたどり着くのではなく敵に倒された時のような無理な目覚め方をしたせいか、少しばかり頭が痛む。しかし今はそのような些細なことを気にしている場合ではなく、カジは隣で寝息を立てている彼の肩を掴んで揺すった。

「起きてください、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「カジさん……?」

小さく唸って瞼を持ち上げた彼は、カジの顔を見るなり、

「どうして、そんな顔するの」

淡々とした声色に、背筋が冷える。ヨイの世界の彼がおかしいのではなく、こちらの彼が変わってしまったのだ。そんな簡単なことに、どうして気づくことができなかったのだろう。否、気がつかない振りをしていたのだろう。引き返すための選択をするチャンスは、まだ無数にあったはずなのに。

「どう、どうしたらいいか、わかっ、わからなくて、でも、でも、いや、だからっ、なんでもします、から、許して、ゆ、違う、じゃなくて、もとの、昔のあなたに戻ってほしい、笑ってほしい、やっぱり俺のことなんて、許さなくたっていい、から」

見えない誰かの手で、ぎゅう、と喉を引き絞られるような感覚に、息を詰まらせながらカジは彼に縋った。幼い頃、母から一際厳しい叱責を受けた後に度々うまく呼吸ができなくなっていたことを思い出す。今思えば、あれはストレスから来る過呼吸というものだった。喉を抑えながら縋りついた母に、甘えるな、と冷たく一蹴された時の絶望感は今でも忘れられないものだが、カジは今、自らに対して同じことを思っている。少し息ができないくらい何だと言うのだ。甘えるな。目の前の彼は、とっくの昔に壊れているというのに。

「探してたもの、あるんでしょう、私のなかに。好きなだけ持っていきなよ。嬉しくないの」
「違っ、あっ、あった、のに、ダメにしたんです、私が、俺が全部、悪くて、間違えてっ」

もしかしたら見つけられたかもしれないものを、彼ごと壊した。自らの手で。引き攣った声を上げながら頭を抱えるカジのことを、彼はじっと見つめている。お前が悪いと詰ることもなく、どうしたらよかったのかと答えを与えることもなく、そこで起きている事象にぼんやりと目を向けている。

「……ああ、私やっぱり、変えることができなかったな……」

自分のことも、あなたのことも。恐ろしいほど冷たい声で、彼は自嘲するようにそう呟いた。これまで経験してきたどんな罵倒や一方的な別れの言葉よりも重いそれに、頭を思い切り殴り付けられたように視界がぐらりと傾いた。ついさっき「許さなくていい」とまで言い放ったくせに、見捨てられることを、見放されることをこんなにも恐れて、背中に冷たい汗をかいている。彼の言う通り、何も変わっていなかったのだ。

「……サマヨイさん……」

今度は誰のことだと聞き返すことも、それは私ではないと否定することもせず、彼は何も言わなかった。目の前にいるのが誰なのかわからなくなってしまったのではなく、自分が彼を、誰でもなくしてしまった。ただそれだけの、取り返しがつかないことを目の前に、カジは子どものように泣くことしかできなかった。
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