BARステラアビス
「今日ね、まだ小学校に上がる前くらいかな、小さな女の子がお誕生日のケーキの入った箱を持ちたいって言い出してさ……一緒にいたお母さんと私で、えーどうしよう……って感じで目を見合わせちゃって」
「子供って大人のすることをやりたがるものですから……、でも流石に少し危ないですよね」
「うん、途中でひっくり返しちゃったらどうしようって思ってしまって」
仕事を終えて帰宅し、入浴と夕食を済ませ、あとは本当に眠るだけの時間にベッドの中でサマヨイの話を聞くのが好きだ。隣に潜り込んだサマヨイから、今日はバイト先であるケーキ店での話を聞いている。少しの揺れで形が崩れてしまう、繊細なバースデーケーキを詰めた箱を持ちたがるまだ小さな女の子と、それを挟んで見詰め合う二人の大人。その時の戸惑いが伝わってくるようで、カジはふふ、と含み笑いを漏らした。夜にひとつのベッドの中で、こんなふうに誰かとただ言葉を交わすだけの穏やかなひとときを過ごすことができるなんて、夢のようだと思った。満たされずにいた頃の自分に伝えてあげたら、きっとそんなのは嘘に違いないと笑うのだろう。
「それで、どうなったんですか?」
「急いでいちばん小さい箱を出して、そっちにろうそくとプレートだけ詰め替えてその子に持たせてあげたんだよね」
「なるほど、いい案です」
それで納得してくれるか不安ではあったものの、君はこっちをお願いね、と小振りな箱を手渡された女の子は、大人の真似ができてすっかりご機嫌になった。事の顛末を話し終えると、サマヨイは「喜んでもらえてよかったけど、でもちょっとだけ疲れる」と溜め息をつく。まるで水のように、どんな相手にもすぐに馴染んでいけるように見える彼が、本当は人一倍臆病で、自分も他人も傷つけてしまわないように気を遣って生きていることを、カジはよく知っている。
「充分よくできた対応だと思いますけどね。咄嗟にそういうふうに気を回すことができるから、あなたは人に好かれるんでしょう」
「まあでも、そういうの通用しない子もいるじゃない」
「今回が上手くいったなら、ひとまずそれでいいんですよ」
「……カジさんて、たまにけっこう大雑把だよね。けどそれがいいのかも」
立ち止まって頭の中で反省会を開くより、ひたすら場数を踏んだほうが身に付くこともあるんですよ……などという話は、すっかり説教臭くなってしまうのでやめよう。そもそも自分とサマヨイが働く上で求められることの方向性は、まるで違うのだから。
「あのさ……」
仕事のことに飛びかけていた意識が、小さな呟きによって引き戻される。おもむろに伸ばされたサマヨイの手が、布団の中でカジの手の甲に触れる。すりすり、と確かめるように何度か指先を滑らせてから、そっとふたつの手が重なる。
「カジさんの言ってた、あたたかい家庭……ってやつのイメージの中に、そういうのはあったの?」
「え?」
「だから……ね……わかるよね? 変なことを言ってたらごめん、だけど、ちゃんと聞いておきたいとも、思ってて……」
まさに自分の見かけた親子のように。プレートにチョコレートペンで「おたんじょうびおめでとう」と書かれたケーキを、小さな手を引いて買いに行くような未来も、あなたは選べたかもしれない。そう暗に問われているのだ。サマヨイの視線は天井に向かっていたが、重ねられた手のひらはしっとりと汗をかいていて、彼がひどく緊張していることが見て取れた。
「ふふ、どうでしょうね」
今思うと、あれだけ恋い焦がれていた「あたたかい家庭」というのが実際どんなものなのか、自分には分かっていなかったのかもしれない。手を繋いで歩いてくれる母親、ちゃんと誕生日を覚えていてくれる父親、それから、それから。自分には手に入らないものが世の中のどこかに存在していることを知る度に、妬みと憧れは強まって、眩しくて、眩しすぎて、やがて、なにも見えなくなって。どうしてこんなに生きづらいのか、人より優れているはずなのに満たされないのか、すべての答えを持っている運命の人にさえ出会うことができたら、魔法のように呪いが解ける。そんな幻想に縋って、自分と、たくさんの人を傷つけて。
「会社の同僚のお子さんの話なんかも、たまに聞いたりするのですが。最近どうにも口が達者になって生意気で困る、なんて口では言いますけど、みんな顔は笑っていて……そういうの、いいな、とは感じますよ」
そんな自分にどこまでが許されて、どこからは許されないのかを、ずっと考えている。あなたはただ手段を間違えてしまっただけで、欠けたものを欲しがる気持ちは否定しない。以前サマヨイにはそう言われたが、それでも。
「羨ましい、と思うことは無くもないのですが、そういう時の私はだいたい、『そんなふうに愛されたかった』と思ってるんですよ。ね、まだずっと子供なんです。だから自分とあなたを大切にすることが、きっと私には精一杯のことなんです。いや、それも上手くできているか、自信がないですけど……」
うん、うん、と相槌を打ちながら話を聞いて、最後に「そっか」と呟いたサマヨイはカジに向き直った。ようやく緊張の解けたような顔で、少しはにかむような笑みを見せている。
「……ねえカジさん、明日、ケーキ食べる? 買ってきてあげる」
「おや、いいんですか?」
「うん」
「嬉しいです」
サマヨイの働いている個人が営む小さなケーキ店は近所での評判がとてもよい。たまにお土産に買ってきてくれるケーキや焼き菓子はシンプルだが丁寧な仕事が伺えて、街で長年愛されている理由がわかるような気がする。夕食の後に紅茶を淹れて、白い箱に詰まった色とりどりのケーキを覗き込みながら、どれにしよう、自分はこれがいい、ひと口交換して、なんて他愛のない言葉を交わす時間はきっと何よりあまくて、あたたかい。
「……でも、そろそろ私にも買いに行かせてはくれませんか? なんでだめなんですか」
「だって、まだ恥ずかしいし」
「授業参観みたいで嫌だって言うのなら、別にサマヨイさんがお休みの日に店に行けばいいだけの話ですよ」
「それもだめ、たぶんばれちゃうから、もっと恥ずかしい」
「ばれるって何が?」
「だから、お店にカジさんが来たら、私がいつも話してるひとだって、ばれる……」
「えぇ……?」
困惑するカジの視線から逃れるように、サマヨイはもぞもぞと布団の中に潜ってしまう(何かあるとすぐこうだ……)。彼が「一緒に暮らしている大事なひと」の存在を明かしていることは聞き及んでいたし、正直悪い気はしないものだが、いったいどんな話をしているのやら……そこまで考えて、まあいいか、とカジが思わず笑ってしまったのは、重ねていただけだったはずの手が、いつの間にかぎゅっと握られてしまっていたからだ。
「おやすみなさい、サマヨイさん」
返事の代わりに、合わさった手のひらに力が込められた。欠けたふたつの器が毎日、少しずつ、埋まっていく。