BARステラアビス

 
―――果たして自分は、こんな顔をしていただろうか。

バーでの一件を経て、本物の顔と日常を取り戻してから、ふとそんなふうに思う瞬間がある。それは街中のガラスに映る自分の姿が目に入った時であったり、過去にスマートフォンで撮った自分と友だちの写真を眺めている時であったり、こうして少し乱暴に顔を洗って、洗面所の鏡に映る不機嫌な表情と向き合っている時であったりする。

「……」

びしょ濡れの頬をむにむに、と揉む。造形そのものは変わっていないはずだが、どうにも拭えない違和感にサマヨイは更に顔をしかめた。店を訪れる常連たちの目には最初からこの素顔が見えていたとは聞くが、バーのトイレの鏡や水溜まりに映っていたサマヨイの顔は、本人の認識としてはずっと黒い山羊の仮面に覆われていたのだ。そこにぼんやりと灯っていた瞳は、本当に自らの生きた感情を示していたのだろうか。相手の見たいように見えていただけではないだろうか。だとすれば、あのバーに存在していた仮面の「サマヨイ」とは何者だったのか。今もまだどこかにいるのか。少しだけ、怖くなる。

妙な話だが、久々に目にする自分の素顔にまだ慣れていない、というだけならいい。違和感はいずれ薄れていくのだから。しかしそうではなくて、もしかしたら、ヨイの世界の奥深くへ潜る度にひとつずつ、何かを置いてきてしまったのではないだろうか―――不意に喉をぎゅっと締め付けられるような不安に襲われ、サマヨイは固くまぶたを閉じた。

「サマヨイさん?」

背後からかけられた声に、サマヨイははっと振り向く。洗面所の入り口にはカジが立っていた。顔を洗い終えてから、神妙な面持ちで鏡とにらめっこをするサマヨイの様子をうかがっていたのだろうか。手にしたタオルをサマヨイに渡しながら、「どうかされましたか」と首を傾げている。

「なんだか……なんだかね、」

サマヨイは、受け取ったタオルで顔の水気を拭って、少し迷ってから、

「ちょっと、顔……が、変わったかな? なんて、気がして……まだ寝ぼけてるのかな、あはは……」

軽い冗談の形を模して、ひとりでは確かめようのない不安がぽろり、と溢れる。頼りなく笑うサマヨイの言葉に、カジは面食らったように小さく「え」と漏らしたが、すぐに何かを察したのだろう。サマヨイと目線を合わせるように少しだけ屈んでみせた。あの頃はどこにも向いていなかった視線が、今はかっちりと噛み合っている。

「あなたは出会った時からずっと、あなたのままですよ」

―――よく笑って、他人の不幸を一緒に悲しんで、怒らなければいけない時には真剣に怒る。何も変わりません。

まるで幼い子供に言い聞かせるように、ゆっくりと告げる。そして、ね、とやんわり微笑んで見せた。

「……本当に?」
「はい、それに今日だってとても可愛らしい」
「……前半はよかったのにそういうのがなんかダメ」
「えっ、なんでですか」
「それは自分で考えておいて。変なこと言ってごめんね、朝ごはんにしよ」

やっぱりいくら事実でも相手だって大人の男の人だから「可愛い」はいけないか……、などとぶつぶつ考え込んでしまったカジの手を引いて、サマヨイは洗面所を後にする。慌ててぷいと顔を逸らしたけど、口の端が持ち上がりそうになっているのがばれていなければいい。

「……ありがとう、ね」

押さえつけられるような感覚がふわりとほどけて、息がしやすくなった。今朝は、とびきり甘いカフェオレを淹れよう。

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