BARステラアビス
「あのね、少し嫌なことを、思い出して……」
いつも寝室のドアに鍵をかけていないのは、たまにこういうことがあるからだ。基本的には毎日ほとんど同じ時間に眠りに就くサマヨイだが、時折彼にしては遅い時間に、まるで見えないなにかから逃げてくるようにカジの部屋を訪れて、こうして勝手にもぞもぞとベッドの中に潜り込もうとする。毛布の中でうとうとと微睡み始めていたカジの手に少しだけ冷えたサマヨイの指先が触れて、夢の世界の側に傾いていた意識が、がくん、と現実に引き戻された。
「……お話、聞きましょうか?」
しかし眠りを妨げられたことを咎める気にすらならないどころか、生活を共にし始めてから次第に顔を覗かせるようになった余裕のなさや無遠慮さを愛おしいとすら感じることがある、などと素直に伝えてみたら、彼はどんな顔をするだろう。喜ぶのか、それとも恥ずかしがるのか、遠慮をするようになってしまうのか。想像してみるのはまだ少しだけ怖くて、咄嗟に取り出してみせた「いい大人」の笑顔を被って、軽く毛布を持ち上げてみせながら、カジはベッドの中にサマヨイを招いた。彼が猫のように腕の中に滑り込むと同時に、ぱたん、と鳴った軽い音は、スリッパが落ちたものだろうか。
「ええと、今はそういうのじゃなくて」
「……と、言いますと?」
毛布からひょこりと顔を出したサマヨイと向かい合うと、眉根を寄せたその表情はひどく気難しげだ。ううん、と唸り声を漏らして、やがて額をぐりぐりとカジの胸に押し付け始めた。おでこが赤くなりますよ、とカジが窘めても、返ってきた返事は、いいよ、とどこか投げやりだ。
「誰かにぜんぶ吐き出したいとかお酒を飲んで忘れたいとかじゃなくて、たまに嫌なこと思い出して落ち込んでる私がいるのを、ただ知ってもらえたらそれでいい、みたいな気持ち」
わかるかな、と、続けるサマヨイに、カジは短く「ああ」と相槌を返した。関心と同情を引くカードのひとつとしてではなく、ただただ人に自分の弱みを晒して甘えを見せて、それを受け入れて欲しいと乞うのは、実はとても勇気がいることなのかもしれない。大人になると、自由と同じだけ不自由が増えて、身体が重たくなっていく。すっかり成熟しきっているようで、まだいい意味でも悪い意味でも若く幼く年相応な一面を持つ彼を見ていると、最近は特にそんなことばかり考えてしまう。自分と似たような不自由を背負う様を見てああ彼もただのヒトだったのだと早く安心したいのか、それともずっとずっと、出会った頃のままでいてほしいのか。答えは出せないけれど。
「少しだけですけど、わかりますよ」
「うん」
少しほっとしたように、サマヨイが小さなため息をついた。相手の全てを余すところなく理解できる、などと根拠のない自信を持つことはあまりに浅はかで傲慢だ。ただひとりでは負けてしまいそうなこの夜を乗り切るために、互いの孤独をひとかけらずつ差し出して手渡し合うように、手のひらに触れる。遠慮がちにカジの指をなぞり、握り返すサマヨイの指先に、いつの間にか僅かな熱が移っている。
「じゃあ、こういう時どうしてもらったらもっと嬉しいのかも、わかってくれる?」
返事の代わりに毛布の中で華奢な体を抱き抱えると、小さな声で「あたり」と聞こえた。やがて互いの体温が同じになって、そのまま境目をなくすように眠りに落ちることができたなら、きっとそれは、とても幸せなことだ。