BARステラアビス
「そんなことしなくてもいいんじゃないかって、前はそう言ったけど」
ソファの背もたれ越しに後ろから抱きつけば、驚いた拍子に彼の掌から、するり、とスマートフォンが滑り、柔らかな座面に落ちた。長い時間をかけて何かを打ち込んで、首を捻ってを繰り返していたにも関わらず、メッセージの入力画面はまっさらなまま。仕事のメールならいくらでも定型文があるのにねとサマヨイが呟けば、カジは困ったように笑う。
「……やっぱりよくないことだと、まだ思いますか?」
「ううん、その逆。悩んでいるあなたを見ていたら、よくわからなくなってしまった」
迷惑をかけた相手に謝りたい、と語る彼の目つきも声音も真剣で、その気持ちは本物だとサマヨイは思っている。だから今も、酒の席でそれを否定したことを、少しだけ後悔している。
「私の言った、わざわざ思い出させて嫌な気分にさせることもない、っていう意見は、いかにも相手を思っているようで、実は逃げるための口実かもしれない。でもあなたがそうしたいから謝ったところで、それは謝る側が勝手なひと区切りをつけているだけの、単なる自己満足かもしれない」
結局、突き詰めてしまえばどう傷つくかを選べるだけなのだ。何も動かなければ、少なくとも今より状況が悪くなることはない。見てみぬふりと罪悪感からの逃避、決して心地よいとは言えないが、脅かされることのない停滞。しかし彼は、それに甘んじる自らを許せないという。
「全ての人の気持ちに通じる正解なんてものは、どこにもありませんからね。どう言われようと、すべて受け入れるつもりでいますよ」
「でも……」
続く言葉が見つからない。サマヨイは手を伸ばして、座面に転がったままのスマートフォンを手に取り、電源を落とした。今日は、これでおしまいにして。手渡されたそれの真っ暗になった画面に視線を落とし、カジは小さく息をつく。
「……呆れられたり罵られたりしても仕方ない。悪いのは私ですよ」
「そうだね。あなたは確かによくないことをしていたし、だから私だって怒ったよ。間違ってるって言ったよ。けど」
背後から回した腕に力を込めて、首元に擦り寄るように顔を埋めて、サマヨイは震える声を吐く。後ろからでは彼の顔は見えないけれど、ふたりで過ごしている時間に誰かから着信が入って、サマヨイに謝りながら席を外す時と、きっと同じような表情をしている。
「だからといって、自分がいくら傷つけられても仕方ないなんて考えてほしくないって、今はそう思ってる。それってすごく、すごくいやだ。あなたがよくても私がいやだ。変わってほしいだなんて言ったくせに、我慢できずにこんなことを言っている自分もいやだ」
彼に振り回されてきたであろう顔も知らない誰かが再び傷口を掘り返されることより、自分が悪いのだと全てを受け入れるつもりでいる彼が、目の前で新しい傷を増やしていくことに耐えられない。それを自分勝手と言わずになんと言うのだろうか。
「困らせて、ごめん……」
伸ばされたカジの手が、子供のようにぐずるサマヨイの頭を、ぽんぽんと宥めるように撫でる。みんながやさしい家族と上手く関係を築けて、誰ひとり心を病んだりしなくて、人生を壊してしまうような不運な事故だって起きなくて、この世界からいなくなってしまった人なんていなくて。そんな魔法のような空想に縋りそうになる自分がいやだ。そんな甘えと逃げを、「あなたはやさしい人だ」とあなたが笑って受け止めてくれることが、何よりも、いやだ。