BARステラアビス
階段を降りた先でも、しとしとと、いつまでも冷たい雨が降り続いている。
ヨイの世界の旅を始めてから二つほどのフロアを抜けた先で、サマヨイはふと違和感を覚えて立ち止まった。ブーツの踵が、こつん、とアスファルトの地面を打つ。
傾いたフェンスや自販機、錆びついた交通標識、鬱蒼と生い茂る草木、水溜まり―――目の前に広がる景色は普段のヨイの世界と変わらなかったが、その分、足を踏み出したアスファルトの地面に点々とばらまかれている白い紙が、サマヨイの目にはおかしなものとして映る。すぐそばに落ちていた紙に近寄り、拾って、ぺらりと裏返す。
「……?」
一枚の楽譜だった。しかしそれはただの五線譜に音符が並べられているだけのものではなく、ところどころに赤いインクで線や丸が引かれ、注意書きが加えられている。音楽に造詣の深くないサマヨイでも、とても厳しく詳細な指示が書き込まれているのだとわかる。神経質そうな筆跡と合わせて書き手の性格が窺えるようで、他にも同じようなものが何枚も、何枚も、地面のあちこちに落ちている様は異様である。
気持ちが悪いなと、サマヨイは紙を手放した。ひらひらと宙を舞った楽譜は水溜まりの上に落ち、濡れた赤インクがじわりと滲んで、手書きの文字は読めなくなった。
「……ここは……」
サマヨイは改めて辺りを見回してから、ゆったりとしたストールの背中側の余った布地を持ち上げ、フードのようにして頭に被った。ひとまず、目に見える範囲に敵の姿はない。
足元の水溜まりに映る自分の姿を見つめる。仮面から生えた双角の先端がフードを持ち上げて、サマヨイの頭の上には動物の尖った耳を思わせる、小さな二つの山が出来ている。山羊なのか猫なのか、それとも別の生き物なのかもわからないシルエットはひどく不恰好だ。しかし、雨に晒され続けた白いたてがみと大きく開いた襟回りが、これ以上湿って不快感を生むよりは随分とましだった。サマヨイが一歩を踏み出すと、ブーツに蹴られた水たまりがぱしゃり、と跳ねて、水面に映る景色はゆらゆら歪む。
「誰かの中、かな」
サマヨイは呟く。ヨイガミの片割れになってからというもの、“人間たちの負の感情”などという抽象的なイメージで構成されたヨイの世界の中で、サマヨイは時折、強烈な“個”を感じさせる空間に迷い込んでいることがあった。妙な気配を感じる階段や扉などがあるわけでもなく、どういった条件が揃うと現れる世界なのかはわからなかったが、ただそういったところにいつの間にか足を踏み入れているとき、サマヨイは必ずひとりだ。
そこには使い古されたサッカーボールが転がっていたり、たくさんの視線だけがどこからかサマヨイのことを睨んでいたり、「この先階段あります」などという、見え透いた嘘の書かれた看板があちこちに立てられていたりしている。しかしその空間は小ぢんまりとしていて、敵が現れることもなければ味方の姿もなく、まさしく空き地といった様相を呈していた。そして歩き続けてふと気がつけば、いつものヨイの世界の続きと繋がっている。まるで迷って泣きそうになりながら細い路地を歩き回った先に、自分の暮らす街の景色が広がっているのを見たときのように、サマヨイはほっと胸を撫で下ろしている。
しかし、生まれながらのヨイガミであるティプシィの口からは、そんな場所の存在を聞かされたことは一度もなかった。それはきっと、サマヨイはヨイの世界と深く結び付いてしまったものの、元はニンゲンだからだ。元々他人の感情に引きずられやすいところのある自らの心は、時に誰かが残していった意識と同調するように、持ち主を失った小部屋のような空間に誘い込まれてしまうのだろう。サマヨイはそう認識している。
「……」
どこからか、ヨイの世界では聞き慣れない音が聞こえる。立ち止まって耳を澄ませても何の曲を奏でているかはわからなかったが、きっとそれはピアノの音だ。音の聞こえる方に向かって、サマヨイは少しだけ、歩調を早める。
平坦な一本道を少し歩くと、すぐに開けた場所に出た。円形の広場のようになったそこの真ん中に、大きなグランドピアノが一台置かれている。そのすぐ隣には、根本から伐り倒されてしまったような木の切り株があった。
「……!」
一歩足を踏み入れて、サマヨイは思わず目を見開いた。ピアノの前に設置された椅子に、誰かが座っていたからだ。
こちらに小さな背中を向けて座る後ろ姿は、華奢な少年のものだった。譜面台には、ここにたどり着くまでの道に落ちていたものと同じ、赤ペンまみれの楽譜が立て掛けらている。少年は降り続ける雨の中、それを食い入るように見つめながら、ピアノを弾いていた。
「君、迷子?」
と言っても、今の自分も半分くらいは迷子のようなものだけど。サマヨイが背後から近づいて声をかけると、ピアノの演奏がぴたりと止まった。ペダルを踏んでいたほっそりした脚が、微かに強張る。
「こんなところで、どうしたのかな」
サマヨイの問いかけに恐る恐るといった様子で振り向いたのは、少し表情が乏しいもののよく整って上品な顔つきをした、可愛らしい少年だった。どこかで会ったことがあるだろうか―――しかし互いの視線が噛み合ったのはほんの束の間で、すぐに、ぷい、と顔を逸らされてしまう。少年の面立ちを、サマヨイはそれ以上確かめることはできなかった。
「……知らない人と話すなと、言いつけられています」
「でも、今もうお話しちゃったよね?」
「……変な人と目を合わせるなと、言いつけられています」
「え、傷つく……」
声変わりを迎えていない少年特有の、高くやわらかな音色で紡ぎ出された言葉の冷たさはさておき会話は成立しているので、どうやらこの少年には意思というものが存在しているらしい。これまで自分ひとりしかいなかったはずの空間で、サマヨイは初めて人間らしきものと出会った。
イレギュラーの中で更なるイレギュラーが起きていることを悟ったサマヨイは被っていたフードを下ろし、警戒を強めて辺りを見回した。これまでの経験が通用しない可能性がある以上、この場に敵が現れないとは限らない。
「……あのね、ここは危ないかもしれないよ。お家に帰してあげるから、お兄さんと一緒に行こう」
「嫌だ」
ストールの下で密かに短剣を握る手と反対側のを差し出したが、きっぱりと断られてしまう。お家に帰ることが、だろうか、それともお兄さんと一緒に行くことが、だろうか。会話を始めてからあっという間に敬語を外されてしまったので、彼が嫌がっているのは後者である可能性が高い。サマヨイはため息をつく。
少年はサマヨイとともにこの場を離れることを拒否したが、かと言ってピアノを再び弾き始める素振りも見せない。無理矢理に手を引いてこのフロアから連れ出したところで、目覚まし時計にたどり着くまでにいずれは鉢合わせる敵から少年を守りきる自信もなかった。というか、たとえ夢の世界の中だろうと嫌がる子供を連れ回すというのはさすがに犯罪的だ。
しかし、彼を放っておいて先に進むわけにもいくまい。丸腰の彼がスピリッツに対処する術を持っているとは思えず、サマヨイは少しでもここを離れるわけにはいかなくなってしまった。
さてどうしたものかと、サマヨイはピアノのすぐ脇の切り株に腰かけ、脚を組む。雨晒しになっていた木の表面から服にじわりと水が染みたが、少年と話しているうちにすっかり全身ずぶ濡れになってしまっているので、もはや何とも思わない。
「どうして、弾くのをやめてしまったの? 驚かせたなら謝るよ」
敬う価値なしと判断されてさっそくタメ口を利かれているが、根気強く話しかければ気が変わったりしないだろうか。なんとなくサマヨイは声をかけてみたが、再び鍵盤に向き直った少年は、正面に立て掛けられた譜面を険しい面持ちで睨みつけている。
「……上手く弾けないと叱られる」
「私は君を叱ったりしないよ」
「知らない。ぼくの家ではずっとそう」
ずっとずっと、そう。どこか遠くに向けて呟いた少年の前髪から、雨の雫がぽたぽたと垂れている。サマヨイと同じくずぶ濡れの彼は、いったいいつからここに一人でいるのだろうか。
「寒いだろう」
問いかけに、返事はない。ここまで濡れてしまったら今さら焼け石に水だろうが、それでもどこかに傘でも落ちていないだろうかとサマヨイは立ち上がり、広場の隅に積み重なっていた廃材の山を見つける。空き缶。ひしゃげた標識。鉄パイプ。千切れた金網。金色の盾。折れた木の枝。それらをぽいぽいと放り投げた下から現れたのは、薄汚れたベンチ。
その他のゴミ山をいくつか崩してみたが、残念ながらその中からはビニール傘の一本すら現れなかった。ガチャガチャと音を立てて乱暴にゴミを投げ捨てていたせいで気がつかなかったが、サマヨイが戻る頃には少年は再びピアノを弾いていた。
「上手だね」
濡れた切り株に再び腰かけて、サマヨイは演奏に耳を傾ける。
恐らく、クラシックの曲なのだろう。そういった教養の足りないサマヨイが耳にしたことのない曲だったが、それでも、まだ幼い子供が流れるように演奏をするには相当の練習を要するものであることは察して取れた。背中越しに見える小さな手が、親指から小指の先までをめいっぱい伸ばして、白と黒の鍵盤の上で懸命に踊る。
「なんの曲かも知らないくせに」
「そうだね、お兄さん学がないから……じゃあ言い方を変えようか、君はとっても頑張ってる。いつもたくさん練習しているんだろ?」
「頑張っているだけじゃ、何も意味がないよ」
相変わらずサマヨイには目もくれずに呟いた少年が、ぱらり、と捲った次の楽譜にも、神経質な赤い文字はびっしりと書き込まれている。
すっかり手持ち無沙汰なサマヨイは、深い夜の色を宿した短剣を手のひらでくるくると弄ぶ。結果を伴わない努力は全て無駄だと、例えば社会に出て壁にぶつかった大人が口にするならまだともかく、きっとサマヨイの半分ほどしか生きていないような幼い子供が冷たく吐き捨てる様は、あまりにも痛々しい。
「あっ、」
少年が小さく声をあげたかと思えば、ピン、と調子外れなピアノの音が辺りに鳴り響いた。サマヨイは顔を上げる。
「失敗しちゃったの?」
問いかけに返事はなく、少年は亀が頭を守るように首を竦めていた。そしてガタガタと震える手を無理矢理押さえつけるように、鍵盤に叩きつける。ダン、と、激しい不協和音。
立ち上がって自らを見下ろすサマヨイを意に介さず、少年は失敗したところの手前から、同じ小節を繰り返し、繰り返し。しかし何回やっても同じところで、彼の人差し指は誤った鍵盤を弾いてしまう。そしてまた、焦ったように、追い立てられるように、繰り返し、繰り返し、繰り返し。次第に先ほどの一音だけでなく、ガラガラと崩れる白黒の床から足を踏み外すように、おかしな音が増えていく。
「ちょっと休憩したら」
「だって、だって、すぐ直さないと、また叩かれる」
「私はそんなことしないよ」
「いやだ」
ひどく怯えた様子の彼は、サマヨイの言葉に首を横に振る。
「いったい誰に……」
その時サマヨイは、べちゃっ、と、地面の泥濘にうっかり足を踏み入れてしまった時のような音を聞いた。短剣を逆手に構えながら振り向けば、サマヨイがこの広場に入る時に通った道を塞ぐように、何者かの影が立っている。
「……?」
人影と少年の間に入るようにピアノの前に立ちながら、サマヨイはじっと目を凝らす。距離にして数メートルほど先に立っているのは―――人間の形をした、泥の塊のようなものだった。サマヨイより少し背が低いくらいだが、ピアノの少年とは違って大人の体つきをしている。
恐らく人であれば口が存在しているであろう箇所にぽっかりと空いた穴から、ぶつぶつと低い声が漏れていた。雨の音に紛れて全てを聞き取ることは難しかったが、ずるずると引きずるような音とともにそれが近づいてくるにつれて、言葉は次第に明瞭になる。
―――あなたはいつもいつもそう。何度言ってもわからない、何回叩いても学ばない。
怒気を孕んだ女の声だ。
足元の水溜まりを蹴り、サマヨイは泥人形に向かって駆け出した。空いた片手でストールの裾を払って視界を塞ぎ、腰を低くして下から剣を振り上げる。相手の腰元から肩口にかけて、逆袈裟斬りに一閃。パッ、と血のように飛び散った泥を仮面や袖口に浴びながら、勢いを殺さないまま顔を目掛けて、サマヨイは脚を振り上げる。
「―――あっ?」
しかしそこに期待していたような手応えはなく、逆にブーツの爪先から底無し沼に沈むように、ずぶずぶと脚を絡め取られてしまう。舌打ちをしながら脚を振り抜いて泥の拘束から逃れ、繋がるバックステップで距離を取る。ふわりと遅れて蹴りの軌道をなぞるストールの端を捕まえようとした泥まみれの手が、寸前のところで宙を掻いた。
(打撃が効かない……)
ざりざり、と、ブーツの踵が濡れたアスファルトを削る。片膝を突きながらも、サマヨイは敵から目を逸らすことなく顔の前で短剣を構え直した。剣の一撃で切り離されたかのように見えた胴体は、ナメクジが這うように動き、繋がり、そして何事もなかったかのようにひとつの塊に戻って、再び人の形を取る。
(あつい。溶けてる?)
泥の飛沫をほんの数滴浴びた剥き出しの手首が、ひりひりと焼けつくような痛みを訴えている。距離を取るのが間に合わず、あの手に首を掴みかかられでもしていたらどうなっていたか、想像をしたくなかった。
水や風の力を借りた攻撃ができれば、あの敵を吹き飛ばしてなんとか対処ができたかもしれない。しかしヨイの世界の旅を始めたばかりのサマヨイの手元に、この状況を切り抜けられるような星の力はまだ揃っていなかった。
再び立ち上がった泥人形が闇雲に振り下ろした腕から、飛沫が飛び散る。サマヨイは後ろに飛び退ってそれを躱した。頭を切り替えなければ。
「……聞こえているかい? 君は逃げるんだ」
未だにピアノの前から微動だにしない少年のもとに走り寄り、細い肩を掴んで揺さぶった。サマヨイが手にしている刃物がようやく目に入ったのか、少年は、びくり、と身体を強張らせる。
「大丈夫、これは君を守るためのものだから。……あそこに大きな木が見えるだろう、その脇の細い道を抜けたら、先の部屋で隠れていて」
サマヨイが通ってきた道と広場を挟んで反対側に、隣の部屋へと抜ける小道が見える。目印となる一際大きな木を指先で指し示しながら、サマヨイは震える少年の耳元に顔を近づけた。隣の部屋にも敵がいないとは限らないが、明らかな危険が目の前に迫るこの場所に彼をひとり、残していくことなどできない。
ここで少しだけ時間を稼いで、彼の姿が見えなくなったら自分も逃げ、隣の部屋で合流してから階段を探す。たとえその先に広がるエリアがひどく入り組んでいようと、この泥の塊と鉢合わせをしないよう、一筆書きの要領で進んでいけばいい。サマヨイは自らを落ち着かせるように、頭の中で考えを組み立てる。大丈夫、大丈夫。
「大丈夫、私もすぐに追いつくから。だから、急いで……」
ずるずるとにじり寄る泥と少年の間から一歩も退かないまま、サマヨイは彼の背中を押した。しかし少年は動かない。ひゅうひゅう、と微かな息をこぼして、ずっと震えている。
「早く行くんだ!」
「、っ、う、あぁ」
つい先ほどまで穏やかな態度を示していたサマヨイが大きな声を出したことがよほど怖かったのか、少年はとうとうか細い悲鳴をあげ、両手で頭を抱え込み、椅子の上で背中を丸めてしまった。怯えきったその姿に罪悪感を覚えたが、こうなってしまってはもう仕方ないと、サマヨイはパニックを起こした少年の腕を引こうとする。しかしその身体はピアノの椅子に、そして椅子は地面に根を張ってしまっているかのように、びくともしない。
彼は、動かなかったのではなく、動けなかったのかもしれない。ずっとこの場所で雨に打たれながら、何かに縛り付けられて。
「―――カジさんっ……」
べちゃ、べちゃ、と不快な足音が、すぐ後ろまで迫っている。サマヨイは少年に覆い被さるように、彼を頭から抱き抱えた。直後、後ろからぬめりを帯びた手に仮面のたてがみを鷲掴みにされ、触れられた肌に焼けるような痛みが走る。それでもサマヨイは、少年のことを離さなかった。やがて背中にどすん、と重い衝撃が走り、サマヨイの意識は暗闇に溶けていく。
「おーい、どうした? 大丈夫か? ここに来るまでに呑み過ぎちまったのか?」
「……うーん……?」
聞き覚えのある声に呼びかけられ、サマヨイの意識はゆっくりと浮上していく。仮面の表面に浮かんだふたつの目を静かに開ければ、目の前には動物のよう魚のような、白い小さな生き物がふわふわと浮かんでいる。その後ろには、どんよりと重たい雲を抱えて雨粒を落とす、灰色の空。サマヨイはどうやら、仰向けに倒れているようだった。
「やあ、ティプシィ。なんだかわからないけど、負けちゃったみたいだ……」
「……“負けちゃった”、だって?」
名前を呼び掛けながらサマヨイが身体を起こすと、白い生き物こと、ヨイガミ様―――ティプシィは怪訝な表情を浮かべた。緑の草冠が浮かぶ頭を斜めに傾けて、
「それなら、とっくに現実世界に送り返されてるはずだろうが。なんでこんな、ヨイの世界の入り口でぶっ倒れてるんだ?」
「あれ? それもそうか……」
確かに、彼の言う通りだ。ヨイの世界で倒れた後、サマヨイは必ずバーや自宅のトイレで目覚めるのだ。しかし自分が寝転んでいたのは、ティプシィの言う通りヨイの世界の入り口で、泥を浴びた手首にも、強く打たれた背中にも痛みは残っておらず―――と、そこでサマヨイの思考は凍りついた。
自分はいったい、どこで、誰と出会って、何と戦ったのだろうか。まるでハサミで切り取られてしまったように、思い出すことができない。
「おいおい、しっかりしてくれよな……何があったのかも分からないんじゃ、オイラにも調べようがないんだぞ」
「あ、ああ。そうだよね……」
すっかり固まってしまったサマヨイに、ティプシィは不安げな視線を送る。記憶を覆い隠す分厚い霧を振り切りたくて、水浴びを終えた犬のように頭を振れば、湿ったたてがみから水滴が飛んだ。「オイ、ばっちいぞ!」と、泥水を避けようとしたティプシィはサマヨイから距離を取りつつその背後に回り込んで、
「……ってオマエ、なんだそりゃ!?」
突然、大声をあげた。いったい何事か。
「見てみろよ、自分の背中。ミョーな模様がベッタリだぞ」
「何?」
ティプシィに促されるままに、倒れている間に水を吸い込んで重たくなったストールを外し、目の前で広げてみる。
ちょうどサマヨイの肩甲骨辺りを覆っていた布地には、赤黒い泥の汚れがべったりと付着している。ティプシィが妙な模様と形容したそれは、サマヨイには「人の手形」であるように見えた。まるで、真上から勢いをつけた平手打ちを受けたような……。
「……うわっ……」
気持ちが悪い。思わず声を漏らして口元を押さえたサマヨイに、ティプシィはいよいよ心配そうな表情を向ける。とりあえず雨宿りをしようと促され、サマヨイはのろのろと立ち上がり、辺りで最も大きな木の下へと向かう。
青々と生い茂った木の葉が、冷たい雨からサマヨイたちを守っている。オイラはちょっとくらい湿ってたほうが調子いいんだけどな、と悪戯っぽく笑いながら、ティプシィはくるくるとサマヨイの回りを飛んでいた。泳ぐ魚の尾鰭に似た白い尻尾の先を、サマヨイは目で追いかける。
「少しじっとしてろよ、キレイにしてやる」
彼が口の中で何かを唱えると、サマヨイが手に持っていたストールの泥汚れが、すう、と消えた。そして、泥水をたっぷり吸い込んで重くなった布地がみるみるうちに乾いていく。
「……おお、ありがとう。乾燥機いらずだね」
まるで洗濯したてのような柔らかな肌触りに、サマヨイは思わず顔を埋める。おひさまの匂いがした。しばらくすると、ずぶ濡れになっていたはずの頭から爪先までがすっかり乾いていた。白いたてがみまでふわふわだ。するとティプシィは自慢気に胸を張って、
「なに、サマヨイだって慣れればこれくらいカンタンにできるようになる。何たってここは、オマエの世界でもあるんだからな」
「……慣れれば、ね」
それは、私がどんどんヒトでないものに近づいていけば、ってことなのかな。そんなことを言いかけて、サマヨイは口を噤んだ。これは自分が選んだことだ。
「どうした?」
「……ううん、なんでもないよ」
ごまかすように首を振り、サマヨイはフロアの奥を指で指し示した。バラバラになった記憶を少しずつ手繰り寄せようとしたが、まるで二日酔いのようにずきずきと頭が痛む。
「……中に知らない人がいた、気もするんだけど……やっぱり気のせいかも……」
「なんだそりゃ? ステラアビスの新しい常連か?」
「どうだろうな……」
誰かに似ていた気もするし、そうでもない気もする。曖昧なサマヨイの言葉に、ティプシィは首を傾げて、
「よし、ちょっとオイラが様子を見てくる」
尾鰭を揺らしながら、サマヨイの指差した方向へと飛んでいく。木の葉を叩く雨粒の音を聞きながらサマヨイが待っていると、ティプシィはすぐに戻ってきた。相変わらず表情は険しいままだが。
「この先にある階段、今日はまだ誰も使っちゃいないぞ。スイッチが入ってなかったからな。サマヨイ、やっぱり寝ぼけてたんじゃないか?」
「そうか……」
「それに、初めてヨイの世界に来たニンゲンの気配も、少なくともオイラは感じない」
つまり自分は、夢の中で夢を見ていたのだろうか。箱を開けた中にある箱の蓋を開けた中にある、箱の蓋を……そんなことを考えていたサマヨイの頭に、再びずきずきと痛みが走る。とてもではないが、探索などできるような状態ではない。
「……せっかく迎えにきてくれたところで悪いけど、あまり本調子じゃないみたいだし、今日のところはもう引き上げようかな」
「おう、そうだな」
てっきり「何しにきたんだよ」と文句を言われるかと思ったものだが、ティプシィは存外に素直に頷いた。それどころか、改めて心配するような目つきで、サマヨイの身体の周りをくるりと一周する。まるで何かを確かめるように。
「だってもしオマエに何かがあったら、オイラはまた独りになっちまう」
「はいはい、君はさみしがり屋さんだものね」
サマヨイはやんわりと笑んで、ティプシィの頭を撫でる。だんだんと癖になる、ちょっとヌルッとした手触り。
「だから、今日のことはオイラのほうで出来る限り調べておくよ。もしまた妙なところが見つかったら、オマエにも出向いてもらわなきゃならないかもしれないが……」
「大丈夫、いつでも言ってよ。……できれば明日以降でね」
「んじゃ、それまでに元気になっといてくれ」
ニコッと笑ったティプシィは木陰から出て、雨の中を泳ぐように、ヨイの世界の奥地へと帰っていく。
「来てくれてありがとな、サマヨイ!」
短い手を振るティプシィにサマヨイもまた手を振り返しているうちに、だんだんと辺りの景色が溶けて、歪む。
―――その刹那、抱き抱えようとした華奢な身体の確かな温かさが掌に蘇り、サマヨイの思考は再び凍りついた。
ここは、酒に酔った者が訪れる、夢の世界。あんなふうに年端もいかない子供が迷い込むことなど、できるはずがないのだ。そんなことに何故、自分はずっと気がつかなかったのだろう。
あれはいったい、何だったのか。今さら確かめることなど出来はしないが、サマヨイは彼を置いてきてしまったことを、溶けゆく景色の中でひどくひどく、後悔した。
「……、……さん、サマヨイさん」
「…………ん……」
心地よい声に呼ばれ、サマヨイの意識はぬるま湯のようなところからやさしく掬い上げられる。誰かが髪を撫でていた。
「起きてください、サマヨイさん」
目蓋を持ち上げれば、心配そうにこちらを見下ろしていたカジと、視線が噛み合う。ちらりと横に目を向けると、見覚えのあるリビングテーブルに、その上には空になったグラス。どうやらサマヨイは、ソファで横になっているらしい。
「……ああ、起きた……」
「寝てた……?」
ソファに腰かけた彼が膝に置いたクッションに、サマヨイは頭を預けてぐっすりと眠っていたようだ。起き上がろうとしてみたがまだ頭が重くて、サマヨイは再び、ぽすん、とクッションに沈む。
「一時間くらい眠っていましたよ。そろそろ、ベッドに行きませんか?」
言い終わってから、そういう意味ではないですよ、と慌てて付け加えられた。そういう意味でも構わないよ、とサマヨイは返したが、カジはどこか浮かない表情をしている。
「なあに?」
「……もしかしたら、あまり体調が優れないのかと思いまして」
話を聞くと、サマヨイは夕食後に用意したジュースのような甘いワインを一杯呑んだら眠ってしまったとのことだ。流石にマイアのお姉さんのようなザルではないが、キルカのお嬢さんほど弱いつもりでもなかったというのに。しかし言われてみると顔がぽかぽかと火照っていて、これは確かに酔っているな、とサマヨイは唸り声を漏らす。
「あのさ……なんだっけ、人形を開けると、中にもう一回り小さい人形がいっぱい入ってるやつ……」
「マトリョーシカ」
「そう、それ。すっきりした」
「……やっぱり疲れていますよね?」
「うーん」
なんだか考えがまとまらない。少しだけおかしくて、サマヨイはへらへらと笑った。
「……確かに、少し身体がだるいかもしれないな。運んでくれる? なんて……」
冗談だよ、と続ける前に、サマヨイの身体はふわりと宙に浮かんでいた。背中と膝裏に腕を通されて抱き上げられて、これは俗に言う―――
「……お姫様抱っこ? 私、男だけど」
「関係ありませんよ。それくらい大切、ということです」
というかちょっと軽すぎですね、と苦言を呈されて、サマヨイは唇を尖らせた。
「あ、でも、寝る前に歯磨きしないと……洗面所経由でお願いできる? それじゃ、しゅっぱーつ」
ほろ酔い気分のまま上機嫌にくすくすと笑うサマヨイに、しかし彼は怪訝な表情を見せる。
「サマヨイさん、もしかして、ヨイの世界に行ったのですか?」
固い口調で問われ、サマヨイは「んー」と曖昧な相槌を返す。先ほどの出来事は本当に全てヨイの世界で起きたものだったのか、どこか一部はただの夢だったのか、それとも、全てが夢だったのか。蓋を開けた中にある、箱の蓋を……最後の箱を開けた先でたどり着いた、彼の腕の中が確かに現実であることくらいしか、サマヨイにはもうわからない。
「どうしてそう思う?」
「だいぶぼんやりしていますから」
「さあ、どうだろう。そうかもしれないけど、もしかしたら、夢の中でそういう夢、を見たのかも。だからほら、マトリョーシカ……似てるよね?」
「……困りましたね。少し水を飲んでください」
「ううん、いらない」
するとカジはサマヨイを抱いたままソファに引き返し、再び静かに腰かけた。どうやら洗面所にも、ベッドにも連れていってもらうことは出来ないらしい。
「……お願いですから、あまり無理をしないで」
そのまま強く抱き締められる。カジに何を咎められているのかサマヨイにはわからなくて、ただシャンプーのいい匂いがするな、とそんなことを思いながら、彼の肩口に顔を埋める。
「むり、とかはしてないよ」
「じゃあ、あなたの何がどうなってるって言うんですか……」
「だから何って、どうって、なにも」
「だって、おかしいんですよ。ずっと、何かが少しずつ」
どうにも噛み合わない会話を続けるうちに、眠気が襲ってきた。やがてとろとろと溶けるように、サマヨイの目蓋はゆっくりと下がる。
「……あなたの夢を、見ていたんだよ」
だからほら、喜んでよ。
サマヨイをきつく抱き締める腕から、力が抜ける。よく整って上品な顔つきをした、可愛らしい大人が、泣きそうな顔をしてこちらを見つめていた。
「もしかして、どこか痛いのかな? 庇うのは間に合ったはずだけど……」
「だから何の話ですか、誰の話ですか」
「本当に怪我はない? 大丈夫なら、それでいい。でも、置いてきてしまってごめん」
「サマヨイさん、違う、サマヨイさん。ちゃんと俺を見て」
「次は必ず、傘を持っていくから。そこで待っててね」
「どこも、痛くなんてありませんから……」
じゃあなんで、そんな苦しそうな顔をするの。もう一度抱き締められて、意識が今度はヨイの世界ではない、暗いところに落ちていく。
目を閉じたサマヨイの顔に、ぱたり、と、滴が落ちた。わずかに温かいそれは、続けてぱた、ぱたた、と、止まることなくサマヨイの頬を濡らす。
(そうだ、雨が降っていたんだ)
サマヨイが伸ばそうとした手は、それよりひとまわり大きな大人の手に捕まえられてしまう。―――だめなんだ、傘を探さないと。小さなあの子の、寂しい背中に差し出す傘を。言葉は声にならないまま、サマヨイの意識はゆっくりと融けて、深い深い本物の眠りへと沈んでいった。
→カミサマになんてならないよ※R18