水底に眠る
この話のサマヨイさんを構成する要素→顔がめちゃくちゃかわいい男の子/難儀な性格/親切ジャンキー/かわいそうな目にあっている/バー脱出後の社会復帰に苦心中
※キャラクターの本名及びストーリーの結末に触れるネタバレがあります。
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ヨイの世界とバー・ステラアビスの間で起きていた事件が一段落してからというもの、サマヨイが店を訪れると、その時々に居合わせた常連たちによる「お疲れさま会」のようなものがたびたび催されていた。静かにグラスを傾けることを好むメンバーが集まっていれば、テーブルを囲んでおすすめのカクテルをご馳走になり、盛り上げ上手が多い日には賑やかな酒席になる。本日の集まりは後者のそれで、マイアが華麗な手つきで披露してみせたコインマジックに学生たちが歓声を上げるのを聞きながら、サマヨイはグラスを傾けていた。ほんの少し前であれば、この状況をこれほど心穏やかに眺めてはいられなかっただろう。感慨深いものを覚えながら、小さく息をつく。
「……」
その時ふと、例えるなら上昇するエレベーターが停まる寸前のような浮遊感を覚え、サマヨイは顔をしかめた。空になったグラスを手近なテーブルに置き軽く頭を振ってみたが、首から上がうっすらと靄に包まれているような感覚はなくならない。周りのムードに当てられ、呑むペースを上げすぎてしまったかと思案する。一度外に出て、風にでも当たってくるべきだろうか。
サマヨイがそっと席を立つと、隣に座っていたキャスから「ヨイたん、どしたの?」と尋ねられる。咄嗟に「ちょっと電話がね」などと出任せを言いポケットからわざとらしく取り出してみせたスマートフォンは、そう言えばいつから電源を入れていないのかすらよく覚えていない。カウンターの中、ようやく動き始めた時計の前で今日もおっとりと微笑んでいるマスターに声をかけつつ、店の外へと続くドアノブに手を掛ける。
「……」
もしかしたらこれまでの出来事は全てが夢で、捻ろうとしたドアノブは半分も回らないうちにガチャリと冷たい抵抗を返し、後ろを振り向けばさっきまでの賑やかさが嘘のように店の中は空っぽで、しばらくしてやって来た顔見知りのはずの常連たちからは、よそ行きの表情で「はじめまして」なんて挨拶をされて―――夢と現実の狭間を、未だに自分はただひとりで彷徨っているのではないだろうか。そんな妄想を振り切るように汗ばむ掌に力を込めると、いっそあっけないほど軽々とドアは開き、隙間から流れ込んだぬるい風が、仮面越しではないサマヨイの素肌の頬を撫でた。そろそろ、春も終わりに近づいている。
シックなレンガ造りの壁を這うアイビーの葉が風に揺れ、店が開いていることを知らせるネオンサインはチリチリと不規則な明滅を繰り返す。表通りを走り抜ける車の音さえ、すっかり夜も更けた今はそう多くは届かない。複雑に入り組んだ路地を抜けた先にあるバー・ステラアビスの周りはいつだって日常を忘れるほど静かで、しかし今日のような日にその静寂は悪さをする。ほんの一歩、ブーツのヒールがアスファルトを打つ音をやけに明瞭に耳が拾って、ぼうっとしたままの頭の中でかつん、かつんと反響した。
「ふぅ……」
ドアから数歩離れたところで耳鳴りが収まるのを待ちながらサマヨイが息をついたのと同時に、背後の店の中からもうひとり、誰かが現れる気配がした。雑居ビルの隙間から漏れる月の明かりで形取られたサマヨイの影、それをすっかり覆い隠してしまうもうひとつの影は、おそらく背の高い男のものだ。
「サマヨイさん、大丈夫ですか?」
耳触りのよい穏やかな声に呼ばれ振り向くと、そこに立っていたのはカジだった。今日はすっかり盛り上がった若者たちがはしゃぎすぎるのを時に窘める役割を引き受けながら、彼自身もそれなりのペースでグラスを空けていたように見えたが、それでもサマヨイとは違い、足取りはしっかりとしている。
「少し足元が覚束ないようでしたので、様子を見にきたのですが、どうやら正解でしたね。
「……」
やはり酔っ払いの回らない頭で考えた小手先の誤魔化し程度、自分に本気で惚れているなどと断言する相手の観察眼には通用しないのだ。こうなると、素直に喋るほうが余計な痛手を受けずに済む。そう観念したサマヨイはすっかり火照った顔を隠すこともなく、月明かりの下でへらりと笑ってみせた。
「……みんなで楽しくやってると、つい呑み過ぎてしまっていけないね」そう言って肩を竦め、カジの背後にあるドアに視線を向けて、
「少しだけ風に当たって酔いを覚ましたら、また戻ろうと思って。あんまりキャスに心配かけたくなかったんだ」
「……あまり無理はされないほうが……」
「うん、今日はもう呑まないよ。あとでマスターに頼んでお水をもらうから、それでいいかい?」
ストールの先のフリンジを指先で弄りながらサマヨイが答えると、カジは「わかりました」と引き下がった。ちょっと過保護じゃないかな、とサマヨイは軽くおどけてみせたが、「好きな人のことを心配してはいけませんか」と、思いの外堅い口調で返される。アルコールの力を多少は借りたにしても、こうまで真っ直ぐすぎる台詞を恥ずかしげもなく吐くことができるというのは、彼の泥寧を掻き分けると現れるちいさな宝石にも似た美徳だろうか、それとも。
「カジさんって……」
ええと、と言い淀む。すっかり酔いの回った頭では、続く言葉をうまく探せない。ともかく、なぜ向こうは平気な顔をしていて、言われた側の自分だけが腹の底がむず痒いような、気恥ずかしい思いをしなければならないのか。苛立ちにも似た羞恥を振りきるようにサマヨイは今一度、大きくかぶりを振った。
「あなたの言う通り、呑みすぎはよくないけど……今はあまり家にも帰りたくないし、みんなと一緒にいたほうが気が楽なんだ。わかってほしいな」
「…………」
忙しない日常を、受け止めきれない現実を、ほんの少し忘れさせてくれるステラアビスという場所。そこに偶然居合わせ、縁を結んだ人々。他の何にも替え難い、大切な居場所だ。
ぽつぽつと言葉をこぼすサマヨイの横顔をカジはじっと見つめていたが、やがて何かを決めたようにひとつ頷き、口を開いた。
「やっぱり、帰りたくないのですね」
「……え」
「家族でしょうか、それとも恋人? たとえばタチの悪い相手にでも捕まっていて、何かしらの自由を害されていたりは?」
「え、え? あっ、」
―――家に帰りたくない。アルコールで気が緩み、思わずぽろりと口からこぼしてしまっていた本音を目敏く拾われていたことに気づき、サマヨイは慌てて口を噤んだが、しかし遅かった。畳み掛けるように問われ、サマヨイの脳内にあらゆる光景がフラッシュバックする。繋がらない電話、震える手で鍵を開けた先、ぐちゃぐちゃに荒らされた部屋、内ポケットまでひっくり返されたバッグ、ひとつ残らずなくなっていた、大切なもの。
「帰る家があったとしても、必ずしもそこが“帰りたい家”であるとは限りませんよね」
雨のように降りそそいできた言葉に、顔の火照りがすうっと引いていくような心地がした。サマヨイは思わず息を飲む。一歩後ずさると、ブーツの底とアスファルトの間に挟まれていた小石が転がり、がりりと不快な音を立てた。
視界の端にちらつく青白いネオンの瞬きが、ばくばくと早まる自らの心音と重なっているように思えるのは気のせいだろうか。このままでは、夜に飲み込まれてしまう。ぎゅっと強く目蓋を閉じる。
「……帰りたくない……とかっていうのは、それはカジさんの昔の話じゃないかな?」
「誤魔化さないで、サマヨイさん」
喉の奥からなんとか絞り出した冗談を、彼はまるで、幼い子供の吐いた拙い嘘をやんわりと窘めるような声色で封じ込めてしまう。自分は「冗談です」のひと言で全てを煙に巻こうとするくせに、他人にそれを許さないのは横暴ではないか。
「せっかくバーから出られるようになったというのに、時々、ひどく浮かない顔をしているでしょう。あなたが何に苦しんでいるのか、話してくれませんか」
見られている。聞かれている。手を差し伸べようとされている。―――救われようとしている? 誰が。私が?
サマヨイはばくばくと早鐘を打つ心臓を守るように、ストールを胸の前に寄せて掻き抱いた。頭ひとつぶん高いところからサマヨイを見つめるカジの目つきはあまりに真剣だった。今ばかりは恋しくてたまらない、あの山羊の顔を模した仮面はヨイの世界に置いてきてしまった。どこまでも誠実に、目の前の人間の中身を背骨に沿って丁寧に割り開いて、心臓の中にある弱さと痛みを恭しい手つきで掬い上げて、必要とあらば飲み込んで、自らのものにしようとすらしてみせる覚悟のある目だった。それは熱に浮かされたような瞳でただヒトとしての輪郭だけをなぞられ、求められたあの時よりよほどおかしく、恐ろしいものとしてサマヨイの目に映る。
「……あ、はは、すごいな、あなたは確かに人のことをよく見てる……」
でも、少し怖いかもしれない。乾いた笑いとともにサマヨイがそうこぼせば、カジははっとしたように目を見開く。やがてよそ行きの営業スマイルではなく、眉尻をふにゃりと下げる、案外幼く見える彼本来の笑顔を浮かべた。
「すみません、少し熱くなりすぎました。でも、あなたの力になりたいというのは本当です」
立ち尽くすサマヨイから少し離れて、カジは雑居ビルに囲まれた夜空を見上げている。いつの間にか月は厚い雲に覆われ、ここからは見えなくなっていた。
「……やっぱり、サマヨイさんみたいに上手くはいきませんね。やさしく手を引くように、本音を引き出してみたいものですが」
ああ、違う、違う。そんな顔をさせたいのではなくて。困ったように笑う彼に、サマヨイは首を振る。くるしい。
「……ようやく気が抜けて、疲れが一気に出てきたんだ。色々あったからね」
吐き出すようにそう告げて、店先に置かれた飾りの木樽にもたれ掛かる。頭がくらくらとしていた。「そうですね」と返されたカジの相槌が僅かに沈んでいるのは、過去の自らの行いがサマヨイの言う「色々あった」の一部であると自覚しているからだろう。全てをふたりの笑い話にできるのは、きっとまだこれから、ずっとずっと先のことだ。
「閉じ込められている間は、とにかく目の前で苦しんでいる人たちの手助けをして、バーから脱出することだけを考えていたらよかったけど。いざ外に出られたら、忘れかけていた現実が一気に押し寄せてきて……」
ほんの僅かな希望を持ってバーの外に出たところで、すべての問題が魔法のように解決しているわけがなかった。ヨイガミの片割れなどという肩書きを得たところで、サマヨイを待ち受けている現実は、路地裏でチラシを拾ったあの日とさほど変わらない。それどころか、時間を置いたことで状況はより悪い方向へと進んでいたことを突きつけられて、すっかり気持ちが落ち込んでいた。バーの仄暗い照明と身体を巡るアルコールのもたらす高揚感の中でも隠しきれない疲れが外に滲み出てしまっていたのであれば、それは大きな失敗かもしれない。ステラアビスの客は総じて、掴み所がなかったり自由奔放そうに見えて、他人の隠された内面を静かに見つめることに長けている。
「本当に、少し疲れてるだけだから心配しないで、って言っても……そうやってみんなに気を遣わせてしまうくらいなら、しばらくここに来るのは控えたほうがいいのかな……」
今日のお疲れさま会にも、実は労い以上の意味が隠されている可能性に、なぜ今の今まで思い至らなかったのだろう。店の常連の中には他にも、サマヨイの置かれる状況を気にかけて、いずれ話を切り出したい、それが難しいなら今はせめて元気づけたいと考える者がいるのかもしれない。こうして最初に行動へと移したのが、ヨイの世界の終わりへの旅を共にした彼だったというだけで。
「サマヨイさん、少しよろしいですか」
改まった様子のカジに声をかけられ、サマヨイはそちらに視線を向ける。彼は胸ポケットから手帳と万年筆(シンプルな、見覚えのあるデザインだ)を取り出し、さらさらと何かを書き記していた。そして手帳のページを一枚破り取り、サマヨイに向かって差し出す。
「これって……」
いかにも彼らしい几帳面な筆跡で記されていた内容に、サマヨイは思わず目を見張る。
深いブルーブラックのインクで書かれていたのは、マンションの名前と番地、部屋の番号―――つまりは彼の住所だった。丁寧なことに、電話番号や最寄りの駅までがそこには記されている。
「駄目だよカジさん、こんな簡単に。どうするの、私が悪い人だったら」
「そうやってまず相手の心配をするような方が、悪い人のわけがありませんよね」
「違うっ……」
「それに、酔っ払いが思いつきでこのようなことをしていると思われているのなら、少しだけ残念かな。これでもけっこう勇気を出しているんですよ?」
ペンと手帳を胸ポケットにしまいながら、カジは小さく肩を竦めてみせた。これ以上空気を重くしないようにと、声色こそ明るいものだったが―――自分の言葉に説得力が足りないのは、これまでの行いへの罰なのか。以前そう落ち込んでいた時と似たような表情までは、上手く隠せていない。
「だって前に、ストーカーとか、嫌な目に遭ったって言っていたじゃないか」
「引っ越す羽目にもなったこともありましたけど、まあ大抵は自業自得ですからね」
力なく返されたサマヨイの言葉に、カジは苦笑いしている。笑い事ではないと思うが、自業自得などと強い言葉を使うほどなのだから、これまでの振る舞いに対する彼の自省はいっそ笑うしかないようなところまで到達しているのだろうか。それはそれで少し、可哀想と思ってしまうが。
「ええと、私のことはともかく……それだって逆に、あなたを信頼して、力になりたいと思っている証拠にはなりませんか。なんて言うのは、少し狡いかもしれませんが」
「…………」
「閉じ込めて自分だけのものにしようなんて思っていない、ただ守りたいんです。あなたが安心できる場所のひとつになりたい」
彼が偽名を名乗るまでに至った経緯を思えば、ほんの軽い気持ちや気まぐれ程度で身元を明かしてうちに来いなどと言えるわけがないのだ。そのことをわかっていても、否、わかっているからこそ伝わるあまりの思いの大きさを、サマヨイは受け止めきることができずにいる。掌の中の紙片をどうすることもできないまま強く握り込み、ただ沈黙した。店の前をふらふらと飛んでいた羽虫が、明滅するネオンサインにバチ、とぶつかる。
「やっぱり難しいかな、俺には……」
しばらく二人して黙り込んでいたが、先に折れたのはカジのほうだ。「困らせてしまってすみません」と、彼はサマヨイに向かって謝った。
「こちらが勝手にやっていることですから、押し付けがましいと感じたようなら、そのメモは処分してくださって構いません。でも、そうするとしても、また一緒にお酒を飲んでもらえたら嬉しいな」
つまり、何もなかったことにしてくれ、ということだ。ドアノブに手をかけようとする彼に、サマヨイは未だ何ひとつ言葉を返すことができない。
「私は先に戻りますね。こっそりあなたを独り占めしているのがバレたら、後が怖いので……」
何せあなたが思っている以上に、皆さんあなたのことが大好きですから。そう言い残して、姿勢の良い背中はドアの向こう、ステラアビスの中に消えていく。それを見送ったサマヨイは、じっとりと冷たい汗をかく手のひらの中でしわくちゃになってしまったメモを伸ばしてから折り畳み、ひどく緩慢な動作でポケットの中にしまい込んだ。いつの間にか流れる雲の切れ間から再び顔を出していた月明かりが、アスファルトに残されたひとりの影を、淡く縁取っている。
しばらく時間を置いてから店内に戻ったサマヨイを待ち受けていたのは、常連たちからの怒涛のプレゼント攻撃だった。どうやら、かつてサマヨイが配り歩いていた化粧品やらキーホルダーやらのお返しということらしい。ヨイの世界のおみやげにそんな気遣いは不要だと遠慮したが、一番乗りをしたレオナから上品なラッピングの施されたハンカチを差し出され、「初めてのバイト代で買ったんです」と満面の笑みを見せられたりしたら、それからは何も言えなくなってしまう。
「すごいことになっちゃったな……」
ほろ酔い気分の帰り道、サマヨイはひとりそう呟いた。今日は来店していない常連からも預かりものをしている、とマスターから渡された分(もちろん、マスター自身からの贈り物も)も合わせると、持たされた大ぶりの紙袋はプレゼントでいっぱいになってしまった。中身はよく食べると話したことのあるお菓子だったり、忙しい時にも手軽に栄養の取れるスープの詰め合わせだったり、かつて相席で話題に上ったちょっと珍しい酒の肴だったり、サマヨイが普段好んで着る服に色合いを寄せた小物だったりした。年齢も趣味も異なる個性豊かな面々のチョイスらしくジャンルは様々だが、その根底にあるあたたかなものは共通しているように、サマヨイの目には映った。
「助けてもらっても、いいのかな。私は、私なんかが」
横断歩道の前で立ち止まり、ポケットに手を入れる。そこに四つに畳まれた紙片の感触があることを、信号機の灯す光が青色に変わるまでの間に何度も、何度も、指先で確かめた。
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「……話してくれて、ありがとう。サマヨイさん」
唇を湿らせる程度に、ほんの少しだけ口をつけたカルーアミルクのグラスが置かれる。トン、と静かに木のテーブルをグラスの底が打ち、淡い乳白色の中で丸氷の揺れる涼しげな音は、穏やかなBGMに紛れて消えていった。仕事に学業に、忙しくも充実した日々を送る常連たちはひとりまたひとりと現れては消えていき、時計の長針があと一周すれば日付が変わる頃合いのバー・ステラアビスに留まっているのはサマヨイとカジの二人だけ。カウンターの内側にいるマスターは椅子に腰かけて足を休めながら、グラスをひとつひとつ、丁寧に磨き上げている。サマヨイがメモを受け取ってから、ちょうど一週間になる日だった。
閉店の近付くステラアビスでサマヨイは、彼に自身の全てを話した。昔から人より劣っていて、劣等感から弱った人間にばかり惹かれてしまうこと。そういった相手に手を差し伸べることだけが、自らの価値を証明する方法だと思っていたこと。そしてステラアビスを訪れる前に関係を持っていたのが、他人に寄生して生きるような、まさしくタチの悪い人間だったこと。生活を滅茶苦茶にされた挙げ句、一緒に暮らしていた部屋から逃げられたこと。その相手の名前も素性も、伝えられていた何もかもが嘘で、どうすることもできなかったこと。
空っぽになった部屋に嘲笑われた気がして、その時心がぽっきりと折れたのだ。まるで、お前の中身もこれと同じで、何もないのだと言われているようで。
その直後、ヨイの世界を巡る問題に半ば事故に遭うような形で巻き込まれたとは言え、迷い込んだこのバーを利用して自らの欲求を満たそうとしていたのだ。「本当は似た者同士だったのに、偉そうに怒ったりしてごめんなさい」と、サマヨイは乾いた笑いをこぼし、グラスに口をつける。カジはただ静かに、サマヨイの言葉に耳を傾けていた。
この日の一杯に、サマヨイはホーセズ・ネックを選んだ。冠する名のとおり、馬の首を模した長いレモンピールの風味がジンジャーエールと混ざり合い、苦味がしゅわしゅわと喉を刺激しながら通り過ぎていく。そしてそれを追うように、ブランデーの深い香りが舌の上でゆっくり広がる。
「……単なるお人好しとか、そんなのでは済まないくらい、昔から少しおかしかった。子供の頃なんて、クラスでいじわるされていた子を庇って頼りにされることに、すっかり味を占めてしまってね。また同じことがしたくて、誰かを仲間はずれにしようって、そんなおかしなことを周りにけしかけるまでになって……」
しかし幼い子供の浅知恵で、簡単に人間関係をコントロールすることなどできるはずがなく。結果としてサマヨイの不自然な行動は周囲の不信を生み、集団から爪弾きにされたのは自分自身だった。当然の報いだ。
流石にそれ以来、自らの手でターゲットを作り出すことを試みるなど、本末転倒とも言える行動は取らなくなったが、それでも色々な失敗をしてきた。このバー・ステラアビスでも、ほんの一歩でも選択を間違えていたら今頃誰かと共依存のような関係に陥り、互いの暮らしを壊してしまっていたかもしれない。水滴の浮かぶグラスを握りしめると、氷がカランと音を立てた。
「嬉しかったけど、それ以上にずっと恐ろしかったんだ。あなたが、みんなが、“やさしいサマヨイさん”の虚像を受け入れてくれることが。本当の私はそんなに価値のある人間じゃないのに」
だからあんなにも、まるで身体をばらばらにされているのではないかと錯覚するほど怖かった。見離されることを恐れ、卑怯さと弱さを隠す仮面ごとサマヨイのことを掬い上げて自らのものにしたいなどと、彼が言ってのけることが。
「それでもまだあなたは、私にこれを渡したことを後悔しないと言える?」
すべて白状すると覚悟を決めたはずなのに、一度視線を落としたグラスから顔を上げることすらできないことが情けない。素顔を失くして仮面を被って、この世界の誰でもない誰かになったつもりでいるうちは、あんなにも堂々と人と関わり合えたというのに。
サマヨイは震える手で、ポケットから四つ折りにしたメモを取り出した。しかしそれがテーブルの上に置かれる前に、「しませんよ」と、あまりにもあっさりした返事を返され、思わず目を丸くする。
「しませんよ、後悔なんて」
ぽとり、折り畳まれた紙片がテーブルに落ちる。
「そもそもたったひとりの人間の中に、本物の自分だとか偽物の自分だとか、そんな境目って本当にあるんでしょうか? 私を救ってくれたのも、私が救いたいと思っているのも、目の前のあなたです」
恐る恐る顔を上げると、いっそ拍子抜けしてしまうほど、カジは普段とさほど変わらない様子でグラスを傾けていた。むしろサマヨイの怯えたような態度の答え合わせが済んで、心なしか表情がすっきりしているようにすら見える。
「私は大歓迎ですから、下心。動機がどうであれ、あなたが自ら考えて起こした行動にみんなが救われているわけですし……」
ゆっくりと伸ばされたカジの手が、テーブルの上で所在なげにしていたサマヨイの手の甲に数度、確かめるように触れる。やがて上からそっと包むように握り込まれ、サマヨイは思わずびくりと肩を竦めたが、その手は離れていかなかった。それは寄る辺のない寂しい夜に、二匹の動物が互いの爪に怯えながらも傷を舐め合う姿に似ている。
「それに、自らを満たす手段に“人を助けること”を選べたあなたの根っこは、最低な私と違って善人なのだと思います。だから今は、それだけでいい」
だんだんと肩の力が抜けていく。いいか、すべて渡してしまっても。サマヨイはおもむろに席を立ち、カジの耳元に口を寄せた。
「えっ……と?」
と、彼は気の抜けたような声を漏らして、
「サマヨイさん……今のは……?」
この声の揺らぎの理由は酔いのせいだけではないことがわかるくらいには、何度も会話を重ねてきたと思う。会社では舞い込んできた仕事をテキパキと捌くデキるサラリーマンとかいうやつをやっているくせして、耳元で囁かれたほんの数文字の音の羅列がヒトの名前を示していると理解するだけのことに、こんなにも時間が必要なのだ、彼には。そのあまりにもバランスを欠いた心がこれからどう変わっていていくのかを、できることならそばで見ていたいと、サマヨイはそう思うようになった。
「もしかして、ちょっとぼうっとしてた? 必要だったらもう一度、耳を貸して」
「いえ、大丈夫、大丈夫です、ちゃんと聞いていました。ただ少し、驚いてしまって……」
ふう、と小さく息をついてから、カジはやや声を落として続けた。
「……その、念のため、確認をしたいのですが……私の聞き間違いでなければ……」
「えっ、急に声小さ……」
別にサマヨイが耳打ちをしたからと言って、彼まで同じような声量で話す必要はまったくないのだが。大丈夫と口では言いつつ、内心はだいぶ混乱していそうだ。苦笑しながら、サマヨイはグラスに口をつけた。
「今のは私の名前だよ」
一気に飲み干し、そう告げる。この店の内側だけでひどくあやふやな像を結んでいた“みんなのサマヨイさん”と、現実でひとり立ち尽くす自分の存在が、本当の名前を口にしたことで混ざり合い、繋がってしまった気がした。これでもう、どこにも逃げられないのだ。
「あなたは以前、私にお願いごとをしてくれたよね。私としても、それってすごく素敵だと思っていたんだけど」
いつか自分が本当に変わることができたら、その時はサマヨイの名前を教えてほしい。ロマンチストな彼らしい約束を交わしたが、予定は少し前倒しになった。
「現実的な話をしてしまうと、ろくに素性もわからない相手とたまにバーで呑む以上のお付き合いをするなんてことにはリスクがつきものだ。カジさんは大人だし、わかってくれるね?」
「……あの、それは……」
戸惑いを滲ませた目が、縋るようにサマヨイを映す。
「それはつまり、そういうことで、いいのでしょうか」
あの一件以来すっかり落ち着いたように見えるカジだったが、その代わりに時々ひどく臆病になってしまったように思われた。それが歓迎すべきものか忌むべきものかも分からないまま、変化に伴う骨の軋むような痛みを、愚かな我々はひとつずつ受け入れなければならない。
―――あなたのところに行く。どうしようもなく弱い私をどうか少しだけ助けてほしい。サマヨイははっきりと言葉にした。
「だから、名前を教えた。でも、それをいつ呼ぶのかはあなたに委ねるよ。これは助けてもらう側として、私から渡せるただひとつの誠意なんだと思う。他には、何も持っていないから」
それからは、全てがあっという間だった。とりあえず今のアパートを引き払うための費用をなんとか工面して、などと悠長なことを考えていたのはどうやらサマヨイのほうだけだったらしく、本当に気がついた時にはカジの手によって退去までの段取りが組まれ、他にも必要な日用品があれば追加してほしい、とメッセージアプリにリストが送られてきていた。サマヨイがしたことといえば書類へのサインと、あとはいくらなんでも多すぎる必要なものリストを最低限まで削り、本当に必要なものリストに変えて送り返した程度だったように思う。「なんで減っているんですか?」と、カジは非常に不服そうだったが、いったいどれほどのものをサマヨイに買い与えたいと思っているのだろう。諸々の費用は全て彼に支払われてしまったが、ともかく退去にかかった分だけはなんとか隙を見て返そうと、サマヨイはそう思っている。受け取ってもらえるかは、自分の頑張り次第だ。
「お疲れ様です、サマヨイさん。さあ、入って」
「ええと、お邪魔します……」
天気のいい、日曜の昼下がりだった。たどり着いたマンションの一室に、左慈、と表札が掲げられているのを見て、バーの外にもちゃんと彼の生活というものが存在しているのだと、そんな当たり前のことにサマヨイはなんだか安心してしまった。そうは言っても、すっかり互いに馴染んでしまったあだ名を、まだしばらくの間は使い続けるのだが。
今は、お邪魔します、と上がった家だが、次からは「ただいま」になるのか。そう考えると、ほんのわずかに口角が緩む。サマヨイはカジの後ろに着いて回り、一通り家の中の案内を受けた。シンプルで品のいい調度品の揃ったまるでモデルルームのような部屋だったが、“隙間”がたくさんある、というような印象を、サマヨイは何よりも強く感じた。こんなにもすぐに誰かに明け渡せるようなスペースを持て余しているという意味でもあるが、整った広い部屋のあちらこちらに、何か言い表せない寂しさのようなものが漂っている。その隙間を埋めるために、これまで何人がここに招かれてきたのだろうと、そんなことを思ってしまう。
サマヨイに宛がわれた一室は、ベッドや一人がけのソファ、クローゼットなど一通りの家具が揃ったゲストルームだった。今のサマヨイには十分すぎる環境だったが、カジは「そんなに広くないですけど」や「何か足りないものがあれば」などと言っているので、元々の育ちのよい彼との根本的な感覚の違いというものを、つくづく思い知らされる。何もなければ街ですれ違うだけで一生を終えていたかもしれない相手と路地裏のバーで巡り合い、こうして生活を共にすることとなった事実は、彼の好きな「運命」とやらを、少しだけ信じてもいいかもしれないような気持ちにさせた。
「とりあえずベッドだけは新調してみたんですが、少し固くて寝づらいかもしれないな……大丈夫そうですか? ちょっと座ってみてください」
「え、そんなのぜんぜん気にならない……っていうか、なんでわざわざ? もったいない……」
「……それはその、自分で自分を許せなかったというか……」
「?」
ごほん、とわざとらしい咳払いをひとつ。「まあそれは置いておいて」何やらばつの悪そうな面持ちのカジに促されるまま、サマヨイはベッドに腰かける。彼の言うとおり確かにマットレスの感触は固めではあるものの、少し突っ張って体重をかけてみた両手はやがてゆっくり沈み込み、寝心地は十分によさそうだった。
「ありがとう。大丈夫だよ、よく眠れそう」
顔を上げると、ベッド脇に立ったままカジはサマヨイのことをじっと見下ろしていた。サマヨイが首を傾げると、彼は何か感極まったような声音で、
「家にサマヨイさんがいる……」
「な、何だそれ……」
向こうも向こうで、サマヨイのことをまるでバーの中にしか存在しない妖精か何かのように思っていたのだろうか。さっきからいるし、これからだっているよ。……口にしてみて、何故かこちらまで恥ずかしくなった。
「……今の流れでエッチなこととかするのかと思った」
「え、いや、それは駄目でしょう……なんというかまるで、そのために囲ったみたいではありませんか……?」
照れ隠しにそんなことを言ってみたら思った以上に狼狽えた反応が返ってきてしまい、少し申し訳なくなった。
「というか、そもそもまだ昼間だし……あの、もしかして私、試されてます?」
「……カジさん、真面目になったねえ」
「はい、おかげさまでね」
にっこりと笑って、カジはサマヨイの隣に腰かけた。真新しいベッドのスプリングが、ギシ、と音を立てる。
「まあ正直なところ、真面目になったと言うよりは、色々考えていたらなんだかよくわからなくなってしまったんですよね。正しい愛し方って、いったい何なのか」
それからだらりと脚を投げ出して、天井を見つめている。昼間とは言えこんなふうにベッドの上で、肩が触れ合いそうなほどの距離で隣り合っているというのにそういった匂いを一切漂わせていないあたり、実はけっこう“答え”に迫っているのではないかというような気がしてしまうものだが。サマヨイは、わざとらしく「うーん」と考え込むように首を捻って、
「別にそういうことをするから大事にしてないってわけではないし、逆にしないから大事にしてるってわけでもないと、私は思うよ」
「……貴重なご意見ありがとうございます。ご提案をもとに検討を進めます」
「会社じゃないんだから……」
互いに顔を見合わせて、ふ、と笑う。少し開いた窓からは初夏の風が入り込んで、ダークブルーのカーテンがゆらゆら揺れていた。
「案内も終わりましたし、ちょっと一息入れましょうか……サマヨイさん、コーヒーは飲まれますか?」
「うん、好き」
そう言えば、お互いの好きな物なんてまだお酒くらいしか知らないなと、そんなことをサマヨイは思う。コーヒーはインスタントなのかそれとも豆から挽くのか、砂糖とミルクはどれだけ入れるのか、熱いものが好きなのか猫舌なのか。これからひとつずつ知っていくための時間はいくらでもあるし、この人はそういうのが好きそうだからということで、サマヨイは密かに「お揃いのマグカップが用意されている」のほうに賭けている。
今はまだ、互いの本当の名前を呼び合うことすらできないが。どうしようもなく捩れてしまった部分を無理やり何かの形に似せようとするよりは、歪みに寄り添いながら隙間を埋めあって、指先を傷つけてしまう尖ったところを少しずつ削って。やがていつか、やわらかな丸みを帯びたひとつの石のようになれる日が来るのを、夢見ることくらいは許されるだろうか。
→後編※R18