CT

 

半開きになった寝室のドアの向こう、廊下側から何者かの赤い瞳がこちらを覗いていた。ベッドに腰かけて読み進めていたペーパーバックの小説をサイドテーブルに置き、いったいいつからそこにいたのかも定かではないそれと見つめ合うこと数秒。このままでは事態は何も動かないと早々に判断し、ガラはドアに向かってため息混じりの声を投げかけた。

「…………あー、ハイドさんはいったいそこで何をしてるんだ?」

名前を呼ばれてもこれといって慌てる様子も見せないハイドは、相変わらずドアの隙間から顔を覗かせたまま勿体ぶった様子で、

「私たち吸血鬼は、中から招き入れてもらわなければ他人の屋敷や部屋に入れないんだ」

今度こそ純粋にため息が出た。



■ ■ ■



「なあ、それはフィクションのやつじゃなかったのか? だいぶ昔に映画か何かで見たとき、こんなのは嘘っぱちもいいところだとか一人で滅茶苦茶ウケてたじゃないか」
「…………。ともかく、私は部屋の主から、おいで、と甘い誘いの言葉をかけてもらうのを待っているところだ」

大蒜や日光を嫌い、夜は棺で眠り、その姿は鏡に映ることがなく、流れる水を渡れない、等々。吸血鬼の性質として知られる様々な事柄は、実際のところ事実と嘘が半々くらいである、というのは当の吸血鬼であるハイドの談である。部屋に入るために許しが要るというのは無論後者のそれで、それどころか彼は普段、ベッドやシャワールームの中にまで勝手に入り込んでくることさえある無法者なのだ。

「はあ、またしょうもないことを……」

「嘘」を更に分別していくと、当初は本当に弱点であったが、科学の進歩とともに克服され結果として嘘になったものもあれば、公衆衛生が未発達の時代に感染症等にまつわる出来事と吸血鬼の存在が混同されたもの、そして生き血を啜る化物の恐ろしい物語を彩るために作られた、まったくの創作エピソードに枝分かれするのだという…………といった細かな蘊蓄はさておき。今のガラにとって重要なのは、彼が都合のいい時には創作上の同胞たちの真似事をやってのけて、また人並み外れた聴力を持つはずの耳は自分に都合の悪い指摘を拾わないこともできる、厄介な吸血鬼だということである。しかし画面の中の吸血鬼の作られた嘘に滅茶苦茶ウケることと、相手から部屋に招かれることにロマンを感じることはハイドのなかで両立される感情なのだ。今日はこういう甘え方をしたいというならそう言えばいいだけのことなのに、何でもできるというような顔をしているくせして不器用なものだと愛らしくもある。
ドアを挟んでしばらく言葉を交わした後、根負けしたガラはやれやれ、と自らの隣、ベッドの空いたスペースを指差す。肌触りの良いシーツに覆われたそこをぽんぽんと叩き、

「……ほら、おいで」

そして、ぼふ、と飛びつかれた。

「おっと……」

世の中の大抵の生き物はガラと比べたら小柄とされるが、向こうだって元はモデルを努めていたこともあるようなそれなりの体格の持ち主だ。思わず声が漏れ、ひとりぶんの重みを新たに受け止めたベッドが僅かに軋む。しかし胸に飛び込んできた勢いと比べると、ハイドの表情はいくらか不満げだった。どうしたものかと問えば、彼はふん、と鼻を鳴らして、

「これは私の勘だが、いつもベンチで猫相手にやってるやつじゃないか、今のは」
「バカ言え、もっと上品にエスコートしてるに決まってるだろう」

ガラの反論に、ハイドはサイドテーブルに置かれた紫のカバーのスマートフォンをちらと見遣る。

「ああ……この前写真をアップしていたやつのことか。私のこともあのお姫様のように扱うべきだとは思わないのか」
「気安いのがいいって言ったのはそっちだろうに……」

それは時と場合による、とハイドは口を尖らせる。しかし頭の後ろへとガラが手を回し、艶のある黒髪の生え際をすりすりと撫でると気をよくしたように頭を胸に擦り寄せた。彼の言うお姫様とは、最近ガラによくなついている白い子猫のことだ。先日公園を訪れたとき、とうとう日向ぼっこをしにガラの膝の上へとやって来たので、リラックスしきったその表情を一枚、写真に収めさせてもらった。

「あの白い毛並みが美しいことは認めてやるが、私を差し置いてガラとツーショットとは、生意気なお姫様だ。あの勝ち誇った顔といったら……」
「別に俺は膝だけしか映ってないが……じゃあお前も好きなだけ乗っとくか、ほら」
「……どうせtomodachillにはアップしないんだろう?」
「するわけないだろ……」

存外に嫉妬深い男の面倒な長話が始まりそうだ、と雑に話を切り上げようとしたことは当然見透かされていて、ハイドはやれやれと肩をすくめた。しかしこちらの申し出に関しては満更でもない気分のようで、ベッドにごろりと寝そべり、ガラの膝に頭を乗せた。それからしばらくの間、指先で前髪をくすぐったり、すっと通った鼻先を戯れに摘まんでみせたりすると、心地よさとともに僅かな眠気を訴えるようにハイドが目を細めた。満足したか構って欲しがりの吸血鬼さん、と問えば、悪くないぞ人狼さん、との返事。サイドテーブルのリモコンを操作して、照明の明るさをひとつ落とした。

「お前の吸血鬼ジョークはたまにめんど……じゃなくて……、今は反応に困る奴だっているから、外ではやらんほうがいいな」

僅かな揺れが膝から伝わって、ハイドが苦笑したことがわかった。ふふ、と静かに吐息をこぼして、肩を揺らしている。

「正直すぎるコメントに感謝する。当然そこは私も弁えているさ。あちらこちらに自由があり……代わりの不自由も同じだけ生まれる……ひどく複雑な時代だ」
「確かにややこしいことも増えたが、大昔と比べたらトータルではだいぶ生きやすくなっている。特に俺たちみたいなのは」
「わかってはいる。わかってはいるが……」

だけど、少しだけ疲れることもある。
ぽつりと呟いたきり、ハイドは黙ってしまった。永遠に等しい命を歩むいきものにとって、時の移ろいは傷を癒すものでもあり、同時にじわりと染みるように心を弱らせる毒でもあるのだ。近頃の彼を見ていると、特にそう思う。

「……さて、お前のお気に入りの棺桶とどっちが寝心地がいいか、明日の朝に感想を教えてくれ」

すっかり眠りに落ちて動かせなくなってしまう前にと、ハイドを膝から下ろして自分も横になる。鼻先が触れそうなほど近く、呆れたような視線がガラを見つめていた。

「……先ほどの言葉を返すようだが、間違ってもそれをSNSになど投稿しないことをおすすめする。主にふたつの方面で燃えるのが見えるようだ」
「流石だな、今どきの吸血鬼はインターネットの使い方も心得てる」

ふ、とハイドの口元が緩むのを確かめてから、ガラはその身体を包むように抱き込んだ。
吸血鬼は、みずからの生まれた土地の材料で作られた棺の中で、安らかな眠りにつくことができるという。真偽のほどはハイドの口から聞いたことがないが、しかし、そんなものはどちらでもいいのだ。ただ、彼にとってのそういったもののひとつでありたい。そう願っている。

「よい夢を」

それから、片腕で毛布を引き上げた。大きな厚手の布地は勢い余ってふたりの頭まですっぽりと覆ってしまったが、ハイドは何も言わなかった。寝室の僅かな照明灯の明かりが遮られ、闇が訪れた瞬間は、もしかしたら棺の蓋が閉じられるときに似ているのかもしれない。

3/5ページ
スキ