幸せというものの定義について
「これはまた……思っていたより困ったことになっているみたいだな」
ジョウト地方きっての観光地、古都エンジュの中心街から少しはずれたところに建つ、とある屋敷―――勝手知ったるわが家とばかりに上がり込んだその家の惨状を目の当たりにし、ミナキは思わず声を漏らした。普段ならば几帳面に並べられているはずの玄関の靴はひっくり返り、茶の間の障子には何カ所か派手な穴が空いている。本棚代わりにしている茶箪笥の前に、いくつかの書籍がばらばらと落ちているのも見えた。ちなみにあの本棚にはミナキが読み終えた小説本などをここに立ち寄る度に押し込んでいっているだけで、家主の家系に受け継がれる貴重な文献などは裏の土蔵で厳重に保管されているのでひと安心だ。
「マツバ! マツバ、いるか?」
事情を知らない者からすればまず物盗りにでもあったとしか思えない光景だが、この惨状に至るまでの経緯を聞き及んでいるミナキはまず、家主の姿を探すことにする。脱いだ靴を靴箱に仕舞い、ついでにひっくり返った家主の靴も揃えてから、中に向かって数度呼びかけた。
「……やあ、おかえり、ミナキくん」
すると、寝室に続く廊下の暗がりの中から彼は現れた。斜めにずれたヘアバンドを鬱陶しそうに取り払った彼は少し疲れた様子で、白い額にうっすらと汗を掻いているが、友人の来訪に穏やかな笑みをつくる。ミナキもまた相好を崩した。
「ああ。ただいま、マ―――」
マツバ、と。
名を呼ぼうとした寸前、ミナキの鼻先を、びゅん、と小さな黒い塊が掠めていった。紫色のガスを纏った浮遊する黒い球体はすばしっこく、玄関先でくるくると円を描いているかと思えば、面食らうミナキの眼前に再びぱっと現れた。それはまだ幼いゴースであった。半透明の身体の向こう側に、マツバの姿が透けて見える。
「おや、君は……」
鋭くもあるがどこか愛嬌のあって憎めない、悪戯好きの子どものようなふたつの目玉が、じっとミナキのことを見つめている。その視線には、主の家への突然の来訪者に対する敵意などという立派なものはまだ芽生えておらず、ただ初めて相対するものに「なんだこれ」と近づいてくるような、単純な興味を抱いてミナキのことを見ているだけのように感じられた。
なるほど、この子が屋敷の惨状の原因―――話に聞いていた問題児かと察する。ともあれ、友人の新しい手持ちポケモンにはじめましての挨拶をしようじゃないか。手を差し伸べたミナキに対し、幼いゴースはにんまりと笑ったかと思えばその大ぶりな口をがぱっと開いて、
「あ、こら、ダメだ……!」
「えっ?」
マツバが止めるのも聞かず、長い舌でミナキの顔面をひと舐めしたのだった。
くらり、視界が歪む。
「まったく、こんなに熱烈な歓迎を受けたのは初めてだな」
「来てくれて早々にすまない……、どうかな、まだ痺れるかい? やっぱり薬を出そう、どこかに買い置きが……」
「いや……あまり気にしないでくれ。その子も悪気があったわけではないだろう」
座布団から腰を浮かせかけたマツバを引き止めれば、彼は「そう……」と歯切れの悪い返事を返し、家主であるというのになんとも居心地が悪そうに座り直した。卓袱台にはマツバの淹れた冷茶と、ミナキの持ってきた手土産の饅頭と、それから“その子”こと、先ほどミナキの顔面に見事な「したでなめる」を食らわせたゴースの入ったボールが並んでいる。ミナキが手袋を外した指先でボールの表面をつんとつついてみると、中のゴースは何が面白いのかケケケと笑っていた。
あれがもし野生のゴース相手であったなら今頃身体中が痺れてしばらく動けなくなっていたに違いないが、まだタマゴから孵ったばかりでトレーニングも積んでいないというのが幸いした。舐められた顔をすぐに洗い、しばらく休んでいれば本当に大したことはなかった。喋るとほんの少しだけ口の端がぴりぴりするような感じも無くはないが、それも自然に消えるだろう。わざわざ茶棚の薬箱をひっくり返して、まひなおしだのなんでもなおしだのを探すほどでもないと、ミナキはマツバの申し出を断った。何しろ、これ以上屋敷を散らかすわけにはいかないのである。ミナキは冷茶のグラスを持って振り返る。
「いやあ、それにしても改めて見るとほんとにひどいね。ちょっと恥ずかしいな」
マツバはへらりと笑いながら金色の髪を掻いた。目眩がおさまり、マツバがお茶の用意のために席を外した間に床に散らばった本や座布団などは軽くまとめて部屋の隅に寄せさせてもらったが、穴の空いた障子は無論どうしようもないのでそのままだ。しかしそれによって、どうにも人の気配が希薄なこの家に生活感というようなものが生まれつつあるのだから奇妙な話である。
「本当はミナキくんが来るまでに、せめて障子は張り直しておきたかったんだけど……」
ジムリーダーって結構忙しくてさ、と、マツバは饅頭を口に運んだ。もともと溌剌としたタイプでもなく顔つきも淡白なほうであるが、今はそれに加えてうっすらと疲労の色が見える。
「このお饅頭おいしいね」ここからほんの隣町であるアサギの土産物屋で買ってきたものだが、どうやら気に入ってくれたらしい。よく冷えた水出しの緑茶をひとくち飲んで、マツバはようやく人心地ついたように、ふっと表情をゆるめる。
■ ■ ■
「タマゴから孵ったゴースがどうにもぼくに懐いてくれなくて、困ってるんだよ」
先代の後を継いでエンジュのジムリーダーに就任したばかりのマツバから、愚痴や相談を受けることはたまにあった。だが、未だかつてない深刻そうな声音が告げたまるで初心者トレーナーのような悩み事にミナキが思わず「は?」と気の抜けた返事をしたのは、今から四日ほど前になる。ポケギアの向こうから返ってきたマツバの声は、どこか草臥れたような気だるさを隠そうともしていなかった。
「……何だいその顔、あのねミナキくん、ぼくは真剣に悩んでいるんだ。真面目に聞いてくれよ」
「こら、電話越しに人の顔を覗くな!」
「違うよ、君がどんな顔をしてるかくらい声でわかるんだ」
ミナキのポケギアがマツバからの着信を知らせたのは、滞在先のヤマブキシティのホテルで伝説のポケモンに関する資料をまとめていた時だった。といっても、カントーの図書館を巡って閲覧した資料の内容はこれまでに見てきたものと似たり寄ったりで、成果と呼べる成果はなさそうだ。さてこれからどうしたものかと思いを巡らせていたタイミング。ポケギア越しに聞いた旧友の声も、自分と似たような行き詰まりを感じさせることに、彼には悪いが少し安堵した。
「同じタイミングで三匹生まれたんだけど、その中の一匹がどうにもやんちゃで大変なんだ。親はちょっと臆病なゲンガーだったのに」
「へえ、それは珍しいな」
ジムリーダーの仕事には初心者トレーナーへの指導も含まれているのだが、そのためにタマゴから孵したゴースたちのうち一匹が、どうにも言うことを聞いてくれない。マツバは状況をそう説明した。ボールから出すと我が物顔で家の中を飛び回り、隙あらばチカチカと目を光らせて「あやしいひかり」でマツバをからかおうとするのだという。
千里眼を持つ修験者―――であることがポケモンとの信頼関係を築くことに直接作用するのかは分からないが、それを差し引いてもマツバは優秀なトレーナーだ。いつだって手持ちのポケモンたちと真摯に向き合い、センスもあるし、それを更に伸ばす努力も怠らない。自分を比較対象とすることすら烏滸がましいと、そうミナキが思うほどには。そんな彼が心を通わすのを得意とするゴーストポケモンと上手く接することができないというのは、少なくとも今までに聞いたことがない話だった。
「ぼくはそういう精神攻撃の類に耐性があるから変なものが見えたりしないし、そんなに危なくはないけど。その代わりゴースを追いかけて家のあちこちにぶつかったり蹴躓いたり、散々なんだ」
昨日も障子に穴をあけちゃったよ、とマツバは苦笑する。濃いガスのかたまりだというゴースそのものには実体がないため、家中を飛び回ったところでぶつかって物を壊したりするような心配はないが、それを追いかけるマツバのほうが部屋を荒らしているというのだからなんとも仕方のない話だ。のんびりとした青年が、逃げ回る黒いかたまりを追いかけて卓袱台の足に引っかかったり、敷居に躓いてよろけたりしている様子が目に浮かぶようである。
「まあ、マツバは少しどんくさいからな……」
「…………」
呆れたようなミナキの言葉に、受話器から何やらむっとしたような気配が伝わってきたが、運動神経があまりよろしくないという自覚はあるらしいマツバから特に反論はなかった。しばらくの間を置いてから聞こえてきたのは、長い長いため息だ。
「でも、最初こそボール越しじゃなくてちゃんと向き合わないと、なにも伝わらない気がするんだよね」
「そうだな。わたしが見た限りだと、大抵のゴーストポケモンはそうして一緒に過ごしているうちに君のことを認めて、自然と従ってくれているような感じだが」
「うん。だいたいはそんな感じだったけど、あの子が何を考えているのか、ぼくにはよくわからないんだ。どうしたらいいんだろう」
「よく見てあげて、どんな子なのか少しずつ理解していくしかないだろうな」
自分がポケモンを手にすることになった時は、まず種としての生態を調べて、それから個としての性格や癖などをじっと観察したものだ。ポケモンのことに関してジムリーダー相手にアドバイスなど出来る立場ではないことは、百も承知だが。
会話を続けながら、図書館で手当たり次第に取ってきた文献のコピーをカテゴリーごとに仕分けしていく。まだ全てにしっかりと目を通したわけではないものの、その大半は祖父の屋敷にあったもの以上に踏み込んだ内容ではないことが窺えた。中にはどうにも胡散臭い名も知れぬ学者の手記や、世間で正当性を認められた文献と矛盾した記述を掲げるものも見受けられるが、ミナキはそれらも一点ずつファイリングしていく。確たる証拠を並べ立てて「間違っている」と証明することができない限り、それらがあの美しい北風の化身に繋がるヒントである可能性はゼロではないのだ。その一件一件をこれまで収集してきたデータと突き合わせ、深掘りする価値のある情報を精査し、現地まで足を運ぶ算段を立てて―――ああ、学者の端くれとして好きでやっているとは言え、気が遠くなりそうだ。これから待ち受けている膨大な作業を思うと、ついため息が漏れてしまう。
「そう簡単にはいかないものだな……」
伝説とは、そう容易く全てを解き明かさせてくれないからこそ伝説たり得るのだと突きつけられている気分である。書類がみっちり詰まったファイルをとりあえず鞄に突っ込み、ミナキはベッドにごろりと寝転んだ。ベランダに面した窓の外に立ち並ぶ高層ビル群の隙間から、真っ青な空と、もくもくと立ちのぼる綿菓子のような白い雲が見える。大学を出てすぐ実家を飛び出して、慌ただしくあちこちを駆け回っていた自分には、季節の移り変わりをゆっくりと肌で実感している余裕もなかったらしい。そろそろ、夏が来る。
「あ……そっちも大変みたいだね。ごめん、ぼくばかり愚痴を言ってしまって」
「……お互い様だよ。上手くいかないことばかりで参ってしまうな、マツバ」
「ふふ、そうだね」
電話を通して、ふたり分の苦笑いが重なった。なんだか気が抜けてしまう。
ベッドにだらりと横たわったまま、ミナキは今いるビルだらけの街とは正反対の、古めかしい歴史の街のことを思った。カントーより湿度が高く蒸し暑いジョウト地方の、盆地であるエンジュの夏は特に厳しい。観光目的でもなければわざわざこれからの季節に寄るような場所では無いということは十分に理解していたが、それでもふと脳裏に思い描いた金色の髪が夏の陽射しを受けてきらきらと輝く様子に、どうしても心惹かれた。電話の向こう側にいる声の主に無性に会いたくなった。向こうもおなじことを思っていてほしいとまで思ってしまう自分は、欲深い人間だろうか。
「…………マツバ」
「何かな」
「もう少ししたら、一度エンジュに帰るよ。こちらでの調査もそろそろひと段落だ」
「え?」
「きみほど腕の立つトレーナーではないわたしが役に立てるかはわからないが、そのゴースの様子も見せてもらおう」
「え、え」
「またしばらくきみの家に居候させてもらうが、構わないかな」
「…………」
矢継ぎ早に問いかけると、受話器の向こうの声が、ああ、だか、うぅ、だか言っているのが聞こえる。しばらくして、今日からいちばん近いジムの定休日をひとつ言い残して、マツバとの通話はぷつりと途切れた。
ふう、とひと息ついて、ミナキはポケギアを枕元に置いた。君がどんな顔をしているかくらい、声でわかる。先ほど聞いたばかりの言葉を反芻した。このヤマブキシティからほんの少し足を伸ばしたところにある、タマムシの実家ではなく。遠く離れた彼のいる街に「寄る」ではなく「帰る」とミナキが言った意味がわからないほど、マツバが鈍感な男ではなくて、本当によかった。
■ ■ ■
というわけで、ミナキが朝一にヤマブキのホテルを出てから電車やら船やらを乗り継ぎ、港町のアサギシティを経由してエンジュの街にたどり着いたのは午前の10時を少し回った頃である。最近工事計画が持ち上がっているヤマブキとコガネを繋ぐリニアの路線が現実のものになれば、カントーとの行き来も随分と楽になりそうなものだが。
「ねえミナキくん。それ、もらっていいかな」
そんなことを考えていると、マツバがミナキのことを―――正確にはミナキの手前にある饅頭の箱を見ていたことに気がついた。5個入りのそれをふたりでふたつずつ分けて、残っているのは1つ。ミナキが無言ですっと差し出せば、マツバは「ゴースと追いかけっこをしていたら朝食を食べ損ねてしまってね」などと宣いながら、それを自分の元へと持っていった。一見ぼんやりとしているが、敵と見なした者には容赦がなく、そして親しい身内相手には意外と遠慮がないという彼の性格は、ミナキにとって好ましい。このエンジュの地に特に強く根付いている言葉の外に隠された意図を読み合うようなやりとりは、悪いことばかりではないと思うが、どうにも不得手なのだ。
本日の天気は清々しいほどの晴天、道すがらマントと上着を脱いできたほどの陽射しであったが、ゴーストタイプのポケモン達が纏うひんやりとした空気のおかげで、相変わらず屋敷は冷房機具いらずだ。むしろ扇風機を回したりすると、軽いゴースは吹き飛ばされてしまって危ないらしい。最初は不気味に感じたものだが、何度も通ううちに慣れてしまえば快適なものである。ちなみに冬は死ぬほど寒いが。
「で、スイクンの調査のほうはどんな感じだい」
「……無駄足だったとまでは言わないが、正直これといった進展はないな。しばらくは集めた資料とにらめっこになりそうだぜ」
「そうか」
エンジュに向かうことを決めてからの四日間で、予め目星を付けておいたカントー各地の小さな史料館などにも足を運んだが、こちらにも収穫は無しだ。残念だね、と、饅頭をぱくぱく頬張りながらマツバは言う。次の目的地を決めるのにも時間がかかるというミナキの現状などお見通しだったのだろう、彼はまるで最初からそう言うつもりだったかのように「好きなだけいてくれていいよ」と柔らかに笑う。握っていたグラスの中の氷がカランと音を立てて、ミナキはふと、視線を下に落とした。
「……」
「ミナキくん? 別にそんな申し訳ないとか思わなくても……いつもご飯の支度とかしてもらって、こっちも助かるし」
「あ、そういうわけじゃなくて……いやまあ、多少はそうでもあるんだが」
マツバは気を遣うような言葉を寄越すが、ミナキは慌てて否定した。申し訳なさのあまり俯いているわけではなく、先ほどから感じている視線がどうにも気になるのだ。
「このゴース、ずっとこっちを見ているな」
ミナキが指さすと、マツバは卓袱台に置かれたボールを覗き込む。少し伸びた金色の髪が、縁側から差しこむ陽射しの中できらきらと光った。
「あ、本当だね。やっぱり初めての人のことは気になるんだろう」
玄関先で出会ってからずっと、ゴースはミナキのことをじっと見つめていた。ボールの中から上目遣いにこちらを見上げてくる様子は、睨んでいるというわけでもなく、言いたいことを言い出せずにもじもじと恥ずかしがる子どものように見えた。いつか見た誰かに似ていると思った。
「ちょっと、ボールから出してみてもらえるか」
ミナキが促すと、マツバは渋い顔をした。朝方のゴースとのやりとりを思い返しているらしい。
「……やっぱり、ちょっと興奮しているんじゃないかなぁ。また家中を飛び回ってしまうかもしれない」
「うん、どうだろうな」
含み笑いを零してから、ミナキはひとくちの緑茶で喉を潤した。マツバはこのゴースのことを「やんちゃ」と称したが、ミナキにはそれは少し違うように思えた。しばらく逡巡していたマツバだったが、やがて卓袱台から取ったボールのスイッチを押してみせた。ぽん、と軽い音とともに、中からゴースが飛び出す。
「―――?」
突然外に出されたゴースは驚いたように瞬きを繰り返し、ふるふると首―――いや、首? この場合は頭というのか、よく分からないが―――を振る。すうと音も無くミナキの傍に近寄り、しばらく周りを漂っていたが、やがて興味を無くしたようにぷいと顔を背けてしまった。それにしても、まだ幼いとはいえ立派なゴーストタイプだ。すぐそばをゴースが通り過ぎていった首筋には、ひやりとした寒気が確かに残る。
次にゴースがふよふよと向かった先は、畳の上に無造作に置かれたミナキの鞄だ。「あ、いけない」マツバが僅かに、座布団から腰を浮かす。
「その中には大事なものが入ってるんだ。ゴース、それにいたずらしてはいけないよ―――ミナキくん」
「いや、なに、大丈夫だろう。好きにさせてやるといい」
それを、ミナキは軽く片手を上げることで制した。
「……いいのかい?」
「ああ」
呑気に最後の饅頭のひとかけらを口に放り込むミナキに止められて、マツバはどこか釈然としないといった面持ちで卓袱台に頬杖を突いた。普段のように眠たそうな(実際ちょっと眠いのだろう、)眼差しを鞄に近づくゴースに向けているが、自らの手持ちが何か粗相を仕出かそうものならすぐに対応できるようにと、反対側の手にはしっかりと空のボールを収めていている。
背後から注がれるふたり分の視線などものともせずに、ゴースは先ほどからミナキの鞄の周りをふわふわと漂っている。どんな場所に持ち込んでも失礼のないデザインと、分厚い本や書類をちょっとくらいぎゅうぎゅうに詰め込んでもびくともしない丈夫さを両立させた鞄はミナキの旅の立派な相棒だ。ゴースはその鞄にゆっくり近づき―――くんくんと匂いを嗅いだ。
「……? ……??」
くるりとこちらを振り返って首を傾げるゴースに、そういうことかと得心がいく。「それはきっと、海の匂いだよ。わたしは今日、あっちの方から来たんだ。わかるかい?」ミナキがそう答えて、玄関の引き戸の向こう―――アサギシティのある方角を指さすと、ゴースはパッと目を輝かせてその場でくるくると回った。勢い余って鞄に突っ込んではすり抜けてを繰り返す様子を見て、つい吹き出してしまう。
「海の……? ミナキくん、どういうことか教えてくれないか」
ひとりと一匹のやりとりをしばらくぽかんと見つめていたマツバに、ふと我に返ったような顔でそう問われた。ゴースはというと勢いよく玄関のほうまで飛んでいき、たまに振り返ってはあのきらきらした目でマツバのことをじっと見ている。ミナキは先ほどの質問に、更に質問を返した。
「なあ、この子、家の外には出してあげたか」
「え、いや」するとマツバは首を振る。「だって、あんなにいうことを聞かないんだ。はぐれてしまったら困るじゃないか。外に出すのはまだ早いよ」
「いや。多分、そんなことはないと思うぜ」
空になったグラスと饅頭の箱をさっと片付けたミナキは、玄関に降りて仕舞ったばかりの靴を履いた。幼馴染みの唐突な行動には慣れっこのはずのマツバも、流石に困惑しながらちょっとどこに行くのと問うたが、ミナキは気にせず彼を手招いた。
「君も来るんだぜ、マツバ、少し散歩に行こう。もちろんゴースも一緒にだ」