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「……あ……」

蒸し暑い夏の盛りのエンジュには似合わない、涼しげな一陣の風が頬を撫でた気がした。縁側に吊した風鈴は鳴らなかった。だから、ああすべて終わったのだと、その時悟った。誰かが必死で追い求めていたものを、別の誰かがその手に掴んだのだ。
すうとひとつ息をしてからマツバが静かに瞼を下ろせば、その裏側には遠く離れた街の美しい岬と、青いけものがひとりのトレーナーに傅く様が映った。それはあの日、エンジュの街に生きたひとびとの誇りと業で塗り固められた塔の頂上で、ひかりかがやく虹を手中に収めた子どもの姿をしている。生ける伝説にその強さを示し、そして認められた。そのひとりと一匹の関係の間には、何人たりとも入り込む余地はない。ただそれだけのことだ。





◇ ◇ ◇





庭に敷き詰めた玉砂利を踏む音が止まってから、しばらくの時が過ぎた。どうやら玄関の戸の磨りガラス越しにぼんやりと映る人影は、そこまで来ておいて何か迷っているらしい。まったく、いつも八割方アポ無しでひとの家にやって来て、カントーとジョウトを行き来する際のちょうどよい宿扱いしていた男が今さら何を躊躇うようなことがあるのか。半ば呆れながらマツバは引き戸を勢いよく開いて外に出た。
ミナキはどうしたらいいかわからないような顔で、そこに立ち尽くしていた。

「マツバ……」

彼がタマムシの実家ではなく、まずエンジュを訪れることはわかっていた。千里眼で視るまでもなく、それは友人としてのこれまでの経験に裏打ちされていた。だから時計の針が頂点を越え、日付がひとつ進んでもマツバは布団に入ることもなく、彼を迎え入れるため、茶の間でずっと待っていたのだ。青い北風の化身に誰よりも焦がれながらも、その望みを果たせなかった彼を。
ミナキはふっと目を逸らし、みずからの足元の影をじっと見つめている。マツバは何も言わなかった。数時間にも感じられたほんの数秒の沈黙は、やがてミナキの微かに震える声に破られる。

「すまない、わたしは……」
「おかえり」

マツバが言いたかったのは、ただそれだけだ。するとミナキは目を丸くしたが、やがて、多少強引に言葉を遮られたにもかかわらず、穏やかに笑んだ。そしてやっとマツバの目を見て、ただいまと言った。初めて出会った頃となにも変わらない、芽吹く緑の色をした素直な瞳の奥底に、これほどに言い知れぬ感情たちが混ざり合って煮詰まっているのを、マツバは初めて見た。
微かな熱を孕んだぬるい風が木々をざわりざわりと揺らし、屋敷に棲む幽霊たちはこちらとあちらを隔てる暗闇に、或いは月明かりによって形づくられた色濃い影に溶けて眠っている。おそらく夢破れた者たちが傷を舐め合うにはちょうどよい、静かな夜である。



「これからどうするか、正直決まっていないんだ。それほど無我夢中でやってきた。とにかく一度実家に戻って、これまで好き勝手にさせてもらった礼だけは家族にしなければならないとは思っているが」
「そうだね。ひとまずそれがいいよ。あとのことはゆっくり考えてさ」
人間というのは不思議なもので、どんなに気落ちしていようと、途切れ途切れの質の悪い睡眠しか取れなかろうと、気怠いからだを引きずっていようと、腹だけは減るのだ。昼過ぎにのそりと布団から這い出して、マツバの用意した朝食兼昼食をしっかりすべて平らげたミナキは、やがてぽつぽつと話を始めた。自分はスイクンに選ばれなかったこと、そして捕獲したのはホウオウを手にしたあの子どもだったこと。これまで自分に協力してくれた皆には、とても感謝していること。昨日エンジュの地に居ながらにして遠く離れた縹の岬での出来事を視たマツバだが、ミナキがみずからのことばでそれを語るのを、ただじっと聞いていた。
「きみにも、本当に感謝しているんだ。いろいろ迷惑も心配もかけた。ありがとう、マツバ」
「よしてくれよ、なんだか調子が狂ってしまう」
いつになく真剣味を帯びた彼の眼差しから何かを感じ取ったのか、普段はいたずらばかりのゲンガーが気を利かせて、空になったふたりぶんの食器を積み上げてがちゃがちゃと(危なっかしくてはらはらとしたものの)流しに運んでくれた。あとで何かお礼をしなければ。

「その次に、お祖父様の墓参りだ。旅の結末を報告しなければ」
「……あ、それ、僕もついていっていいかい」
お祖父様。その言葉を聞いて、頼み事は自然と口からこぼれ落ちていた。先代のジムリーダーと親交があり、まだ幼い孫を連れて度々エンジュを訪れていたのが歴史学者であったミナキの祖父である。ミナキが伝説に―――とりわけスイクンに興味を持つきっかけとなり、そして生まれも育ちも異なるマツバとミナキを引き合わせた。すべてのはじまりのような彼は、明朗で、快活で、常に笑みを絶やさない人物であった。
「まだ小さな頃に何度かお会いしたきりだけど、とても良くしてもらったから。ジムの方はなんとかして予定を空けるよ」
彼が脚を悪くして、エンジュを訪れる回数が減り、やがて病に伏せったと耳にしてから、会いに行くことは最後まで叶わなかったが。修行のために生まれた土地を滅多に離れることのできない身を嘆くことなど無くなって久しいものの、このことはマツバの数少ない心残りのひとつである。
「そうだな。お祖父様が亡くなったのは、マツバがジムリーダーになるほんの少し前だったから」
「うん。だから立派になった姿を見せておこうと思ってさ」
「きっと喜んでくれる」
「うん」
普段より力なく、しかしやわらかく微笑んでみせるミナキの中で、きっと未だ飲み込みきれない感情が渦巻いているのだろう。しかし彼が祖父の墓前にどんな表情で花を手向けて、何を語るのかを見届けるのは自分の、自分だけの役目だと、ただ漠然とマツバは思っていた。すべて話し終えたらこちらを振り向いて、照れくさそうに笑って、早足で帰ろうとしてしまうミナキのマントの裾を引っ摑んで、そのまま彼のお祖父様に言わなければならないこともあるのだし。

『ミナキくんは、ぼくが一生かけて大切にします』

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