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1.ルレイン研究所

 柄にもなく、幸福というものについて考えてみる。幸福とは、アレだ。不幸の対義語と言い換えてもいい。人によって定義はだいぶ異なる、決まった形の無い幻のような物ではないだろうか。明確な線引きは存在せず、どのラインからが幸福だと断言できるものでもないはずだ。とはいえ、十人中十人が“これは不幸だ”と断言できるケースも、決して少なくはないだろう。
 たとえば、俺。今はそうだな――とりあえず、アクセル=ルレインとしておこう。“ルレイン”を名乗るなんて自分でもどうかしていると思うが、この際それは置いておいていい。それよりも、今の俺の話だ。
「ふう」
 思わずため息を吐いてしまうが、無理もないだろう。
 目の前には、る気満々の巨大生物。頭からすみをかぶったかのような真っ黒なその生物は、どことなくトカゲに似た雰囲気はあるものの、全くの別物である。不格好に短い脚は、横っ腹からムカデのように何対も生えている。頭にはサイにも見劣りのしない、巨大な角。全高は3m――いや、4mはあるだろうか。ノコギリのような歯の並ぶ口からは、強酸の唾液が滴り落ちていた。前言撤回、トカゲどころか、恐竜でもここまでヤバくはあるまい。そもそも、真っ当な生物では有り得ない。俺を敵と見なしていることは明確で、この状況を幸福に感じる者は、自殺志願者かよほど感覚のブッ壊れた狂戦士かでない限り、まず居まい。
 加えて、俺は孤立無援である。海を埋め立てて造った人工島の地下に存在しているとは思えないほどの広大な砂地は、並の学校の校庭の数倍はあるだろうか。砂地の末端は戦車の砲弾にも耐える強化ガラスで何重にも囲われており、その外には世界中の金持ちどもが俺の死を望んでうきうきわくわくしていやがる。
 非合法地下賭博コロシアム“猛獣ショー”。噂は聞いたことこそあるものの、まさか本当に実在しているとは思わなかった。そこに人外の怪物として、俺が放り込まれることになるなんて、なおさら想像の外である。これが不幸でなくて、なんだと言うのか。
(……現実逃避、終わり)
 気持ちを切り替えるため心の中で呟くと、すっと心拍数が下がり、頭の中が冴えてくる。俺が請けた契約の内容は、こうだ。
 ひとつ、観客を楽しませること。その手段は問わず。首を切り落そうが、心臓を貫こうが、すぐに再生してしまうこの怪物と戦って、その上で客を退屈させるなというのだ。観客は、まあ余程のもの好きでもない限り、俺が為すすべもなく蹂躙される方に賭けるだろう。その通りになれば、客に金が支払われるというシステムだ。だが、あっさりと俺が踏み潰されて終わりでは、あまりに予想通り過ぎて、ショーのオーナーも観客も興ざめなのである。時間いっぱいまで逃げ回って、引き分けに持ち込むのが上策だろう。アレを倒すには、死体も残らないくらいまで焼き尽くすしかないんじゃないだろうか。
 ふたつ、人外の生物としてコロシアムで戦うこと。猛獣ショーは、闘牛などとは別物だ。人間は参加することができないのである。故に俺は、武器を持ってはいけない。言葉を話してはならない。俺はあくまでも、人型の怪物――人間としての一切の権利を有さない“亜人あじん”として戦いに臨め、と言うのだ。人を馬鹿にした話である。
 みっつ、俺が死亡した場合は、その遺体はショーのオーナーである長谷流はせるネガイが引き取ること。無論、ある程度の原形が残っていればという話ではあるが、要するに死んだら死んだで、肉の一片、骨の一本まで売り払って金に換えてしまおうということらしい。“人間を辞めさせられてしまった”俺の体は、まあそれなりの研究機関ならば喉から手が出るほど欲しいことだろう。マジで人権も何も無いな、俺。
 そしてよっつ、俺が戦うことでショーのオーナーを儲けさせることができれば、ルレイン研究所に莫大な報酬を約束すること。死ぬ思いをして戦うのは俺なので、報酬は俺に寄越せと言いたい所ではあるが、なにぶん“この姿”になった時点で戸籍も人権も名前も失った俺は、非正規かつ非合法の金のやり取りとはいえ、報酬を受け取ることができないらしい。
(それでも、やるしか無いんだよなァ)
 声に出さないよう、自分に言い聞かせて心を奮い立たせる。安全に人外の生物の生死を眺めて愉悦に浸る、そんな悪趣味に興じる金の亡者どもは、俺が苦しみながら息絶える瞬間をしっかりと見届けたいらしく、場内にはいたる所に高感度のマイクと、大音量のスピーカーが設置されている。うっかり何か言葉を発してしまえば、オーナーとの契約に違反し、俺は解体処分というわけだ。
 もう何度目になるか分からない大トカゲの突進を躱し、間合いを見積もる。こいつに蹴り飛ばされるくらいなら、10tダンプトラックにかれた方が、まだいくらかマシな死に方ができるだろう。時間切れまで、あと12分。今はまだ何とか攻撃をかわせているものの、おそらくこのままでは俺の集中力が持つまい。敵の反応速度もどんどん上がっていることだし、このままでは時間切れを待つ前にジ・エンドである。
 一般には知られていないけど、皇獣おうじゅうには弱点があるにゃ。そんなことを、自称トレーナーのガキンチョが言っていた。そんな話は聞いたことが無いものの、あの長谷流はせるオーナーに引けを取らないほどのド守銭奴なあのチビッコの言うことだ。少なくとも自分が損をする、つまり俺があっさり死んで手駒の1つをわざと捨てるような真似はすまい。ならば試してみるしか無いだろう、俺が生き残るためには。
 怪獣映画でも聞かないような大音量の咆哮ほうこうをあげた大トカゲが、再び俺の方に向き直る。次の攻撃も上手くかわせるとは限らない以上、俺としてはなるべく手早く片づけたい所だ。突進のたびに不規則に飛び散る酸の唾液が、次はもろに頭から被ってしまわないとも限らない。どんどん動きが良くなっていく大トカゲの動きに、次も反応しきれるとは限らない。
 覚悟を決め、次の攻撃を予測する。突進が来る前に、五歩下がって距離を調整。次の攻撃はさっきよりもさらに速いだろうが、それは織り込み済みだ。あとは、タイミングと、力の入れ方、それから多少の運。
(不幸のドン底の俺が運頼みとか、嫌な予感しかしないじゃねえか)
 自嘲じちょう気味に乾いた笑いが漏れそうになるのを、ぐっとこらえる。獣は話さないし、笑わない。契約は契約だ、研究所に金が入らないのは俺としても困る。大トカゲの唾液で穴だらけになってきた外套で顔を隠し直し、俺は次の突進に備え、“羽を広げて”身構えた。
 絶対に、生き延びてやるぞ――
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