デイジー・ベル

雪が溶け、季節は春。陽気が大地にかかり穏やかな気温が多くなる。ランニングをするキバナは汗ばみながら天気に良さに微笑んだ。ナックルシティにそびえる城壁にココガラたちは羽休めをし鳴いている。これぞガラルの春だがキバナにとってもう一つ意味のある春でもあった。

リネアと想いが通じ合ったキバナはこの上なく浮かれている。リネアには5年待つと言っているが、それでも手を握り合える関係になったことは喜ばしい。
冬の間はジムの業務とメディア露出も増えていたため繁忙期でもあったが春からはトーナメント戦の調整のためバトルに集中できる。つまり、バトルアドバイザーであるリネアと一緒にいる時間も増えるというわけだ。
キバナは昨日からこのことでご機嫌だ。五年待つが手放す気はない。あの手この手で外堀から埋めてやろうと大人気なく考えていた。

朝のランニングを終えて改めて支度を進める。シャワーを浴びて汗を流しストレッチをする。今日も完璧なキバナでいるために髪を結いヘアバンドをつけた。
見た目に気を配ったところでリネアに伝わるわけではない。だがリネアという純真な努力の結晶の隣には完璧な自身がいなければならないのだ。

ジムへ行く道中ファンから声援を受けることもある。ナックルシティのキバナはナックルに住む人々にとって身近な象徴でもあった。熱狂的なファンも中にはいるが、それでもナックルシティにいる間、ファンとのトラブルは一切ない。
だが、リネアは少々違うようだ。

「おれ、リネアさんのファンなんです。もうエキシビジョンで一目惚れしてしまって」
「え、あ、恐縮です……?」
「連絡先交換してくれませんか!?あとリーグカード!ください!サインも!」
「すみません、私はあの時特例で出ただけで」
「チャレンジャー時代のでも構いませんから!お願いしますよ!」

あまりの圧にたじたじのリネア。リネアの隣にキバナが立つと男はキバナの青い目に怖気付いて黙って逃げてしまった。リネアは硬直している。

「びっくりしたな。もう自称ファンはいなくなったぜ」
「あ、そ、そうですか……」
「朝から困ったもんだぜ。リネア、ジム入って茶でも飲もう」

手を繋いでジムの中へ入る。リネアにファンができることは喜ばしいが、誰も彼も熱量がある。そして“目が見えている”前提で話しかけてくる。リネアはそれに戸惑うのだ。

薄暗い職場の電気を灯す。するとリネアはか細くキバナの名前を呼んだ。腰を屈めて顔を近づける。

「どうした?」
「ああいう方が来た時…キバナさんはどうしているんですか?」
「ナックルシティでは幸運なことにあれくらいのファンに会ったことはないな。まぁオレさまがデカいってのもあるんだろうが…リネアはああいうファンが来たらオレさまに連絡しろ」

唇が「でも」と言いかける。キバナは頬を両側から抑えて言葉を遮らせた。

「いいな?」
「わ…かりました……」
「よし」

頬を撫でてやる。すべすべもちもちの頬はクセになるほど魅惑的な感触だ。仕事に疲れた時に呼んで頬を撫でたいほどに。

「どうせならリネアも作ってみるか?ファンクラブ!」
「ええ!?」
「オレさまいちばーん」
「そ、そんな……私がキバナさんのファンクラブに入ったら5桁になっちゃいますよ…」

カラカラと笑った。がリネアは逆に何かに気づく。

「はっ!じゃあ241241番は私が予約します!」
「20万人のファンクラブなんてとんでもねーな……」

けど番号指定してファンクラブ会員証作るだけならタダだし…などとキバナは画策する。そして良心とも戦う。そんな“重たい”もの渡せるか!と叱責されて策をようやく奥底へと追いやることができた。

「キバナさん…あの」
「ん?」
「もうちょっとだけ……頭、撫でてもらえませんか?」

フェアリータイプはドラゴンタイプに効果抜群である。これは人間にも適応されるのだ。
キバナは思わずきゅんきゅん唸る心臓をシャツの上から掴む。人前でリネアを特別扱いすることは全くないのだが、こんな可愛いことを言われては完璧なキバナも調子が狂う。

「なんだよ……も〜〜……しょうがねえなあ……」

口ではそう言いながら優しい手つきで撫でる。キバナはすっかりリネアにメロメロになってしまった。リネアもキバナがご機嫌であることは態度や口調で重々わかっている。時折瞼を軽く撫でて手のひらから感情が伝わってくるようだ。
キバナとリネアは今、まろやかな恋心を守り育てている最中であった。




リネアは街に出るとよくジムリーダーたちへの批評を耳にする。特に彼らのカッコ良さを語り合っているものだ。それだけならまだしも彼氏として選ぶなら、とか踏み入った話題をしていることもある。少し前ならそんな話題を耳にしてもなんとも思わなかったのに、キバナと告白し合って以降、どうしても胸の奥が疼く。これが嫉妬というものなら抱く劣等感は一体なんなのだろう。
こんなことを気にするだけ無駄だとと自分に語りかけ、仕事終わりにレコード店に立ち寄ることにした。ずいぶん通い詰めているせいか店主もリネアの顔を覚えており挨拶を交わす。

「良いレコード仕入れたから聞いてご覧」
「ありがとうございます」

ちょうど気分を変えたかったところだ。かけられているヘッドフォンを探し当て、装着する。再生ボタンの小さな突起を確認してスイッチを入れた。

レコード特有のノイズ。ギターの揺れ。柔らかい歌唱。音楽としてはあってはならない不具合こそがレコードの良さだ。リネアはそれをこよなく愛している。まるで自分もここにいていいと言われている心地になるからだ。

「すごくいい曲でした。お値段いくらですか?」
「ヴィンテージものになってるから高いんだよ。一万…まけても九千が限度かな」
「そうですか……じゃあ来月まだ残っていれば買おうと思います。他におすすめありますか?」
「ああ、もちろんだよ。これはジャズ最盛期の曲だね。今じゃよく使われているギターのオクターブをふんだんに取り入れ始めた画期的な曲なんだ」
「へぇ!楽しみです!」

店長曰く今でも人気のある曲で、何度も再販されているらしい。仕入れたレコードは初版で高いものだが最近の再販分は常識的な金額であった。
耳に馴染む声とギターの演奏。酒を飲める年齢ではないが聞くだけでジャズバーにいる気分だ。これが家で聴けるならきっとたまらないだろう。
リネアはおすすめされたレコード盤を購入し大事にバッグへ入れた。

帰ってお茶を飲みながらじっくり聴こうと思っていた矢先だった。

後ろから走り前に立つ人物がいた。実際は足音でわかったのだがリネアは今朝のことを思い出し硬直する。何か言われるのかと思って身構えたのだが何も言葉を発しない。商店が連なる通りのため商品を見ているのかもしれない。そう思うようにして人を避けて歩き出す。

しかしさきほどの足音…ゴム底の靴を履いているであろう人物はリネアの後を離れた距離から追っている。流石に警戒心を露わにしたサーナイトが出てきてリネアの後ろについた。

何もされていないが、家まで着いてこられたらどうしよう。そう思うと足がすくんでしまう。
サーナイトはリネアの不安を感じ取り腕にそっと触れた。

「ありがとうサーナイト……」

小さく息を吸って、リネアに出来る対処法を考える。まず一つ目に交番だが、何もされていないし相手の顔もわからない。匿ってもらっても外で待たれている可能性がある。
できれば目の見える誰かがそばにいてくれることが最適なのだが、つい二の足を踏んだ。本当にこの選択肢でいいのだろうか?当てはあるが迷惑にならないだろうか。
悩んでいる間にも足音は大きくなる。リネアは咄嗟に電話をかけた。

『おうリネア、どうしたんだ?』
「あっ、あの!もしよろしければレコード聴きませんか!?」
『レコード?』
「おす、お、おすすめの、レコード盤なんです!」

リネアは息を呑みながらもキバナに建前の話をする。違和感を察したキバナはすぐ返事をした。

『ああ、もちろんだ。今どこにいる』
「商店街を抜けるところです……」
『すぐ迎えに行く』

電話は切られた。リネアは近場の店の前で佇む。近くに誰かがいるかもしれない。そう思うと杖を握る手が強くなった。足が上擦って地面に立てているかも不安だ。

約十分ほどでキバナの足音が聞こえた。軽快に走る音は聞き間違えはしない。

「キバナさんっ」
「悪い待たせた、何かあったか」

肩を抱き庇うように立つ。
ゴム底が石畳を踏み締める音が聞こえてリネアはびくりと反応する。キバナは周囲を注意深く観察した。音は遠くなり、雑踏に消えていったところでキバナに縋り付く。
サーナイトは変わらず周囲を警戒していた。キバナが来たことで主人を任せていいと思ったのだろう。ボールへおとなしく戻って行く。

「追われてたのか?顔色が悪い」
「は、はい、あの、ゴム底の靴を履いた人が…レコード店を出てからずっと追いかけてて…」
「ここから近いのはオレの部屋だ。少し休んでいけ」
「はい…」

手を繋ぐのはいつものことだが今回はキバナの手がリネアを離さぬよう握る。
春の木漏れ日のようなリネアが、凍てつく木々の隙間のようだ。キバナの手を握る力さえ残っていない。

「階段が五段あるぞ」
「はい、わかりました」

杖を先に着いて段の高さを測り登る。ささやかな段差でさえ一行程挟む彼女が見えない何かに追われていたのは大いなる恐怖だったろう。キバナは義憤を押し除けリネアを家に入れた。玄関は鍵とチェーンをかける。

「よし、もう大丈夫だ。誰も追いかけてない」
「あ、あり、がとうございます、でも、ごめんなさい」
「オレさまはリネアが素直に頼ってくれて嬉しいぜ」

手を引いてリビングへ連れて行くとリネアはぴたりと足を止める。

「どうした?」
「あっ、あ、こ、ここ、キバナさんの匂いばっかりだ……っ!」

そう言われるとキバナもつい耳を赤くさせてしまう。リネアは白い肌を赤く染めている。

「そりゃー……オレさまの家だしな……」

リネアは顔を覆っているがすっかり耳も赤い。すっかり縮こまって、まるでデデンネのよう。キバナは片腕でそっと抱き寄せる。

「匂いになれるまで、こうしとくか?」

何も言わないが、キバナに腕を回す。小さな手が上着を握って抱きついているのがたまらない。ここまま閉じ込めてしまおうかと邪心が疼くがそれは先ほどのゴム底靴の人物と同じだ。首を横に振って邪心を落とした。

「……いいにおい」

今度はキバナが顔を覆う。目が血走りキバナは考える。リネアに説得させこのまま同棲させてしまおうとか、大人の恐ろしさを教えてやろうとか。深呼吸をしてできるだけ大人な自分を探し当てた。

「いいかリネア、今回は緊急事態だったから部屋に入れたが普通は入っちゃダメだ。オレさま含め男は危険な生き物だ」
「キバナさんも?」
「そうだ。だから例え仲が良いからって軽率に一人で上がり込むのは良くないってことを覚えておこうぜ」
「……そういうこと教えてくれるキバナさんのこと、私は」

また頬を摘んで言葉を遮る。キバナの脳がバグって歯止めが効かず、後悔することになる。

「ダメだ、いいな?」
「……はい」
「よし、いい子だ」

改めてソファに座らせ紅茶を入れた。それからリネアの視点でどういうことがあったのかを聞くことになる。

キバナがその話を聞いて一番に感じたのは「相手はリネアが目が見えないことを知っている可能性」だ。今でこそ知っている者は知っている情報だがまだ公にされていない。つまり犯人は限られてくるのだが商店街にキバナが知る顔はいなかった。
頭の中で推測を重ねるが、まずはリネアをどう守るかだ。

「なぁリネア、帰りはオレが送る。しばらくはそうしよう」
「ええ!でも、それは…」
「次、リネアが迷惑になるって言ったら鼻を摘む」
「……」

リネアは静まり返った。

「なに、心配いらねぇよ。リネアと喋る時間が増えてオレさまも万々歳だ」
「それは、私も嬉しいです…すごく…でも……」
「オレが出張ったことでもしかしたらもうこんなこと起きないかもしれないだろ?一緒に帰るのは保険ってとこだ」

それでも浮かない表情をしている。またキバナは饒舌に語りかけようとしたのだが今回はリネアが手に触れたことで言葉が止まる。

「やっぱり、いつも私ばっかりもらってます。キバナさんの言う通りそうすべきだって頭ではわかっているんです。けどキバナさんの負担になりたくない……どうすれば、私はキバナさんと対等になれますか?」

聡明な言葉に思わず息が詰まる。

「私もキバナさんに何か……してあげたいって思うんです」

ある種の告白だ。ストレートな感情にキバナは心が浮かれる。
長い指がリネアの手を掴み指の間を通る。合わせるように深く繋いだ。

「……恋人繋ぎ、してぇ」

リネアはぎゅうっと手と心臓を掴まれた。キバナはこんなに大きいのに、小さなお願いにギャップがあり非常に愛らしい。

「……それから」

キバナが近づく。

「あ……頭、キスしていいか。あるいは、されたい、かも」

リネアは思わず唇が震える。やっぱりキバナは可愛らしい人柄なのだ。繊細で優しくて、つつくと崩れそうな砂糖菓子のようだ。

手を伸ばすとキバナの頬に触れる。リネアが顎を上げれば頭を下げた。
ヘアバンドに唇が当たる。キバナはそれでよかったのだがリネアは容赦なくそれを外して額に口付けた。
恋人繋ぎをする手にじんわりと汗が出る。

「キバナさんのおでこ、かわいい」

指先が甘く撫でてる。欲を口にするべきではなかった。リネアはキバナの希望に全て応えられてしまう。

「リネア」

近づく影。キバナの鼻先がリネアの頬に掠めた。思わず息をとめる。けれど額を合わせただけ。

「オレさま本気でリネアのことが好きだから、あまり喜ばせない方がいい」
「え」

すると頭にキスを落とす。リネアのようにくっつけただけではない。ちゅ、と音を立てて離れた。

「わかったな?」
「う、うん」
「いい子」

何よりも甘いキスの音はリネアに楔を打つようだ。もう一回、とねだってしまうとキバナを困らせるだろう。だからできるだけ手を握り合うことで感情の昂りを流すしかなかった。
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