デフォルトはフラン
星の下に生まれる
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一説によると、生き物は恐怖を遺伝子に受け継がせるらしい。ネズミに条件下で恐怖を与えた上で繁殖し、その子孫にも同じ条件下にしたところ激しく忌避を表したという。
その論文を見た時、繁殖は一種の輪廻であると思った。一部の遺伝子を引き継いだ子孫でそれなのだから完全なコピーは尚更恐怖を覚える条件を受け継ぐだろう。
ぐちゃぐちゃになって自分の境界線がわからなくなる夢を見た。フランは気分が悪くなり、夜中に部屋を出て水を飲みに炊事場へ向かう。フランが時々見る夢は幻肢痛のようなものだ。あるはずのない記憶、自分には関係のない体験。しかし脳は覚えていてフランに刻むように夢で反芻させていた。
自分が自分であるというアイデンティティの崩壊。水に浸かればそこから滲んで溶けるような存在の薄さ。そんなはずはないと壁に背をつけて膝を抱えた。肉体とはままならないものだ。脳、肉体、感情、理性、全てが別のことを考えている。ミキサーで混ぜられた方がいくらかマシだろう。
「フラン、起きなさい」
やさしい声が響く。暗闇から目を覚ますと黄色い目が見ていた。フランを拾った、養父である景元だった。同じ屋敷の中で暮らしているとはいえその広さは仙舟「羅浮」の中でも異質だろう。とにかく炊事場で一人でいることなど気づきようもないほどであることは確かだ。
「どうした、夢見が悪い時は部屋に来なさいと言っているだろう」
将軍を目の前にしてぼんやりとしているのは景元の声音が心地よいからだ。動くのもめんどくさくてまた膝を抱えて目を閉じる。
「まったく…」
軽々と抱き上げて炊事場を後にする。景元の体温に触れて少しずつ脳が覚醒してきた。だが歩く振動が揺籠のようで気怠さとは違う睡魔が後に控えていた。
「なんで、炊事場にきたの?」
「それは私の台詞ではないかな」
「景元さんは、いつも私の場所がわかるから……チップでも埋めた?」
「そんなことするような父だと思うかい?」
チップを脳に埋めた、と言われた方が安心するまである。そうでないならただ拾った者にここまでする必要もないはずだろうから。
景元が使う広い閨に横にされる。いつもふかふかで使用人が頑張って職務をまっとうしていることを知る。天蓋は星のような装飾を施され、星の海で眠るような心地になった。景元は毎日ここで一人眠るのだろう。
「ぐちゃぐちゃになる夢見た。怖くて、炊事場で水飲んで、落ち着くまでぼーっとするつもりだったけどいつの間にか寝てた」
「次からはここに来なさい。いいね」
探し、運ぶ手間を考えればそれが妥当だろう。芳しい香りの中で心身ともに緊張がほぐれていく。言われるがまま頷くと景元はフランを抱きしめた。フランの短い髪を撫でると一秒もたたず眠る。幼子の寝顔に小さく微笑みそのまま共に眠りに落ちていった。
朝、目が覚めてフランは思い出した。景元と寝ると使用人たちが碌でもないことを陰で言うのだ。ただでさえ短命種。よその星から来たフランは仙舟同盟の内部にいるだけで比較的差別を受けやすい存在であった。それが将軍の庇護下であっても変わらない。何故将軍は短命種を養子にしたのだ、とか得体の知れない存在とか、散々な陰口が今日も聞こえてくる。
けどそれはフランがわざわざ声を荒げて対立するほどの内容ではない。文化の違いによる区別は当然の反応で、百歳も生きられない者がこの仙舟でまともな働きなどできるはずもない。たった百年。将軍の気まぐれによって飼われたペットであると仙舟人は認識しているために「将軍の子」という肩書きに意味を見出していなかった。故に陰口だけで済んでいるのはマシなほうだ。
フランは学校に行き、今日も仙舟人と同様に勉学に励む。だが周りの仙舟人は百年を超えた年齢の者ばかり。一方でフランの年齢はまだ一桁だった。
結局のところフランは周囲とのギャップに埋もれている。仙舟人は長生きするので勉学も何もかも、ゆったりと物事を進める。学校のカリキュラムも五十年で修了する。フランはそんなに悠長な生命ではない。常に勉学をし、タイミングが合えば飛び級試験を受けてさっさと卒業するよう目論んでいた。
本日の授業が終われば公立図書館へ足を運び先々の勉強をするのが日課だ。荷物をまとめていつもの道を歩いていく。景元に引き取られてまだ二年だが、初めて羅浮に来た時からこの風景は変わらない。もし変わることがあるのなら羅浮に重大な事件が起きる時だけだ。
「奇遇だね、フラン」
げ、という顔は隠さない。フランには友人はいない。種族と将軍の子という肩書きがあるからだが、それ以前にフランの感情や思想は仙舟人には追いつけないものだった。だがそれすらも飛び越えてズカズカとやってきたのは目の前の天才、彦卿だ。お互い景元に拾われた身である以上知り合いになるのは必然。故に兄弟子である彦卿がフランに兄貴風をふかし、声をかけてくるのだがフランはそういった彼が苦手であった。
「奇遇だね。私は勉強しにいくからまたね」
「今日は剣術の日だろ?将軍の指導を受けられるなんてこと滅多にないのにどうして避けるのさ」
「私は雲騎軍に入る予定はないし剣術はもう飽きた」
「だからって上手くならない絵を描き続けるの?」
こうやって無自覚にフランを煽るのだ。カッとなる血を落ち着かせて息を整えた。
「そうだよ。それに上手くなくったって描くことは楽しいから」
「そんな事ってあり得る?僕は剣を握ってるだけなんて楽しくないよ」
「もういいでしょ、まずは勉強しないといけないから行くね」
彦卿は口を開けば剣術がどうのこうのとフランを焚き付けるようなことばかり言う。フランも仙舟に来た頃は景元の指導を熱心に聞いて励んでいたが、先ほど言った通り飽きたのだ。それに護身用とするなら十分すぎる領域にいる。これ以上目標もなく鍛えるくらいなら勉強をした方がマシだ。
彦卿に背を向けて歩くと、背中から何か気配を感じ取った。振り返ると訓練用の木刀を投げられる。
「ねぇ、僕も暇してるんだ。たまには体を動かそうよ」
「なんで」
「あ、もしかして負けるのが怖いのかな?こんなに人の目があるから」
「どう思ってもらってもいいよ。私は君たちほど暇じゃないから」
受け取った木刀を彦卿に返そうと近づく。だがお構いなしに木刀を振るった。フランは咄嗟に木刀で受け止める。
「ねえ、嫌って言ってるでしょ」
「そうは言っても敵は待ってくれないよ!」
「敵の分別もつかないの?」
「ほらほら!」
フランは彦卿の技術には程遠い。毎回打ち負かされるし、青あざが痛い。どれだけ努力したって持明族の彦卿に勝てるわけがないのだ。イラつきながら全てを受け止めるが反撃する隙すらない。こんなに楽しくないもの、誰が好んでやるのか。何故これほどまでに怒りを覚えるのか。ならば、とフランは木刀を手放した。振り翳した木刀は止められない。彦卿の驚く顔をじっと見つめながら肩に当たる衝撃を待った。
ばきん、と嫌な音が響いた。とてつもなく痛い。木刀で殴られて肉が切れた。しかし骨は無事だ。周囲の者は誰も声を上げられないほど静寂になる。
「なっ、なんで木刀手放すんだよ!」
彦卿は慌ててフランの怪我を見ようと肩の傷を触ろうとする。しかしそれは防がれた。フランが彦卿の頬を思い切り打ったからだ。
「これでおあいこ」
彦卿の綺麗な顔に紅葉の手形。いい気味だと鼻で笑って図書館へ向かった。痛みでまともに勉強なんか出来なかったが、それでも今日の復習はできた。ひっそり帰って手当てすれば景元にバレずに済むだろう。しかしあの澄まし顔、ドヤ顔を融合させた彦卿に平手打ち出来たのは非常にスッキリした。今でもあの驚いた顔を思い出すだけで笑えてくる。
屋敷に戻り応急箱を持って手当を終わらせる。内出血が肩全体に広がり酷い有様だが冷やせば治るはずだ。肩に氷嚢を乗せれば痛みは随分和らいだ。これで予習ができる。
机に向かってさらに一時間ほど勉強を続けた。するとドアの向こうから使用人の声が響く。こうして呼びかけられるのは誰かに呼び出しをされている時だ。ドアを開けると彦卿が使用人と共にいた。頬にくっきりと赤い手形がまだ残っている。面白くて吹き出した。
「お嬢さま!彦卿様にこのような仕打ちをして笑うなど!」
「いいんだ、僕が悪いんだから……ごめん、フラン、肩……」
「顔打ったしおあいこって言ったじゃん」
「それでも僕の太刀筋のほうが痛いに決まってる」
「いいよ別に。それより顔冷やさなきゃ」
持っていた氷嚢を顔に当てる。氷嚢が当たる場所がじわじわと赤くなり手形が見えなくなった。使用人がそれを見て手当ていたしますと恭しく彦卿を屋敷へ案内するのだった。
「僕よりフランを手当てしてやってくれ!」
「私はもう自分でやったから、彦卿が先だよ」
そんなやり取りをしていると話を聞きつけた使用人の長がやってきた。彦卿に手を出した短命種、という先入観であれやこれやと大事になる。しかも広場の目撃者も「彦卿をぶった」という証言によりフランは将軍の沙汰を待つことになった。誰も彦卿の話を聞く者はいない。
ああ、可哀想に。誰よりも大事に扱われているのに先入観によって彦卿の話は遮られる。彦卿は優しい性格だ。これでようやく我々は同等の痛みになったのだと思った。
将軍が帰ってくるまで夕飯は抜きの刑に処される。それはどうだってよかった。そもそも大した問題ではない。何よりフランと彦卿の双方で痛み分けにしたのだから何を言われようがどうってことなかった。
「フラン、彦卿から話は聞いた」
「おかえりなさい景元さん」
眉をひそめてフランを見やるがもう少しで今日の予習は終わる。にこ、と笑って愛想を振り撒き問題集の続きをした。
「肩を出しなさい」
「手当したよ」
「いいから出しなさい」
いつもより強い口調に、おずおずとシャツを脱いだ。あまり見られたくはない。フランが思った通り、内出血は胸元まで広がっていた。
「何故使用人に言わない」
景元は筋が幾つか切れていると知る。それなのに痛みなどないように振る舞うフランに苛立っていた。
「だって冷やしたし、もう痛くな……っ」
人差し指で突かれただけで呻く。目を細めてため息を盛大にこぼした。
「フラン……君は私の子だ。君にとって私はただの将軍かもしれないが、こんな怪我を負っているなんて心苦しい」
「……なんで私に説教するの。私は彦卿とおあいこにした!なのになんでそんなこというの!」
「あいこになっていない!」
びく、と肩が震えた。怯えた姿をみて景元は首を横に振る。額を抑えて隠さず苦悩をフランに見せていた。
「事の顛末は聞いている。彦卿は十分反省しているし相応の罰も与えた。今私がここにいるのは……フランが心配だからだ」
「……次から言えばいいんでしょ」
「そうだが、ただ心配しているのをわかってほしい」
「うるさい!!学校を早く卒業して羅浮なんか出ていってやる!せっかく気を使って黙ってたのに!彦卿のやつ、恩を仇で返して!!」
「フラン」
「私がどう思われてるか知ってるくせに!私と将軍は親子なんかじゃない!ただのペットと飼い主だ!!」
端的に言えば、フランの思考力は大人と同じだ。しかし経験値が少ないためこのように癇癪を起こす。何せこの世に生を受けて、景元が知る限りまだ五歳だ。肉体は短命種でいう思春期真っ盛り。フランという気高い生命に敬意を表してこの羅浮に連れてきたが彼女の抱えるギャップと苦しみは一生理解できないものと知り悲しくなった。
「……言葉で言っても信じてもらえないだろう。とにかく、医者を呼んでいるからせめて落ち着きなさい」
「………ごめん」
「何を言う。謝るのは私のほうだ」
しばしお互い無言だった。けれど静寂を打ち破ったのはフランの空腹の音。景元はじっとフランを見たので目を逸らす。
「なるほど、何も食べていないのか」
「た、たべたよ」
「わかった、少し席を外す。安静にしなさい」
十分後には医者が来て肩の診察が始まる。包帯で肩を固定され、さらに氷嚢を当てられた。飲み薬は痛み止めと化膿止め。随分と酷い怪我らしいがフランは大袈裟だなと思いながら包帯を眺める。
フランが使用人の長が屋敷からいなくなったことに気付いたのは一週間後だった。
その論文を見た時、繁殖は一種の輪廻であると思った。一部の遺伝子を引き継いだ子孫でそれなのだから完全なコピーは尚更恐怖を覚える条件を受け継ぐだろう。
ぐちゃぐちゃになって自分の境界線がわからなくなる夢を見た。フランは気分が悪くなり、夜中に部屋を出て水を飲みに炊事場へ向かう。フランが時々見る夢は幻肢痛のようなものだ。あるはずのない記憶、自分には関係のない体験。しかし脳は覚えていてフランに刻むように夢で反芻させていた。
自分が自分であるというアイデンティティの崩壊。水に浸かればそこから滲んで溶けるような存在の薄さ。そんなはずはないと壁に背をつけて膝を抱えた。肉体とはままならないものだ。脳、肉体、感情、理性、全てが別のことを考えている。ミキサーで混ぜられた方がいくらかマシだろう。
「フラン、起きなさい」
やさしい声が響く。暗闇から目を覚ますと黄色い目が見ていた。フランを拾った、養父である景元だった。同じ屋敷の中で暮らしているとはいえその広さは仙舟「羅浮」の中でも異質だろう。とにかく炊事場で一人でいることなど気づきようもないほどであることは確かだ。
「どうした、夢見が悪い時は部屋に来なさいと言っているだろう」
将軍を目の前にしてぼんやりとしているのは景元の声音が心地よいからだ。動くのもめんどくさくてまた膝を抱えて目を閉じる。
「まったく…」
軽々と抱き上げて炊事場を後にする。景元の体温に触れて少しずつ脳が覚醒してきた。だが歩く振動が揺籠のようで気怠さとは違う睡魔が後に控えていた。
「なんで、炊事場にきたの?」
「それは私の台詞ではないかな」
「景元さんは、いつも私の場所がわかるから……チップでも埋めた?」
「そんなことするような父だと思うかい?」
チップを脳に埋めた、と言われた方が安心するまである。そうでないならただ拾った者にここまでする必要もないはずだろうから。
景元が使う広い閨に横にされる。いつもふかふかで使用人が頑張って職務をまっとうしていることを知る。天蓋は星のような装飾を施され、星の海で眠るような心地になった。景元は毎日ここで一人眠るのだろう。
「ぐちゃぐちゃになる夢見た。怖くて、炊事場で水飲んで、落ち着くまでぼーっとするつもりだったけどいつの間にか寝てた」
「次からはここに来なさい。いいね」
探し、運ぶ手間を考えればそれが妥当だろう。芳しい香りの中で心身ともに緊張がほぐれていく。言われるがまま頷くと景元はフランを抱きしめた。フランの短い髪を撫でると一秒もたたず眠る。幼子の寝顔に小さく微笑みそのまま共に眠りに落ちていった。
朝、目が覚めてフランは思い出した。景元と寝ると使用人たちが碌でもないことを陰で言うのだ。ただでさえ短命種。よその星から来たフランは仙舟同盟の内部にいるだけで比較的差別を受けやすい存在であった。それが将軍の庇護下であっても変わらない。何故将軍は短命種を養子にしたのだ、とか得体の知れない存在とか、散々な陰口が今日も聞こえてくる。
けどそれはフランがわざわざ声を荒げて対立するほどの内容ではない。文化の違いによる区別は当然の反応で、百歳も生きられない者がこの仙舟でまともな働きなどできるはずもない。たった百年。将軍の気まぐれによって飼われたペットであると仙舟人は認識しているために「将軍の子」という肩書きに意味を見出していなかった。故に陰口だけで済んでいるのはマシなほうだ。
フランは学校に行き、今日も仙舟人と同様に勉学に励む。だが周りの仙舟人は百年を超えた年齢の者ばかり。一方でフランの年齢はまだ一桁だった。
結局のところフランは周囲とのギャップに埋もれている。仙舟人は長生きするので勉学も何もかも、ゆったりと物事を進める。学校のカリキュラムも五十年で修了する。フランはそんなに悠長な生命ではない。常に勉学をし、タイミングが合えば飛び級試験を受けてさっさと卒業するよう目論んでいた。
本日の授業が終われば公立図書館へ足を運び先々の勉強をするのが日課だ。荷物をまとめていつもの道を歩いていく。景元に引き取られてまだ二年だが、初めて羅浮に来た時からこの風景は変わらない。もし変わることがあるのなら羅浮に重大な事件が起きる時だけだ。
「奇遇だね、フラン」
げ、という顔は隠さない。フランには友人はいない。種族と将軍の子という肩書きがあるからだが、それ以前にフランの感情や思想は仙舟人には追いつけないものだった。だがそれすらも飛び越えてズカズカとやってきたのは目の前の天才、彦卿だ。お互い景元に拾われた身である以上知り合いになるのは必然。故に兄弟子である彦卿がフランに兄貴風をふかし、声をかけてくるのだがフランはそういった彼が苦手であった。
「奇遇だね。私は勉強しにいくからまたね」
「今日は剣術の日だろ?将軍の指導を受けられるなんてこと滅多にないのにどうして避けるのさ」
「私は雲騎軍に入る予定はないし剣術はもう飽きた」
「だからって上手くならない絵を描き続けるの?」
こうやって無自覚にフランを煽るのだ。カッとなる血を落ち着かせて息を整えた。
「そうだよ。それに上手くなくったって描くことは楽しいから」
「そんな事ってあり得る?僕は剣を握ってるだけなんて楽しくないよ」
「もういいでしょ、まずは勉強しないといけないから行くね」
彦卿は口を開けば剣術がどうのこうのとフランを焚き付けるようなことばかり言う。フランも仙舟に来た頃は景元の指導を熱心に聞いて励んでいたが、先ほど言った通り飽きたのだ。それに護身用とするなら十分すぎる領域にいる。これ以上目標もなく鍛えるくらいなら勉強をした方がマシだ。
彦卿に背を向けて歩くと、背中から何か気配を感じ取った。振り返ると訓練用の木刀を投げられる。
「ねぇ、僕も暇してるんだ。たまには体を動かそうよ」
「なんで」
「あ、もしかして負けるのが怖いのかな?こんなに人の目があるから」
「どう思ってもらってもいいよ。私は君たちほど暇じゃないから」
受け取った木刀を彦卿に返そうと近づく。だがお構いなしに木刀を振るった。フランは咄嗟に木刀で受け止める。
「ねえ、嫌って言ってるでしょ」
「そうは言っても敵は待ってくれないよ!」
「敵の分別もつかないの?」
「ほらほら!」
フランは彦卿の技術には程遠い。毎回打ち負かされるし、青あざが痛い。どれだけ努力したって持明族の彦卿に勝てるわけがないのだ。イラつきながら全てを受け止めるが反撃する隙すらない。こんなに楽しくないもの、誰が好んでやるのか。何故これほどまでに怒りを覚えるのか。ならば、とフランは木刀を手放した。振り翳した木刀は止められない。彦卿の驚く顔をじっと見つめながら肩に当たる衝撃を待った。
ばきん、と嫌な音が響いた。とてつもなく痛い。木刀で殴られて肉が切れた。しかし骨は無事だ。周囲の者は誰も声を上げられないほど静寂になる。
「なっ、なんで木刀手放すんだよ!」
彦卿は慌ててフランの怪我を見ようと肩の傷を触ろうとする。しかしそれは防がれた。フランが彦卿の頬を思い切り打ったからだ。
「これでおあいこ」
彦卿の綺麗な顔に紅葉の手形。いい気味だと鼻で笑って図書館へ向かった。痛みでまともに勉強なんか出来なかったが、それでも今日の復習はできた。ひっそり帰って手当てすれば景元にバレずに済むだろう。しかしあの澄まし顔、ドヤ顔を融合させた彦卿に平手打ち出来たのは非常にスッキリした。今でもあの驚いた顔を思い出すだけで笑えてくる。
屋敷に戻り応急箱を持って手当を終わらせる。内出血が肩全体に広がり酷い有様だが冷やせば治るはずだ。肩に氷嚢を乗せれば痛みは随分和らいだ。これで予習ができる。
机に向かってさらに一時間ほど勉強を続けた。するとドアの向こうから使用人の声が響く。こうして呼びかけられるのは誰かに呼び出しをされている時だ。ドアを開けると彦卿が使用人と共にいた。頬にくっきりと赤い手形がまだ残っている。面白くて吹き出した。
「お嬢さま!彦卿様にこのような仕打ちをして笑うなど!」
「いいんだ、僕が悪いんだから……ごめん、フラン、肩……」
「顔打ったしおあいこって言ったじゃん」
「それでも僕の太刀筋のほうが痛いに決まってる」
「いいよ別に。それより顔冷やさなきゃ」
持っていた氷嚢を顔に当てる。氷嚢が当たる場所がじわじわと赤くなり手形が見えなくなった。使用人がそれを見て手当ていたしますと恭しく彦卿を屋敷へ案内するのだった。
「僕よりフランを手当てしてやってくれ!」
「私はもう自分でやったから、彦卿が先だよ」
そんなやり取りをしていると話を聞きつけた使用人の長がやってきた。彦卿に手を出した短命種、という先入観であれやこれやと大事になる。しかも広場の目撃者も「彦卿をぶった」という証言によりフランは将軍の沙汰を待つことになった。誰も彦卿の話を聞く者はいない。
ああ、可哀想に。誰よりも大事に扱われているのに先入観によって彦卿の話は遮られる。彦卿は優しい性格だ。これでようやく我々は同等の痛みになったのだと思った。
将軍が帰ってくるまで夕飯は抜きの刑に処される。それはどうだってよかった。そもそも大した問題ではない。何よりフランと彦卿の双方で痛み分けにしたのだから何を言われようがどうってことなかった。
「フラン、彦卿から話は聞いた」
「おかえりなさい景元さん」
眉をひそめてフランを見やるがもう少しで今日の予習は終わる。にこ、と笑って愛想を振り撒き問題集の続きをした。
「肩を出しなさい」
「手当したよ」
「いいから出しなさい」
いつもより強い口調に、おずおずとシャツを脱いだ。あまり見られたくはない。フランが思った通り、内出血は胸元まで広がっていた。
「何故使用人に言わない」
景元は筋が幾つか切れていると知る。それなのに痛みなどないように振る舞うフランに苛立っていた。
「だって冷やしたし、もう痛くな……っ」
人差し指で突かれただけで呻く。目を細めてため息を盛大にこぼした。
「フラン……君は私の子だ。君にとって私はただの将軍かもしれないが、こんな怪我を負っているなんて心苦しい」
「……なんで私に説教するの。私は彦卿とおあいこにした!なのになんでそんなこというの!」
「あいこになっていない!」
びく、と肩が震えた。怯えた姿をみて景元は首を横に振る。額を抑えて隠さず苦悩をフランに見せていた。
「事の顛末は聞いている。彦卿は十分反省しているし相応の罰も与えた。今私がここにいるのは……フランが心配だからだ」
「……次から言えばいいんでしょ」
「そうだが、ただ心配しているのをわかってほしい」
「うるさい!!学校を早く卒業して羅浮なんか出ていってやる!せっかく気を使って黙ってたのに!彦卿のやつ、恩を仇で返して!!」
「フラン」
「私がどう思われてるか知ってるくせに!私と将軍は親子なんかじゃない!ただのペットと飼い主だ!!」
端的に言えば、フランの思考力は大人と同じだ。しかし経験値が少ないためこのように癇癪を起こす。何せこの世に生を受けて、景元が知る限りまだ五歳だ。肉体は短命種でいう思春期真っ盛り。フランという気高い生命に敬意を表してこの羅浮に連れてきたが彼女の抱えるギャップと苦しみは一生理解できないものと知り悲しくなった。
「……言葉で言っても信じてもらえないだろう。とにかく、医者を呼んでいるからせめて落ち着きなさい」
「………ごめん」
「何を言う。謝るのは私のほうだ」
しばしお互い無言だった。けれど静寂を打ち破ったのはフランの空腹の音。景元はじっとフランを見たので目を逸らす。
「なるほど、何も食べていないのか」
「た、たべたよ」
「わかった、少し席を外す。安静にしなさい」
十分後には医者が来て肩の診察が始まる。包帯で肩を固定され、さらに氷嚢を当てられた。飲み薬は痛み止めと化膿止め。随分と酷い怪我らしいがフランは大袈裟だなと思いながら包帯を眺める。
フランが使用人の長が屋敷からいなくなったことに気付いたのは一週間後だった。
