マイン・アフターグロー
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目を開けるのは嫌だった。恐怖と罪悪に飲み込まれる前にもっと燃やさなければと。まるで追い立てられるように全てを燃料にした。それで何が得られるのかわからないまま、ただ命惜しさに燃やし続ける罪人であった。
涙などあるはずもない。今もなお外気は全ての水分を気化させている。当然、燃料となった女の涙など体から消えていた。それでも女は生きて、その体は燃えている。燃えていながら救いを求めるようにうわ言を溢した。
その生物はなぜ燃えているのかすらわからなかった。それに関することを全て意図的に忘れていた。わかっていることは「周囲一帯を燃やし続け、生物すら生きていけない環境にしている」という事実だった。だがこの熱は止められない。いつから燃えているのか、これからいつまで燃えているのかさえわからない。どうしようという焦りの中で女は生きていた。
声という空気の振動すら許されない。それでも女は口にするしかなかった。助けて、誰か止めて、と叫んだ。そんな中、黒点とも言える黒い何かが女を掴んだ。驚き、喚き、身じろぐ。それでも手は離さなかった。白い炎の中で手は迷わず女を抱きしめていた。
その熱は、女が出していた炎とは比べものにならなかった。冷たく、そして熱い。夢の中でもがいていた感覚から現実へと引き戻されていく。
焦土の中で男は女を抱きしめたままだった。涙をこぼしても肌を伝うと同時に蒸発するが、流れていく感覚はわかった。
「た、たすけて」
か細く求めると抱きしめながらもしっかり頷いた。
「わかった」
声が漸く届いた。まるで宇宙の果てから返事がやってきたかのような安心感。その時ばかりは罪の意識など忘れて他人の熱に抱かれていた。
これがチョンユエとの出会い方。ロマンチックとは思うがこの代償に人間が何人か焼け死んだという。当然そこに動植物が含まれている。人が死んでいなければ白雪姫のようだったのに、ただ白い部屋でぽつんと座っている女はただの業火を操る危険人物。今でもなお発火現象の兆候を二十四時間リアルタイムで監視されている。
ここでの生活は監禁されていなければ満足のいくものだった。衣食住は保証されている。いや、保証せざるを得ない。詳細な理由はわからないが憶測として言えるのは、彼らの武器で殺せなかったからだ。光を放つ黒い棒状のものから体に向かって何かを当てられたが痛くも痒くもなかった。そして当てられた時に理解した。殺したいんだと。
外の監視室の様子は女からは見えない。しかし女の背面以外はガラス張りである以上、向こうから部屋の様子はよく見えるのだろう。ドラマでよく見る光景が、今や当事者だ。
とは言っても女は目がよく見えなかった。元来そこまで視力は良くなかったが、炎に包まれて以降視力が格段に落ち、乱視も入っているような気がする。今の状況では逆に視界が見えづらい方が助かる。
「ヤヒコ」
毎日来るのはヤヒコと呼ばれる女の王子役……炎に包まれていたヤヒコを抱き止めて鎮静化した張本人だ。片手にお菓子を持っている。いくら視力が悪くてもチョンユエが身分の高い人物であることはわかっているし、普通の人間と違って長い尻尾がある。最初は蛇が入り込んだと思って体が発火し、消火スプレーをかけられて大変な目にあった。
とにかく、チョンユエはヤヒコの境遇にいくらか同情しているようだ。
「お菓子だ、ありがとう」
「私はこれくらいしかできないからな」
そう言うが今のところ唯一交流出来ているのは彼だけだ。ヤヒコも相応に懐いているしチョンユエもその自覚があるだろう。
菓子を頬張るヤヒコにチョンユエは外の世界をやさしい言葉で教えてくれる。耳で聞き取る情報だけでも、ヤヒコの知る世界とは違うことは知っていた。そもそも体が勝手に発火するのだから概ねここは違う世界なのだろうと憶測は出来ていたのだ。わざわざその事を言うつもりもないし、言ったところで信用すらされないだろう。
そして菓子を食べ終わるとチョンユエはヤヒコに教育をする。手探りではあるが発火しないよう訓練を積んでいる真っ最中だ。
「いたいっ」
「集中だ、息を整えろ」
チョンユエの指導のもと、坐禅をしている。少しでも雑念が入ると尻尾で肩を小突かれるのだ。達人という域に達した彼はヤヒコのくだらない雑念をすぐに感じ取ってしまう。なんなら日常の思考までも読まれているのではないかと恐ろしく思う。
しかし、チョンユエはヤヒコが少しずつ坐禅を通して集中力が高まり精神的に安定する術を手に入れる様子に笑顔を浮かべる。まるで自分に子供が出来たかのようだ。その様子は司歳台の者がある意味難色を示した兆候でもあった。
ヤヒコを捕縛し、調査をした結果少なくとも人でないことが判明した。村を焼き払い、森を燃やし空高く天にまで届きそうな炎を出し続け村に押し寄せる満ち潮を蒸発させる火力。こんなものを人と呼べるはずもないのだが、人のように見せかけた何かであると確信できたのだ。ヤヒコが自分のこと、司歳台のこと、そして炎国の言葉もわからない当初、指示により抹殺するつもりだった。正しくは殺すことができなかったのだが、アーツに対して高い防御を持ち、しかもそれを知ったチョンユエが烈火の如く怒りを露わにしたのだ。
その件以降、ヤヒコが突然発火しないようチョンユエに監視と管理を言い渡した。もちろんヤヒコが暴走した場合、歳の力を持ってヤヒコ抹殺するよう厳命する。そうでもしなければならない存在であることはチョンユエ自身深く理解しているだろうに。
つまりチョンユエがヤヒコを自身の娘のように扱えば扱うほどに、炎国に対して離反する可能性が高まるのだ。今更とは一部の司歳台も思うが人ならざる、巨獣の代理人。いつ何がきっかけで道を分つかわからない。
炎国の上層部はチョンユエの動向を深く監視するようになった。
「随分集中できるようになったな」
「?」
まだ言葉に不慣れなヤヒコを見て、笑顔を浮かべながら頭を撫でる。そうして同じ言葉を言えば誉められているとわかったようだ。照れるようにはにかんだ。
「今日は新しいことをやってみよう」
チョンユエが構える。同じようにヤヒコも真似をする。意図が伝わったようで再び笑顔で別の構えをとる。ヤヒコはチョンユエの動きを真似し続けるが、それが何度かループしていることに気づいた。さらにヤヒコがイメージしているような「太極拳」の動きに似ている。
「上手だ、飲み込みがはやいな」
ゆったりした動きをしているためヤヒコは、こんなの何時間でもできそうだと思った。しかしチョンユエは何パターンも叩き込もうとする。あれこれ無駄な動きをすると余計疲弊してしまい、結局今日も疲れ切ってしまった。
手加減はしているようだがヤヒコにとってスパルタだ。これまでは坐禅の後炎国の言葉を教えられていたが、一日の時間割が一コマ増えたようなものだ。しかも語学もなかなか厳しい。極東翻訳の炎国辞書を用意してくれたはいいものの、日記を書けと言われ提出すれば赤ペンで指摘されて返ってくる。言葉の順序が逆だの、意味が通じないだの、その赤ペンを翻訳すればするほど憂鬱になるというもの。
「今日はここまでにしよう。また明日、時間通りに来るからな」
「……」
今日の授業が終わった。息を吐く。体を動かした分今日は早く眠れるだろう。
「ヤヒコ、髪が長くなったな。少し切ろうか」
黒い指先が髪をひとふさ掬い上げる。それから前髪を左右に分けるが、視界がぼやけて何も見えない上にここから出ることはない。髪を切り目が見えたって意味はないと顔を背けた。チョンユエはヤヒコの視力の悪さをよく知っている。辞書をよく近づけて読むだけでなく文字を書く時すら体を曲げて凝視しているのだ。そんなヤヒコのためにあれこれ手を回したいのだが、ヤヒコを外に連れて行くことはもちろん、医者を呼んで目を見てもらうことすらできない。
だからチョンユエは早く発火の操作に慣れて無害であることを証明したかった。
「また明日。しっかり寝なさい」
毎回そう言ってヤヒコの頭を撫でる。ヤヒコはその言葉がどういう意味か知っているのでオウム返しをしていた。
「また明日」
正しくは、今の心情を口にできるほど言葉が堪能ではないという意味だが。
翌日、チョンユエはいつもの通りヤヒコの元へ向かった。監視部屋の外では相変わらず研究者や司歳台の者がヤヒコの精神分析、生態調査を続けている。それでも少しでも早く監視から解放されるよう尽力するのがチョンユエの役目だと信じていた。
「おはよう、ヤヒコ」
「……おはよう」
机の上に置かれたノートを開くが昨日の日記は書かれていない。ため息を堪えてヤヒコの正面に座った。
「日記は?」
「……」
「毎日書きなさいと言っただろう」
何の返事もない。同じく歳の代理人である弟、妹たちもヤヒコと同じくチョンユエをあしらったりするのでこういったことは慣れている。むしろ口答えしない上に反抗もしないので楽なほうだ。
「ヤヒコ?」
唇を固く閉ざして膝を抱える。ヤヒコにいろいろな事を教え始めてしばらく経つ。無言の長さが今のヤヒコとチョンユエの壁なのだと知らされた。
そもそもチョンユエはヤヒコの事を何も知らない。知る必要さえないと思っていた。この世界では両親のいない子など珍しくもない。記憶がない者もいる。そんなありふれた子なのだろうと帰結していた。それは歳である故か、もしくは早くここから出してやりたいと思っているせいか。
突如部屋から多くの職員がやってきた。その手には多くの拘束具、消火剤が用意されている。拘束されることを知ったヤヒコはチョンユエにしがみつく。チョンユエもまたヤヒコを守るように片腕で抱き寄せた。
「ヤヒコの管理は私に任せられているはずだ」
「緊急事態です」
「緊急事態?ヤヒコは今も安定しているのに何が緊急なんだ」
「ヤヒコの炎を第二のエネルギーとして使用するための試運転が決定されました」
生きた太陽を思わせる灼熱の炎。その炎を掻い潜りヤヒコを見つけたチョンユエは、エネルギーになる前に移動都市が焼け落ちると伝えるが首を横に振られた。
「だからこそ試運転です」
「いいや、ヤヒコはここから出す必要もない。エネルギーのために炎を使う必要もない」
職員はため息をこぼした。そしてチョンユエに最後の説得として今の状況を伝えた。
「突発的な天災が二つも予報されました。駆動機構を停止し逆方向に進路転換すると必ずどちらか一つの天災に見舞われます」
「……強制的に炎で逆噴射し転換するつもりなのだろう。だがヤヒコの炎は高音なだけだ。お前たちの思うような結果は得られないはずだ」
「原理を今ここで話し合う時間はありません。ですが試運転を繰り返し、運用が軌道に乗ればその炎で多くの民の命が守られる。どちらを優先すべきか、あなたなら分かるのでは?」
強制連行に乗り出した。ヤヒコを力任せに引き剥がす。チョンユエはたまらず叫んだ。
「ヤヒコに触るな!」
激昂にヤヒコを拘束する手が止まるが、冷静な男はチョンユエの背中に疑問を投げかけた。
「それは人ではありませんよ?」
まさに、チョンユエの感情は我ら人間には全く意味がわからないと言わんばかりだ。当然のような疑問の声にチョンユエの反応は鈍ってしまった。
ヤヒコは発火するが消火剤を被り力を失った。炎の熱で室内の気温は上がったがそれ以外の影響はない。
「だが……ヤヒコは」
「人は燃えません。火の熱に皮膚は耐えられない。それに……あなたとも違う存在です」
チョンユエはそれでも連れて行くなと言うだけだ。人間に手を出せないチョンユエは相応しい理由も出せないまま現実に打ちのめされてしまった。
ヤヒコは移動都市エネルギー変換の試運転燃料となった。
涙などあるはずもない。今もなお外気は全ての水分を気化させている。当然、燃料となった女の涙など体から消えていた。それでも女は生きて、その体は燃えている。燃えていながら救いを求めるようにうわ言を溢した。
その生物はなぜ燃えているのかすらわからなかった。それに関することを全て意図的に忘れていた。わかっていることは「周囲一帯を燃やし続け、生物すら生きていけない環境にしている」という事実だった。だがこの熱は止められない。いつから燃えているのか、これからいつまで燃えているのかさえわからない。どうしようという焦りの中で女は生きていた。
声という空気の振動すら許されない。それでも女は口にするしかなかった。助けて、誰か止めて、と叫んだ。そんな中、黒点とも言える黒い何かが女を掴んだ。驚き、喚き、身じろぐ。それでも手は離さなかった。白い炎の中で手は迷わず女を抱きしめていた。
その熱は、女が出していた炎とは比べものにならなかった。冷たく、そして熱い。夢の中でもがいていた感覚から現実へと引き戻されていく。
焦土の中で男は女を抱きしめたままだった。涙をこぼしても肌を伝うと同時に蒸発するが、流れていく感覚はわかった。
「た、たすけて」
か細く求めると抱きしめながらもしっかり頷いた。
「わかった」
声が漸く届いた。まるで宇宙の果てから返事がやってきたかのような安心感。その時ばかりは罪の意識など忘れて他人の熱に抱かれていた。
これがチョンユエとの出会い方。ロマンチックとは思うがこの代償に人間が何人か焼け死んだという。当然そこに動植物が含まれている。人が死んでいなければ白雪姫のようだったのに、ただ白い部屋でぽつんと座っている女はただの業火を操る危険人物。今でもなお発火現象の兆候を二十四時間リアルタイムで監視されている。
ここでの生活は監禁されていなければ満足のいくものだった。衣食住は保証されている。いや、保証せざるを得ない。詳細な理由はわからないが憶測として言えるのは、彼らの武器で殺せなかったからだ。光を放つ黒い棒状のものから体に向かって何かを当てられたが痛くも痒くもなかった。そして当てられた時に理解した。殺したいんだと。
外の監視室の様子は女からは見えない。しかし女の背面以外はガラス張りである以上、向こうから部屋の様子はよく見えるのだろう。ドラマでよく見る光景が、今や当事者だ。
とは言っても女は目がよく見えなかった。元来そこまで視力は良くなかったが、炎に包まれて以降視力が格段に落ち、乱視も入っているような気がする。今の状況では逆に視界が見えづらい方が助かる。
「ヤヒコ」
毎日来るのはヤヒコと呼ばれる女の王子役……炎に包まれていたヤヒコを抱き止めて鎮静化した張本人だ。片手にお菓子を持っている。いくら視力が悪くてもチョンユエが身分の高い人物であることはわかっているし、普通の人間と違って長い尻尾がある。最初は蛇が入り込んだと思って体が発火し、消火スプレーをかけられて大変な目にあった。
とにかく、チョンユエはヤヒコの境遇にいくらか同情しているようだ。
「お菓子だ、ありがとう」
「私はこれくらいしかできないからな」
そう言うが今のところ唯一交流出来ているのは彼だけだ。ヤヒコも相応に懐いているしチョンユエもその自覚があるだろう。
菓子を頬張るヤヒコにチョンユエは外の世界をやさしい言葉で教えてくれる。耳で聞き取る情報だけでも、ヤヒコの知る世界とは違うことは知っていた。そもそも体が勝手に発火するのだから概ねここは違う世界なのだろうと憶測は出来ていたのだ。わざわざその事を言うつもりもないし、言ったところで信用すらされないだろう。
そして菓子を食べ終わるとチョンユエはヤヒコに教育をする。手探りではあるが発火しないよう訓練を積んでいる真っ最中だ。
「いたいっ」
「集中だ、息を整えろ」
チョンユエの指導のもと、坐禅をしている。少しでも雑念が入ると尻尾で肩を小突かれるのだ。達人という域に達した彼はヤヒコのくだらない雑念をすぐに感じ取ってしまう。なんなら日常の思考までも読まれているのではないかと恐ろしく思う。
しかし、チョンユエはヤヒコが少しずつ坐禅を通して集中力が高まり精神的に安定する術を手に入れる様子に笑顔を浮かべる。まるで自分に子供が出来たかのようだ。その様子は司歳台の者がある意味難色を示した兆候でもあった。
ヤヒコを捕縛し、調査をした結果少なくとも人でないことが判明した。村を焼き払い、森を燃やし空高く天にまで届きそうな炎を出し続け村に押し寄せる満ち潮を蒸発させる火力。こんなものを人と呼べるはずもないのだが、人のように見せかけた何かであると確信できたのだ。ヤヒコが自分のこと、司歳台のこと、そして炎国の言葉もわからない当初、指示により抹殺するつもりだった。正しくは殺すことができなかったのだが、アーツに対して高い防御を持ち、しかもそれを知ったチョンユエが烈火の如く怒りを露わにしたのだ。
その件以降、ヤヒコが突然発火しないようチョンユエに監視と管理を言い渡した。もちろんヤヒコが暴走した場合、歳の力を持ってヤヒコ抹殺するよう厳命する。そうでもしなければならない存在であることはチョンユエ自身深く理解しているだろうに。
つまりチョンユエがヤヒコを自身の娘のように扱えば扱うほどに、炎国に対して離反する可能性が高まるのだ。今更とは一部の司歳台も思うが人ならざる、巨獣の代理人。いつ何がきっかけで道を分つかわからない。
炎国の上層部はチョンユエの動向を深く監視するようになった。
「随分集中できるようになったな」
「?」
まだ言葉に不慣れなヤヒコを見て、笑顔を浮かべながら頭を撫でる。そうして同じ言葉を言えば誉められているとわかったようだ。照れるようにはにかんだ。
「今日は新しいことをやってみよう」
チョンユエが構える。同じようにヤヒコも真似をする。意図が伝わったようで再び笑顔で別の構えをとる。ヤヒコはチョンユエの動きを真似し続けるが、それが何度かループしていることに気づいた。さらにヤヒコがイメージしているような「太極拳」の動きに似ている。
「上手だ、飲み込みがはやいな」
ゆったりした動きをしているためヤヒコは、こんなの何時間でもできそうだと思った。しかしチョンユエは何パターンも叩き込もうとする。あれこれ無駄な動きをすると余計疲弊してしまい、結局今日も疲れ切ってしまった。
手加減はしているようだがヤヒコにとってスパルタだ。これまでは坐禅の後炎国の言葉を教えられていたが、一日の時間割が一コマ増えたようなものだ。しかも語学もなかなか厳しい。極東翻訳の炎国辞書を用意してくれたはいいものの、日記を書けと言われ提出すれば赤ペンで指摘されて返ってくる。言葉の順序が逆だの、意味が通じないだの、その赤ペンを翻訳すればするほど憂鬱になるというもの。
「今日はここまでにしよう。また明日、時間通りに来るからな」
「……」
今日の授業が終わった。息を吐く。体を動かした分今日は早く眠れるだろう。
「ヤヒコ、髪が長くなったな。少し切ろうか」
黒い指先が髪をひとふさ掬い上げる。それから前髪を左右に分けるが、視界がぼやけて何も見えない上にここから出ることはない。髪を切り目が見えたって意味はないと顔を背けた。チョンユエはヤヒコの視力の悪さをよく知っている。辞書をよく近づけて読むだけでなく文字を書く時すら体を曲げて凝視しているのだ。そんなヤヒコのためにあれこれ手を回したいのだが、ヤヒコを外に連れて行くことはもちろん、医者を呼んで目を見てもらうことすらできない。
だからチョンユエは早く発火の操作に慣れて無害であることを証明したかった。
「また明日。しっかり寝なさい」
毎回そう言ってヤヒコの頭を撫でる。ヤヒコはその言葉がどういう意味か知っているのでオウム返しをしていた。
「また明日」
正しくは、今の心情を口にできるほど言葉が堪能ではないという意味だが。
翌日、チョンユエはいつもの通りヤヒコの元へ向かった。監視部屋の外では相変わらず研究者や司歳台の者がヤヒコの精神分析、生態調査を続けている。それでも少しでも早く監視から解放されるよう尽力するのがチョンユエの役目だと信じていた。
「おはよう、ヤヒコ」
「……おはよう」
机の上に置かれたノートを開くが昨日の日記は書かれていない。ため息を堪えてヤヒコの正面に座った。
「日記は?」
「……」
「毎日書きなさいと言っただろう」
何の返事もない。同じく歳の代理人である弟、妹たちもヤヒコと同じくチョンユエをあしらったりするのでこういったことは慣れている。むしろ口答えしない上に反抗もしないので楽なほうだ。
「ヤヒコ?」
唇を固く閉ざして膝を抱える。ヤヒコにいろいろな事を教え始めてしばらく経つ。無言の長さが今のヤヒコとチョンユエの壁なのだと知らされた。
そもそもチョンユエはヤヒコの事を何も知らない。知る必要さえないと思っていた。この世界では両親のいない子など珍しくもない。記憶がない者もいる。そんなありふれた子なのだろうと帰結していた。それは歳である故か、もしくは早くここから出してやりたいと思っているせいか。
突如部屋から多くの職員がやってきた。その手には多くの拘束具、消火剤が用意されている。拘束されることを知ったヤヒコはチョンユエにしがみつく。チョンユエもまたヤヒコを守るように片腕で抱き寄せた。
「ヤヒコの管理は私に任せられているはずだ」
「緊急事態です」
「緊急事態?ヤヒコは今も安定しているのに何が緊急なんだ」
「ヤヒコの炎を第二のエネルギーとして使用するための試運転が決定されました」
生きた太陽を思わせる灼熱の炎。その炎を掻い潜りヤヒコを見つけたチョンユエは、エネルギーになる前に移動都市が焼け落ちると伝えるが首を横に振られた。
「だからこそ試運転です」
「いいや、ヤヒコはここから出す必要もない。エネルギーのために炎を使う必要もない」
職員はため息をこぼした。そしてチョンユエに最後の説得として今の状況を伝えた。
「突発的な天災が二つも予報されました。駆動機構を停止し逆方向に進路転換すると必ずどちらか一つの天災に見舞われます」
「……強制的に炎で逆噴射し転換するつもりなのだろう。だがヤヒコの炎は高音なだけだ。お前たちの思うような結果は得られないはずだ」
「原理を今ここで話し合う時間はありません。ですが試運転を繰り返し、運用が軌道に乗ればその炎で多くの民の命が守られる。どちらを優先すべきか、あなたなら分かるのでは?」
強制連行に乗り出した。ヤヒコを力任せに引き剥がす。チョンユエはたまらず叫んだ。
「ヤヒコに触るな!」
激昂にヤヒコを拘束する手が止まるが、冷静な男はチョンユエの背中に疑問を投げかけた。
「それは人ではありませんよ?」
まさに、チョンユエの感情は我ら人間には全く意味がわからないと言わんばかりだ。当然のような疑問の声にチョンユエの反応は鈍ってしまった。
ヤヒコは発火するが消火剤を被り力を失った。炎の熱で室内の気温は上がったがそれ以外の影響はない。
「だが……ヤヒコは」
「人は燃えません。火の熱に皮膚は耐えられない。それに……あなたとも違う存在です」
チョンユエはそれでも連れて行くなと言うだけだ。人間に手を出せないチョンユエは相応しい理由も出せないまま現実に打ちのめされてしまった。
ヤヒコは移動都市エネルギー変換の試運転燃料となった。
