少年期
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
端的に言えば、李典を警戒していた理由は「勘」が鋭いからだ。
人間には第六感というものがあるそうだが、李典の場合それが異常なほど働き、「なんとなくヤバそうだな〜」と警戒していればそうなるし、もちろん「こんな策があるだろうな〜」なんて予想できたりもするのだそう。
教師に書物を返しに行った時だ。
自分で言うのもなんだが気に入られているため書物を貸して欲しいと言えば即答で了承してくれた。
実際かなり勉学が捗った。
教師は私が返しに来るのを今か今かと待ちわびていたようで、書物を貸した見返りに今度軽作業を手伝って欲しいと言われた。
むろん想定済みで、私は黙ってお礼の菓子折りを出す。
甄姫が私の見た目を心配して、男性のかわし方を手紙で簡潔に教えてくれるのが功を奏した。
ただ黙ってにこっと笑えば、教師は戸惑いながらも菓子折りで手を打つしかなくなる。
私はそのまま部屋を出た。
「ああ、沖さま、ちょうど良かった」
部屋を出れば私を探していたのか、私に付きまとう生徒が現れた。
「何か」
「沖さまを探しておられる方がいたのでご案内したのです
今はお急ぎですか?」
「いえ、そうではないが…」
「相手の方は魏の勇猛な武将です
きっと沖さまの評判を聞いて……」
太鼓持ちの話は聞き流し、ついていくと遠目から分かるほど鍛えられた背中が見えた。
間違いなく、あれは李典だ。
そもそもあの天然パーマを忘れるはずがない。
「わ、悪いが、急用を思い出した
かの御仁にはうまく言ってくれ」
「ええ!そんな!」
「ばっ…!大声を…」
声に気づいたせいか、くるりと振り返る。
そうして大股で近づいた。
「よお!呼び立てて悪いな!」
「い、いえ……」
そもそも、この舎弟ヅラの野郎も先に名前を言うべきだろう。
全く使えないやつだ。
と、毒を吐いても仕方がない。
気づかれない程度に愛想を振りまくしかなかった。
「どうしても聞きたいことがあったんだ」
「それは、あなた様の時間を割くほどのものなのですか?」
「ああ」
これは気づかれたのか?
妙な汗が湧いてくる。
気づかれたら、どうすればいいのだろう。
今まで運良くバレなかったのだが、こういう時の対処法は全く考えていない。
手に汗をかいたところで
「あんたの剣、誰に教わってるんだ」
「え…いえ、その、昔馴染みの老人からです
幼い頃から教わっておりました
以前は魏の兵士として貢献されていたそうです」
「にしちゃ随分と妙な動きだったな
あれは確実に仕留める技だ」
徐庶〜〜〜〜!
助けて徐庶〜〜〜〜!
君の剣は暗殺剣なの〜〜〜〜!?
内心の私が大慌て。
ただ黙って堪えるしかない。
「別に悪く言うつもりはねぇ
むしろすげぇと思うぜ、俺
将来は文官になるのか?」
「(君の上司になるかもしれません………)
ええ、そのつもりです」
「なら尚更惜しいな
まぁ気が変わったらいつでも言ってくれ
俺が推薦してやっから」
「気遣いありがとうございます
考えさせていただきます」
李典は満足して去っていった。
ほっと胸をなで下ろす。
妙に疲れてしまい、それからは口数少なくなってしまった。
李典に顔を覚えられてしまったことに、ある意味恐怖を抱いた。
この時代、写真がないので東郷と気づくことが難しいだろう。
しかし、曹丕の娘というなら話は別だ。
いつか勘づき、言いふらされてしまったらきっと私の存在ごと再び消されてしまうかもしれない。
徐庶も、殺されてしまう。
軽率に人が死んでいく世界だ。
そういう心構えはしていなければ。
「沖殿、少し良いだろうか」
「?
ああ、構わないが」
学校で真面目に勉強していることもあって、真面目同士勉強を教えあい語り合うことも少なくない。
見た目で男女と揶揄されようともこういう人種は裏切らない。
私は第2の安らぎの場を得ようとしていた。
この真面目くん(仮名)は私の姿勢が良いと評価をくれ、それからというもの書物の貸し借りをできるほどの学友となっていた。
プライベートなことはお互い一切知らないし踏み入ろうとしない。
それがわたしには心地よかった。
「それで、話とは」
また本のことだろうか、
そんなことを想像していると、思いもよらないことを言ってきた。
「唐突ですまんが……
私は………」
少し躊躇った後、言葉を続ける。
「君のことを、ひとりの人間として、気になっている
…だから……もし…差し支えなければ……私を…君の隣に…侍らせてほしい…」
私はある意味絶望した。
この時代に娯楽が少ないことが大きな要因であろうけれど、それでも学友でさえもそんな目で私を見ていたのだ。
いや、それ自体否定したいわけじゃない。
ただ私が、男・女としての私以外の何かになれる居場所を急に奪われて勝手に絶望しているだけだ。
「……すまない…私は、君を学友としか、考えていなかった
勘違いをさせていたなら、平伏し、謝ろう」
「へ、平伏などと
……いや、私が軽率だった…すまない…この話は無かったことにしてくれ…」
外にそういうことを求めてはいけないのだ。
私は常に仮面をつけるべきなのだ。
何事にも崩されない仮面を。
「姫、どうされたのですか」
「何がです」
徐庶は私を見るなりそう言い出した。
「姫はそんなお顔をされたことがありません
何かありましたか
俺にできることなら…」
「なら姫と呼ぶのをやめてくれ」
「…………」
徐庶は何も言わず、悲しい顔で私を見た。
私も、なんてことを言ってしまったのかと後悔した。
徐庶は私に気を遣って今まで姫と呼んでくれたのに。
せめて、と
私が素のままで居られる場所を与えてくれたのに。
「…ごめんなさい、八つ当たり、してしまって…っ」
「いえ、いいえ、良いのです」
泣いてはいけないと、堪えるも堪えることがより涙を浮かばせてしまった。
結局ひとしずく落としてしまえば追随するように溢れてくる。
「ご、ごめんなさい、こんなつもりじゃ」
徐庶は羽織を脱いで私の頭にかけた。
「いいんです
大丈夫ですから」
そう言って優しく撫でてくれた。
徐庶の前では簡単に子供に戻されてしまう。
だから、男に男として好かれたことを言った。
これからも人を騙して生きていかなければならないのかと問うた。
徐庶は何も答えられなかったが、それでも
「俺がお側におります
俺を利用してください
それで東郷さまが幸せになるのであれば本望です」
濡れて冷たくなった頰を拭う。
「東郷さまに何があっても、
命が果てても、ずっと忠臣であり続けます」
「…命を粗末にしちゃだめです……」
ぼんやりと伝えた。
徐庶は苦笑した。
「ええ、ありがとうございます」
それから私は徐庶を抱きしめた。
わがままを聞いてくれて、情けない私に愛想も尽かさず、ただずっと飽きもせず側にいてくれて。
「ありがとうございます、徐庶さん」
「…そう仰ってくださるだけで、俺は救われます」
そうして、県校を卒業する。
大学への打診もあったが、父である曹丕からの直々の命令があった。
魏の西に位置する、沿岸部の地方の行政を任されることになった。
言うなれば地方公務員の課長クラスか。
名称は「武徳候」
候は紛れもなく称号を表す。
そこで行政の経験を積め、とでも言いたいのだろう。
また遠くにやられてしまうことに不安感を持つ。
それに、この称号を与えられるということは偽名を捨て、本格的に曹叡として生きなければならない
いわゆるメジャーデビューというやつだ。
「大丈夫ですか」
徐庶も心配してくれている。
「ええ、多少不安ではありますが」
「姫なら心配いりません
俺も甄夫人の命を受けてお力添えするよう賜っています」
「そうですか…」
甄姫も心労が絶えないだろう。
都を離れる前に曹丕に挨拶するつもりでいたが、甄姫にも顔を見せなければならない。
「ところで、青州がどんなところか、ご存知ですか」
「ええ、まぁ…ふんわりと把握してますが」
「沿岸部に位置し、半島にある魏の領土との交易の場となっています
それゆえに活気付いていますし、他国との交易品も流れてきます」
「へぇ…なんだかすごそうです」
「きっと姫の好奇心を満たすものもあるかもしれません」
そう言われれば、ワクワクする。
結局私は狭い世界しか知らないのだ。
どんなものがあるのか、それを思案するだけでも不安は払拭された。
やはり徐庶は言葉がうまい。
曹丕の元に訪れ、出立の挨拶をする。
年を経るごとに顔つきが頼もしくなると言われるが、そりゃ男のフリをして神経張り巡らせていれば顔つきも変わるだろう。
ただ、為政者としてならば多少顔は恐ろしいほうが良いに決まっている。
それに間違っても女とは思われないだろう。
「これより、それまでの偽名を捨て、曹叡と名乗るが良い
字は好きに決めよ」
「は…字…ですか」
決めてもらうのではなく、自分で決めてもいいのか。
いわゆる本来の名前を隠すための名前…だが、いまいちこの文化は分からない。
これも前世の記憶が無駄にあるせいだろう。
「では…元仲、と」
曹丕はしばし無言になり、笑い出す。
「よもや名前まで取るとはよほど気に入っているように見える」
何のことか分からなかったが、はっとした。
元直と元仲、響きがとても似ている。
無意識にでもその字を真似てしまったのだろう。
「あ、あの、やっぱり…もう少し…」
「よい、良い
元仲、今後より一層励むが良い」
「は…はい!」
曹丕は娘に対して頰を撫でた。
そして離れて、ただの為政者に戻る。
「下がって良い」
「は」
深く礼をして部屋を出た。
控えていた徐庶を見て、いたたまれない気持ちになっていた。
「どうかされましたか?」
「えっと……字…なんですが…」
「ええ」
「うっかり…元仲って…名乗りまして……」
じわじわと、顔が赤くなる。
徐庶は少しだけ笑った。
「光栄です、太子」
「いえ…ご、ごめんなさい…なんだか…恥ずかしい…」
「俺の字が一生涯真名を守る盾となるなら、本望です」
徐庶からそんなことを言われるとは想像もしていなかった。
とにかく恥ずかしくって、顔を背けた。
母、甄姫にも挨拶をする。
字を伝えると、一瞬徐庶に目を向けたがそれだけで別段特別なことを言うことはなかった。
ただ、道中気を付けなさいとか、そう言った一般的な母親としての心配だ。
「母上もお体に気をつけて…
お手紙を献上いたします」
「ええ、楽しみにしていますわ」
そうして青州へと旅立った。
3週間ほど時間はかかったが、青州は端的にいい場所だった。
透き通った海が、とても美しい。
地球の海とはこれほどまでに美しいのだ。
「すごいっ、元直さんっ海ですよ!
きれーっ!」
「元仲殿、素が出てますよ」
「あっ、ごほん…………海…綺麗…!」
「あはは…(あんまり変わってない…)」
何せ長い間娯楽らしい娯楽がなかったのだ。
それにこれからまた内陸の方へ進む。
ここに立ち寄ったのは見学のためにすぎない。
海に近づき、波打ち際ではしゃぐ。
簡素に作られた桟に乗り、海の中に泳ぐ魚を見つけて感激した。
「元直さーん!こっち綺麗ですよーっ!」
徐庶は苦笑する。
歩いてきているのが見えたので駆け寄って手を握った。
「こっちですよ!魚も綺麗なんです!」
「げ、元仲殿…!」
引っ張って、海を見せる。
「海って、本当に綺麗…
徐庶さんと見れてよかったです」
「……ええ、俺もです」
徐庶も少しだけ頰が赤い。
にこにこしていたが、ふと手を気づく。
「あっ…ご、ごめんなさい…」
「いえ、いいんですよ」
「…徐庶さん、もう少し私に厳しくしても、怒ってもいいんですよ?」
「え、何故ですか?」
「…私はまだまだ子供で、人間としては未成熟で、頼りないところが沢山あります
いくら徐庶さんでもいつか愛想尽かされたりするかなって…だって、四六時中子どものお守りをさせているみたいで申し訳なくて」
「そんなこと…全く…考えたこともありませんでした……」
徐庶自身気づいていなかったらしく、今までのことを思い浮かべて、付きっきりの教育かがりなど異例だと気づいたようだ。
少しだけ渋い顔をする。
「すみません、全く、苦ではありません
むしろ俺は姫の隣が心地いいのです
ですのでそんなに気を負うことはありませんよ
どうかありのままの、姫でいてください」
「ほ、本当ですか?」
「はい、もちろん」
安堵して笑みが溢れる。
徐庶にまで疎ましく思われていたら正直立ち直れない。
ずっと陰鬱な人生のままだろう。
「姫はやはり笑顔が素敵ですね」
ほとんどの時間を徐庶と過ごしていたはずなのに、そんな褒め言葉はまだ慣れずに頰が熱くなる。
人間には第六感というものがあるそうだが、李典の場合それが異常なほど働き、「なんとなくヤバそうだな〜」と警戒していればそうなるし、もちろん「こんな策があるだろうな〜」なんて予想できたりもするのだそう。
教師に書物を返しに行った時だ。
自分で言うのもなんだが気に入られているため書物を貸して欲しいと言えば即答で了承してくれた。
実際かなり勉学が捗った。
教師は私が返しに来るのを今か今かと待ちわびていたようで、書物を貸した見返りに今度軽作業を手伝って欲しいと言われた。
むろん想定済みで、私は黙ってお礼の菓子折りを出す。
甄姫が私の見た目を心配して、男性のかわし方を手紙で簡潔に教えてくれるのが功を奏した。
ただ黙ってにこっと笑えば、教師は戸惑いながらも菓子折りで手を打つしかなくなる。
私はそのまま部屋を出た。
「ああ、沖さま、ちょうど良かった」
部屋を出れば私を探していたのか、私に付きまとう生徒が現れた。
「何か」
「沖さまを探しておられる方がいたのでご案内したのです
今はお急ぎですか?」
「いえ、そうではないが…」
「相手の方は魏の勇猛な武将です
きっと沖さまの評判を聞いて……」
太鼓持ちの話は聞き流し、ついていくと遠目から分かるほど鍛えられた背中が見えた。
間違いなく、あれは李典だ。
そもそもあの天然パーマを忘れるはずがない。
「わ、悪いが、急用を思い出した
かの御仁にはうまく言ってくれ」
「ええ!そんな!」
「ばっ…!大声を…」
声に気づいたせいか、くるりと振り返る。
そうして大股で近づいた。
「よお!呼び立てて悪いな!」
「い、いえ……」
そもそも、この舎弟ヅラの野郎も先に名前を言うべきだろう。
全く使えないやつだ。
と、毒を吐いても仕方がない。
気づかれない程度に愛想を振りまくしかなかった。
「どうしても聞きたいことがあったんだ」
「それは、あなた様の時間を割くほどのものなのですか?」
「ああ」
これは気づかれたのか?
妙な汗が湧いてくる。
気づかれたら、どうすればいいのだろう。
今まで運良くバレなかったのだが、こういう時の対処法は全く考えていない。
手に汗をかいたところで
「あんたの剣、誰に教わってるんだ」
「え…いえ、その、昔馴染みの老人からです
幼い頃から教わっておりました
以前は魏の兵士として貢献されていたそうです」
「にしちゃ随分と妙な動きだったな
あれは確実に仕留める技だ」
徐庶〜〜〜〜!
助けて徐庶〜〜〜〜!
君の剣は暗殺剣なの〜〜〜〜!?
内心の私が大慌て。
ただ黙って堪えるしかない。
「別に悪く言うつもりはねぇ
むしろすげぇと思うぜ、俺
将来は文官になるのか?」
「(君の上司になるかもしれません………)
ええ、そのつもりです」
「なら尚更惜しいな
まぁ気が変わったらいつでも言ってくれ
俺が推薦してやっから」
「気遣いありがとうございます
考えさせていただきます」
李典は満足して去っていった。
ほっと胸をなで下ろす。
妙に疲れてしまい、それからは口数少なくなってしまった。
李典に顔を覚えられてしまったことに、ある意味恐怖を抱いた。
この時代、写真がないので東郷と気づくことが難しいだろう。
しかし、曹丕の娘というなら話は別だ。
いつか勘づき、言いふらされてしまったらきっと私の存在ごと再び消されてしまうかもしれない。
徐庶も、殺されてしまう。
軽率に人が死んでいく世界だ。
そういう心構えはしていなければ。
「沖殿、少し良いだろうか」
「?
ああ、構わないが」
学校で真面目に勉強していることもあって、真面目同士勉強を教えあい語り合うことも少なくない。
見た目で男女と揶揄されようともこういう人種は裏切らない。
私は第2の安らぎの場を得ようとしていた。
この真面目くん(仮名)は私の姿勢が良いと評価をくれ、それからというもの書物の貸し借りをできるほどの学友となっていた。
プライベートなことはお互い一切知らないし踏み入ろうとしない。
それがわたしには心地よかった。
「それで、話とは」
また本のことだろうか、
そんなことを想像していると、思いもよらないことを言ってきた。
「唐突ですまんが……
私は………」
少し躊躇った後、言葉を続ける。
「君のことを、ひとりの人間として、気になっている
…だから……もし…差し支えなければ……私を…君の隣に…侍らせてほしい…」
私はある意味絶望した。
この時代に娯楽が少ないことが大きな要因であろうけれど、それでも学友でさえもそんな目で私を見ていたのだ。
いや、それ自体否定したいわけじゃない。
ただ私が、男・女としての私以外の何かになれる居場所を急に奪われて勝手に絶望しているだけだ。
「……すまない…私は、君を学友としか、考えていなかった
勘違いをさせていたなら、平伏し、謝ろう」
「へ、平伏などと
……いや、私が軽率だった…すまない…この話は無かったことにしてくれ…」
外にそういうことを求めてはいけないのだ。
私は常に仮面をつけるべきなのだ。
何事にも崩されない仮面を。
「姫、どうされたのですか」
「何がです」
徐庶は私を見るなりそう言い出した。
「姫はそんなお顔をされたことがありません
何かありましたか
俺にできることなら…」
「なら姫と呼ぶのをやめてくれ」
「…………」
徐庶は何も言わず、悲しい顔で私を見た。
私も、なんてことを言ってしまったのかと後悔した。
徐庶は私に気を遣って今まで姫と呼んでくれたのに。
せめて、と
私が素のままで居られる場所を与えてくれたのに。
「…ごめんなさい、八つ当たり、してしまって…っ」
「いえ、いいえ、良いのです」
泣いてはいけないと、堪えるも堪えることがより涙を浮かばせてしまった。
結局ひとしずく落としてしまえば追随するように溢れてくる。
「ご、ごめんなさい、こんなつもりじゃ」
徐庶は羽織を脱いで私の頭にかけた。
「いいんです
大丈夫ですから」
そう言って優しく撫でてくれた。
徐庶の前では簡単に子供に戻されてしまう。
だから、男に男として好かれたことを言った。
これからも人を騙して生きていかなければならないのかと問うた。
徐庶は何も答えられなかったが、それでも
「俺がお側におります
俺を利用してください
それで東郷さまが幸せになるのであれば本望です」
濡れて冷たくなった頰を拭う。
「東郷さまに何があっても、
命が果てても、ずっと忠臣であり続けます」
「…命を粗末にしちゃだめです……」
ぼんやりと伝えた。
徐庶は苦笑した。
「ええ、ありがとうございます」
それから私は徐庶を抱きしめた。
わがままを聞いてくれて、情けない私に愛想も尽かさず、ただずっと飽きもせず側にいてくれて。
「ありがとうございます、徐庶さん」
「…そう仰ってくださるだけで、俺は救われます」
そうして、県校を卒業する。
大学への打診もあったが、父である曹丕からの直々の命令があった。
魏の西に位置する、沿岸部の地方の行政を任されることになった。
言うなれば地方公務員の課長クラスか。
名称は「武徳候」
候は紛れもなく称号を表す。
そこで行政の経験を積め、とでも言いたいのだろう。
また遠くにやられてしまうことに不安感を持つ。
それに、この称号を与えられるということは偽名を捨て、本格的に曹叡として生きなければならない
いわゆるメジャーデビューというやつだ。
「大丈夫ですか」
徐庶も心配してくれている。
「ええ、多少不安ではありますが」
「姫なら心配いりません
俺も甄夫人の命を受けてお力添えするよう賜っています」
「そうですか…」
甄姫も心労が絶えないだろう。
都を離れる前に曹丕に挨拶するつもりでいたが、甄姫にも顔を見せなければならない。
「ところで、青州がどんなところか、ご存知ですか」
「ええ、まぁ…ふんわりと把握してますが」
「沿岸部に位置し、半島にある魏の領土との交易の場となっています
それゆえに活気付いていますし、他国との交易品も流れてきます」
「へぇ…なんだかすごそうです」
「きっと姫の好奇心を満たすものもあるかもしれません」
そう言われれば、ワクワクする。
結局私は狭い世界しか知らないのだ。
どんなものがあるのか、それを思案するだけでも不安は払拭された。
やはり徐庶は言葉がうまい。
曹丕の元に訪れ、出立の挨拶をする。
年を経るごとに顔つきが頼もしくなると言われるが、そりゃ男のフリをして神経張り巡らせていれば顔つきも変わるだろう。
ただ、為政者としてならば多少顔は恐ろしいほうが良いに決まっている。
それに間違っても女とは思われないだろう。
「これより、それまでの偽名を捨て、曹叡と名乗るが良い
字は好きに決めよ」
「は…字…ですか」
決めてもらうのではなく、自分で決めてもいいのか。
いわゆる本来の名前を隠すための名前…だが、いまいちこの文化は分からない。
これも前世の記憶が無駄にあるせいだろう。
「では…元仲、と」
曹丕はしばし無言になり、笑い出す。
「よもや名前まで取るとはよほど気に入っているように見える」
何のことか分からなかったが、はっとした。
元直と元仲、響きがとても似ている。
無意識にでもその字を真似てしまったのだろう。
「あ、あの、やっぱり…もう少し…」
「よい、良い
元仲、今後より一層励むが良い」
「は…はい!」
曹丕は娘に対して頰を撫でた。
そして離れて、ただの為政者に戻る。
「下がって良い」
「は」
深く礼をして部屋を出た。
控えていた徐庶を見て、いたたまれない気持ちになっていた。
「どうかされましたか?」
「えっと……字…なんですが…」
「ええ」
「うっかり…元仲って…名乗りまして……」
じわじわと、顔が赤くなる。
徐庶は少しだけ笑った。
「光栄です、太子」
「いえ…ご、ごめんなさい…なんだか…恥ずかしい…」
「俺の字が一生涯真名を守る盾となるなら、本望です」
徐庶からそんなことを言われるとは想像もしていなかった。
とにかく恥ずかしくって、顔を背けた。
母、甄姫にも挨拶をする。
字を伝えると、一瞬徐庶に目を向けたがそれだけで別段特別なことを言うことはなかった。
ただ、道中気を付けなさいとか、そう言った一般的な母親としての心配だ。
「母上もお体に気をつけて…
お手紙を献上いたします」
「ええ、楽しみにしていますわ」
そうして青州へと旅立った。
3週間ほど時間はかかったが、青州は端的にいい場所だった。
透き通った海が、とても美しい。
地球の海とはこれほどまでに美しいのだ。
「すごいっ、元直さんっ海ですよ!
きれーっ!」
「元仲殿、素が出てますよ」
「あっ、ごほん…………海…綺麗…!」
「あはは…(あんまり変わってない…)」
何せ長い間娯楽らしい娯楽がなかったのだ。
それにこれからまた内陸の方へ進む。
ここに立ち寄ったのは見学のためにすぎない。
海に近づき、波打ち際ではしゃぐ。
簡素に作られた桟に乗り、海の中に泳ぐ魚を見つけて感激した。
「元直さーん!こっち綺麗ですよーっ!」
徐庶は苦笑する。
歩いてきているのが見えたので駆け寄って手を握った。
「こっちですよ!魚も綺麗なんです!」
「げ、元仲殿…!」
引っ張って、海を見せる。
「海って、本当に綺麗…
徐庶さんと見れてよかったです」
「……ええ、俺もです」
徐庶も少しだけ頰が赤い。
にこにこしていたが、ふと手を気づく。
「あっ…ご、ごめんなさい…」
「いえ、いいんですよ」
「…徐庶さん、もう少し私に厳しくしても、怒ってもいいんですよ?」
「え、何故ですか?」
「…私はまだまだ子供で、人間としては未成熟で、頼りないところが沢山あります
いくら徐庶さんでもいつか愛想尽かされたりするかなって…だって、四六時中子どものお守りをさせているみたいで申し訳なくて」
「そんなこと…全く…考えたこともありませんでした……」
徐庶自身気づいていなかったらしく、今までのことを思い浮かべて、付きっきりの教育かがりなど異例だと気づいたようだ。
少しだけ渋い顔をする。
「すみません、全く、苦ではありません
むしろ俺は姫の隣が心地いいのです
ですのでそんなに気を負うことはありませんよ
どうかありのままの、姫でいてください」
「ほ、本当ですか?」
「はい、もちろん」
安堵して笑みが溢れる。
徐庶にまで疎ましく思われていたら正直立ち直れない。
ずっと陰鬱な人生のままだろう。
「姫はやはり笑顔が素敵ですね」
ほとんどの時間を徐庶と過ごしていたはずなのに、そんな褒め言葉はまだ慣れずに頰が熱くなる。