幼少期
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うっかり、人生初の甘味である桃を食べてしまい、李典の甘味の有り難みがとても減ってしまった。
申し訳ないので喜ぶふりをしておこう。
背の高い木の下。
鍛錬場はすっかり静かになり、ここらは誰もいなくなった。
早く帰らないとまた私が怒られてしまう。
李典が来るのを今か今かと待ちわびていた。
「はぁ、はぁ、東郷姫!お待たせしました!」
「李典さん!」
ぎゅっと手に握らされたのは笹の葉で包んだ食べ物。
これが李典オススメの甘味だという。
「食べてもいいですか?」
「もっちろん!
俺は姫さまが目の前で美味しそうに食べるのを見るために走ってきたんすから」
全く、口が上手い男だ。
笹を外し、見てみるとそこには白くて丸いもの。
一瞬なんだか分からず、見上げて首を傾げた。
「それ、饅頭って言うんですよ」
「えっ、これ、饅頭?」
「そうそう」
手でちぎると中に餡が入っており、たしかに饅頭だ。
この時代にあるとは驚きだがそれにしてもいい匂いだ。
一口食べてみる。
「んう!おいひい!」
「でっしょー!
さすが俺!」
つぶあんで余計な添加物もない甘味が優しい。
そして白い生地もふわふわしていて、つぶあんとよく絡む。
素朴で優しい味とはこのことだ。
「李典さんも半分こ」
「ええっ、でも俺、姫さまに買ってきたんすけど…」
「約束忘れたんですか?」
「あっ…はい、はいはい、わかりました
頂きます」
李典と秘密で食べた饅頭は格別だった。
特に鍛錬後の甘いものは染みるようで、私より美味い美味いと言いながら食べていた。
同年代の子供がいないので友達と呼べる存在はないものの、曹子桓と甄姫以外に信頼できる大人が2人。
徐庶と李典だ。
どちらも性格は真逆ではあるが、妙に甲斐甲斐しく私にも取り合ってくれることだけは共通している。
私としてはそれだけで十分だと思えたし、以前と比べて生活は楽しくなっている。
「東郷、今日は私と外を散策しましょう」
甄姫は竹簡と睨み合っている私にそう言った。
甄姫ほどの美人であれば飽きることなどないし、そもそこの人は暖かい人だ。
いつのまにか私は生前の母を忘れて甄姫が母親なのだと、心の底から思い始めていた。
手を繋ぎ、竹簡から得た知識を母に言ってみせる。
甄姫は飽きもせず私の話に付き合ってくれた。
宮中は庭師が丁寧な仕事でいつも綺麗に保たれている。
本来なら景色を楽しむ散策なのだろうけれど。
子供らしくなくても甄姫の前だからいいか、なんて。
「それで、そこに書かれてあったのは…」
甄姫はふと視線を逸らした。
ずっと微笑みながら私を見ていたので、違和感を覚えたのだ。
「母上?」
それから何も言わずに、立ち止まる。
「……母上、どこか痛いのですか?」
「…ふふ、平気よ」
「無理しないでください
今人を呼んできます!」
近くにいた従者を呼び、すぐ部屋へ戻った。
私の前だから辛さを顔に出していなかったようだ。
だが額に汗が滲んでいる。
「医者を呼んで参ります」
床につき、楽にさせても甄姫の容態は改善しない。
とにかく私は水を汲んで悪化しないよう様子を見ていた。
あっという間に医者がやってきて診察をする。
「東郷姫さま
こちらへ」
従者に呼ばれ、部屋外へ。
「母上は…大丈夫ですか…?」
「ご不安になることなどありませんよ」
だが甄姫の症状は熱や風邪のそれではない。
どう考えても内蔵を悪くしているのだと思った。
同時に腹の底から不安感が押し寄せる。
例え症状と病名を聞けば、簡単に治りそうなものでもここ三国時代ではほぼ治らない。
実の親のように優しく接してくれる彼女は失いたくないという思いが強かった。
その日はそれ以上甄姫と会話することなく私は部屋へと戻された。
書を読むにしても身が入らず、一人ぽつんと部屋の真ん中で座っているだけ。
こんなこと、恐らく初めてだ。
やっぱり眠れないし、よくない方向へ考え込んでしまう。
結局寝不足のまま朝を迎えた。
顔を洗ってもひどく眠たい。
「東郷姫さま、甄姫さまよりお話があるとのことです」
「えっ、あ、はい、今行きます」
女中からの呼び出しで急いで甄姫の部屋へ。
息を整えてから、呼びかけた。
「母上、東郷です」
「入りなさい」
戸を開けると、いつもより分厚い衣装を身にまとっていた。
タイトな衣装ではなく、幾分体に余裕のあるものだ。
「母上、お体は…」
「ええ、そのことで話をしたくて呼んだのです」
すると甄姫は微笑むのだ。
私はなぜか分からずキョトンとする。
「私にややこができたのです」
「えっ
えっ!?」
「あなたの弟か妹になるのですよ」
数日前まではあんなに鬱だったのに
身ごもったと分かれば嬉しそうに笑う。
なぁんだ、と心配が杞憂であったことにほっとした。
「よかったあ…母上が、なにか、悪い病気になったんじゃないかって…」
「心配をかけてしまったわね
こちらにおいで」
甄姫の手招きに応じて隣に座る。
「東郷は男の子がいい?女の子がいい?」
「えっとお…男の子がいいです
いっぱい遊びたいです」
「そう、そうね、
いつか我が君、私、東郷、そしてこの子と
共に…」
知らせを聞いた曹丕も程なくして部屋へ訪れた。
いつも部屋へ訪れる側だったので面食らったが、甄姫をそれだけ大事にしていると思えば納得できる。
そしていつものイチャイチャが始まったので私は一刻も早く部屋へ帰りたくなってしまった。
日に日に甄姫は嬉しそうに大きくなる腹をみては撫でている。
赤ん坊は結構腹を蹴ると聞くが、甄姫の場合そうではないようだ。
ともあれ、生まれたての側室の赤ん坊と身ごもった甄姫。
女のバトルがすでに始まっている気しかしない。
まぁそのあたり私にはあまり関係がない。
いつものように書を読むだけだ。
「こんにちは東郷姫
この度は母君の朗報、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
いつものように徐庶は微笑む。
だがその手には書を持っていない。
「あれ、書は…」
「今日は市場を見て回りましょう」
「えっ!」
「きちんと父君…曹子桓様より許諾を得ています」
市場…5年と数ヶ月宮中にいて市場などどんなことになっているのか見たことがなかった。
単純に好奇心をそそられて急いで支度をする。
「行きましょう徐庶さん!すぐ!」
「はいはい、東郷姫、ひとつだけ約束してください」
「はい?」
「俺から離れないこと
それから、東郷姫というお名前はあまりにも有名なので、別の名前を考えましょう」
確かに。
いくら魏の首都、お膝元とはいえこの時代の治安などタカが知れている。
それにこんな身なりでは、身分が高いですと言わんばかりだ。
さらに名前を言ってしまえば攫われたり、最悪殺される。
「別の名前…ですか…」
「一度しか使わないので、楊黄、という名前はどうでしょう」
「いい名前だと思います
それがいいです」
「わかりました
では行きましょうか」
「はいっ」
徐庶は私の歩調に合わせて歩き出す。
気遣いも完璧で、疲れたらすぐに言うように、とまで。
こんなに頭が良くて優しいのにそういう相手が一人もいないことに驚きを隠せない。
いや、何だかんだと女性に好意を寄せられていて、徐庶が鈍感だから気づいてないだけかもしれない。
そういうことなら理解できる。
とうとう門を目の前にした。
外の景色がどうなっているのかドキドキする。
門番がゆっくりと開けると、さらに周囲に壁ができていた。
そこには宮中に献上する穀物や絹を運んだり、行商人の行き交いで賑わっていた。
まだ街ではないのにそこだけ独立した街のように思える。
「ここは献上品の他に交易物を運び入れたりする場です。
人通りが多いので少し迂回しましょう」
「はい」
子供の目線からすれば大人たちで埋め尽くされているようにしか見えない。
徐庶の袖を掴んでついていった。
門の外にさらに交易・物資搬入エリアがあり、そのエリアには東西南北に4つの出入り口が設けられている。
三国時代でこんなに建築能力があったのか驚きだが、一部武将の鎧がとても精巧なものなのである意味納得した。
ともかく迂回をすれば眼前に市場があった。
宮中と違ってほとんどが木の枠組みに土壁で補強されたような建物。
質素ではあるがだからといって賑わっていないわけではない。
人々は客を呼び込んだり仕事の合間に談笑したり、とにかく人としての暮らしをしていた。
「すごい、にぎわってます」
「ええ、ここ最近は交易に着手しており……ああ、ええと
他の地域と物を買ったり、送ったりしているんです
そのおかげで人が多く、特に今が賑わってます」
「へぇ……」
「楊黄は外の様子を一度もご覧になったことがないとのことでしたので
もう少し回ってみましょう
いい経験になると思います」
「はい!」
表通りは賑わっていて、逆に裏通りはどうなのかと思いきや、思っていたほど浮浪者や貧困者が溢れかえっているわけではない。
ただ、働いている子供が多い気がした。
「こどもが働いてる…」
「彼らは親の助けになるよう働いていますが
親を戦で無くし、一人で生きていかなくてはならない者もいます」
(なんの補助もないんだ…っていうかそういう発想がないのか…)
「戦は益も産みますが損も産みます
どちらを重要視するか、それは治世者に委ねられるものです」
「じょ………元直さんはどっち?」
「…俺は……損ばかり、見てしまいますね」
まぁ、聞かなくてもそうだろうなとは思っていた。
こんなに優しくて丸くて腰の低い人は戦を好むはずがない。
逆に安心した。
「楊黄、どうか戦乱に巻き込まれぬよう賢く生き抜いてください」
その言葉にやたらと重みを感じた。
だがこんな時代に生きておいて何もないはずがない。
私は頷いた。
「元直さんは、戦に出ますか?」
「俺ですか?俺はもう出られません
そういう誓いを立てた身です」
(誓い…?この人が?曹丕に?)
戦わない誓いというのは一体どういうことなのか。
理解しがたいが、そういうものもあるのだと思い込んだ。
深く突っ込まれても徐庶が困るに違いない。
「ではそろそろ戻りましょうか」
「はい」
人の賑わいを見て満足した。
祖父の曹操の治世はとても良いのだと確信を得た。
それに、部屋に閉じこもるばかりではどれだけ勉強したって何も分からないだろう。
連れ出してくれた徐庶には感謝しなければ。
「ありがとうございます、元直さん
とても勉強になりました」
「それはよかった」
「また連れてってくださいね」
「そうですね
次はどこがいいかな…」
徐庶はさっそく考え込んでいる。
初めての街で見上げる徐庶はなんだか新鮮で、ボヤキも面白くて、少しだけ笑ってしまう。
「………楊黄、こちらへ」
「え?」
それまで徐庶の左側に立っていたが急に手を引かれて右側に連れられる。
声音の変化に何があったのかと思えば、身なりが雑でところどころ体に不釣り合いな鎧を着ている男がいた。
一目でわかる。ならず者だと。
徐庶の手をぎゅっと握って知らぬ顔で歩く。
そうしていると、後ろから足音が聞こえた。
ガチャガチャと鎧が擦れる音もするので、後を歩いているのだと気づく。
じんわりと汗をかいてしまう。
すると、男は私の前に回り込んで隅々まで見ていた。
咄嗟に避けようとすると
「随分いい身なりしたガキだなぁ」
テンプレートな発言をした。
もう少し頭をひねった言葉を選んでくれたら面白かったのに。
緊張のあまりこのように私は現実逃避してしまう。
「失礼、通してくれるかい」
「こんなガキのお守りするくらいだからいいもん持ってるだろ?」
とはいえ徐庶の優しそうな顔も絡まれる原因か。
人を見た目で判断して絡んでいいわけではないが、そんな言葉は知性の低い相手には通用しない。
付け入る弱さがあればそこを確実に狙うのがこの時代の生き方だ。
「へぇ、見事な染色だなこりゃ」
不意に私の腕を引っ張った。
反射的に引っ込めようとするが男の力に敵うはずもなく、抵抗は無意味に終わった。
が、男の腕を掴みもう一対の拳を首の横に置いている。
徐庶が一瞬で迷いもなくそんな行動をとった。
小さい私は何をしているのかわからないまま、ぽかんと見上げる。
「…離してくれるか」
男は無言のまま私の腕を離した。
徐庶もゆっくり離れる。
改めて私の手を握り何事もなかったかのように歩き出した。
男はそれからついてこなくなった。
宮中にはいり、やっと落ち着ける、と思った矢先に徐庶が盛大なため息をこぼした。
「はぁ〜〜〜」
「あっ、あの、徐庶さん、大丈夫ですか」
「東郷姫、お怪我はないですか?
痛くなかったですか?
申し訳ありません、うまくお守りできず」
徐庶の顔は真っ青だ。
おそらくあれほど落ち着いた対応をしておきながら内心死ぬほど焦っていたのだろう。
思わず笑ってしまう。
「ふ、ふふ、徐庶さんおもしろい」
「わ、笑ってる場合じゃありません」
「私は大丈夫です
ちゃんと徐庶さんがまもってくれたので
それに、徐庶さんお強いです」
徐庶は少しだけ俯いて照れたように笑った。
だが、自分で気合を入れなおすように目つきを変える。
「ですが、お守りできなかったのは事実です
次回から街に降りるのは控えた方がよろしいですね」
「えっ」
「交易をしているということは他国からああいった者が入りやすくなるということです」
「やだ!また徐庶さんといきたいです!」
「そう仰られても…俺も報告する義務がありますし」
「じゃあ内緒にしましょう」
「だめですよ!
というかそんな発想したらダメです!」
「そしたら徐庶さん明日来なくなるかもしれないです」
「そうだとしても
街の治安についても報告を兼ねなければなりません」
身分が危うくなるような脅しをしても徐庶は引かない。
いや、というより殊更、昇進など興味がないのだろう。
それに頭がいいので頭をひねった脅しは効かないだろう。
「……もう街におりれない?」
「はい、少なくとも賑わいが落ち着くまでは」
「………徐庶さんと外でれない…?」
「はい…」
「どうしても?だめ?」
「………………だ、ダメです」
こいつ案外チョロそうだ。
少し首を傾げれば真顔で考え込む程度に揺らいだ。
もしかすれば、頭を使うことより心情に訴えればなんとかなるかもしれない。
「ずっと、外にでられなくて、初めて徐庶さんが連れてってくれたから…嬉しくって…」
「………………その…お気持ちは…お察ししますが………」
「本当に、もうだめ…?」
ぐっと堪える顔をしたが徐庶ははっきりと答えた。
「ダメです」
「……わかりました」
ずっと握っていた手に何度も力を入れる。
「徐庶さん、明日も来てくださいね
約束ですよ」
「…ええ、わかりました」
私の小さな手の上に、徐庶の手が重なる。
そうして今日の授業は終了した。
申し訳ないので喜ぶふりをしておこう。
背の高い木の下。
鍛錬場はすっかり静かになり、ここらは誰もいなくなった。
早く帰らないとまた私が怒られてしまう。
李典が来るのを今か今かと待ちわびていた。
「はぁ、はぁ、東郷姫!お待たせしました!」
「李典さん!」
ぎゅっと手に握らされたのは笹の葉で包んだ食べ物。
これが李典オススメの甘味だという。
「食べてもいいですか?」
「もっちろん!
俺は姫さまが目の前で美味しそうに食べるのを見るために走ってきたんすから」
全く、口が上手い男だ。
笹を外し、見てみるとそこには白くて丸いもの。
一瞬なんだか分からず、見上げて首を傾げた。
「それ、饅頭って言うんですよ」
「えっ、これ、饅頭?」
「そうそう」
手でちぎると中に餡が入っており、たしかに饅頭だ。
この時代にあるとは驚きだがそれにしてもいい匂いだ。
一口食べてみる。
「んう!おいひい!」
「でっしょー!
さすが俺!」
つぶあんで余計な添加物もない甘味が優しい。
そして白い生地もふわふわしていて、つぶあんとよく絡む。
素朴で優しい味とはこのことだ。
「李典さんも半分こ」
「ええっ、でも俺、姫さまに買ってきたんすけど…」
「約束忘れたんですか?」
「あっ…はい、はいはい、わかりました
頂きます」
李典と秘密で食べた饅頭は格別だった。
特に鍛錬後の甘いものは染みるようで、私より美味い美味いと言いながら食べていた。
同年代の子供がいないので友達と呼べる存在はないものの、曹子桓と甄姫以外に信頼できる大人が2人。
徐庶と李典だ。
どちらも性格は真逆ではあるが、妙に甲斐甲斐しく私にも取り合ってくれることだけは共通している。
私としてはそれだけで十分だと思えたし、以前と比べて生活は楽しくなっている。
「東郷、今日は私と外を散策しましょう」
甄姫は竹簡と睨み合っている私にそう言った。
甄姫ほどの美人であれば飽きることなどないし、そもそこの人は暖かい人だ。
いつのまにか私は生前の母を忘れて甄姫が母親なのだと、心の底から思い始めていた。
手を繋ぎ、竹簡から得た知識を母に言ってみせる。
甄姫は飽きもせず私の話に付き合ってくれた。
宮中は庭師が丁寧な仕事でいつも綺麗に保たれている。
本来なら景色を楽しむ散策なのだろうけれど。
子供らしくなくても甄姫の前だからいいか、なんて。
「それで、そこに書かれてあったのは…」
甄姫はふと視線を逸らした。
ずっと微笑みながら私を見ていたので、違和感を覚えたのだ。
「母上?」
それから何も言わずに、立ち止まる。
「……母上、どこか痛いのですか?」
「…ふふ、平気よ」
「無理しないでください
今人を呼んできます!」
近くにいた従者を呼び、すぐ部屋へ戻った。
私の前だから辛さを顔に出していなかったようだ。
だが額に汗が滲んでいる。
「医者を呼んで参ります」
床につき、楽にさせても甄姫の容態は改善しない。
とにかく私は水を汲んで悪化しないよう様子を見ていた。
あっという間に医者がやってきて診察をする。
「東郷姫さま
こちらへ」
従者に呼ばれ、部屋外へ。
「母上は…大丈夫ですか…?」
「ご不安になることなどありませんよ」
だが甄姫の症状は熱や風邪のそれではない。
どう考えても内蔵を悪くしているのだと思った。
同時に腹の底から不安感が押し寄せる。
例え症状と病名を聞けば、簡単に治りそうなものでもここ三国時代ではほぼ治らない。
実の親のように優しく接してくれる彼女は失いたくないという思いが強かった。
その日はそれ以上甄姫と会話することなく私は部屋へと戻された。
書を読むにしても身が入らず、一人ぽつんと部屋の真ん中で座っているだけ。
こんなこと、恐らく初めてだ。
やっぱり眠れないし、よくない方向へ考え込んでしまう。
結局寝不足のまま朝を迎えた。
顔を洗ってもひどく眠たい。
「東郷姫さま、甄姫さまよりお話があるとのことです」
「えっ、あ、はい、今行きます」
女中からの呼び出しで急いで甄姫の部屋へ。
息を整えてから、呼びかけた。
「母上、東郷です」
「入りなさい」
戸を開けると、いつもより分厚い衣装を身にまとっていた。
タイトな衣装ではなく、幾分体に余裕のあるものだ。
「母上、お体は…」
「ええ、そのことで話をしたくて呼んだのです」
すると甄姫は微笑むのだ。
私はなぜか分からずキョトンとする。
「私にややこができたのです」
「えっ
えっ!?」
「あなたの弟か妹になるのですよ」
数日前まではあんなに鬱だったのに
身ごもったと分かれば嬉しそうに笑う。
なぁんだ、と心配が杞憂であったことにほっとした。
「よかったあ…母上が、なにか、悪い病気になったんじゃないかって…」
「心配をかけてしまったわね
こちらにおいで」
甄姫の手招きに応じて隣に座る。
「東郷は男の子がいい?女の子がいい?」
「えっとお…男の子がいいです
いっぱい遊びたいです」
「そう、そうね、
いつか我が君、私、東郷、そしてこの子と
共に…」
知らせを聞いた曹丕も程なくして部屋へ訪れた。
いつも部屋へ訪れる側だったので面食らったが、甄姫をそれだけ大事にしていると思えば納得できる。
そしていつものイチャイチャが始まったので私は一刻も早く部屋へ帰りたくなってしまった。
日に日に甄姫は嬉しそうに大きくなる腹をみては撫でている。
赤ん坊は結構腹を蹴ると聞くが、甄姫の場合そうではないようだ。
ともあれ、生まれたての側室の赤ん坊と身ごもった甄姫。
女のバトルがすでに始まっている気しかしない。
まぁそのあたり私にはあまり関係がない。
いつものように書を読むだけだ。
「こんにちは東郷姫
この度は母君の朗報、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
いつものように徐庶は微笑む。
だがその手には書を持っていない。
「あれ、書は…」
「今日は市場を見て回りましょう」
「えっ!」
「きちんと父君…曹子桓様より許諾を得ています」
市場…5年と数ヶ月宮中にいて市場などどんなことになっているのか見たことがなかった。
単純に好奇心をそそられて急いで支度をする。
「行きましょう徐庶さん!すぐ!」
「はいはい、東郷姫、ひとつだけ約束してください」
「はい?」
「俺から離れないこと
それから、東郷姫というお名前はあまりにも有名なので、別の名前を考えましょう」
確かに。
いくら魏の首都、お膝元とはいえこの時代の治安などタカが知れている。
それにこんな身なりでは、身分が高いですと言わんばかりだ。
さらに名前を言ってしまえば攫われたり、最悪殺される。
「別の名前…ですか…」
「一度しか使わないので、楊黄、という名前はどうでしょう」
「いい名前だと思います
それがいいです」
「わかりました
では行きましょうか」
「はいっ」
徐庶は私の歩調に合わせて歩き出す。
気遣いも完璧で、疲れたらすぐに言うように、とまで。
こんなに頭が良くて優しいのにそういう相手が一人もいないことに驚きを隠せない。
いや、何だかんだと女性に好意を寄せられていて、徐庶が鈍感だから気づいてないだけかもしれない。
そういうことなら理解できる。
とうとう門を目の前にした。
外の景色がどうなっているのかドキドキする。
門番がゆっくりと開けると、さらに周囲に壁ができていた。
そこには宮中に献上する穀物や絹を運んだり、行商人の行き交いで賑わっていた。
まだ街ではないのにそこだけ独立した街のように思える。
「ここは献上品の他に交易物を運び入れたりする場です。
人通りが多いので少し迂回しましょう」
「はい」
子供の目線からすれば大人たちで埋め尽くされているようにしか見えない。
徐庶の袖を掴んでついていった。
門の外にさらに交易・物資搬入エリアがあり、そのエリアには東西南北に4つの出入り口が設けられている。
三国時代でこんなに建築能力があったのか驚きだが、一部武将の鎧がとても精巧なものなのである意味納得した。
ともかく迂回をすれば眼前に市場があった。
宮中と違ってほとんどが木の枠組みに土壁で補強されたような建物。
質素ではあるがだからといって賑わっていないわけではない。
人々は客を呼び込んだり仕事の合間に談笑したり、とにかく人としての暮らしをしていた。
「すごい、にぎわってます」
「ええ、ここ最近は交易に着手しており……ああ、ええと
他の地域と物を買ったり、送ったりしているんです
そのおかげで人が多く、特に今が賑わってます」
「へぇ……」
「楊黄は外の様子を一度もご覧になったことがないとのことでしたので
もう少し回ってみましょう
いい経験になると思います」
「はい!」
表通りは賑わっていて、逆に裏通りはどうなのかと思いきや、思っていたほど浮浪者や貧困者が溢れかえっているわけではない。
ただ、働いている子供が多い気がした。
「こどもが働いてる…」
「彼らは親の助けになるよう働いていますが
親を戦で無くし、一人で生きていかなくてはならない者もいます」
(なんの補助もないんだ…っていうかそういう発想がないのか…)
「戦は益も産みますが損も産みます
どちらを重要視するか、それは治世者に委ねられるものです」
「じょ………元直さんはどっち?」
「…俺は……損ばかり、見てしまいますね」
まぁ、聞かなくてもそうだろうなとは思っていた。
こんなに優しくて丸くて腰の低い人は戦を好むはずがない。
逆に安心した。
「楊黄、どうか戦乱に巻き込まれぬよう賢く生き抜いてください」
その言葉にやたらと重みを感じた。
だがこんな時代に生きておいて何もないはずがない。
私は頷いた。
「元直さんは、戦に出ますか?」
「俺ですか?俺はもう出られません
そういう誓いを立てた身です」
(誓い…?この人が?曹丕に?)
戦わない誓いというのは一体どういうことなのか。
理解しがたいが、そういうものもあるのだと思い込んだ。
深く突っ込まれても徐庶が困るに違いない。
「ではそろそろ戻りましょうか」
「はい」
人の賑わいを見て満足した。
祖父の曹操の治世はとても良いのだと確信を得た。
それに、部屋に閉じこもるばかりではどれだけ勉強したって何も分からないだろう。
連れ出してくれた徐庶には感謝しなければ。
「ありがとうございます、元直さん
とても勉強になりました」
「それはよかった」
「また連れてってくださいね」
「そうですね
次はどこがいいかな…」
徐庶はさっそく考え込んでいる。
初めての街で見上げる徐庶はなんだか新鮮で、ボヤキも面白くて、少しだけ笑ってしまう。
「………楊黄、こちらへ」
「え?」
それまで徐庶の左側に立っていたが急に手を引かれて右側に連れられる。
声音の変化に何があったのかと思えば、身なりが雑でところどころ体に不釣り合いな鎧を着ている男がいた。
一目でわかる。ならず者だと。
徐庶の手をぎゅっと握って知らぬ顔で歩く。
そうしていると、後ろから足音が聞こえた。
ガチャガチャと鎧が擦れる音もするので、後を歩いているのだと気づく。
じんわりと汗をかいてしまう。
すると、男は私の前に回り込んで隅々まで見ていた。
咄嗟に避けようとすると
「随分いい身なりしたガキだなぁ」
テンプレートな発言をした。
もう少し頭をひねった言葉を選んでくれたら面白かったのに。
緊張のあまりこのように私は現実逃避してしまう。
「失礼、通してくれるかい」
「こんなガキのお守りするくらいだからいいもん持ってるだろ?」
とはいえ徐庶の優しそうな顔も絡まれる原因か。
人を見た目で判断して絡んでいいわけではないが、そんな言葉は知性の低い相手には通用しない。
付け入る弱さがあればそこを確実に狙うのがこの時代の生き方だ。
「へぇ、見事な染色だなこりゃ」
不意に私の腕を引っ張った。
反射的に引っ込めようとするが男の力に敵うはずもなく、抵抗は無意味に終わった。
が、男の腕を掴みもう一対の拳を首の横に置いている。
徐庶が一瞬で迷いもなくそんな行動をとった。
小さい私は何をしているのかわからないまま、ぽかんと見上げる。
「…離してくれるか」
男は無言のまま私の腕を離した。
徐庶もゆっくり離れる。
改めて私の手を握り何事もなかったかのように歩き出した。
男はそれからついてこなくなった。
宮中にはいり、やっと落ち着ける、と思った矢先に徐庶が盛大なため息をこぼした。
「はぁ〜〜〜」
「あっ、あの、徐庶さん、大丈夫ですか」
「東郷姫、お怪我はないですか?
痛くなかったですか?
申し訳ありません、うまくお守りできず」
徐庶の顔は真っ青だ。
おそらくあれほど落ち着いた対応をしておきながら内心死ぬほど焦っていたのだろう。
思わず笑ってしまう。
「ふ、ふふ、徐庶さんおもしろい」
「わ、笑ってる場合じゃありません」
「私は大丈夫です
ちゃんと徐庶さんがまもってくれたので
それに、徐庶さんお強いです」
徐庶は少しだけ俯いて照れたように笑った。
だが、自分で気合を入れなおすように目つきを変える。
「ですが、お守りできなかったのは事実です
次回から街に降りるのは控えた方がよろしいですね」
「えっ」
「交易をしているということは他国からああいった者が入りやすくなるということです」
「やだ!また徐庶さんといきたいです!」
「そう仰られても…俺も報告する義務がありますし」
「じゃあ内緒にしましょう」
「だめですよ!
というかそんな発想したらダメです!」
「そしたら徐庶さん明日来なくなるかもしれないです」
「そうだとしても
街の治安についても報告を兼ねなければなりません」
身分が危うくなるような脅しをしても徐庶は引かない。
いや、というより殊更、昇進など興味がないのだろう。
それに頭がいいので頭をひねった脅しは効かないだろう。
「……もう街におりれない?」
「はい、少なくとも賑わいが落ち着くまでは」
「………徐庶さんと外でれない…?」
「はい…」
「どうしても?だめ?」
「………………だ、ダメです」
こいつ案外チョロそうだ。
少し首を傾げれば真顔で考え込む程度に揺らいだ。
もしかすれば、頭を使うことより心情に訴えればなんとかなるかもしれない。
「ずっと、外にでられなくて、初めて徐庶さんが連れてってくれたから…嬉しくって…」
「………………その…お気持ちは…お察ししますが………」
「本当に、もうだめ…?」
ぐっと堪える顔をしたが徐庶ははっきりと答えた。
「ダメです」
「……わかりました」
ずっと握っていた手に何度も力を入れる。
「徐庶さん、明日も来てくださいね
約束ですよ」
「…ええ、わかりました」
私の小さな手の上に、徐庶の手が重なる。
そうして今日の授業は終了した。