幼少期
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最初の記憶は、森の中だ。
私は泣いていて、ひどく心細く寒かった。
何より空から雫が落ちているのだ。それだけで体温は奪われていただろう。
何故ここにいるのか、私は何者なのか、そもそもどうして泣いているのか。
まるで赤ん坊のような声で叫んでいるので私の中で感情がハウリングしていく。
そんな時だった。
ふと男の人が私を抱き上げる。
「赤子か」
「このような森に…口減らしでしょうな」
男の人はとても暖かかった。
大きな手が熱を持っていて、冷えた体が温められる。
それだけで恐怖や不安が消え、泣き声はすんなりと収まった。
あなたは誰ですか?
そう聞こうとしても声が出ない。
いや、情けない鳴声しか出てこなかった。
思わず自分の腕を伸ばすと、痩せこけた赤ん坊の腕が見えた。
赤ん坊の腕はちぎりぱんのイメージしかなかったのに、その腕の細さにまず驚いた。
男の人も驚いた。
「数日間もここで放置されていたのか」
「子桓殿、いかがなさるおつもりですか…まさかとは思いますが…」
いやいや、ここで置いていくなんて選択肢、貴方にないですから、頼むから
すがる思いで必死に両腕を伸ばす。
すると大きな人差し指が見えて、それを私はしっかりと握った。
たとえ腕が離されても絶対にこの指を離すものか。
それくらい強く握った。
赤ん坊の力など男からすれば微々たるものだろう。
けれど男は不敵に笑う。
「赤子といえどこれほどの力を込めるとは」
「子桓殿」
「この赤子は連れ帰る」
正直就職の内定通知が来た時より喜んだ。
よっしゃああーー!と心の中でさけんだ。
男は私に布を巻き、馬に乗った。
それから私がまず分かったことは、私は一度死んでおり、いつの間にか赤子の姿になっていたこと。
正直死因は覚えていない、というより思い出そうとすると記憶が黒で塗りつぶされる。
本能がその記憶を無理やり封印しようとしているのがわかった。
そして、生まれ育った環境は曖昧ながら覚えていること。
父親と母親の顔はわからない。もしかしたら兄弟や友達、恋人もいたかもしれない。
けれどどんな人生でどんな勉強をして、日本という国の社会で生きていて、それに相応しい倫理観を持っていて、それはしっかりと覚えていたのだ。
そして現在、赤ん坊なのに大人の思考回路を働かせている。
とにかく男に拾われたはいいものの、急にしっかりした建物に連れられ寝かせられている。
周りの人たちは慌ただしく何かをしていた。
男の大人はここにはおらず、女性だけだ。
「乳母を連れてまいりました!」
え?
ちょっと
「未だ乳飲み子
こんなに痩せてはせっかくお子が夭折してしまいましょう」
今なんだって?
ちょっと待っ
近づく女の体に思わず思考が止まり、脳内は無になった。
結局私はこの後数年は周囲の状況があまりよく分からないまま、成長していくこととなる。
改めてここが中国で、三国時代であると分かるのは5歳の時だった。
これまでの流れとしては、私は曹丕という人の子供として扱われ、名前は東郷、とつけられたこと。
そして曹丕はとてもえらい人で何より冷徹な人間であったこと。
さらにさらに、3歳の時に美人の奥さんを娶り、私の母になったこと。
流石に「甄」「我が君」の呼びかけの応酬…つまり夫婦のイチャつきは子供の前では控えてほしい。
とにかく甄姫という人は血の繋がらない私にも優しくしてくれて良い母だった。
わたしには三国時代の知識が何もなく、一種の別世界とまで勘違いしたほどだ。
しかし、大人たちの会話の中で諸葛亮、という名前を出されては気づかないはずもなく。
何故かタイムスリップ&転生していると、5年目で気づくのだった。
「東郷こちらにおいで」
母である甄姫が手招きする。
私は行儀よく歩き母の元へ。
「本日から貴方は曹丕様の子として、学問を納めなくてはなりません」
「お勉強ですか?」
「ええ、曹丕様のお子として恥ずかしくない人間になるためです
良いですね」
「は、はい、頑張ります」
とはいえ三国時代の学問は教養の範囲であることくらい知っていた。
どちらかといえば、詩を編んだり、笛を吹いたり、そういう程度だろう。
何より女は男より下に見られていた時代だ。
お遊び程度に考えればいいだろう。
いざ、教師のもとで学問と言う名の躾が始まった。
しかし私自身忘れていたのは、生前の経験値があることだった。
簡単なことだと、どんどんこなしてしまったが故に1週間もすれば、賢い、素晴らしいと褒めちぎられてしまう羽目に。
とにかく、子供げなかったのだ。
流石にやばい、と思ったが今更できないとも言い出せず。
宮中では既に天才だと噂されていた。
近くに侍る女中は、また笛の音が楽しみだとか、そんなことを言って私の太鼓持ちになっている。
私はそんなことより、この三国時代を如何に静かに暮らせるか、それだけを考えていたいのだ。
父である曹丕は戦続き。
甄姫もそれにつきっきりだ。
あれ、これ私放置されているのでは?と思わないこともなかった。
ある日、女中のしつこい太鼓持ちにうんざりしたため、目を盗んでこっそり部屋を出た
いわゆる探検だ。
宮中のどこが危険か、などは大体わかっている。
とにかくこれだけ広いのだから、まずは周囲の探索をしなくては。
子供みたいにワクワクして広い廊下を歩く。
すると、男たちの気合の入った声がしている。
鍛錬しているのだろうと声のする方へ行ったものの、高い壁に遮られている。
仕方なく近くの木に登り、高みの見物。
屈強な男たちは剣を振り、掛け声を出している。
笛などを吹くよりよっぽどマシに見えた。
というかきっと剣を教え込まれていたら笛の方がいいと思うのだろうけど。
とにかく狭い部屋で監視のように女中に見られることが嫌なのだとようやく自覚した。
ここでの生活はきっと何不自由ない。
恵まれている方だ。
文句だって言うべきではない。
しかし、人間的に成長できているかどうか、自分で怪しくなるものだ。
何せ知っている人が少なすぎるのだから。
同年代の子供すらいない。
普通側室の子供とかいそうなものなのに。
「何せあの諸葛亮が陣を構えておるのだ。
蜀の君主よりも今やかの国を支えているであろう」
この声はかなり聞き覚えがある。
私の祖父である曹操…いや、目上なので孟徳、と呼ぶべきか。
一応私のことを可愛がってくれてはいるが、こんなところで木登りしているとバレると大目玉を食らいそうだ。
息を潜めて木の下を通り過ぎるのを待った。
家臣と話しているのは戦の話だ。
あの口ぶりならもうしばらくは曹子桓はまだまだ帰ってこないだろう。
いや、帰ってきたとしても、あまり何も話はしない。
居ても居なくても、変わらないだろう。
「ああ、東郷姫!こんなところに!」
「げ」
「げ、ではありませぬ!
なぜ私めを困らせるのですか!」
いや、私の「げ」は見つかったからではなく、よりにもよって曹孟徳の前でそんなことを言われたからだ。
視線をわざとらしく移すと女中も顔が青くなる。
膝をついて礼をする始末。
「東郷よ、そんなところで何をしておるのだ」
「た、鍛錬を見ていました」
「よりにもよって木の上でか」
「はい…」
「も、申し訳ありませぬ!」
女中は言い訳もせずただ謝るのみ。
ここまで謝ると、逆にこっちが申し訳ない。
「東郷、木から降りよ」
「はい…」
孟徳の顔がいつもより怖く見える。
地面に着地した瞬間説教が始まりそうだ。
しかし地面に足がついたと思いきや孟徳は口の端を少しだけ緩ませた。
「この曹孟徳に気配を悟らせないとは、やはり我が血が流れているようだな」
「え……は、はいっ」
「こちらに来い
そこからではよく見えぬだろう」
手招きされ、ついていく。
女中もおとがめがなかったことに少しだけホッとしていた。
曹孟徳の後ろを歩くとあれだけ頑丈そうだった門が簡単に開けられ、兵士たちの鍛錬を間近で見ることができた。
息のあった掛け声と全くブレない剣先。
兵士の練度が並大抵ではないことがうかがえた。
「すごい…」
「およそ、東郷には今後関わりのない事かもしれぬが
一国の主人の娘として、これらを視察することは重要なことだ」
「何故ですか?」
「この者たちが国を守っておる
国を守ると言うことは民を守り、家族を守り、お前をも守っておるということだ
命を賭して守られているということを自覚し、それ相応の振る舞いをすべきである」
「……えっと………
木登りは、もうしません……」
「そう、それでよい」
遠回しに結局は説教をされてしまったが。
とにかく父親より父親らしい言葉をもらい、少しだけ感動した。
一国を治めている男の発言はひと味もふた味も違う。
「しかし、お前も両親がおらず、不憫な思いをさせているだろう」
「…お母様はいつお戻りになりますか?」
「じき帰ってくる
笛を嗜んでいると聞いている
母に聞かせると良い」
「はい、わかりました」
これは直感なのだが、もうしばらくは帰ってこないという確信を得たに等しかった。
別に寂しいという感情はない。
ただ、私は曹丕の子供という象徴なだけであって、私自身求められていないのだとおもってしまっただけだった。
娯楽のない時代、やはり何もなければどうしても書物に逃げるしかなく、なけなしの知力を使って書庫に入り浸っていた。
最初は文官に苦言を呈されていたが、この国最高権力の祖父が許可を出したので誰も文句は言えなくなったのだ。
とはいえ私も邪魔をしたいわけではない。
教師の授業が終わればすぐここに駆け込み、すみで文字を解読するだけだ。
邪魔そうであればすぐに離れるし、大人たちの視線が痛ければちゃんと逃げる。
ともあれ私もだいたいの文字を読むことはできるようになった。
描けるかどうかはまた別問題だが。
今日も同じく入り浸っていると、不意に声をあげられた。
驚いたような声を出されたのでそちらをみると、だいたい20代ほどの無精髭を生やした男がいた。
初めて見るが、身なりは文官のそれだ。
ただし他の人よりややくたびれているようにも見えた。
「邪魔でしたか」
「あ、いえ、ええっと……
あなたは…」
「東郷です」
「こ、これは失礼しました
私は姓を徐、字を元直、名を庶といいます」
「元直さま…ですか?」
「そのように敬称をつけられるほどの者ではありません
徐庶と呼び捨てにしてください」
子供相手にここまで腰の低い人は初めてだ。
私は血の繋がっていない子ということもあり、特に5武将からはよく思われていないらしい。
それは盗み聞きして得た情報なので確証はないが。
「あの…私邪魔ですか」
「いえ、そのようなことは
ただお一人でこのような場所におられることに驚いてしまい…」
「……徐庶さんは文字が読めますか」
「え、ええ、まぁ…」
「これ、なんて書いてるんですか?」
文字が読める者は一握りだけだ。
私でさえ文字の読み書きを教わっていない。
それなのにこの徐庶という男は読めるという。
この時点で只者ではないな、とわかった。
「ああ、これは昨年の雨水の量ですね
田畑に水をどれほど引けるのか、その大まかな目安が記されています」
「ふうん……」
「つかぬことをお聞きしますが
何故この場所に?」
「笛はあまり好きじゃないです
大人に見られるのも好きじゃないです」
「だからここにいるのですか」
「たぶん、母がいたなら
まだ好きじゃない笛も、少しは楽しかったかもしれませんけど」
「文字は好きですか?」
「読めたら楽しいかも」
徐庶は少しだけ笑って、埃にまみれた竹簡を取った。
「これはやさしい文字が書かれています
また明日も、明後日もここへ訪れるなら
この書を読むことをおすすめします」
「えっ……えっと…」
「何か不都合でも?」
「私は…女だから…」
「先程、文字が読めたら楽しいかもしれないと、仰っていました
そんな些細な理由だけで十分です」
徐庶は初対面よりも朗らかな笑顔を浮かべた。
それはただ、曹丕の子供だからと言うよりは文字を学び始める子供だからという笑みに近い。
結局私はその日からその書を読み始めることにした。
ただ持ち運ぶことは出来ないため、入り浸る時だけ読んでいた。
そうすると週に2、3日は徐庶と会い、読めない文字を教えてくれたり、一緒に読んでくれたりした。
それまでこの魏という国には冷血漢か太鼓持ちしかいないのかと思っていたがそうでもなく。
徐庶という頭が良くて優しい人もいるのだと知ることができた。
次第に私は、書庫にいって徐庶に文字を習うことが楽しみになっていた。
当初と比べて少しだけ笑う回数も増えた気がする。
「あっ、徐庶さん」
「こんにちは、東郷姫」
早く一緒に読んで欲しい。
まるで絵本をねだる子供のように袖をつまんで書を掲げた。
「これもう少しで読めます
その次のも教えてください」
「姫はとても賢いですね
ですが、次はこれをやってみましょう」
ふと手に握られたのは筆だ。
長さは大人の使うものと同じだが毛量が少ないので小筆だろう。
「あの…これ…」
「書の上からなぞって、書く練習もしましょう」
「えっ、これ、徐庶さんのじゃ…」
「随分使い古してしまったので
お下がりで大変失礼かと思いますが…」
「う、ううん
嬉しいです
大切にします」
初めて人から物をもらった。
それはやけに嬉しいものだとこの体になって改めて気づいた。
「東郷姫さま
またこんなところに…」
女中が慌てた様子で駆け込んでくる。
慌てて小筆を隠した。
文字を教わっていると知られれば小言を言われるに決まっているからだ。
「あっ……はい……」
「曹子桓さま、甄夫人がおかえりになられます
ささ、ともに参りましょう」
行きたくない、というのが本音だ。
ここまで放置されたのだから。
むしろ徐庶といたいくらいだった。
「…はい」
徐庶に一つ頭を下げて女中の背中についていく。
途中わざと歩調を遅くしてみたが手を握られて、捕虜同然。
宮中の入り口に向かえば多くの臣下が出迎えの準備をしていた。
「戦は、どうなったのですか」
「良い戦果をあげられたそうです
とはいえ攻めてくる蜀と同盟国の呉の掃討は至難だそうで」
諸葛亮と孫権のいる2大国に張り合うには少々手厳しいということか。
三国志で有名な劉備が存命かどうかはわからないものの、諸葛亮という存在だけで他の国を圧倒しているのは事実。
「ああ、申し訳ありません、少し言葉が難しいですね
ですがご心配に及びません
子桓様、甄夫人は健康であらせられます」
「そ、それはよかったです…」
子供の内は自分の考えや分析を口にすべきではない。
少なくともぽかんとした表情をしなければ。
間もなくすれば曹丕一行が凱旋を行う。
将来一国の主を約束されている男だ。
無論、このくらいの出迎えをしなくてなんとする。
臣下や女中は声をあげ喜ぶ。
半狂乱じみたこの場所に、私は笑顔を浮かべられなかった。
徐々に近づく両親の姿。
無理やり、笑顔を作る。
やっと帰ってきた、遊んでくれる、甘えられる。
そんな思考を脳みそに詰め込んだ。
宮中の行き着く先には私と、それより背後に曹操が待ち構えている。
馬から降り、曹丕と甄姫は膝をついて報告をする。
「此度の戦、蜀の前線を押しやり、敵軍の兵力を割いた次第
現状、郭嘉に軍の指揮を任せており、軍の瓦解も時間の問題かと」
「よくぞあの諸葛亮を落とした
まずは身を休めよ
後ほど詳しく話を聞く」
曹操のねぎらいもほどほどに、二人は礼をほどいた。
「父上、はは…うえ…」
曹丕は私をちらりと見ただけでどこかへ行ってしまった。
対して甄姫は私の元へ駆けよる。
「ああ、東郷、少し見ない間に大きくなったのね…」
「母上…すこしだけ、元気がないように見えます…」
「そう見えてしまうのね…不安にさせてしまいましたね」
優しく抱きしめてくれる。
この人のこういう暖かい所は好きだが…
それよりあの親父は一体何なんだ?
何か一言声をかけるべきじゃないのか?
男尊女卑か?ん?
「父上は、お体がすぐれないのですか?」
「曹丕様はお疲れでいらっしゃるわ
後ほど母とあいさつをしましょう」
「…………(いきたくねぇ…)」
「東郷?」
「は、はぁい」
行きたくない。
すごく行きたくない。
あのロクデナ…いや、仮にも次期国王だ。
あまり暴言を脳内で吐いてしまうとうっかり口にでてしまいかねない。
ともあれ甄姫も疲れている様子であるため女中に連れられてこの場を後にした。
「では東郷様
お部屋へ戻りましょう。」
「はい」
またしっかりと手を握られながら来た道を戻る。
曹丕と会うということがこれほどまでに辛いものだとは思わなかった。
いや、逆に考えろ。
あそこで無視されたのだから、もしかすれば次会う時も無視するのでは?
言葉を交わさずに済むというのであればそれはそれで僥倖だ。
部屋で、女中が私の相手を…正しくはつまらない遊びを無理やりさせられているのだが…しているところで甄姫がわざわざ迎えに来ていた。
あの宮中入り口のくたびれた様子は全く見せず、身なりをただしたしゃんとした姿があった。
「母上、お体は大丈夫なのですか?」
「ええ、
さあ、父上の元へいきましょう」
いいや、絶対にやせ我慢だ。
戦帰りで長い道のりを馬で帰ってきているのだから、辛くないはずがない。
それなのにそれを顔色や声音に少しも漏らさない。
さすがは曹丕の妻。
「…母上、母上はお強いです
かっこよくて、きれいです」
「ふふ、どうしたのかしら急に
私が美しいのは当然のこと
そして曹丕様と私の血を引いているあなたもまた美しいのよ」
心からの称賛だったのだが、甄姫の顔色がほんのり赤くなる。
微笑みも虚勢のそれに見劣りしないほどいい化粧となった。
「我が君、失礼いたします
今一度、東郷があいさつをしたく参りました」
部屋の内にいた従者が戸を開ける。
完全なプライベートの部屋に入ったのは覚えているだけでこれで3回目だ。
いずれも戦帰りだったような気がする。
曹丕はいつもの鎧衣装から一変して胸元の緩い服を着ていた。
あれだけ顔が良く、育ちも良く頭もいいのだから少し衣類が乱れていようとも様になってしまうのはずるい。
御座に座っていたが、腰を上げて甄姫の前に立つ。
「戦で疲れさせてしまったか
甄、体を休めるがよい」
「いいえ、我が君、お言葉ながら
我が君と東郷の姿を見て疲れなどよそへ行ってしまいました」
曹丕は手の甲で甄姫の頬を撫でる。
それでまた甄姫の頬はまた赤くなっていった。
(それいつまで続く?)
一方私は死んだ目でそれを見ているだけだ。
しかしふと曹丕は私を見た。
思わず肩がびくりと揺れる。
「来い、東郷」
「はい」
近寄ると何も言わず抱き上げられて御座へ。
手慣れたような動きに、私は文字通り目を点にするしかない。
甄姫もその隣へ座る。
膝に乗せられて、初めて父親を至近距離で眺めるしかなくなった。
「久方ぶりだな東郷
父の顔は覚えていたか」
「は、はい、もちろんです」
「お前の噂はかねがね聞いている
書物庫に入り浸っているようだな」
「え、ぁ…その……」
誰だ告げ口したやつは!
左遷させるぞ!パワハラになるからやらないけど!
ともかく女のくせに、と揶揄されるのが嫌で目を伏せる。
曹操は孫だから、という名目で私に甘いが曹丕はそうはいかない。
身の程を弁えろと、言われるかもしれない。
「どの書を読んだ」
「えっ、えっと…地方の、風土記です」
「そうか
誰から教わった」
思わず悪い方向へ考えをめぐらせてしまった。
もしかすれば、処刑なんてこともあり得る。
あの人からもらった小筆が遺品になってしまうなど笑えない。
曹丕の顔も見れずに黙りこくっていると甄姫が言う。
「東郷、顔をあげなさい」
言われた通りにしても、曹丕の鋭い眼光は変わらない。
すぐ目をそらしたくなる。
「徐…元直さまから…」
「ほう、あの男がか」
てっきり怒られるものと思いきや逆に曹丕の目は驚きを表していた。
甄姫も同じくそうだった。
そもそも字でどの人物かを特定するということは、有名人のようだ。
「も、もうしわけありません
私、もう書庫にいきませんから」
「咎めはせん
好きにせよ
それよりも、だ」
私を見るなり、ふと笑い、どこか遠い目をする。
「やはりお前が我が子であったのは天命だったのだろう」
頭を撫でられ、それから胸元へ押された。
そんな風に甘やかされたことなどないので逆に緊張し、喉が渇いていた。
私は泣いていて、ひどく心細く寒かった。
何より空から雫が落ちているのだ。それだけで体温は奪われていただろう。
何故ここにいるのか、私は何者なのか、そもそもどうして泣いているのか。
まるで赤ん坊のような声で叫んでいるので私の中で感情がハウリングしていく。
そんな時だった。
ふと男の人が私を抱き上げる。
「赤子か」
「このような森に…口減らしでしょうな」
男の人はとても暖かかった。
大きな手が熱を持っていて、冷えた体が温められる。
それだけで恐怖や不安が消え、泣き声はすんなりと収まった。
あなたは誰ですか?
そう聞こうとしても声が出ない。
いや、情けない鳴声しか出てこなかった。
思わず自分の腕を伸ばすと、痩せこけた赤ん坊の腕が見えた。
赤ん坊の腕はちぎりぱんのイメージしかなかったのに、その腕の細さにまず驚いた。
男の人も驚いた。
「数日間もここで放置されていたのか」
「子桓殿、いかがなさるおつもりですか…まさかとは思いますが…」
いやいや、ここで置いていくなんて選択肢、貴方にないですから、頼むから
すがる思いで必死に両腕を伸ばす。
すると大きな人差し指が見えて、それを私はしっかりと握った。
たとえ腕が離されても絶対にこの指を離すものか。
それくらい強く握った。
赤ん坊の力など男からすれば微々たるものだろう。
けれど男は不敵に笑う。
「赤子といえどこれほどの力を込めるとは」
「子桓殿」
「この赤子は連れ帰る」
正直就職の内定通知が来た時より喜んだ。
よっしゃああーー!と心の中でさけんだ。
男は私に布を巻き、馬に乗った。
それから私がまず分かったことは、私は一度死んでおり、いつの間にか赤子の姿になっていたこと。
正直死因は覚えていない、というより思い出そうとすると記憶が黒で塗りつぶされる。
本能がその記憶を無理やり封印しようとしているのがわかった。
そして、生まれ育った環境は曖昧ながら覚えていること。
父親と母親の顔はわからない。もしかしたら兄弟や友達、恋人もいたかもしれない。
けれどどんな人生でどんな勉強をして、日本という国の社会で生きていて、それに相応しい倫理観を持っていて、それはしっかりと覚えていたのだ。
そして現在、赤ん坊なのに大人の思考回路を働かせている。
とにかく男に拾われたはいいものの、急にしっかりした建物に連れられ寝かせられている。
周りの人たちは慌ただしく何かをしていた。
男の大人はここにはおらず、女性だけだ。
「乳母を連れてまいりました!」
え?
ちょっと
「未だ乳飲み子
こんなに痩せてはせっかくお子が夭折してしまいましょう」
今なんだって?
ちょっと待っ
近づく女の体に思わず思考が止まり、脳内は無になった。
結局私はこの後数年は周囲の状況があまりよく分からないまま、成長していくこととなる。
改めてここが中国で、三国時代であると分かるのは5歳の時だった。
これまでの流れとしては、私は曹丕という人の子供として扱われ、名前は東郷、とつけられたこと。
そして曹丕はとてもえらい人で何より冷徹な人間であったこと。
さらにさらに、3歳の時に美人の奥さんを娶り、私の母になったこと。
流石に「甄」「我が君」の呼びかけの応酬…つまり夫婦のイチャつきは子供の前では控えてほしい。
とにかく甄姫という人は血の繋がらない私にも優しくしてくれて良い母だった。
わたしには三国時代の知識が何もなく、一種の別世界とまで勘違いしたほどだ。
しかし、大人たちの会話の中で諸葛亮、という名前を出されては気づかないはずもなく。
何故かタイムスリップ&転生していると、5年目で気づくのだった。
「東郷こちらにおいで」
母である甄姫が手招きする。
私は行儀よく歩き母の元へ。
「本日から貴方は曹丕様の子として、学問を納めなくてはなりません」
「お勉強ですか?」
「ええ、曹丕様のお子として恥ずかしくない人間になるためです
良いですね」
「は、はい、頑張ります」
とはいえ三国時代の学問は教養の範囲であることくらい知っていた。
どちらかといえば、詩を編んだり、笛を吹いたり、そういう程度だろう。
何より女は男より下に見られていた時代だ。
お遊び程度に考えればいいだろう。
いざ、教師のもとで学問と言う名の躾が始まった。
しかし私自身忘れていたのは、生前の経験値があることだった。
簡単なことだと、どんどんこなしてしまったが故に1週間もすれば、賢い、素晴らしいと褒めちぎられてしまう羽目に。
とにかく、子供げなかったのだ。
流石にやばい、と思ったが今更できないとも言い出せず。
宮中では既に天才だと噂されていた。
近くに侍る女中は、また笛の音が楽しみだとか、そんなことを言って私の太鼓持ちになっている。
私はそんなことより、この三国時代を如何に静かに暮らせるか、それだけを考えていたいのだ。
父である曹丕は戦続き。
甄姫もそれにつきっきりだ。
あれ、これ私放置されているのでは?と思わないこともなかった。
ある日、女中のしつこい太鼓持ちにうんざりしたため、目を盗んでこっそり部屋を出た
いわゆる探検だ。
宮中のどこが危険か、などは大体わかっている。
とにかくこれだけ広いのだから、まずは周囲の探索をしなくては。
子供みたいにワクワクして広い廊下を歩く。
すると、男たちの気合の入った声がしている。
鍛錬しているのだろうと声のする方へ行ったものの、高い壁に遮られている。
仕方なく近くの木に登り、高みの見物。
屈強な男たちは剣を振り、掛け声を出している。
笛などを吹くよりよっぽどマシに見えた。
というかきっと剣を教え込まれていたら笛の方がいいと思うのだろうけど。
とにかく狭い部屋で監視のように女中に見られることが嫌なのだとようやく自覚した。
ここでの生活はきっと何不自由ない。
恵まれている方だ。
文句だって言うべきではない。
しかし、人間的に成長できているかどうか、自分で怪しくなるものだ。
何せ知っている人が少なすぎるのだから。
同年代の子供すらいない。
普通側室の子供とかいそうなものなのに。
「何せあの諸葛亮が陣を構えておるのだ。
蜀の君主よりも今やかの国を支えているであろう」
この声はかなり聞き覚えがある。
私の祖父である曹操…いや、目上なので孟徳、と呼ぶべきか。
一応私のことを可愛がってくれてはいるが、こんなところで木登りしているとバレると大目玉を食らいそうだ。
息を潜めて木の下を通り過ぎるのを待った。
家臣と話しているのは戦の話だ。
あの口ぶりならもうしばらくは曹子桓はまだまだ帰ってこないだろう。
いや、帰ってきたとしても、あまり何も話はしない。
居ても居なくても、変わらないだろう。
「ああ、東郷姫!こんなところに!」
「げ」
「げ、ではありませぬ!
なぜ私めを困らせるのですか!」
いや、私の「げ」は見つかったからではなく、よりにもよって曹孟徳の前でそんなことを言われたからだ。
視線をわざとらしく移すと女中も顔が青くなる。
膝をついて礼をする始末。
「東郷よ、そんなところで何をしておるのだ」
「た、鍛錬を見ていました」
「よりにもよって木の上でか」
「はい…」
「も、申し訳ありませぬ!」
女中は言い訳もせずただ謝るのみ。
ここまで謝ると、逆にこっちが申し訳ない。
「東郷、木から降りよ」
「はい…」
孟徳の顔がいつもより怖く見える。
地面に着地した瞬間説教が始まりそうだ。
しかし地面に足がついたと思いきや孟徳は口の端を少しだけ緩ませた。
「この曹孟徳に気配を悟らせないとは、やはり我が血が流れているようだな」
「え……は、はいっ」
「こちらに来い
そこからではよく見えぬだろう」
手招きされ、ついていく。
女中もおとがめがなかったことに少しだけホッとしていた。
曹孟徳の後ろを歩くとあれだけ頑丈そうだった門が簡単に開けられ、兵士たちの鍛錬を間近で見ることができた。
息のあった掛け声と全くブレない剣先。
兵士の練度が並大抵ではないことがうかがえた。
「すごい…」
「およそ、東郷には今後関わりのない事かもしれぬが
一国の主人の娘として、これらを視察することは重要なことだ」
「何故ですか?」
「この者たちが国を守っておる
国を守ると言うことは民を守り、家族を守り、お前をも守っておるということだ
命を賭して守られているということを自覚し、それ相応の振る舞いをすべきである」
「……えっと………
木登りは、もうしません……」
「そう、それでよい」
遠回しに結局は説教をされてしまったが。
とにかく父親より父親らしい言葉をもらい、少しだけ感動した。
一国を治めている男の発言はひと味もふた味も違う。
「しかし、お前も両親がおらず、不憫な思いをさせているだろう」
「…お母様はいつお戻りになりますか?」
「じき帰ってくる
笛を嗜んでいると聞いている
母に聞かせると良い」
「はい、わかりました」
これは直感なのだが、もうしばらくは帰ってこないという確信を得たに等しかった。
別に寂しいという感情はない。
ただ、私は曹丕の子供という象徴なだけであって、私自身求められていないのだとおもってしまっただけだった。
娯楽のない時代、やはり何もなければどうしても書物に逃げるしかなく、なけなしの知力を使って書庫に入り浸っていた。
最初は文官に苦言を呈されていたが、この国最高権力の祖父が許可を出したので誰も文句は言えなくなったのだ。
とはいえ私も邪魔をしたいわけではない。
教師の授業が終わればすぐここに駆け込み、すみで文字を解読するだけだ。
邪魔そうであればすぐに離れるし、大人たちの視線が痛ければちゃんと逃げる。
ともあれ私もだいたいの文字を読むことはできるようになった。
描けるかどうかはまた別問題だが。
今日も同じく入り浸っていると、不意に声をあげられた。
驚いたような声を出されたのでそちらをみると、だいたい20代ほどの無精髭を生やした男がいた。
初めて見るが、身なりは文官のそれだ。
ただし他の人よりややくたびれているようにも見えた。
「邪魔でしたか」
「あ、いえ、ええっと……
あなたは…」
「東郷です」
「こ、これは失礼しました
私は姓を徐、字を元直、名を庶といいます」
「元直さま…ですか?」
「そのように敬称をつけられるほどの者ではありません
徐庶と呼び捨てにしてください」
子供相手にここまで腰の低い人は初めてだ。
私は血の繋がっていない子ということもあり、特に5武将からはよく思われていないらしい。
それは盗み聞きして得た情報なので確証はないが。
「あの…私邪魔ですか」
「いえ、そのようなことは
ただお一人でこのような場所におられることに驚いてしまい…」
「……徐庶さんは文字が読めますか」
「え、ええ、まぁ…」
「これ、なんて書いてるんですか?」
文字が読める者は一握りだけだ。
私でさえ文字の読み書きを教わっていない。
それなのにこの徐庶という男は読めるという。
この時点で只者ではないな、とわかった。
「ああ、これは昨年の雨水の量ですね
田畑に水をどれほど引けるのか、その大まかな目安が記されています」
「ふうん……」
「つかぬことをお聞きしますが
何故この場所に?」
「笛はあまり好きじゃないです
大人に見られるのも好きじゃないです」
「だからここにいるのですか」
「たぶん、母がいたなら
まだ好きじゃない笛も、少しは楽しかったかもしれませんけど」
「文字は好きですか?」
「読めたら楽しいかも」
徐庶は少しだけ笑って、埃にまみれた竹簡を取った。
「これはやさしい文字が書かれています
また明日も、明後日もここへ訪れるなら
この書を読むことをおすすめします」
「えっ……えっと…」
「何か不都合でも?」
「私は…女だから…」
「先程、文字が読めたら楽しいかもしれないと、仰っていました
そんな些細な理由だけで十分です」
徐庶は初対面よりも朗らかな笑顔を浮かべた。
それはただ、曹丕の子供だからと言うよりは文字を学び始める子供だからという笑みに近い。
結局私はその日からその書を読み始めることにした。
ただ持ち運ぶことは出来ないため、入り浸る時だけ読んでいた。
そうすると週に2、3日は徐庶と会い、読めない文字を教えてくれたり、一緒に読んでくれたりした。
それまでこの魏という国には冷血漢か太鼓持ちしかいないのかと思っていたがそうでもなく。
徐庶という頭が良くて優しい人もいるのだと知ることができた。
次第に私は、書庫にいって徐庶に文字を習うことが楽しみになっていた。
当初と比べて少しだけ笑う回数も増えた気がする。
「あっ、徐庶さん」
「こんにちは、東郷姫」
早く一緒に読んで欲しい。
まるで絵本をねだる子供のように袖をつまんで書を掲げた。
「これもう少しで読めます
その次のも教えてください」
「姫はとても賢いですね
ですが、次はこれをやってみましょう」
ふと手に握られたのは筆だ。
長さは大人の使うものと同じだが毛量が少ないので小筆だろう。
「あの…これ…」
「書の上からなぞって、書く練習もしましょう」
「えっ、これ、徐庶さんのじゃ…」
「随分使い古してしまったので
お下がりで大変失礼かと思いますが…」
「う、ううん
嬉しいです
大切にします」
初めて人から物をもらった。
それはやけに嬉しいものだとこの体になって改めて気づいた。
「東郷姫さま
またこんなところに…」
女中が慌てた様子で駆け込んでくる。
慌てて小筆を隠した。
文字を教わっていると知られれば小言を言われるに決まっているからだ。
「あっ……はい……」
「曹子桓さま、甄夫人がおかえりになられます
ささ、ともに参りましょう」
行きたくない、というのが本音だ。
ここまで放置されたのだから。
むしろ徐庶といたいくらいだった。
「…はい」
徐庶に一つ頭を下げて女中の背中についていく。
途中わざと歩調を遅くしてみたが手を握られて、捕虜同然。
宮中の入り口に向かえば多くの臣下が出迎えの準備をしていた。
「戦は、どうなったのですか」
「良い戦果をあげられたそうです
とはいえ攻めてくる蜀と同盟国の呉の掃討は至難だそうで」
諸葛亮と孫権のいる2大国に張り合うには少々手厳しいということか。
三国志で有名な劉備が存命かどうかはわからないものの、諸葛亮という存在だけで他の国を圧倒しているのは事実。
「ああ、申し訳ありません、少し言葉が難しいですね
ですがご心配に及びません
子桓様、甄夫人は健康であらせられます」
「そ、それはよかったです…」
子供の内は自分の考えや分析を口にすべきではない。
少なくともぽかんとした表情をしなければ。
間もなくすれば曹丕一行が凱旋を行う。
将来一国の主を約束されている男だ。
無論、このくらいの出迎えをしなくてなんとする。
臣下や女中は声をあげ喜ぶ。
半狂乱じみたこの場所に、私は笑顔を浮かべられなかった。
徐々に近づく両親の姿。
無理やり、笑顔を作る。
やっと帰ってきた、遊んでくれる、甘えられる。
そんな思考を脳みそに詰め込んだ。
宮中の行き着く先には私と、それより背後に曹操が待ち構えている。
馬から降り、曹丕と甄姫は膝をついて報告をする。
「此度の戦、蜀の前線を押しやり、敵軍の兵力を割いた次第
現状、郭嘉に軍の指揮を任せており、軍の瓦解も時間の問題かと」
「よくぞあの諸葛亮を落とした
まずは身を休めよ
後ほど詳しく話を聞く」
曹操のねぎらいもほどほどに、二人は礼をほどいた。
「父上、はは…うえ…」
曹丕は私をちらりと見ただけでどこかへ行ってしまった。
対して甄姫は私の元へ駆けよる。
「ああ、東郷、少し見ない間に大きくなったのね…」
「母上…すこしだけ、元気がないように見えます…」
「そう見えてしまうのね…不安にさせてしまいましたね」
優しく抱きしめてくれる。
この人のこういう暖かい所は好きだが…
それよりあの親父は一体何なんだ?
何か一言声をかけるべきじゃないのか?
男尊女卑か?ん?
「父上は、お体がすぐれないのですか?」
「曹丕様はお疲れでいらっしゃるわ
後ほど母とあいさつをしましょう」
「…………(いきたくねぇ…)」
「東郷?」
「は、はぁい」
行きたくない。
すごく行きたくない。
あのロクデナ…いや、仮にも次期国王だ。
あまり暴言を脳内で吐いてしまうとうっかり口にでてしまいかねない。
ともあれ甄姫も疲れている様子であるため女中に連れられてこの場を後にした。
「では東郷様
お部屋へ戻りましょう。」
「はい」
またしっかりと手を握られながら来た道を戻る。
曹丕と会うということがこれほどまでに辛いものだとは思わなかった。
いや、逆に考えろ。
あそこで無視されたのだから、もしかすれば次会う時も無視するのでは?
言葉を交わさずに済むというのであればそれはそれで僥倖だ。
部屋で、女中が私の相手を…正しくはつまらない遊びを無理やりさせられているのだが…しているところで甄姫がわざわざ迎えに来ていた。
あの宮中入り口のくたびれた様子は全く見せず、身なりをただしたしゃんとした姿があった。
「母上、お体は大丈夫なのですか?」
「ええ、
さあ、父上の元へいきましょう」
いいや、絶対にやせ我慢だ。
戦帰りで長い道のりを馬で帰ってきているのだから、辛くないはずがない。
それなのにそれを顔色や声音に少しも漏らさない。
さすがは曹丕の妻。
「…母上、母上はお強いです
かっこよくて、きれいです」
「ふふ、どうしたのかしら急に
私が美しいのは当然のこと
そして曹丕様と私の血を引いているあなたもまた美しいのよ」
心からの称賛だったのだが、甄姫の顔色がほんのり赤くなる。
微笑みも虚勢のそれに見劣りしないほどいい化粧となった。
「我が君、失礼いたします
今一度、東郷があいさつをしたく参りました」
部屋の内にいた従者が戸を開ける。
完全なプライベートの部屋に入ったのは覚えているだけでこれで3回目だ。
いずれも戦帰りだったような気がする。
曹丕はいつもの鎧衣装から一変して胸元の緩い服を着ていた。
あれだけ顔が良く、育ちも良く頭もいいのだから少し衣類が乱れていようとも様になってしまうのはずるい。
御座に座っていたが、腰を上げて甄姫の前に立つ。
「戦で疲れさせてしまったか
甄、体を休めるがよい」
「いいえ、我が君、お言葉ながら
我が君と東郷の姿を見て疲れなどよそへ行ってしまいました」
曹丕は手の甲で甄姫の頬を撫でる。
それでまた甄姫の頬はまた赤くなっていった。
(それいつまで続く?)
一方私は死んだ目でそれを見ているだけだ。
しかしふと曹丕は私を見た。
思わず肩がびくりと揺れる。
「来い、東郷」
「はい」
近寄ると何も言わず抱き上げられて御座へ。
手慣れたような動きに、私は文字通り目を点にするしかない。
甄姫もその隣へ座る。
膝に乗せられて、初めて父親を至近距離で眺めるしかなくなった。
「久方ぶりだな東郷
父の顔は覚えていたか」
「は、はい、もちろんです」
「お前の噂はかねがね聞いている
書物庫に入り浸っているようだな」
「え、ぁ…その……」
誰だ告げ口したやつは!
左遷させるぞ!パワハラになるからやらないけど!
ともかく女のくせに、と揶揄されるのが嫌で目を伏せる。
曹操は孫だから、という名目で私に甘いが曹丕はそうはいかない。
身の程を弁えろと、言われるかもしれない。
「どの書を読んだ」
「えっ、えっと…地方の、風土記です」
「そうか
誰から教わった」
思わず悪い方向へ考えをめぐらせてしまった。
もしかすれば、処刑なんてこともあり得る。
あの人からもらった小筆が遺品になってしまうなど笑えない。
曹丕の顔も見れずに黙りこくっていると甄姫が言う。
「東郷、顔をあげなさい」
言われた通りにしても、曹丕の鋭い眼光は変わらない。
すぐ目をそらしたくなる。
「徐…元直さまから…」
「ほう、あの男がか」
てっきり怒られるものと思いきや逆に曹丕の目は驚きを表していた。
甄姫も同じくそうだった。
そもそも字でどの人物かを特定するということは、有名人のようだ。
「も、もうしわけありません
私、もう書庫にいきませんから」
「咎めはせん
好きにせよ
それよりも、だ」
私を見るなり、ふと笑い、どこか遠い目をする。
「やはりお前が我が子であったのは天命だったのだろう」
頭を撫でられ、それから胸元へ押された。
そんな風に甘やかされたことなどないので逆に緊張し、喉が渇いていた。
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