たそかれ
頭を見つけた。
頭、と言ってもただの生首ではない。石化した人の頭だ。
「どうされましたか、氷月様」
ほむらの声も今はどこか遠い。この手に収まるくらいの小さな頬、まるで眠っているような穏やかな顔。どうして今になって出てきたのだと恨み言の一つくらいこぼしたくなった。
今、氷月が両手で包むその頭は、死んだ幼馴染のものだった。
あの日。全世界の運命が大きく分たれた日。人類が沈黙し、活動を停止を始めた第一秒。氷月は失意の中で光を見た。
それから今まで…とても長い時間、労力、旅をした。理想としていた世界を求めた起源は彼女だった。彼女の死こそが氷月の今を決定していた。
一瞬にして石化前の記憶が鮮明に呼び起こされる。まるで悪夢のようでもあった。石世界で息を吹き返してから、とても長い間…ある種の走馬灯を見ていた気がする。ハッと我に帰ると近くにあさぎりゲンがいた。氷月は頭を抱えながら立ち上がる。
「氷月ちゃん大丈夫?」
「ええ、少し…ぼうっとしていたようです」
「ほむらちゃんが声をかけても返事がないし顔色も悪いって呼ばれたんだけど…」
「何も問題はありません。…この頭を発見しましたがどうすれば?」
ダムの建設で今は土壌整備をしている最中だ。せめて仕事は全うしなければ、という思いと、腕の中の幼馴染に動揺は隠せない。そしてあさぎりゲンにも、何故か隠さなければと思ってしまう。今や世界随一のメンタリストにそんな思惑は無駄だろうに。
「丁度いい時間だし、休憩入っちゃえば?その子、預かろうか?」
「いえ、結構です…………いや、やはりお願いします」
ずい、と頭を押し付けた。まるで逃げるように。とても食事をする気分にはならない。ほむらは相変わらず心配そうにしていたが氷月はあえて口に出す。
「私のことは気にしないでください」
「そう、ですか…わかりました」
ゲンにも、ほむらにも今は心の内を見られてしまいそうだ。
どうして彼女の顔を見ると…言葉にできない感情が押し寄せるのだろう。どうせ生き返ることもできないはずなのに。
よろめきながら森の中で息を整える。思考を正そうとも過去が浮かび上がる。
「こそこそするくらいなら堂々と出てきてもらえますか」
メンタリストとして、戦闘員のメンタルの不調は放っておけるはずがない。ゲンの行動理念を把握している故に氷月は口にした。
「バレるのは今更だけどさぁ…ジーマーでどういう感じでわかるの?」
ガサガサと草木を分けてやってきた。あの頭は背中のバッグに入れているらしい。膨らんだ荷物から目を逸らした。
「さぁ…勘でしょうか」
「……でさ、本題に入るけどあの子と知り合いとか?もしかして似てる子?」
「似ているだけならこんなにも動揺はしませんよ。彼女は私の知り合いです」
「ゴイス〜な確率〜…」
忘れていたはずの彼女の言葉が不意に頭に降り注ぐ。声なんてもの、最初に忘れてしまったはずなのに。
「…彼女の顔を見てからというもの、過去の記憶が止まらないんです。しばらく放っておいてくれますか」
「それはただのショックじゃないよね。普通の反応と違うから気になるってのもあるけど」
氷月も、親族や知り合いを見つけて喜び泣く姿は見たことがある。今の氷月は真逆だ。見られたくないものを見られているような気がしてならないのだ。
「彼女はこの世界が石化する二日前に過労死しました。今更、私は何を考えているのか…私自身理解ができていないものを口には出せません」
「…そう。一応あのあたりはまだ石化された人がいないか探す予定だけど無理に氷月ちゃんが加わる必要はないよ。でも一つだけ教えて欲しいことがあるんだよね」
真剣な顔つきで氷月の前に立つ。そこにいるのはメンタリストではなく、仲間を慮る姿だ。
「もし彼女の体を全部くまなく探したら…石化を解除するかどうか」
「言ったはずです。彼女は石化する二日前に死んだと」
「わかってる。それでも答えてね」
暁氷月の、アイデンティティが揺らぐ音がした。彼女が死んだと聞かされた時と同じく、心が軋んだ。
◆
幼馴染である雀との記憶はさほど多くない。何故なら小学校を卒業と同時に学校が別になったからだ。そもそも雀のほうが二歳年上なので生活リズムが変わってくるのは必然だ。
印象深い思い出は、何気なく雀から「氷月くんってちゃんとしてるね」と言われたことだ。ちゃんとしてる、ってなに。そう聞き返したかったのに雀は走って別の友人の元へ行ってしまった。まさしく鳥が飛び立つように、ひゅうっと氷月を置いて行った。
友人とは言えない関係でも、雀のことは時折見かけていた。友人を家に招いたり、彼氏と思しき人物と通りの角で分かれて大きく手を振っているのも見たことがある。いずれもたまたま、どうして自分の目の前で行われるのかというある意味めんどくささを感じていた。
顔を合わせれば、久しぶり、と会話して終わり。次まともに会話するのはきっと数年後。次第に他人になりつつあったので、成人する頃にはもう顔も合わせることはないだろう。
氷月は師範代となり、大会でも順調な成績であったのは言うまでもない。世の中の“ちゃんとしてない人間”に辟易することはあってもどうにかするほどの力はない。嫌悪したって仕方がないことをずっと頭の片隅に置きながらマトモな人間であり続けた。
ある日のことだった。早朝から道場の前の掃除していると久々に雀を見かけた。互いにもう6年は会っていない…いや、正確に言えば雀が成人式の時、家の前で記念写真を撮っていたのをなんとなく見ていた。わざわざ見に行ったわけではなく、家が近いので二階から見えたのだ。だから一方的に5年は見ていなかった。
しかし溌剌とした表情はなくなっていた。病的な白さとまともに歩けていない足。明らかに異常だと思い、つい声をかけた。
「雀さん」
雲が日差しを遮る朝だった。しかし雀にとっては何よりも眩しいもののように目を細めて顔を上げる。より肌は真っ白に見えた。
「あ、氷月くん…おはよう」
「おはようございます。体調でも崩しましたか」
「ああ…うん、少し。でも帰って寝るから。だめだね、もっとちゃんとしなきゃ」
無理に笑う顔がどれほどの苦痛を抱えていたか、今でもわからない。ただあの時は、自分が関わったところでどうにもならない、もう他人である、と決めつけていた。
しばらくの間、雀は毎日朝に帰り昼頃には家を出る生活をしていた。実家暮らしのせいか、時折声を荒げていたのも聞こえる。何で揉めていたのか…推測しかできないが無理に働いていたことへの苦言だろう。とにかくそこでも氷月は何もしなかった。
そうして氷月は学生の門下生の雑談を耳にする。
「最近女の人がすっげぇ泣きながらそこ通るよな」
「こわいよな〜俺幽霊かと思った」
確信などないが、雀だと察した。その日の指導を終えると口実を作るために氷月はスーパーで野菜を買って、その足で雀の家へ向かった。チャイムを鳴らした後、慌てて頭の中で言い訳を作る。
「はーい…あら!暁さんちの!」
「ご無沙汰しています。野菜を…門下生の保護者からたくさんいただいてしまったのでお裾分けにきました」
「ごめんなさいねぇ、忙しいのにわざわざきてくれて」
「ところで、雀さんはお元気ですか」
「雀?ああ…まぁ仕事ばっかりで家に寝に帰ってるようなものよ。家事だって一切しないんだから!氷月くんはしっかり者ね〜」
「いえ…」
あんな顔をしても親がそう言えるのなら、きっと杞憂なのかもしれない。それがわかっただけでも野菜を買ってきた価値はある。氷月は適当に話を合わせて家を後にした。
すると雀が二階の窓から氷月を見ていた。ふとスマホをかざすので近づく。玄関から離れた家の側面のため、彼女の母親に気付かれることはないだろう。
「危ないですよ」
「連絡先交換しようよ」
「あいにくと今は携帯を持っていません」
「ええ?スマホないと不安にならない?」
「……特には」
むしろ、黄昏のせいで雀の顔色も、表情もわからない。そちらのほうが不安だった。
元気なのか。何故毎日泣いて帰ってるんだ。口にすればあっという間なのに何も言えない。ただ、雀と会話したという安心材料がここにある。
「じゃあ今度、交換しようね」
「その前にちゃんとしてください。ご両親が心配していました」
「うーん……ちゃんとしようと、思ってるんだけどねぇ」
声が弱くなる。雀は軽く笑った。
「じゃあ、またね」
それが最後の言葉になった。氷月が出場した槍術演舞の後だった。携帯に連絡があり、折り返し電話すると地区の会長からだった。道場をしていることもあり地域ぐるみの付き合いが必須になる。年寄りの話はぐだぐだと長く、くだらない。また面倒ごとを押し付ける気だろうと思っていた。いつもなら折り返しの連絡は夕方にするのだがその時だけは不思議と折り返した。
『ああ、暁さん、今大変なことになっていて』
「大変?」
『白𡈽さんの娘さん、雀ちゃん…だったかな。亡くなっていたそうなんだ。通夜があるから連絡しようと思って』
頭が真っ白になった。自分でも笑えるくらい、間抜けな声が出た。
「は?」
また今度、と言っていたのに。雀は過労死したらしい。通夜には友人たちが集まっていた。しかしその場も会社の人間が現れると一変する。
まず母親が胸ぐらを掴み上げた。どうして死ぬまで働かせたんだと。うちの子を返してと大声で叫んだ。父親も殴りかかる勢いだったので氷月が思わず止めた。むしろその勢いを止められるのは師範代である氷月くらいしかいないだろう。
「なにか、勘違いしていらっしゃいますが…彼女の死は大変悲しく、我々も驚いております。しかし弊社が原因とは思えません。今回はあくまで、うちの優秀な社員を悼むためにきたのです」
「何をいっているの!毎日夜遅くに呼び出して、ボロボロになるまで、コキ使ってぇ!」
「暴言まで吐いていたのを知ってるんだぞ!!」
この騒動は結局、葬儀会社のスタッフと氷月が無理やり引き剥がし、会社の人間を追い出したことで終結させた。
氷月は会社の者を式場の外へ送り出す。
「はぁ、大変な目にあった。どうもありがとうございます。あなたがいてくれなかったら今頃どうなっていたか」
「家族が亡くなって気が立っているのは当然です。速やかに離れた方がよいでしょう」
「いや全く、私たちは何も関係ないのに…勝手に死んで仕事が増えて迷惑かけられているのはこっちなんですよ」
氷月が真っ先に庇ったせいか、この人間にとって氷月は味方だと映ったのだろう。癇に障った、と認識するよりも先に手が人間の頭蓋を掴んでいた。
「さっさと、お帰りください」
手を離すと情けなく逃げていく。
氷月はそれから式場に戻ることができなかった。何故なら氷月もあの人間と同じではないかと自問していたからだ。
ふらふらになって帰っていたのに、泣いていたのに、何もできなかった。ただでさえ苦しんでいたのに、ちゃんと気づけてやれなかった。
ちゃんとしていた雀がなぜ、死という末路を辿らなければならなかったのか。
頭を抱えて、静かに夜を迎えた。
翌朝。雀の体が燃やされる日。
そして石化が始まった日。
彼女の寝顔を見る勇気もなかった。離れた場所から人々の咽び泣く声を聞いて、その場に立つだけだ。棺を抱える役目もしたが、あまりにも軽かった。
火葬場にもいけなかった。よくわからないが、行きたくなかっただけだ。晴れやかな空を眺めながら煙を見上げるなど耐えられない。
その刹那、光が走った。遠のく意識に、雀もこんな感じだったのだろうかと想いながら意識を鎮めた。
◆
寝付くことなどできない。発見された石化の人々を安置する場所に行くと雀の頭と肩があった。あの時見ることができなかった彼女の死に顔は、やっぱり穏やかで優しい。
そっと指先でなぞるが石の感覚しかない。
ちゃんとしている人だけが生きられる世界を望んだ一端は雀にある。雀が死ななくてよかった世界が欲しかった。友人でもなんでもない、他人の人間が望んでいいことではないのはわかっている。求めても意味のないことだって理解している。それでも石化から解放されて、石世界を知った時はチャンスだと思ったのだ。
獅子王司の妹の病が治り復活を遂げた時は反吐が出そうだった。雀は生き返らない。何をしたって見つかるはずがない。だから殺した。信念のため、願いのために。
だが、雀の体は燃やされず、今ここにある。もう少し早く見つけていれば、と思ってしまう。
結局何に悩んでいるのかわからないまま、空虚な想いを募らせているだけだ。
「ちゃんと、してましたよ」
口に出してみるが、何も返ってこなかった。
ここに居るのはただ一人。
頭、と言ってもただの生首ではない。石化した人の頭だ。
「どうされましたか、氷月様」
ほむらの声も今はどこか遠い。この手に収まるくらいの小さな頬、まるで眠っているような穏やかな顔。どうして今になって出てきたのだと恨み言の一つくらいこぼしたくなった。
今、氷月が両手で包むその頭は、死んだ幼馴染のものだった。
あの日。全世界の運命が大きく分たれた日。人類が沈黙し、活動を停止を始めた第一秒。氷月は失意の中で光を見た。
それから今まで…とても長い時間、労力、旅をした。理想としていた世界を求めた起源は彼女だった。彼女の死こそが氷月の今を決定していた。
一瞬にして石化前の記憶が鮮明に呼び起こされる。まるで悪夢のようでもあった。石世界で息を吹き返してから、とても長い間…ある種の走馬灯を見ていた気がする。ハッと我に帰ると近くにあさぎりゲンがいた。氷月は頭を抱えながら立ち上がる。
「氷月ちゃん大丈夫?」
「ええ、少し…ぼうっとしていたようです」
「ほむらちゃんが声をかけても返事がないし顔色も悪いって呼ばれたんだけど…」
「何も問題はありません。…この頭を発見しましたがどうすれば?」
ダムの建設で今は土壌整備をしている最中だ。せめて仕事は全うしなければ、という思いと、腕の中の幼馴染に動揺は隠せない。そしてあさぎりゲンにも、何故か隠さなければと思ってしまう。今や世界随一のメンタリストにそんな思惑は無駄だろうに。
「丁度いい時間だし、休憩入っちゃえば?その子、預かろうか?」
「いえ、結構です…………いや、やはりお願いします」
ずい、と頭を押し付けた。まるで逃げるように。とても食事をする気分にはならない。ほむらは相変わらず心配そうにしていたが氷月はあえて口に出す。
「私のことは気にしないでください」
「そう、ですか…わかりました」
ゲンにも、ほむらにも今は心の内を見られてしまいそうだ。
どうして彼女の顔を見ると…言葉にできない感情が押し寄せるのだろう。どうせ生き返ることもできないはずなのに。
よろめきながら森の中で息を整える。思考を正そうとも過去が浮かび上がる。
「こそこそするくらいなら堂々と出てきてもらえますか」
メンタリストとして、戦闘員のメンタルの不調は放っておけるはずがない。ゲンの行動理念を把握している故に氷月は口にした。
「バレるのは今更だけどさぁ…ジーマーでどういう感じでわかるの?」
ガサガサと草木を分けてやってきた。あの頭は背中のバッグに入れているらしい。膨らんだ荷物から目を逸らした。
「さぁ…勘でしょうか」
「……でさ、本題に入るけどあの子と知り合いとか?もしかして似てる子?」
「似ているだけならこんなにも動揺はしませんよ。彼女は私の知り合いです」
「ゴイス〜な確率〜…」
忘れていたはずの彼女の言葉が不意に頭に降り注ぐ。声なんてもの、最初に忘れてしまったはずなのに。
「…彼女の顔を見てからというもの、過去の記憶が止まらないんです。しばらく放っておいてくれますか」
「それはただのショックじゃないよね。普通の反応と違うから気になるってのもあるけど」
氷月も、親族や知り合いを見つけて喜び泣く姿は見たことがある。今の氷月は真逆だ。見られたくないものを見られているような気がしてならないのだ。
「彼女はこの世界が石化する二日前に過労死しました。今更、私は何を考えているのか…私自身理解ができていないものを口には出せません」
「…そう。一応あのあたりはまだ石化された人がいないか探す予定だけど無理に氷月ちゃんが加わる必要はないよ。でも一つだけ教えて欲しいことがあるんだよね」
真剣な顔つきで氷月の前に立つ。そこにいるのはメンタリストではなく、仲間を慮る姿だ。
「もし彼女の体を全部くまなく探したら…石化を解除するかどうか」
「言ったはずです。彼女は石化する二日前に死んだと」
「わかってる。それでも答えてね」
暁氷月の、アイデンティティが揺らぐ音がした。彼女が死んだと聞かされた時と同じく、心が軋んだ。
◆
幼馴染である雀との記憶はさほど多くない。何故なら小学校を卒業と同時に学校が別になったからだ。そもそも雀のほうが二歳年上なので生活リズムが変わってくるのは必然だ。
印象深い思い出は、何気なく雀から「氷月くんってちゃんとしてるね」と言われたことだ。ちゃんとしてる、ってなに。そう聞き返したかったのに雀は走って別の友人の元へ行ってしまった。まさしく鳥が飛び立つように、ひゅうっと氷月を置いて行った。
友人とは言えない関係でも、雀のことは時折見かけていた。友人を家に招いたり、彼氏と思しき人物と通りの角で分かれて大きく手を振っているのも見たことがある。いずれもたまたま、どうして自分の目の前で行われるのかというある意味めんどくささを感じていた。
顔を合わせれば、久しぶり、と会話して終わり。次まともに会話するのはきっと数年後。次第に他人になりつつあったので、成人する頃にはもう顔も合わせることはないだろう。
氷月は師範代となり、大会でも順調な成績であったのは言うまでもない。世の中の“ちゃんとしてない人間”に辟易することはあってもどうにかするほどの力はない。嫌悪したって仕方がないことをずっと頭の片隅に置きながらマトモな人間であり続けた。
ある日のことだった。早朝から道場の前の掃除していると久々に雀を見かけた。互いにもう6年は会っていない…いや、正確に言えば雀が成人式の時、家の前で記念写真を撮っていたのをなんとなく見ていた。わざわざ見に行ったわけではなく、家が近いので二階から見えたのだ。だから一方的に5年は見ていなかった。
しかし溌剌とした表情はなくなっていた。病的な白さとまともに歩けていない足。明らかに異常だと思い、つい声をかけた。
「雀さん」
雲が日差しを遮る朝だった。しかし雀にとっては何よりも眩しいもののように目を細めて顔を上げる。より肌は真っ白に見えた。
「あ、氷月くん…おはよう」
「おはようございます。体調でも崩しましたか」
「ああ…うん、少し。でも帰って寝るから。だめだね、もっとちゃんとしなきゃ」
無理に笑う顔がどれほどの苦痛を抱えていたか、今でもわからない。ただあの時は、自分が関わったところでどうにもならない、もう他人である、と決めつけていた。
しばらくの間、雀は毎日朝に帰り昼頃には家を出る生活をしていた。実家暮らしのせいか、時折声を荒げていたのも聞こえる。何で揉めていたのか…推測しかできないが無理に働いていたことへの苦言だろう。とにかくそこでも氷月は何もしなかった。
そうして氷月は学生の門下生の雑談を耳にする。
「最近女の人がすっげぇ泣きながらそこ通るよな」
「こわいよな〜俺幽霊かと思った」
確信などないが、雀だと察した。その日の指導を終えると口実を作るために氷月はスーパーで野菜を買って、その足で雀の家へ向かった。チャイムを鳴らした後、慌てて頭の中で言い訳を作る。
「はーい…あら!暁さんちの!」
「ご無沙汰しています。野菜を…門下生の保護者からたくさんいただいてしまったのでお裾分けにきました」
「ごめんなさいねぇ、忙しいのにわざわざきてくれて」
「ところで、雀さんはお元気ですか」
「雀?ああ…まぁ仕事ばっかりで家に寝に帰ってるようなものよ。家事だって一切しないんだから!氷月くんはしっかり者ね〜」
「いえ…」
あんな顔をしても親がそう言えるのなら、きっと杞憂なのかもしれない。それがわかっただけでも野菜を買ってきた価値はある。氷月は適当に話を合わせて家を後にした。
すると雀が二階の窓から氷月を見ていた。ふとスマホをかざすので近づく。玄関から離れた家の側面のため、彼女の母親に気付かれることはないだろう。
「危ないですよ」
「連絡先交換しようよ」
「あいにくと今は携帯を持っていません」
「ええ?スマホないと不安にならない?」
「……特には」
むしろ、黄昏のせいで雀の顔色も、表情もわからない。そちらのほうが不安だった。
元気なのか。何故毎日泣いて帰ってるんだ。口にすればあっという間なのに何も言えない。ただ、雀と会話したという安心材料がここにある。
「じゃあ今度、交換しようね」
「その前にちゃんとしてください。ご両親が心配していました」
「うーん……ちゃんとしようと、思ってるんだけどねぇ」
声が弱くなる。雀は軽く笑った。
「じゃあ、またね」
それが最後の言葉になった。氷月が出場した槍術演舞の後だった。携帯に連絡があり、折り返し電話すると地区の会長からだった。道場をしていることもあり地域ぐるみの付き合いが必須になる。年寄りの話はぐだぐだと長く、くだらない。また面倒ごとを押し付ける気だろうと思っていた。いつもなら折り返しの連絡は夕方にするのだがその時だけは不思議と折り返した。
『ああ、暁さん、今大変なことになっていて』
「大変?」
『白𡈽さんの娘さん、雀ちゃん…だったかな。亡くなっていたそうなんだ。通夜があるから連絡しようと思って』
頭が真っ白になった。自分でも笑えるくらい、間抜けな声が出た。
「は?」
また今度、と言っていたのに。雀は過労死したらしい。通夜には友人たちが集まっていた。しかしその場も会社の人間が現れると一変する。
まず母親が胸ぐらを掴み上げた。どうして死ぬまで働かせたんだと。うちの子を返してと大声で叫んだ。父親も殴りかかる勢いだったので氷月が思わず止めた。むしろその勢いを止められるのは師範代である氷月くらいしかいないだろう。
「なにか、勘違いしていらっしゃいますが…彼女の死は大変悲しく、我々も驚いております。しかし弊社が原因とは思えません。今回はあくまで、うちの優秀な社員を悼むためにきたのです」
「何をいっているの!毎日夜遅くに呼び出して、ボロボロになるまで、コキ使ってぇ!」
「暴言まで吐いていたのを知ってるんだぞ!!」
この騒動は結局、葬儀会社のスタッフと氷月が無理やり引き剥がし、会社の人間を追い出したことで終結させた。
氷月は会社の者を式場の外へ送り出す。
「はぁ、大変な目にあった。どうもありがとうございます。あなたがいてくれなかったら今頃どうなっていたか」
「家族が亡くなって気が立っているのは当然です。速やかに離れた方がよいでしょう」
「いや全く、私たちは何も関係ないのに…勝手に死んで仕事が増えて迷惑かけられているのはこっちなんですよ」
氷月が真っ先に庇ったせいか、この人間にとって氷月は味方だと映ったのだろう。癇に障った、と認識するよりも先に手が人間の頭蓋を掴んでいた。
「さっさと、お帰りください」
手を離すと情けなく逃げていく。
氷月はそれから式場に戻ることができなかった。何故なら氷月もあの人間と同じではないかと自問していたからだ。
ふらふらになって帰っていたのに、泣いていたのに、何もできなかった。ただでさえ苦しんでいたのに、ちゃんと気づけてやれなかった。
ちゃんとしていた雀がなぜ、死という末路を辿らなければならなかったのか。
頭を抱えて、静かに夜を迎えた。
翌朝。雀の体が燃やされる日。
そして石化が始まった日。
彼女の寝顔を見る勇気もなかった。離れた場所から人々の咽び泣く声を聞いて、その場に立つだけだ。棺を抱える役目もしたが、あまりにも軽かった。
火葬場にもいけなかった。よくわからないが、行きたくなかっただけだ。晴れやかな空を眺めながら煙を見上げるなど耐えられない。
その刹那、光が走った。遠のく意識に、雀もこんな感じだったのだろうかと想いながら意識を鎮めた。
◆
寝付くことなどできない。発見された石化の人々を安置する場所に行くと雀の頭と肩があった。あの時見ることができなかった彼女の死に顔は、やっぱり穏やかで優しい。
そっと指先でなぞるが石の感覚しかない。
ちゃんとしている人だけが生きられる世界を望んだ一端は雀にある。雀が死ななくてよかった世界が欲しかった。友人でもなんでもない、他人の人間が望んでいいことではないのはわかっている。求めても意味のないことだって理解している。それでも石化から解放されて、石世界を知った時はチャンスだと思ったのだ。
獅子王司の妹の病が治り復活を遂げた時は反吐が出そうだった。雀は生き返らない。何をしたって見つかるはずがない。だから殺した。信念のため、願いのために。
だが、雀の体は燃やされず、今ここにある。もう少し早く見つけていれば、と思ってしまう。
結局何に悩んでいるのかわからないまま、空虚な想いを募らせているだけだ。
「ちゃんと、してましたよ」
口に出してみるが、何も返ってこなかった。
ここに居るのはただ一人。
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