主人公の名前を入力してください
Little Fairytale -Ritsu-
名前設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
『もしも俺が……例え、化け物でも、俺のそばにいてくれる?』
あの言葉は、凛月にとって一世一代の告白のようなものだったんじゃないか。
そのときは毅然と返したつもりのあの言葉の意図を、ふとした瞬間に考えてしまう。
一体彼は、何を抱えているんだろう。
あの悪夢と一緒に、どれだけの大きな不安に脅かされているのだろう。
俺はそれらを、払ってやることはできないだろうか。
そうは考えても、踏み込んではいけないと引かれた境界線に似た何かを、無理に超えようとは思わなかった。
代わりに、もしも『あの言葉』が彼にとって大きな告白なのであれば、俺自身の気持ちも、いつでも伝えられるように準備しておこう、と、そう考えていた。
だからかもしれない。
冗談めかした彼の呟きに、明確な感情を返してしまったのは。
***
その日はいつもより、凛月の私室に行くのが遅かった。
対象を『promiser』に限った勉強会があり、元々が遅い終わりだったにも関わらず、予定時間を超えに超えて体が空いたのは短針が九を指す頃。
遅くなるとは伝えてあったし、既に凛月は夕食を済ませているだろう。そんなふうに思って彼の私室へ向かい扉を叩くと、部屋の中から聞こえたのは想像以上に低い声だった。
「は〜〜〜〜い」
声色から機嫌の悪さが滲み出ている。
これは、もしかして待っていてくれたが予想以上に遅かったパターンか。もしくは、何か彼が嫌だと思うことをしてしまったか……体感温度が妙に下がった気がしながら、ドアノブを捻る。普段より重く感じる扉を開けて、室内を見渡すと——
いない。……と、思ったら、見渡した一瞬、視界に縮こまる姿が映った。
思わず注視すれば、部屋の奥にあるピアノの椅子に、器用にも体育座りをしている凛月の姿があった。
「……凛月さん?」
「『調律』して」
「はい」
呼びかければ、有無を言わさない圧を感じさせる声音で、『調律』を求められる。
何故か敬語になりながら椅子へ近付くと、抱えていた足を下ろして俺が後ろへ座れるよう調整してくれた。
……『調律』は、初めて成功したあの日から何度か行っていた。
大抵、凛月がリクエストした曲を弾いて彼が気ままに歌う。心地よさそうに鼻歌を混ぜたり体を揺らす姿は、弾いているこちらの心も否応なしに躍る。その時間は、大切なものと思っていた。
が、今日は一体どうしたのか。
俺に対して、何かを言うことはない。だが、明らかにいつもとは様子が違う。
おかえりとも言われなかったし—そもそもこの部屋は俺の私室ではないが—、離れた間に、良くないことがあったのだろうか。
俺が原因であることも否めない……とはいえ、ここで聞き出すのも、無粋と言えば、そうだろう。
黙って凛月の後ろに座って、ピアノと向かい合う。
蓋を開けば、埃一つないカバーが鍵盤を覆っていた。丁寧に畳んで、脇に置く。
何を弾けばよいのだろう。
思案しているうちに、僅かに背中が重くなる。凛月が、俺の背に控えめにもたれている。
相変わらず、高いとは言えない体温。今日はいつにも増して、ひやりとしている気がする。
寒いと、凛月が口にしたことはない。だから、体温を分けたいなんて、そんな気持ちはエゴだ。
けれど、それでも。
迷っていた指先が、鍵盤に触れる。
君の気持ちに寄り添えるかは分からないし、もしも俺が何かしたのであれば、誠意が伝わるかも、分からないけれど。
それでも『音』は、届くはずだ。
夜に歌うノクターンを、奏でる。
「……!」
背中にかかる重さが、小さく身じろいだ。
凛月は歌わない。ピアノの音だけを、黙って受け取っているように思える。
真夜中に辿る五線のように、密やかなピアニッシモ。
そういえば、この曲は戦場で一度も聞いたことがない。レッスンの合間に、彼が歌っていた主旋律を覚えただけだ。だから、もしも彼が、この曲を演奏されるのが嫌だったら——
そんな不安が浮かぶと同時、彼の手が、俺の腕に触れた。
最後のサビに入る前の旋律が、溶けるように消える。
「……」
『調律』はまだ完全ではない。
ならば、やはり予想は当たっていたのだろうか。
白鍵に触れかけて宙に浮いたままの指が、行き場を失う。
腕に触れた彼の手がするりと離れると、小さな吐息と共に彼が言葉を発した。
「……俺さ、ちょっと前にフラれたんだけど」
「……」
不協和音が、鳴った。
膝に置こうと戻しかけていた指が、抵抗不可能な動揺に煽られ、哀れにも無造作に鍵盤を叩いてしまった。
……ちょっと前って、いつだ?
いや、そこではない。
「あはは、いい反応」
早鐘を打つ心臓を抑えたい俺の反応をよそに、背後からは呑気な笑いが返ってくる。
部屋に戻ってきて初めて笑った、なんて感慨には今浸っている場合ではなくて。
というか、別に、動揺することでも、非難することでも、ない。
彼に取っては、世間話……よりもう少し深い、自分自身の感情の籠った打ち明け話。信頼してくれているから、吐露してくれたかもしれない話。
俺は、彼の『promiser』で、騎士だ。彼が信じて、預けてくれるのであれば、受け止める以外に選択肢はない。
黙って聞く体制に入れば、彼がゆっくりと続きを話し始める。肩口に、彼の後頭部が触れる。
「幼なじみでさぁ。小さい頃からずっと一緒にいた。家族よりも長い間。いつも、周りに溶け込めない俺の手を引いてくれた。俺に、夢をくれた。ずっと一緒にいたかった」
流れるような声音からは、悲壮感も、苛立ちも感じ取れない。
ただ、そうであった事実を伝えるだけのような……まるで、そう捉えさせたいかのような、自分自身をそうして納得させているとも感じる語り口に、俺は相槌の代わりに小さく頷いた。
首元で、彼の髪が遊ぶ。
くすぐったいその感触に、どうにか凪いだはずの胸が、もう一度ざわめく。
「……別に、フラれたって、告白したわけじゃないんだよ。大体、今思えば、恋とかそういうのとは、ちょっと違った気がする。俺がほしかったのは、もしかしたら……家族とか、そういう存在。だから、当たり前にこの先も一緒だって思ってたら……ある時、そうじゃないんだって、分かったというか」
恋じゃない。
その言葉に、ほんの少しだけ指先が反応した。
同時に、今まで抱いていた疑問が解答を得ていく。
凛月が、いつも誰かを求めるように眠りの淵から手を伸ばすのは、その手を取る存在のことを、知っているからで。
そうだというのに自身の心に線を引き、その心情に決して触れさせないのは、失うことも、知ってしまったからなのかもしれない。
頷きもせずに追想をしていると、凛月が小さく息を吐いて、俺に預けていた背中を僅かに離す。
軽くなった背中に、少しだけ喪失感に似た感覚が胸を吹く。
「まぁ、それから『ES』だなんだって忙しくなったし、たぁくんにも会ってバタバタして忘れかけてたけど……。今日ね、久しぶりに会ったの。そしたらなんかさ、いつにも増して活き活きしちゃって。まぁ確かに? 元々、忙しそうな時の方が楽しそうだったんだけど……その姿を見たら、妙にむしゃくしゃしたっていうか〜」
その結果が、あの低音ということらしい。
俺への不満ではなかったようだが、それ以上の感情を聞いてしまった。
凛月には、そばにいてほしい人がいて。
その人は、友人でも、恋人でもなく、家族のように強い絆で繋がっていたい人で。
その人がそうはなってくれないと気付いたことを『フラれた』のだと、称するくらいに。
俺はその人のことを知らない。
凛月の心の、俺の知らない奥深くまで触れることを許されているだろうその相手を。
胸中を波立たせて、部屋の隅で縮こまってこうして愚痴とも取れる思いを吐き出さざるを得ない影響力を持った、凛月の胸を大きく占める存在を。
——だから、なんだと言うんだ。
彼が誰を思っていたって、その願いを聞き入れて導き守るのが騎士だ。
彼の歌声を、彼が一番心地よく届かせられるよう尽力し支えるのが『promiser』だ。
思考を振り払おうとする。
けれど、何度試みても、最早瞭然なその感情は、触れられるほどに鮮明に、心の中心部に居座り続けていて。
それに触れまいと留まっていた俺自身に自覚をさせるには、生憎と、事足りすぎるような、熱だ。
彼にいつでも渡せるようにと準備していた気持ちは、彼がいつかもしもそれを俺に求めることがあれば、封を切って手渡すつもりだった。
決して俺の方から押し付けるために募らせたわけじゃない。
そうだと、決めていた。
この感情が、凛月を苦しめることがないように。
だと、言うのに。
「あ〜あ、こんなことなら、たぁくんにしとけばよかったかなぁ? ……な〜んて、『ES』が出来たのは最近だし、できっこな……」
「いいよ」
冗談だ、と、分かった。
だからこれも、言葉にするなら、冗談めかした声で、発するべきだった。
けれど、持て余したことを一度自覚したその熱を放り捨てるには、俺はまだ未熟で。
同時に、頭のどこかで、冷静に状況を見てもいて。
「え……」
途切れた言葉の端が困惑に染まる。
続きを手繰ろうと奔走する様が背中越しに感じられる。
恐る恐る、疑問符が返される。
「……家族の話? ……気持ちの、話?」
「両方」
しん、と部屋が静まり返る。
行き場なく椅子に置かれた凛月の手に俺の手を重ねると、触れた冷たい指先がぴくりと反応を示した。
告げてしまった。
勢いのままに。否、そうしてしまいたいことを、ずっと心のどこかでは思っていたのかもしない。
凛月の望む明日を邪魔したくない気持ちと、そこにもっと深く、踏み込みたいと思う願望。相反するそれらの、向こう側へ、手を伸ばしてしまった。
ここまで来れば、もう後戻りはできない。
「……凛月に、言えないことがあるのは分かってる。そのせいで、不安に思うこともあるんだろうなってことも」
冷えた体温からそっと手を離して、椅子から立ち上がる。
背中を合わせていた彼の正面に立って、跪くようにして彼の顔を見上げると、深紅の瞳が、惑うように揺れた。
困惑ではない。期待や不安のそれだと、都合よく解釈してしまっていいだろうか。
答えが示されることはない。から、離した手をもう一度、今度は確かな力で取る。
指先から熱を伝えるように、微かに震えるその手が、少しでも安心を得られるように。
「……でも、それがどんなものだったとしても、俺は別に変わらない。最初は乗り気じゃなかった『promiser』の仕事も、お陰で凛月に会えたと思うと、悪くない。俺は、国の騎士でも、民の騎士でもなく、凛月の騎士でいたい。君を支えてきた仲間より、家族のような人より、誰よりも、君を支える存在でありたい」
想像よりもずっと淀みなく言い終えると、自分の中にしまい込んでいた感情が、次々と溢れてくるような感覚がした。
見つめていた凛月の瞳が、一瞬逸らされ、そしておずおずと、もう一度交わる。
「それって……」
迷うように、開閉する唇から紡がれた言葉が、より真っ直ぐな問いになる。
「俺のこと、好き、ってこと……?」
そう。と確かに頷いて、もう一度声にした。
「凛月のことが好き」
見紛いようのない、明瞭な想いだった。
この際なんでも認めてしまうけど、つまり恐らく、一目惚れだった。
初めて中庭で目を合わせた瞬間、その深い紅色の瞳に、いたずらな表情に、心ごと、射抜かれてしまったと言っても過言ではない。
『promiser』は、あくまで『idol』の護衛であり、私生活のサポートもするがこちら側からプライベートに踏み込むような立場ではない。けれど凛月の場合は、彼の性格や体質のこともあってかなりプライベートにも馴染んでいるように思う。
そんな現状を、幸運だと思ってしまう自分がいるくらいには、当たり前のように、俺の思考は彼のことでいっぱいになっていた。
触れる手に、僅かな熱が灯る。
凛月の力でほんの少しだけ引き寄せられて、腕を上げる。
見上げる彼の頬が薄紅に染まっていた。宝石みたいな瞳の色よりも柔らかで、ささやかで、胸が跳ねるほどに、白い肌によく似合っていて。
「どういう、好き……?」
誰にも見せたくない。この感情が、答えだ。
「……」
触れ合う手を、今度は持ち上げるようにして、その場に立つ。
指と指を絡めれば、弱い力で、けれど確かに、繋ぎ返された。
繋いでいない方の、手を伸ばす。薄紅の頬に、触れる。
こちらを見上げる紅い瞳が、一瞬大きく開かれて、揺れた。なぞるように親指で目尻を撫でると、耐え兼ねるように、そっと帳が下ろされる。
身をかがめる。
触れたのか、触れないのか。
刹那分からないほどに、重なった唇は、想像よりも冷えていなくて。
そして、ほんの僅かでも分かるほど、柔らかくて。
もっと触れたいと、そう求める欲を宥める。
数秒にも満たないその時間を惜しむように、離れる瞬間、唇に触れる彼の吐息に全身を熱が巡った。
彼がゆっくりと目を開く。
深紅の瞳はいつもよりも多く水分を湛えていて、鮮やかな紅がたゆたう。
恥じらうように視線を下げる姿に、もう一度、と脳内でささやきが聞こえるが、絡めた指がぎゅっと繋がれる力に意識が鮮明になった。
表情を隠すように、彼が俯いて、小さく唇を震わせる。
「……俺、たぁくんの言う通り……言ってないこと、ある。たぁくんの気持ちを知っても、不安に思ってる。そんなことにならないって、言い聞かせても……まだ、だめなの」
それは、絞り出したような弱音だった。
強く握られる手が、震えている。
隠した表情に、小さな子供のような口調に、この言葉が、彼の心の根幹に関わる不安であることが伝わる。けれど、そうであるならば、その不安を受け入れた上で、それでも変わらない想いを伝え続けるだけだ。
「いいよ」
短くにすると、思わずといった様子で彼が顔を上げる。
「距離が近付いたからって、何もかも話さなきゃいけないわけじゃない。いつか、話してもいいって思えそうな時が来たら、話せばいい」
何を言われても、俺の気持ちは同じで。
だから、不安に濡れたその瞳が、明日への期待や幸せでいっぱいになるまで、どんな言葉でも、嘘のない想いを乗せて届けたい。
今はまだ、縋る先であったとしても。
「……約束が、ほしい」
消え入りそうな声で紡がれた言葉を、一つとして聞き逃さないよう、耳を傾ける。
「その時が、来たら……。俺が、何を言っても、どんな真実が分かっても、俺のこと、嫌いにならないで」
そんなことは、もう覚悟の上で。
「好きでいて。……俺のそばに、いて」
当たり前に、決めてしまったことで。
それでも、その切なる気持ちが、今の彼の一番の願いならば。
丁重に受け止って、彼が望む最大限の柔らかさで、包みたい。
わかった、と、確かな言葉が届くように、大きく頷く。
「約束する」
そう、言い切ると同時に、凛月の、俺に触れていない方の手が淡く輝いた。
視線をやると、彼の手の甲に浮かぶ『idol』の刻印が、発光している。
これは、『調律』が完了したときに見られる現象だ。
ピアノの演奏は途中で終わって、『調律』は完全には完了していなかったはずだが……。
「……たぁくんが、触った、から……。たぁくんの音、心地いいって、思うようになって……近付いたら、早くなるから、その『音』が……」
訳を説明する凛月の頬の薄紅がより鮮やかになって、恥ずかしそうに視線が逸らされる。
それは……つまり、ピアノだけではなくて、俺自身の『音』が、彼の『音』に寄り添えるようになっている、ということだろうか。
その上、彼に触れている時の鼓動の方が、より強く——
「たぁくん」
話を逸らすかのように、やや強めの声で凛月が呼んだ。
握りっぱなしの手が、ぐい、と、もう一度身をかがめざるを得ないくらい引かれる。
「たぁくんと、そういう関係に……なっても、いいよ」
初めて明確に、向けられた想いを受け入れる言葉をくれた。
そのまま凛月は手を離して、俺の首に腕を回す。
それだけでまた早鐘を打つ鼓動に、きっとこの変化も気付かれているだろうと頭のどこかで考えてしまうが、そんな懸念は些細なことで。
寧ろ、それが凛月にとって心地の良い『音』となるなら、俺だけの特権だと、そうも思えてしまって。
回された腕に、ぎゅっと力が籠る。
行き場を失った手で彼の髪をそっと撫でると、間近で彼の澄んだ声がした。
高くない体温も、ささやくような声音も、控えめに、けれど確かな意志で求められる心も、全部が愛おしい。
だから、続けられる彼の要求も、当たり前に、応えないという選択肢はない。
「なるからには、俺のこと、大事にして、甘やかして」
「分かった」
「一人にしないで。怪我も、浮気も、したらやだ」
「一人にしないし、浮気もしない。凛月しか見てない。怪我は……気をつける」
「それから、もう一つ」
凛月が、俺に抱きついたまま少しだけ体を離す。
じ、と見つめる紅い瞳は、真っ直ぐで、だけど少し逸らされて、また戻って……どこか、ねだるような、甘い色をしていて。
「もう一回、して?」
これほどまでに甘美なお願いを、俺は知らない。
愛されることに不安はあっても、自分の魅力を大きく理解している彼のキラーパスは時に歌声以上の破壊力を持っている。
そして、その力を遠慮なく、本気で行使されてしまえばこちらに抗う術などない。
凛月とそういう関係になるということは、今後その手のおねだりに、一切の遠慮がなくなるということだ。
いや、もともとそんなに遠慮されてはいなかったが、そういう話ではなく。
とにかく、翻弄されることが増えそうではあるが、そんな毎日も、きっと大切で、愛おしいのだと思う。
しばらくは、ピアノを弾く必要もなくなってしまうかもしれない。そんなふうに思うのは、もしかしたら期待しすぎ、かもしれないけれど。
見つめる視線に答えるように、彼の後頭部に触れる。
閉じる瞳にまた心臓が忙しなく騒いで、あの柔らかさを、もう一度体感する——その、直前に。
ぐぅ、と、腹の虫、が多分鳴った。
俺ではない。とすれば。
「……っ」
腕の中の彼が、ふるふると何かに耐え兼ねるように震える。
「……待ってたの。たぁくんのこと」
首に回されていた腕が離れて、羞恥心からか頬を紅潮させて涙目で軽く睨まれる。
かわいい、と残念、が同時に脳を占める。
「ごめん」
部屋に入った瞬間の不機嫌に、もしかしたら夕飯を待ってくれていたのではという懸念があったが、どうやらそちらも当たりだったらしい。
諸々のやり取りで、すっかり食堂も閉まっている。となると、この部屋で俺が準備をするしかなく。
「軽く作ったから、あっためて」
「凛月が?」
「悪い?」
悪くない。寧ろ嬉しい。ありがとうと、それを伝えれば、斜めの機嫌もなんとか戻してくれて。
「動けないから、ぎゅぅして運んで。あと、あーんしてくれないと許さないから」
すっかり甘えモードに入った彼を抱き上げる。
ひとまずベッドの上に運べば、満足そうな姿に、自然と肩の力が抜けた。
今日から彼とは『そういう関係』。つまり、恋人同士だと、そう思ってもいいのだろう。
大切な約束も、心も、凛月の何もかも、守れるように。
不安も、懸念も、一つずつ取り除いていきたい。
今はまだ、全てを知るには、彼と重ねた想いが足りないけれど。
「凛月」
「……?」
そんな今も、大切にしていこう。
首を傾げて見つめる瞳がまた、悲しい涙に濡れる姿を、見たくはないから。
「少し待ってて」
頬に唇で触れて、台所へと向かう。
背中を向けた凛月が照れている気配がするが、あの甘さの続きは、食事の後に取っておこう。
開けた冷蔵庫の中に、煮込み終わったシチューの鍋が入っていることに気付いて、あまのじゃくな恋人に小さく笑みが零れた。
8/8ページ