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Little Fairytale -Ritsu-
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『調律』とは、『idol』達が正しくその能力を扱えるように、自身の中の『音』の力を調整する医療行為であると、先にも思い返した。
『ES』に所属している『idol』達は、検診とはまた別に定期的に調律室に足を運び、専門家の手によってそれを施される。『idol』達のための組織でもある『ES』には、流石最先端の器具が揃っていて、凛月曰く、腕とか胸とか色々な場所に何やら色々繋いで色々やる、とのことだ。
何やら小難しいように見えるが、実は、調律自体は器具を使わなくてもできる。
『idol』が、自身の体に合った『音』を持つ物、人に触れてその『音』を感じたり、自身の『音』を分けるだけ。その、『体に合った音』というものを見つけることがなかなか難しいが故に、器具を利用して様々なサンプルを試しているということだ。
実際は波長を取ったりと科学的なことをやりまくって少しでも適切な『音』を擬似的に作り出せるようにしているみたいだが、この辺は本当に小難しくてよく分からないので割愛。
ともかく、今の凛月は、未だ少ない現在の知識で持てる限り全ての技術を詰め込んだその文明の利器でさえも、適切な『音』が作り出せない、そんな厄介な状況に立たされている。
どうやら、元々生まれ持つ『音』の波長にむらがあり、その時々で様子が変わってしまうことも原因の一つらしかった。
その時々で変わる。ならば。
なんて、素人の思いつきでしかないが、あの中庭での一件があった後、その話を聞いた時に一つ提案をしてみた。
試しに、俺の『音』が合わないか感じてみないかと。
正直、『音を感じる』なんてどうするのか分からなかったし、音楽鑑賞用のレコードは割った記憶しかなかったのであまりにも無知な者の発言でしかなかったのだが、曰く宝くじ的なその確率の提案に笑うこともなく、頷いた凛月は「じゃあ心音」としばらく俺の胸元に耳を密着させたのち、散々唸った挙句「全然ダメ」と離れていったのだった。
因みに、触れた『音』が自身に合うか合わないか、というのは、触れた瞬間になんとなく分かるらしい。からかわれたのだと知ったのはその日の晩、資料室から持ち出した『idol』に関する記述を読んだ時だった。
あの時の心臓の音を返してほしい。多分、普段より早かった。
そんなことがあり。
状況が状況だけに、思い返して恥ずかしがっている場合じゃない。
討伐作戦は2日後。倒れかけた昨日よりも顔色がいいとはいえ、あんなことがあってその原因を取り除けないまま凛月に謳わせるのは嫌だ。
気丈な彼は宣言通り、きっと上手くやるのだろうけれど。心配とか、不安ではなくて、これは俺が、良いか悪いかの問題だ。
そう思いながらも解決方法が浮かばず、昼にでも、凛月と同じ管轄の『idol』でありながら『調律』の技術者でもある青葉さんに相談しに行くか、なんて思っていた、矢先。
迎えに行った凛月の部屋の隅で、埃を被ったある物が目に入った。
「のんびりしててって言ったから練習終わりにデザートまで食べちゃったけど、たぁくん、俺の部屋で何やってたの?」
歌の自主練を終えて、部屋に戻って来た凛月が首を傾げる。
今日は少しばかり試してみたいことがあって、凛月の部屋に先に戻らせて貰っていた。ゆっくりでいいとは言ったものの随分長いなと思っていたら、今日の日替わりスイーツのマカロンまで食べてきたらしい。まぁそれはいい。
お陰で、目的は達成していた。
部屋の奥を示して、凛月へ「これ」と告げて、布で覆われた大きな物に触れる。
「これ、って……」
紅い瞳が、僅かに揺れた。
凛月が来る前に戻した布を、もう一度外す。覆われていたのは、年季の入った、アップライトピアノだった。
「これでもう一度『調律』を試してほしい」
さっき初めて触れた時は大分汚れていたが、拭きあげてすっかり……とは行かないまでも多少光沢を取り戻した黒いそれを、掌で撫でる。
凛月の部屋に、ピアノがあることは前から知っていた。最初は『idol』の私室ってすごいんだな、くらいにしか思っていなかったが、考えてみると『ES』は設立されて長くないし、古いピアノが設置されていることには違和感がある。それに、凛月が演奏を前提に搬入を希望したとも考え難い。何故ならば、俺が部屋に出入りするようになってから一度も凛月はピアノの話をしていないし、埃を被ったその布を外そうとする素振りすら見せなかったからだ。
であればこれは多分、実用のためではなくて、思い出の類で。
そして、今、弾こうとしないのは——
「それ、何年も前に音が狂っちゃって。誰かの前で披露するわけでもないし、調律師を呼ぶほどでもないかなって……」
「多分、それなりの音にはなったから」
「それなり、って……たぁくんが?」
そう。きっと、弾きたくても、弾けないんだろうって勝手に予測をつけて、ほんの少しだけ、音に触った。
小さい頃から、鍵盤だけは好んで続けられた。別に誰に披露するわけでもない、けれどただただ、好きだった。
昔のような音がもう鳴らせない。自ら望んで触れられない。それでも手放せない。その気持ちが分かった。
だからこそ、捨てられずに持っていた。
「それ、調律の道具……」
数年ぶりに引っ張り出した道具を、ピアノの横に置く。
『idol』達が行う『音を感じる』感覚は分からない。彼らが必要とする『調律』も自信はない。だとすればもう、誰かや何かの専門技術に頼らないのであれば、これが唯一、俺にできることだった。
「全然ダメだったら申し訳ないけど、試すだけ」
嫌? そう尋ねれば、しばらく逡巡したのち、迷うように目が、伏せられる。
そうして、長い沈黙の後。
「少しだけなら」
そう言って、ピアノの前に置かれた椅子に、凛月が浅く腰掛けた。
背中を合わせるようにして俺も座って、鍵盤の蓋を開ける。
眼前には白と黒の波。大丈夫だ。触った音には、色があった。思い出があった。例え完璧ではなくても、彼に取って、馴染みのある音なのではないだろうか。少しでも、響いてはくれないだろうか。
「ねぇ、たぁくん」
指先が白色に触れる直前、凛月が俺を呼ぶ。
手を止めて、振り返らずに続きを待てば、囁くようにその声が力なく続けられた。
「……俺、ちょっとショックだったんだ。『音』が、心地よく感じられなくなったこと。小さい頃は、あんなに楽しかったのに。……ピアノの音も変わったし、俺も変わった。調律しなかったのは、前の音を取り戻しても、それを大好きだって思えないかもしれない自分と会うのが、怖かったから」
吐息と混じったようなその感情の吐露は、今まで聞いたどんな彼の声よりも弱々しくて、人間らしい。
「変わるしかなかったから。ずっと家にはいられないし、優秀な家族と比べられながらだとしても、俺自身が求められるには……平和のための、武器になるしか、なかったから。……でも、大丈夫。今回ダメでも、たぁくんが頑張ってくれたこと、嬉しいし。もし今の俺に、合う音がなかったとしても……謳うことができなくなるわけじゃない。腐っても騎士だからねぇ。みんなのために、ちゃんと、頑張れるから」
「そうやって、全部諦めてきた?」
息を飲む音が、背後から聞こえた。
ふらつく程朝に弱くても、どんなに調子が悪くても、軽口を叩いて、謳うことを止めない。その姿勢は気丈で、強かで。けれど、そうであれと切望した本心は酷く柔らかくて、繊細だ。
言葉を探す彼が、新たな鎧を纏ってしまう前に、届けたい。彼が丹精込めて織り上げた、彼自身の思いを。
鍵盤に、触れる。
初めの音が、たおやかに
「……!」
深く響く色。
ああ、良かった。ちゃんとうたっている。それはそうだ。彼の曲が、彼の大切な音と
後生大事に連れ添った思い出が紡ぐのは、彼が謳う優しい歌。小さなフェアリーテイルに込められた願いを、できる限りちゃんと、掬い上げて、奏でるから。
「歌って」
冒険譚の主役を君に譲る。だから、君の『音』も聞かせて。
そう伝えるように主旋律から伴奏へと切り替えれば、背中から伝わる戸惑い。呼吸、そして。
「……〜♪」
自由に
剣を取る以外に、君を守れる選択。君の今を、立ち上がった過去を、願う未来を、肯定すること。
等身大の君の『音』で、何も構わないのだと、伝えること。
だから。
『君の最高の笑顔を見せて』。
そう締め括られる、物語の続きを願う。俺が、君に。
「……凛月は凛月だ」
思ったままの言葉を伝えれば、触れていた背中が、僅かに震えた。
「この音……」
体を任せるように、肩口に彼の後頭部が預けられる。
「あの頃と同じ……。……あぁ、そうだ。『音』って、あったかかったんだ」
誰に伝えるでもなく、自分自身に聞かせるようにして呟いた凛月の体から、仄かな熱を感じる。
それは今まで、まるで彼自身が受け付けなかったかのようにも思えた、確かな体温で。
互いの鼓動が重なる。探るように、凛月の指先が、俺の手に触れる。
「忘れちゃってた。大切だった、ううん、今も大切なもの……。たぁくん」
ありがとう、と、そう続けて、凛月が俺の手を握る。
——刹那。
ふわりと、木漏れ日が宿るみたいに、彼の手の刻印が柔らかく輝いた。今度は明確に、鮮やかに。
「たぁくんが、俺の『音』だったんだ」
握られた手から、穏やかなあたたかさが伝わる。彼が感じている心地良さは、きっとこの熱に似ているのだろう。
確信めいた思いに、そっと目を閉じる。
この熱を、失わずにいたい。
たとえこの先に、何があったとしても。
掌を返して、俺からも握り返す。
今はまだ、もう少しだけ、このまま。
深い夜の警鐘に、気付かないままで。