復活短編集
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幼い頃から、隠し事を好む質だ。誰も知らない何かがあるというのは、子供心に浪漫を感じていたのだと思う。しかし、この件ばかりは話が違っていて、決してわくわくするから隠しているのではなかった。
咲かないと分かる恋を口に出来る程、私は私を信じていない。
伸びた背すじ。人を張り詰めさせる気配。ブレザーが大多数のこの中学で、異質な学ラン。夏服でも冬服でも、差し色のような腕の赤がよく映えている。雲雀恭弥という人は、一際目を引く存在だった。
彼に向けられる多くの視線の中に、そっと自分の分を混ぜる。仮に悪意であっても、害を成そうとしない限り反応されることはない。弱者に対して、不愉快以外の関心が皆無。だからこそほんの少しだけ、見つめることが出来た。いつも私は周囲に悟られぬよう、熱の籠もらぬ内に瞬きと合わせてそっと目を逸らす。
「相変わらず健気だねぇ」
前の空いた席に座っている友人は、コーヒー牛乳のパックにストローを差し込みながら、こちらへ苦笑いを向けていた。
「結局三年間、ファンクラブにも入らず一人で想い続けた訳か」
「誰かと気持ちを共有したい訳じゃないからね」
分かち合いたいのではない。ただ時折、本人の姿を眺められればそれで満足だった。元より手が届くなどと、考えたことはなかったから。並び立てると思える程、私に胸を張れるものなどないから。そんな弱音、決して音にはしないけど。
友人は呆れたように肩を竦める。
「ったく、世の若者達が浮き足立ってるってのにこの子ときたら」
「……受験期だからってこと?」
「それは私等の学年だけでしょう。違うわよ、バレンタイン」
「ああ」
最近は勉強漬けだったので、すっかり忘れていた。バレンタインデーは並盛中においても、生徒間での一大イベントだ。私は例年、市販の小さなチョコを仲の良い人にだけ配っていたのだが、本命を用意したりといった参加はしたことがない。周りの甘酸っぱい空気だけは何もせずとも大量に浴びることとなるので、微笑ましく見守っているが。
「三年は忙しいし、そこまで盛り上がらないんじゃない?」
「逆よ逆。皆気合い入りまくり。今年を逃したら離れ離れになる子だって大勢いる。最後のチャンスなのよ」
友人はじとっとした目で眉を寄せながら力説する。そう言われればそんな気がしてきて、そっか、と空を見ながら頷いた。今日は曇り空にぽつぽつと雪が降っているので、教室内が僅かに暗くなっている。
「あんたは?」
「私?」
「そう、あんた。どうするのよ、チョコ」
「いつもと変わらないよ。ちゃんと用意しとく」
「あたし達の分じゃなくて。渡さないの、あの人に」
すぐに返事は出来なかった。周囲に配慮して明言は避けてくれていたが、誰を指しているかすぐに理解する。
何故そんなことを聞くのだろうか。長い付き合いだ、私の考えなどとっくに分かっているだろうに。予想されているであろう返しを、そのまま舌に乗せる。
「あげないよ」
「どうして」
「どうしてって……」
「高校、市外なんだから。もう会う機会ないかもしれないんだよ。向こうは卒業するのかも怪しいし」
心の中で燻らせておくくらいなら、最後くらい、勇気出して当たって砕けたら。そう言い残して友人は席を立つ。
仄かなコーヒー牛乳の香りが微かに過ぎって、空気に掻き消えていった。
帰宅してから私は、自室のベッドに寝転がっていた。どうにも日中の会話が胸に引っ掛かって落ち着かない。雲雀さんにチョコを渡すなど、考えたこともなかった。毎年バレンタインには、大量のチョコを貰っているらしいというのは女子の情報網で知っていた。しかし、そこに自分が加わったことはない。そもそも恋愛的な好意を向けられることについて、彼はどう思っているのだろう。群れるのを嫌うのだから、特別な誰かを作ったりもしないのではないか。どちらかと言えば、鬱陶しく思うのでは。
「何処行くの、もうすぐご飯よ」
「ちょっと歩いてくる。すぐ戻るから」
どんどん日が落ちていく中での室内に居ては考えが纏まらない。ショートブーツを履き、気分転換も兼ねて散歩へ出る。
今年の並盛町は地面が白くなる程度には積雪がある。滑らないよう気を付けながら近所の花見場所に向かうと、先客がいた。
白銀に佇む、黒い背中は。
「雲雀さん……」
たった今脳内を占めていた人が、目の前に居た。距離はそれなりに離れていたのに、呟きを聞き届けたように彼は振り返る。無意識に肩が跳ねてしまう。並盛中に入学して三年。この時私は初めて、想い人と目が合った。
息が詰まる。胸がぎゅっと締め付けられていく。最低限の立つ力だけを残して、他の神経は全て上半身に凝縮されてしまったような感覚。身動きなど、とても出来ない。
雲雀さんは僅かな間こちらに顔を向けていたが、やがて興味を無くしたように視線を逸らし、何処かへ行ってしまった。
ゆっくりと息を吸って、吐く。今し方起こったことが思い起こされ、頭の中で何度も、何度も反芻される。脳は茫然とする感情を置いて、絶対にあの光景を忘れまいと躍起になっているようだった。心臓が熱い。真っ直ぐ、射貫くような視線が一瞬でも自身に向けられたという事実が、私の奥底に焼き付く。へばりついて剥がれなくなった考えが、全身を支配した。
あの瞳に、もう一度映りたい。独占し続けたい。
気付けば私は、チョコを作り終えて冷蔵庫に収めていた。材料を購入した事も、調理過程も、あまり覚えていない。強烈な衝動のままに行動するだなんて、そんなことは今まで一度も無かったのに。恋とは、こんなにも制御が利かないものか。たった一度、微かな接触があっただけだというのに。雲雀恭弥という人間は、まるで劇物である。熱に浮かされた自分が、何だか恐ろしかった。
2月14日、バレンタインデー当日。雲雀さんを慕う子は、殆どが彼の下駄箱にチョコを置いていくらしい。であれば、考えることは皆で大体同じ。チョコが積まれた後半に入れて、出来るだけ上の目立つ位置に、自分の分を配置して印象に残りたい。故に、下校時刻ぎりぎりまで粘る女子は多いだろう。
私は水面下で起こる熾烈な戦いには参加せず、チョコを置いていくタイミングが被らない早朝に登校した。例え他の子の分で見えなくなっても、潰れても。周りを見渡せるような余裕はなく、とにかく渡せるのであれば何でも構わないと思っていた。
生徒玄関に辿り着いて目的の場所を見遣る。来る途中、部活の朝練っぽい格好をした生徒は数人見かけたが、それ以外の姿はない。失礼を承知で雲雀さんの下駄箱を開かせてもらうと、中には上靴が入っているだけだった。どうやら、彼もまだ来ていないらしい。
鞄から、用意したチョコを取り出す。一番お気に入りのラッピングを施されたそれに、おかしなところは無いか最後の確認をする。
「……よし」
この後はどうなるか分からないが、少なくとも今は崩れたり、破れたりはしていないことに安堵する。あとは置いておくだけだ。
「…………」
そう、考えていたのに。今更になって強い緊張が襲ってきて、身体が強張る。思うようにチョコから指が離れない。どうして、別に正面きって告白する訳でもないのに。何をこんなに手間取っているのか。早くしないと、人が来てしまう。折角誰もいない時間を狙ったのに。早く、早く。
焦りが頂点に達した時、頭の中が雑然とした末、一周回って思考が従来の姿を形取る。理由も分からぬ不安に襲われて、ふと最近の、視野が狭まった自分を顧みた。急速に頭が冷えていくのを感じる。
本当に良いんだろうか。芽生えた我欲に浮かされたまま来てしまったけれど、私がやりたかったことは、本当にこれなんだろうか。誰かと寄り添い合うことを是としない雲雀さんに、ただ思いのままに気持ちを押し付けるのは、酷く自己本位なのではないか。そもそも、私はこの恋をどうしたかったんだっけ。
思考の海に入り込んで立ち尽くした私は、徐々に大きくなる足音に気付かなかった。
「そこで何してるの?」
玄関の方向から、遠くからでしか聞いたことのない声が響く。弾かれたようにそちらを見た。
怪訝そうな言葉の主は、紛れもなく雲雀恭弥その人で。
「あ……」
女子生徒が、己の下駄箱の前でしどろもどろになっている。明らかに不審だ。弁明しようとしても、いざ本人を前にすると私の喉からは何も出ない。どうにか手にしていたチョコを後ろ手に隠すも、彼が見逃すことはなかった。
「ああ、もうそんな時期か。そこ、退いて」
得心してから、何事もなかったかのように近付いてくる。受けた指示に、慌てて距離を取った。下駄箱から取り出した上靴を履いて、代わりに外靴を押し込んだ雲雀さんが私の方を向く。あんなに望んでいたのに、彼の目を見つめ返せない。悪いことをしていたのを目撃されたような後ろめたい心地になって、自分の視線が下がっていく。
「で、どうするの」
「……え」
「それ、僕宛なんだろう? 下駄箱開けてたくらいなんだし。くれるなら今受け取るけど」
意外な発言に思わず顔を上げる。雲雀さんの声色や表情からは正の感情も、そして負の感情も読み取れなかった。
思わずもう一度聞き返す。
「渡したら、受け取ってくれるんですか」
「そう言ってる」
「ど、どうして。だって、私に、私達に、」
興味なんてないでしょう。
口は動かなかった。友人が以前言っていたことが、今になって突如頭に浮かぶ。実際に食すかどうかは不明だが、雲雀さんは、毎年チョコを回収して帰っているのだと、小耳に挟んだことがあった。当時は半信半疑だったし、いざ遭遇してみても、何を言われたのか分からなくて混乱する。人嫌いなのだと、ずっと信じ込んでいたから。
聡い彼は、私の考えを正確に読み取って答えた。
「興味はないし、群れる草食動物は嫌いだけど……ただ好意を向けてきただけの相手を、一々疎むつもりもないよ」
大きく目を見開く。朝の陽光が玄関扉から差し込んで、雲雀さんの顔をほんの少しだけ照らしていた。
今日は本当に、心の動きが忙しない。彼の何気ない一言は、私に世界がひっくり返るのにも等しい衝撃と納得を与えた。次第に言葉が胸にすっと入り込んで、じんわりと染み渡っていって。段々と驚きよりも、喜びが勝っていくのを感じる。先日からの盲目な熱も、この場で抱いた迷いも全てが晴れていく。ただ穏やかで愛しい心地が、私を包んだ。
そうして悟る。この人は、きっと同じ気持ちを返してはくれない。誰かを下に置くことはあっても、隣に並び立たせることはしないし、受け入れない。だが、本気で自身を慕う気持ちは、否定しないでいてくれる。私が彼に対して抱いた想いもまた、決して無碍にすることはないのだと。三年も見ていたくせに、漸くになって理解したのだ。
「それで、どうするんだい」
雲雀さんは、ただ私が答えを出すのを待ってくれていた。本当は委員会の仕事か何かで早く登校したのだろうに、こうして足を止めてくれている。
彼の無意識な優しさに。言いたいことが、言うべきことが、私の中で急速に纏まっていくのを感じた。伝えたいのは、ひとつだけ。
「雲雀さん」
一度意を決すると、心からの笑顔が溢れる。
「いつもこの中学を、並盛を。守ってくれて、ありがとうございます」
これ、良ければ貰って下さいと、渡したかったものを差し出した。雲雀さんの伸びた右手が、そっと受け取る。あんなに言うことを聞かなかった指が、今度は自然と離れていった。
「ありがとう」
普段の鋭さを引っ込めて、チョコを見ながら穏やかに笑みを浮かべた彼の顔を。
私はずっと、忘れない。
担任によるホームルームを終えて校舎を出ていく。敷地内を彩る桜の花びらが、紙吹雪を連想させる。並盛中学校の卒業式では、新たな門出に相応しい景色が、私達を祝ってくれていた。
生徒玄関の前で、卒業生、在校生、保護者や教師が入り乱れる。いつまでも別れを惜しみ合うのは恒例であっても、自分達が主役となると話は別で。私は友人と、同校としての最後の会話をしていた。
「まあ、メアドも番号も交換してる訳だし。その気になればいつでも会えるでしょ」
「そうだね、これからも沢山遊ぼう」
何でもないことのように笑い合ったが、なかなか帰ろうとしないところがお互いの心情を物語っていて。涙が滲みそうになるも、湿っぽいお別れは嫌だと何とか堪えて取り繕う。暫く一緒に過ごしていると、談笑の区切りがついた頃に彼女の笑顔が立ち消えた。
「……ねえ、本当に会ってこなくていいの? 今日くらい、挨拶に行っても誰も怒らないよ」
ずっと聞きたかったのだろう。心配の色を浮かべた彼女に、私は微笑みながら緩く首を振る。
「うん、いいの。この気持ちは、此処に置いていく」
「……そっか、あんたがそう言うなら」
背後から首に腕を回される。いつものスキンシップ。明日からは、いつものではなくなるスキンシップ。
「困ったり悩んだらいつでも相談してよね。どんな内容でもどんと来いだから」
「うん、何かあれば絶対言う。そっちもね」
「ん。……もう行かなきゃ。じゃあね。高校でも元気にやるんだよ」
「バイバイ。また連絡する」
背を向けた彼女の身体が、遠くの方でほんの少し丸まっていたのは、見ないふりをした。卒業式に出席してくれた母は、既に他の保護者との立ち話を終えて私を待っている。あとはもう、帰るだけだ。
玄関前から立ち去るより先に、校舎をもう一度見上げる。応接室であろう部屋の窓から、彼の姿が見えた。目が合った気がしたのは、きっと思い違いだろう。だって、こんなにも距離があるんだから。
あの日、二人きりで直接話すという最大のチャンスを掴んだ私は、結局想いを伝えなかった。他の人が聞けば、きっと誰もが勿体ないという感想を抱くだろう。でも良かったのだ。彼のことを少しだけ教えてもらった時、分かってしまったから。私にとっての恋が完成し、そして終わったのだということを。
友人に嘘を吐いてしまったことに僅かな罪悪感が灯る。本当は、置いていけるかなんて分からない。いつまでも、心の奥底へ仕舞い込むことになるかもしれない。それでも、と小さく笑った。
さようなら。貴方を好きになったことは、これからずっと、私の自慢です。
視線を外して母と合流する。もういいのかと聞かれてひとつ頷き、今度こそ胸を張って、校門の外へ出た。上空を、気儘に浮かんでいる雲が横切る。巨大な白は、帰り道を進むほど視界から外れていって。
家に着く頃には、青だけが残っていた。
咲かないと分かる恋を口に出来る程、私は私を信じていない。
伸びた背すじ。人を張り詰めさせる気配。ブレザーが大多数のこの中学で、異質な学ラン。夏服でも冬服でも、差し色のような腕の赤がよく映えている。雲雀恭弥という人は、一際目を引く存在だった。
彼に向けられる多くの視線の中に、そっと自分の分を混ぜる。仮に悪意であっても、害を成そうとしない限り反応されることはない。弱者に対して、不愉快以外の関心が皆無。だからこそほんの少しだけ、見つめることが出来た。いつも私は周囲に悟られぬよう、熱の籠もらぬ内に瞬きと合わせてそっと目を逸らす。
「相変わらず健気だねぇ」
前の空いた席に座っている友人は、コーヒー牛乳のパックにストローを差し込みながら、こちらへ苦笑いを向けていた。
「結局三年間、ファンクラブにも入らず一人で想い続けた訳か」
「誰かと気持ちを共有したい訳じゃないからね」
分かち合いたいのではない。ただ時折、本人の姿を眺められればそれで満足だった。元より手が届くなどと、考えたことはなかったから。並び立てると思える程、私に胸を張れるものなどないから。そんな弱音、決して音にはしないけど。
友人は呆れたように肩を竦める。
「ったく、世の若者達が浮き足立ってるってのにこの子ときたら」
「……受験期だからってこと?」
「それは私等の学年だけでしょう。違うわよ、バレンタイン」
「ああ」
最近は勉強漬けだったので、すっかり忘れていた。バレンタインデーは並盛中においても、生徒間での一大イベントだ。私は例年、市販の小さなチョコを仲の良い人にだけ配っていたのだが、本命を用意したりといった参加はしたことがない。周りの甘酸っぱい空気だけは何もせずとも大量に浴びることとなるので、微笑ましく見守っているが。
「三年は忙しいし、そこまで盛り上がらないんじゃない?」
「逆よ逆。皆気合い入りまくり。今年を逃したら離れ離れになる子だって大勢いる。最後のチャンスなのよ」
友人はじとっとした目で眉を寄せながら力説する。そう言われればそんな気がしてきて、そっか、と空を見ながら頷いた。今日は曇り空にぽつぽつと雪が降っているので、教室内が僅かに暗くなっている。
「あんたは?」
「私?」
「そう、あんた。どうするのよ、チョコ」
「いつもと変わらないよ。ちゃんと用意しとく」
「あたし達の分じゃなくて。渡さないの、あの人に」
すぐに返事は出来なかった。周囲に配慮して明言は避けてくれていたが、誰を指しているかすぐに理解する。
何故そんなことを聞くのだろうか。長い付き合いだ、私の考えなどとっくに分かっているだろうに。予想されているであろう返しを、そのまま舌に乗せる。
「あげないよ」
「どうして」
「どうしてって……」
「高校、市外なんだから。もう会う機会ないかもしれないんだよ。向こうは卒業するのかも怪しいし」
心の中で燻らせておくくらいなら、最後くらい、勇気出して当たって砕けたら。そう言い残して友人は席を立つ。
仄かなコーヒー牛乳の香りが微かに過ぎって、空気に掻き消えていった。
帰宅してから私は、自室のベッドに寝転がっていた。どうにも日中の会話が胸に引っ掛かって落ち着かない。雲雀さんにチョコを渡すなど、考えたこともなかった。毎年バレンタインには、大量のチョコを貰っているらしいというのは女子の情報網で知っていた。しかし、そこに自分が加わったことはない。そもそも恋愛的な好意を向けられることについて、彼はどう思っているのだろう。群れるのを嫌うのだから、特別な誰かを作ったりもしないのではないか。どちらかと言えば、鬱陶しく思うのでは。
「何処行くの、もうすぐご飯よ」
「ちょっと歩いてくる。すぐ戻るから」
どんどん日が落ちていく中での室内に居ては考えが纏まらない。ショートブーツを履き、気分転換も兼ねて散歩へ出る。
今年の並盛町は地面が白くなる程度には積雪がある。滑らないよう気を付けながら近所の花見場所に向かうと、先客がいた。
白銀に佇む、黒い背中は。
「雲雀さん……」
たった今脳内を占めていた人が、目の前に居た。距離はそれなりに離れていたのに、呟きを聞き届けたように彼は振り返る。無意識に肩が跳ねてしまう。並盛中に入学して三年。この時私は初めて、想い人と目が合った。
息が詰まる。胸がぎゅっと締め付けられていく。最低限の立つ力だけを残して、他の神経は全て上半身に凝縮されてしまったような感覚。身動きなど、とても出来ない。
雲雀さんは僅かな間こちらに顔を向けていたが、やがて興味を無くしたように視線を逸らし、何処かへ行ってしまった。
ゆっくりと息を吸って、吐く。今し方起こったことが思い起こされ、頭の中で何度も、何度も反芻される。脳は茫然とする感情を置いて、絶対にあの光景を忘れまいと躍起になっているようだった。心臓が熱い。真っ直ぐ、射貫くような視線が一瞬でも自身に向けられたという事実が、私の奥底に焼き付く。へばりついて剥がれなくなった考えが、全身を支配した。
あの瞳に、もう一度映りたい。独占し続けたい。
気付けば私は、チョコを作り終えて冷蔵庫に収めていた。材料を購入した事も、調理過程も、あまり覚えていない。強烈な衝動のままに行動するだなんて、そんなことは今まで一度も無かったのに。恋とは、こんなにも制御が利かないものか。たった一度、微かな接触があっただけだというのに。雲雀恭弥という人間は、まるで劇物である。熱に浮かされた自分が、何だか恐ろしかった。
2月14日、バレンタインデー当日。雲雀さんを慕う子は、殆どが彼の下駄箱にチョコを置いていくらしい。であれば、考えることは皆で大体同じ。チョコが積まれた後半に入れて、出来るだけ上の目立つ位置に、自分の分を配置して印象に残りたい。故に、下校時刻ぎりぎりまで粘る女子は多いだろう。
私は水面下で起こる熾烈な戦いには参加せず、チョコを置いていくタイミングが被らない早朝に登校した。例え他の子の分で見えなくなっても、潰れても。周りを見渡せるような余裕はなく、とにかく渡せるのであれば何でも構わないと思っていた。
生徒玄関に辿り着いて目的の場所を見遣る。来る途中、部活の朝練っぽい格好をした生徒は数人見かけたが、それ以外の姿はない。失礼を承知で雲雀さんの下駄箱を開かせてもらうと、中には上靴が入っているだけだった。どうやら、彼もまだ来ていないらしい。
鞄から、用意したチョコを取り出す。一番お気に入りのラッピングを施されたそれに、おかしなところは無いか最後の確認をする。
「……よし」
この後はどうなるか分からないが、少なくとも今は崩れたり、破れたりはしていないことに安堵する。あとは置いておくだけだ。
「…………」
そう、考えていたのに。今更になって強い緊張が襲ってきて、身体が強張る。思うようにチョコから指が離れない。どうして、別に正面きって告白する訳でもないのに。何をこんなに手間取っているのか。早くしないと、人が来てしまう。折角誰もいない時間を狙ったのに。早く、早く。
焦りが頂点に達した時、頭の中が雑然とした末、一周回って思考が従来の姿を形取る。理由も分からぬ不安に襲われて、ふと最近の、視野が狭まった自分を顧みた。急速に頭が冷えていくのを感じる。
本当に良いんだろうか。芽生えた我欲に浮かされたまま来てしまったけれど、私がやりたかったことは、本当にこれなんだろうか。誰かと寄り添い合うことを是としない雲雀さんに、ただ思いのままに気持ちを押し付けるのは、酷く自己本位なのではないか。そもそも、私はこの恋をどうしたかったんだっけ。
思考の海に入り込んで立ち尽くした私は、徐々に大きくなる足音に気付かなかった。
「そこで何してるの?」
玄関の方向から、遠くからでしか聞いたことのない声が響く。弾かれたようにそちらを見た。
怪訝そうな言葉の主は、紛れもなく雲雀恭弥その人で。
「あ……」
女子生徒が、己の下駄箱の前でしどろもどろになっている。明らかに不審だ。弁明しようとしても、いざ本人を前にすると私の喉からは何も出ない。どうにか手にしていたチョコを後ろ手に隠すも、彼が見逃すことはなかった。
「ああ、もうそんな時期か。そこ、退いて」
得心してから、何事もなかったかのように近付いてくる。受けた指示に、慌てて距離を取った。下駄箱から取り出した上靴を履いて、代わりに外靴を押し込んだ雲雀さんが私の方を向く。あんなに望んでいたのに、彼の目を見つめ返せない。悪いことをしていたのを目撃されたような後ろめたい心地になって、自分の視線が下がっていく。
「で、どうするの」
「……え」
「それ、僕宛なんだろう? 下駄箱開けてたくらいなんだし。くれるなら今受け取るけど」
意外な発言に思わず顔を上げる。雲雀さんの声色や表情からは正の感情も、そして負の感情も読み取れなかった。
思わずもう一度聞き返す。
「渡したら、受け取ってくれるんですか」
「そう言ってる」
「ど、どうして。だって、私に、私達に、」
興味なんてないでしょう。
口は動かなかった。友人が以前言っていたことが、今になって突如頭に浮かぶ。実際に食すかどうかは不明だが、雲雀さんは、毎年チョコを回収して帰っているのだと、小耳に挟んだことがあった。当時は半信半疑だったし、いざ遭遇してみても、何を言われたのか分からなくて混乱する。人嫌いなのだと、ずっと信じ込んでいたから。
聡い彼は、私の考えを正確に読み取って答えた。
「興味はないし、群れる草食動物は嫌いだけど……ただ好意を向けてきただけの相手を、一々疎むつもりもないよ」
大きく目を見開く。朝の陽光が玄関扉から差し込んで、雲雀さんの顔をほんの少しだけ照らしていた。
今日は本当に、心の動きが忙しない。彼の何気ない一言は、私に世界がひっくり返るのにも等しい衝撃と納得を与えた。次第に言葉が胸にすっと入り込んで、じんわりと染み渡っていって。段々と驚きよりも、喜びが勝っていくのを感じる。先日からの盲目な熱も、この場で抱いた迷いも全てが晴れていく。ただ穏やかで愛しい心地が、私を包んだ。
そうして悟る。この人は、きっと同じ気持ちを返してはくれない。誰かを下に置くことはあっても、隣に並び立たせることはしないし、受け入れない。だが、本気で自身を慕う気持ちは、否定しないでいてくれる。私が彼に対して抱いた想いもまた、決して無碍にすることはないのだと。三年も見ていたくせに、漸くになって理解したのだ。
「それで、どうするんだい」
雲雀さんは、ただ私が答えを出すのを待ってくれていた。本当は委員会の仕事か何かで早く登校したのだろうに、こうして足を止めてくれている。
彼の無意識な優しさに。言いたいことが、言うべきことが、私の中で急速に纏まっていくのを感じた。伝えたいのは、ひとつだけ。
「雲雀さん」
一度意を決すると、心からの笑顔が溢れる。
「いつもこの中学を、並盛を。守ってくれて、ありがとうございます」
これ、良ければ貰って下さいと、渡したかったものを差し出した。雲雀さんの伸びた右手が、そっと受け取る。あんなに言うことを聞かなかった指が、今度は自然と離れていった。
「ありがとう」
普段の鋭さを引っ込めて、チョコを見ながら穏やかに笑みを浮かべた彼の顔を。
私はずっと、忘れない。
担任によるホームルームを終えて校舎を出ていく。敷地内を彩る桜の花びらが、紙吹雪を連想させる。並盛中学校の卒業式では、新たな門出に相応しい景色が、私達を祝ってくれていた。
生徒玄関の前で、卒業生、在校生、保護者や教師が入り乱れる。いつまでも別れを惜しみ合うのは恒例であっても、自分達が主役となると話は別で。私は友人と、同校としての最後の会話をしていた。
「まあ、メアドも番号も交換してる訳だし。その気になればいつでも会えるでしょ」
「そうだね、これからも沢山遊ぼう」
何でもないことのように笑い合ったが、なかなか帰ろうとしないところがお互いの心情を物語っていて。涙が滲みそうになるも、湿っぽいお別れは嫌だと何とか堪えて取り繕う。暫く一緒に過ごしていると、談笑の区切りがついた頃に彼女の笑顔が立ち消えた。
「……ねえ、本当に会ってこなくていいの? 今日くらい、挨拶に行っても誰も怒らないよ」
ずっと聞きたかったのだろう。心配の色を浮かべた彼女に、私は微笑みながら緩く首を振る。
「うん、いいの。この気持ちは、此処に置いていく」
「……そっか、あんたがそう言うなら」
背後から首に腕を回される。いつものスキンシップ。明日からは、いつものではなくなるスキンシップ。
「困ったり悩んだらいつでも相談してよね。どんな内容でもどんと来いだから」
「うん、何かあれば絶対言う。そっちもね」
「ん。……もう行かなきゃ。じゃあね。高校でも元気にやるんだよ」
「バイバイ。また連絡する」
背を向けた彼女の身体が、遠くの方でほんの少し丸まっていたのは、見ないふりをした。卒業式に出席してくれた母は、既に他の保護者との立ち話を終えて私を待っている。あとはもう、帰るだけだ。
玄関前から立ち去るより先に、校舎をもう一度見上げる。応接室であろう部屋の窓から、彼の姿が見えた。目が合った気がしたのは、きっと思い違いだろう。だって、こんなにも距離があるんだから。
あの日、二人きりで直接話すという最大のチャンスを掴んだ私は、結局想いを伝えなかった。他の人が聞けば、きっと誰もが勿体ないという感想を抱くだろう。でも良かったのだ。彼のことを少しだけ教えてもらった時、分かってしまったから。私にとっての恋が完成し、そして終わったのだということを。
友人に嘘を吐いてしまったことに僅かな罪悪感が灯る。本当は、置いていけるかなんて分からない。いつまでも、心の奥底へ仕舞い込むことになるかもしれない。それでも、と小さく笑った。
さようなら。貴方を好きになったことは、これからずっと、私の自慢です。
視線を外して母と合流する。もういいのかと聞かれてひとつ頷き、今度こそ胸を張って、校門の外へ出た。上空を、気儘に浮かんでいる雲が横切る。巨大な白は、帰り道を進むほど視界から外れていって。
家に着く頃には、青だけが残っていた。
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