1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
アルヴィンと別れ、名無しは先ほど回収した植物を自室で取り出した。
植物が傷まないよう、直ぐに手頃な鉢を用意し慣れた手つきで植え替える。
大きさや葉の色などを細かく観察すると、先ほどの手帳に書いたことを含め別紙に書き連ねていく。
卓上にある分厚いファイルを選ぶと記録をそこに挟み込み元の場所に戻すと、名無しはファイルの横に並ぶ過去の日記帳にそのまま手を伸ばした。
色あせた背表紙から新しいものまでが揃うその並びから、名無しは最も色あせた日記を選び手に取った。
丁寧にページをめくり、日記を書いた当時を思い出しながら名無しは日記を読み進めていった。
日記を読む手は止まらず、次の日記、次の日記と無意識に手が伸び、気がついた頃には名無しの横には読み終えた日記が四冊、積みあがっていた。
懐かしい人物と再会をしたことがきっかけになり、つい時間を忘れて名無しは日記の中の世界を楽しんだ。
思い出に浸っていたそんな時、7の鐘が響き名無しに仕事の時間を知らせた。
「いけない…こんな時間、準備しなきゃ」
名残惜しく日記帳を元の場所に戻し、名無しは急いで仕事に向かった。
「おー、なんだなんだ、名無しがぎりぎり出勤なんて珍しいな」
名無しが出勤すると、マスターが物珍し気に彼女を顔をまじまじと見た。
「すみません、ちょっとぼーっとしてしまって…」
「なんだ、体調が悪いってんなら休んでいいんだぞ?」
「まさか!全然大丈夫です!」
「ははは、それならよかった、それじゃいつも通り今日もよろしく頼むかね」
「はい!」
名無しは、元気よく返事をすると仕事を始めるためにいつも通り掃除用具置き場へとまっすぐ駆け、目的の物を手にすると掃除を行うため店の外へ出た。
店の前に立ち、作業に取り掛かろうと目の前の景色を見る。名無しがまっすぐ見据えた先は、あまりにも寂しいものであった。
おそらく昨日、イル・ファンからの船が休航したせいだろう。
名無しの知る、人の活気にあふれた海停の姿はそこになく、普段は賑やかな港がここまで静かな時があるのだろうか、とため息をつきたくなるほどだった。
今日も客足が疎らである現実に、やり甲斐のない一日だと肩を落とした。
一体なぜ船が休航したのだろう。
名無しはこの港にきてから今まで一度もこういった出来事に直面したことがないので、とにかく疑問でしかたがなかった。
帝都で一体何がったのだろうか、帝都からの船が止まるというのはよほどの出来事がおきているのだろうか。
だとすれば何故民間に何も通達がないのだろうか。
何か情報になるものはないものとかと気になり出し、名無しは周囲を見渡し始める。
名無しの視線が港の掲示板がとらえると、仕事のことなどすっかり忘れ、引き寄せられるように彼女はそこへ向かった。
が、休航の張り紙のみが貼られているだけであり、名無しが期待したような情報はなにも無かった。
もやもやとした気持ちを抱え、仕事に取り掛かろうと店の前まで名無しは戻る。その時、ふと昨日の来客のことを思い出した。
帝都から来たジュード達に聞けばなにかわかるだろうか?休憩をみてタイミングが彼等に聞いてみようと、名無しは作業を進めていった。
元々そこまで汚れていなかったのか、名無しが考え事をしながら作業をしたせいで経過の感覚が鈍ったのか。
取り掛かっていた作業は、思いのほかあっさりと終わってしまい名無しは手持無沙汰になる。名無しは退屈を覚え、他の仕事を探すことにした。
「んー…店内のお手伝いでもしようかなー」
何かあればいいんのだが、あまり期待はしないでおこう。
浮かない気持ちでドアに手を伸ばすと名無しが開ける前にドアが突然開いた。
中から出てきた人物と接触しそうになったため、よけようとし名無しがバランスを崩した。
転倒こそしなかったものの、手にしていた掃除用具を落としてしまい、通行人の道の邪魔になってしまった。
名無しは急いで物を拾うと、出てきた人物の邪魔にならないよう掃除用具を抱え、そそくさと端へと移動する。
「すみません、邪魔してしまって」
「いや、こっちこそ見てなかったわ。ん?あぁ、名無しか」
「へ?あ、なんだアルだったのね…」
「俺で悪かったな」
「誰もそんなこと言ってないじゃない」
「冗談だよ、じょーだん」
「んー…慣れないなー、そのノリ…昔はなんていうかこう」
「悪ぃな、慣れてくれとはいわねぇけどさ」
「むー…やりづらいわね…」
未だアルヴィンとの会話のテンポを掴めずにいると、名無しはそういえば、といった様子でアルヴィンの後ろをきょろきょろと確認しだした。
船の件についてジュードに聞こうと思ったのだが、ジュード達の姿はそこにはなかった。
アルヴィンが、何かを探す名無しに気がつき声をかける。
「名無し、もしかしてジュード君達探してる?」
「ん?うん、ちょっと聞きたいことがあって」
「俺でよかったら答えるけど」
「じゃあアルでもいいかな」
「なんだよそのついで感…」
「なんで卑屈にとらえるのよ。けど、言い方が悪かったのは謝るわ。えっと、要件っていうのは、イル・ファンの船が止まったのかなって。イル・ファンから来たんでしょ皆。だったら知ってるかもって思って」
「わお、おたく切り込むね。知りたいそれ?」
「え?聞いちゃだめだったの?」
「さぁ、どっちだと思う」
「むー…、なんか面倒だからやっぱりいいわ、気になるけど、これほどの事だしいずれ通達もあるだろうし。素直にを待つわ」
「冷たいねー、再会した相手にそれは寂しいじゃないの?」
「…」
なんだろう、この面倒くささ。
自分の中にある昔の想像とは違うやり取りに名無しは戸惑うよりも、すこしだるさを感じた。名無しがそう感じるよう、意図的に行われているような会話、といった感覚がある。
名無しはアルヴィンと会話を続けるのに、どこか他意を感じて気持ちが良くなかった。
しかし15年も経てば人は変わるものだ、きっと今の彼はそういう喋り方をする人物なのだろう、と割り切ることにすると多少なり嫌悪感は薄れるものの、会話として成立させたい名無しとしては複雑な気持ちだった。
会話を中断しあきれた顔をする名無しにアルヴィンが小さく笑った。
「ま、いいわ。ジュード君ならあとで間道のとこで待ち合わせしてるから、話聞くんなら後で来ればいんじゃねーの?」
「あ、そうなんだ、ってことはどこか行くの?」
「まあな」
「気をつけてね、折角再会できたのにちょっともったいないけど」
「寂しいってんなら、いつもでも遊びに来てやるぜ?」
「それはこっちの台詞よ、さびしがり屋はそっちじゃない」
「俺はもう大人だからな」
「ふふ、どうかしら。人間大人になっても根幹は変わらないっていうじゃない?
アルが私に会いたかったらいつでも大歓迎よ」
「言うねぇ」
「おーい、名無しちょっと中の方手伝ってくれないか!」
二人の会話に店主の声が割って入った。
ついアルヴィンとの会話で忘れてしまっていたは、名無しは先ほど仕事を始めたばかりだったのだ。
店の奥から呼ぶ店主に返事をし、名無しはアルヴィンに気をつけてね、と一言言って足早に店の奥へと消えて行った。
そんな名無しの背中が見えなるまで、アルヴィンはしばらく見ていた。
名無しが戻ってこないのを確認すると、アルヴィンは間道口へと足を運んだ。
「ほんっと、変わってないのな…お前」
港に聞こえるわずかな波音に掻き消されるような声で、アルヴィンはそう呟いた。
「さっきの兄ちゃんとずいぶん仲良くなったな、名無し」
店内で仕事を進めている名無しを見て、店主がにやにやと笑いながら名無しを茶化しだす。
「そんなんじゃないですよ、私マスターに拾ってもらったでしょ?あの人、子供の頃仲良かった人だったんですよ」
「へぇ、そりゃ偶然だな」
「ここは海停だから、そのときの人に一人でも会うことがあるかな?とは思ってたんですけど、まさか本当に会うなんて思わなったから」
「そんじゃ、邪魔しちまったかい?」
「ううん、向こうも仕事みたいだし、もう発つって言ってたから。またそのうち会えそうな気もしますし」
「ははは、そうだといいな」
「はい」
また会えたら、次はいつ会えるのだろう。
彼の仕事のことだ、次は多分ないだろうと思った方がいい。
今回の件について探りはいれないがあまり表立ってやる仕事ではないのは間違いないだろう。無茶をするなというのが無理だと思ったほうが気が楽になる。
名無しの知るアルヴィンは、軽薄な冗談を簡単にいうような人ではなかった、子供の頃の記憶とは言え、人の本質は変わらないものである。生まれ持っての性格と言ったところだろう。名無しの知る幼少のころのアルヴィンは、とても優しく他人の為にすぐ泣いてしまうような、そんな少年だった。
しかし、再会したアルヴィンは毅然と振舞い受け流すような、挨拶一つですら他意を探るような会話にしていた。はっきりいうなれば真逆の印象なのだ。年月が人を変えるのは当然だが彼の仕事はそうならなければやっていないのだろうと、それがアルクノアというものだということを名無しは幼いうちに知っている。きっと彼は今仕事中なのだ。仕事でない時に会えれば、きっと昔みたいに話せるのだろう、と名無しは思い、思考を仕事に切り替えもくもくと作業を再開した。
***
アルヴィンと会話をしてからその後、名無しはジュードとミラに会うことなく一日を過ごした。
カウンターに花をおき、時間になれば客室の掃除、料理の手伝い、料理の運搬、買い出しなどすべての仕事をこなすだけの、いつも通りの日常。
そんな緩急のない過程を終えて、今日も名無しは日課の日記をつける。
さて何を書こうと片手でペンを弄んでいると、ジュード達のことを思いだしペンを走らせた。今彼らはどこに向かっているのだろうか、向かったとしたら目的に無事にたどり着けたのだろうか、あの二人を殺す仕事だとしたら止めるべきだったのか、船の件について彼らははたして知っていたのだろうか、胸の内に留めておいたままの疑問を次々と日記に書き連ねていき、それを読み返しながら答えを教えてくれる人ははたして現れるのか、とため息をついた。
そして、この件に関して曖昧な回答を出した旧友の顔を思い出した。
「本当…無茶してなきゃいいんだけどな、余計な心配かもしれないけど」
考えを切り替えるように名無しは日記を閉じ、今朝サンプルとして採取した植物に手を伸ばした。少し観察したのちに、引き出しから小さな瓶をいくつか取り出すと、何枚か葉を切りとり何かの液体と一緒に瓶に詰めた。それぞれにタグをつけ瓶を再び引き出しの中に戻すと、新しい用紙を用意しタグを付けた瓶について記述し、今朝と同様にファイリングする。
「あとは結果待ちって感じかなー、んし、寝よう」
机の上を整理すると、名無しは布団に潜り目を閉じた。
翌朝。
いつも通り、名無しは朝の散歩に出かけ、丘の上で日課を済ますと仕事にとりかかった。
昨日に続きあまりやることがなく名無しは時間を持て余し、受付係と会話にふけっていた。
「暇ですね~」
「本当暇だな、普段の客入りを考えるとなー」
「うちは従業員多いですからね、こうなっちゃうと参りますね本当」
「まったく、こうどーんとサマンガンに行く人とかこないもんかな」
「あ、でも闘技大会近くないですか?来るかもしれないですよ?」
「あー、シャン・ドゥの、でもあれまだ先だろ…今からじゃなー」
「ですよねよー…」
受付係と、とても仕事中とは思えない会話をして過ごしていると、突如宿のドアを買い出しに行っていた者が思いきり開けた。
慌ただしく乱暴に開かれたドアに目を奪われていると、入ってきた店員がぽかんとしている名無し達を見て大きな声で叫んだ。
「大変だ!ラ・シュガル軍がここに向かってきてるぞ!」
「え?」
ラ・シュガル軍ということは、一昨日休航の決まったイル・ファンからの来航だろう。しかし、未だに休航をしているにも関わらず軍やってきということは、一般の経路を経ってまで軍が動かねばならない事案が発生しているのでは、と名無しは不安になった。
軍はこの宿に一体何の用だろうか、あの時最後の船でここに来た者に用事があるのだろうか。そうでなければ、この宿屋に来る理由はないだろう。名無しは、嫌な予感が的中するような感覚になった。
開ける、というより跳ね飛ばしたという表現が的確だろう勢いでドアが開くと同時に宿の中にラ・シュガル軍で流れ込んできた。
戦闘で軍を率いていた男が迷わず受付に向かい、名無し達に冷たい声で話しかける。
「おい、宿泊客のリストを出せ」
「敵国に乗り込むなりそれですか…ラ・シュガル軍は礼儀ってもんを」
「ちょっとマスター、急にそんな態度はっ!…あの、大変恐縮ですけど、個人情報になりますのでお渡しすることはできません」
「事の重大さがわかってないようだな、我々は現在、Sランク級犯罪者を探している。この宿に宿泊した可能性がある。共犯で捕えられたくなければ大人しく出してもらおうか」
「Sランク級って…っ」
思いもよらない単語に店内は騒然とする。店主と名無しは顔を見合わせ、少しの間時間が欲しいとラ・シュガル兵に頼んだ。
少しだけだ、と荒い口調で返され時間をもらい名無しは店主たちと相談をはじめた。
リストは大切な顧客の個人情報だ。いくらSランク級犯罪者がいると言ったところで簡単に見せるような気持で、店主たちは宿をやってはいないあ。
だからといって拒めばただでは済まないだろう空気であるのも当然二人は理解していた。
店主は断固として見せない事を主張するが、それではトラブルを避けられないだろうと名無しがなにか他の策があるはずだと店主を説得する。
少し黙って名無しが考え込んでいると、ラ・シュガル兵が苛立ちながらリストの提出を急かしてくる。
店主が一歩踏み出そうとした時名無しが店主を制止し前に出た。
「その犯罪者さんがここにきたっていうのはいつなんですか」
「お前、まだごちゃごちゃいうつもりか」
「私たちは店員です、もしその犯罪者がいたとして、無実の方の個人情報をお教えすることは店の信用に関わります。見ての通りこの二日間は私一人でも覚えられる数しか来てません。」
「つまり、お前が答えると?虚偽を言えばただではすまんぞ」
「嘘は言いません、どんな人か言ってくれれば答えます」
「ほう?では聞くが、女一人と男二人の三人組がきたはずだ、どこにいった」
ラ・シュガル軍の男が口にした組み合わせの客は、この二日間ではジュード達しか覚えがない。
つまり、アルヴィンが関係している事である。
答えるべきか悩んでいると、店主と目が合った。ここで黙れば、店や店主に何があるのかわからない。
自ら答えると言ったからには責任は果たさねば、店に迷惑がかかる。
彼らは確かに来店したが、その後どこに行ったかまでは名無しは把握していない。
素直にそう答えればいい、と名無しは深呼吸をし慎重に返答する。
「その組み合わせのお客様なら、二日前に来店して、昨日宿を発ちました。行き先は聞いてません」
「貴様、適当なことを答えるとどうなるかわかっているか?」
名無しと会話をしていた男が合図を出すと、周囲のラ・シュガル兵が剣を抜き、その場にいる者たちに剣先を向け威圧する。
張り詰め空気の中、店主が名無しの腕を引き後ろに下げようとすると、先ほどから名無しとやり取りをしていたラ・シュガル兵の表情に苛立ちの色が更に濃く浮かび上がった。
兵士の剣が詰め寄り名無しの鼻の先で踊ろうかという時、別の兵士が「参謀副長」と叫びながら駆け寄ってきた。
参謀副長と呼ばれ反応のは、先程まで名無しとやりとりをした男だった。
兵士はすぐに参謀副長に報告を済ませると、男に指示を出されたのかすぐに店外へと立ち去った。
残る兵にも速やかになにか指示を伝えると、ラ・シュガル軍は参謀副長は一人を残しその場から立ち去った。
そして男は名無しの目の前に立ち、さらに威圧をする。
近くでみれば、思いのほか長身であったこともあり、女一人を震え上がらせるにはその行為は十分すぎるほどだった。
しかし名無しは、怯えながらも悟られないようにと声を絞り出す。
「なんですか」
「…ふん、少しは役に立ったな」
「な…!」
たった一言、男は言い捨て何事もなかったかのように立ち去って行く。
男の姿が消え扉が閉まる音を合図に、まるで糸につられていたように、名無しはその場に座り込んだ。店主や店員が急いで名無しにかけよると、名無しは大丈夫、と一言だけいってすぐに立ち上がろうとした。
しかし、足が震えているのか転倒しそうになると店主がそれを支え、名無しを椅子まで連れて行く。
そして、座った名無しの頭を撫でながら店主は優しい口調で名無しに話しかけた。
「頑張ったな」
「どうしよう、私、なんであんなこと言っちゃったんだろう」
「大丈夫だ、きっとあの兄ちゃん達じゃないさ」
「けど、あの人」
「大丈夫だ、気にするな、今はこの場にいる全員が無事なんだ、それだけで今は安心しろ」
「マスター…」
「まったく無茶したなお前ってやつは」
店主はそのあとに、もういいからしばらく休め、と名無しに言った。
店主の大きな掌が名無しの頭に乗り、名無しの髪の毛をぐしゃぐしゃにすると、名無しは安心したのかぽろぽろと涙をこぼして泣き出す。
もう一度店主が、休んで来い、というと、名無しは店主の力を借りて自室へと向かった。
ベッドに仰向けになり天井を見ていると、先ほどの出来事がただただ怖かったと改めて感じられた。
自分でもなぜ初めにあのようなに強気な態度に出てしまったのか、という後悔が名無しの頭の中を占めていた。
そしてなによりも、ジュード達が該当者であってほしくない、という希望が自分の中であり、そういった行動から発言してしまったことで、彼らに迷惑をかけることになった罪悪感が、重く名無しにのしかかっていた。
彼らがそうなのだとしたら彼らは何をしたのだろう、彼が一体どう関わっているのだろう、それらがどうでラ・シュガル軍に彼らがどうか殺される事がないようにと、名無しは天に祈りつつ、詰め寄られた時の恐怖を忘れようと、布団の中に無理やり意識を沈ませた。
それから名無しは日記をつけることもなく、散歩をすることもない何もない日常を過ごした。店に出てもどこかうつろな状態を見かねた店主が、無理やりにでも名無しを休ませたのだった。食事は店主が自室に運んでくるものをとり、時間になれば風呂に入る、植物の観察もしない、ただただ天井を見つめるだけの生活を名無しはしばらく過ごした。
そんな生活が数日経った頃、名無しは偶然にも、ラ・シュガル兵が船を引き下げ帝都へと帰っていく様子を自室の窓から見ていた。
船に乗る人たちを見る限り、全てラ・シュガル軍であり、犯罪者を搬送するような様子も見られず、名無しはジュード達は無事に軍との接触を回避できたのだろうと安堵した。
名無しのなかにあった小さな罪悪感が少しだけ和らぎ、窓から海停を見渡した。
「…外、行こうかな」
軍が退いたのだ。きっともう外に出てもあの時の男はいないだろう。
久しぶりに散歩に行こうと、名無しは適当な準備をし部屋からでた。
宿屋のロビーに出ると、見慣れた光景が目に飛び込んできた。
すぐに店主と目があい、他の店員も気がついたのか名無しに視線を向け声をかける。
皆口々に大丈夫か、まだ休んでいた方が、と言うのに対し、名無しは決まり文句のように大丈夫、と答え笑顔を見せた。様子を見て店主が割って入る。
「大丈夫とかそういう問題じゃねぇ、まだ出てきていいって言ってないだろ?仕事ならないぞ?」
「あ、えへへ…、ありがとうございます。ただちょっと外に散歩に行きたくて」
「何言ってんだ、そんなの許すと思ってんのか?」
「だめ…ですか?」
「どうせさっき軍が退いたのでも見たんだろ、いいか?海停から出るな、絶対にだ」
「はい、ありがとうございます…!何かあったらすぐ戻りますから」
「当たり前だ」
店主たちに心配されながらも、名無しは店の外に出て海停を見渡した。
久しぶりにこの位置から町をみる。
相変わらず平和そのものを描いたような、幸せな場所だと実感した。
停泊している船だけがまるで別空間のように重苦しい嫌な雰囲気を放っている。
数日前の男の姿が一瞬脳裏によぎったが、頭を振り考えないようにする。
「ん、大丈夫、何かあればお店に戻ればいいんだもの」
自分に言い聞かせて名無しは海停をゆっくりと散歩することにした。
いつも何かしらで走り回ってはいる場所ではあるがこうやってじっくり娯楽のために歩くのは、宿屋に勤めて以降殆ど初めてのことだったので名無しは少しわくわくしていた。
宿屋で働いている為、知識として知らない場所など名無しにはないがそれでも、ゆっくりとみるとなんだか新鮮な気持ちで見ることができ、それが楽しく思えた。
***
武具店が軒並みとなっている通りに来ると、海停全体を見渡すことができる。通りの先には広い踊り場があり、そこに立ち海停を止ってみると、潮風が心地よく吹いた。
その風に乗って、ふわりと甘い香りが名無しのところに届いた為名無しは周辺を見渡した。
匂いは武具店のすぐ下の模擬店からしているようで、匂いにつられ名無しは階段を下りると、クレープの出店が甘い香りを漂わせ名無しを誘った。
香りにつられ、名無しが店の前まで来てメニューをじっと見つめていると、店員の女性が気が付き話しかけてきた。
「お姉さん、どうだい?」
「え、私は、えーっと」
こういった出店で今まで買い食いという行為をしたことがなかった名無しが店員に話しかけられて思わず戸惑った。普段は話しかける側であるため接客をされる、という経験に慣れていない為か名無しは挙動不審にどう答えればいいのかといった態度を取った。
店員は美味しいよ、小さなスプーンでクリームをひとすくいし名無しに差出した。
受け取っていいのか戸惑っていると、店員が受け取る事を促してきたため素直に受け取った。
口に運ぶと、クリームの甘い香りが口いっぱいに広がった。
美味しい、素直な感想だった。
「あの、じゃあ、えっと」
「ははは、なに緊張してるんだいお姉さん、んーそうだね、好きな味あるかい?」
「え、んー…チーズ…とか?」
「はいよ、じゃあクリームチーズ一個いるかい?」
「あ、はい!」
「ふふ、ちょっとまってな」
店員が手際よく、鉄板に生地を垂らすと、一瞬にして薄く広げ生地を焼き上げた。見事な手さばきはまるで手品を見ているようだった。
名無しも料理はするが、職場はほとんど居酒屋に近い料理を提供しているため、デザート類を作ったことはほとんどなく、名無し自身もレシピを見たところで作れる自信もなかった。そのため、目の前で調理を行う店員の手際に名無しは思わず釘付けになった。
あっという間に焼き上がった生地に、美味しそうなクリームとアイスを手早く乗っけると店員の女性は笑顔で名無しに差し出す。
目の前のクレープに思わず名無しは瞳を輝かせた。
店員にお礼を言ってガルドを支払うと、適当なベンチを探し食べることにした。
「美味しいー」
もっと前に食べておけばよかった、と名無しは今まで買い食いを行わなかった自分の行動を悔いた。から
普段食べなれないものを夢中になって食べ続け、もう一口と思いクレープを口に運ぶと包み紙がくしゃりと、口の中で音を出したの気が付き、食べ終わったことをようやっと気が付いた。誰かに見られていないか辺りを必死に確認し、誰にも見られていない事を確認すると、包み紙を丸めゴミ箱を探し放る。食べ終わった事によってやることが一つなくなった名無しは次はどうしようか、と考えると、間道の高台を思い出し向かうことにした。
適当な準備は出来ているか手持ちの荷物を確認し、さっそく向かおうと名無しがベンチから立ち上がると、名無しの動きに合わせて不自然な動きをする人物が視界の端にちらついたような気がした。
人物の方面を確認しようと辺りを見渡すと、人影が二つ、名無しの視線を避けるように物陰に消えていったのが見えた。
ただの偶然かもしれない、と思いつつも警戒はしたほうがいいだろう。
名無しは目的地に向かうべきか、店に戻るべきかを考えだす。
万一に自分に何か用のある者達ならば、間道に出れば襲ってくることもあるだろうか。
名無しは直ぐに、背後にいる人物たちがアルクノアに関係している人物なのではないか考察した。理由は、先日アルヴィンと再会した事。
彼がアルクノアに自分の事を話したのなら組織から何かしら自分への動きがあってもおかしくない、と名無しは思った。
名無しはとある理由があり組織に戻ることを拒み今の生活を選んでいる。
その為アルヴィンに口止めを頼んだのだが、彼が言わなくとも、あの時彼の周囲に他に組織の人間がいたのであれば、名無しに接触してきてもおかしくない。
さあ、どうしようか。店に戻れば店主たちに何かしら迷惑がかかる可能性があるかもしれない。名無しはそれだけは避けたい、と思い手持ちの荷物に護身用のナイフがあるのを改めて確認すると、間道に向かうことを決めた。
名無しが間道に向かうと、名無しの後ろから複数人の足音が付いてきた。相手に気がつかれないよう、手鏡を使い後方を確認すると後方に二人の人物がいるのが確認できた。人物の顔までは確認することができなかったが、写った姿にオレンジ色が見えた為、名無しは嫌な予感だけは的中するものだとため息をつく。
間道の奥につくと、名無しはすぐに走り出し、海停や間道を通る商人などが巻き込まれないよう人目につかない場所へと急いだ。
名無しの行動に二人もすぐに反応を示し走り出した。
何処から狙われてもいい様に、名無しは丘の方まで走った。あそこならば、後方のみを気にすればいい。勝てそうにもないなら、丘から飛び降りて何とかしようと思ったのだ。
実際飛び降りたところで身の安全は確保されないが、そのような事を考えている余裕はなかった。
丘にたどり着く手前のところで、名無しは追ってきている人物を一度確認した。
背後にいる人数が一人のみ、というのに名無しは気が付き、もう一人はどこに行ったのか、と内心で焦る。
名無しの焦りが名無しの行動を一瞬鈍らせ、名無しは足がもつれ転倒しそうになった。
その瞬間を狙ってか、追尾者が名無しに向かって鎖を投げる。
名無しは無理やり体をひねり鎖を避け、ナイフ護身用のナイフを投げた。着地の際に背中を地面に強打しわずかな時間、その場に名無しは倒れこむ。
名無しの投げたナイフがなんとか相手の足に当たり、起き上がる時間は確保できたものの、急所ではなかったため相手は簡単に次のアクションを取る。
動きをみる限り向こうは確実に慣れている。
圧倒的に不利なのはわかっているがなんとか、しなければならないのも事実なのだ。
長らく戦闘という行為をしている名無しに考える暇を与えないかのように、どこかへ身をひそめたもう一人の追尾者が、起き上がった直前の名無しの足にナイフを投げ名無しの動きを再度止める。
再び地面に倒れこんだ名無しは、二対一という不利な状況をどうするか、と考える余裕は既になかった。
昔取った杵柄というのは、戦闘においてあまりにも無意味だという事を理解した名無しは、自分の現状を把握するので精一杯であった。
倒れこんだ地面から響く足音にどうすることもできず、目を思いきりつぶると、名無しの腹部に激痛が走った。どちらかが思いきり名無しの腹部を蹴ったのだ。
「手間かけさせやがって」
「戦えないくせに調子にのるからだ、余計な武器なんか投げやがって。いてて…」
「お前こそこんな奴のナイフなんか受けやがって、なまってんのか?」
「ちげーよ、ったく…。とっとと連れてこう。ここだと人目につく」
「そうだな」
意識があると面倒だ、と言って追尾者は名無しの口元に薬品を染みこませた布を当てた。
視界を塞がれる前に、二人の首元にオレンジ色のスカーフが巻かれているのを名無しは確認した。やはりアルクノアの連中で間違いないようだった。
やはり彼らから逃れることはできないのか、と名無しは自らの非力を後悔した。
脳裏に店主達の姿を思い浮かべつつ、名無しの意識は次第に遠のいていった。
最後に朧気に聞こえたのは、聞きなれない女性の声を銃声だった。
植物が傷まないよう、直ぐに手頃な鉢を用意し慣れた手つきで植え替える。
大きさや葉の色などを細かく観察すると、先ほどの手帳に書いたことを含め別紙に書き連ねていく。
卓上にある分厚いファイルを選ぶと記録をそこに挟み込み元の場所に戻すと、名無しはファイルの横に並ぶ過去の日記帳にそのまま手を伸ばした。
色あせた背表紙から新しいものまでが揃うその並びから、名無しは最も色あせた日記を選び手に取った。
丁寧にページをめくり、日記を書いた当時を思い出しながら名無しは日記を読み進めていった。
日記を読む手は止まらず、次の日記、次の日記と無意識に手が伸び、気がついた頃には名無しの横には読み終えた日記が四冊、積みあがっていた。
懐かしい人物と再会をしたことがきっかけになり、つい時間を忘れて名無しは日記の中の世界を楽しんだ。
思い出に浸っていたそんな時、7の鐘が響き名無しに仕事の時間を知らせた。
「いけない…こんな時間、準備しなきゃ」
名残惜しく日記帳を元の場所に戻し、名無しは急いで仕事に向かった。
「おー、なんだなんだ、名無しがぎりぎり出勤なんて珍しいな」
名無しが出勤すると、マスターが物珍し気に彼女を顔をまじまじと見た。
「すみません、ちょっとぼーっとしてしまって…」
「なんだ、体調が悪いってんなら休んでいいんだぞ?」
「まさか!全然大丈夫です!」
「ははは、それならよかった、それじゃいつも通り今日もよろしく頼むかね」
「はい!」
名無しは、元気よく返事をすると仕事を始めるためにいつも通り掃除用具置き場へとまっすぐ駆け、目的の物を手にすると掃除を行うため店の外へ出た。
店の前に立ち、作業に取り掛かろうと目の前の景色を見る。名無しがまっすぐ見据えた先は、あまりにも寂しいものであった。
おそらく昨日、イル・ファンからの船が休航したせいだろう。
名無しの知る、人の活気にあふれた海停の姿はそこになく、普段は賑やかな港がここまで静かな時があるのだろうか、とため息をつきたくなるほどだった。
今日も客足が疎らである現実に、やり甲斐のない一日だと肩を落とした。
一体なぜ船が休航したのだろう。
名無しはこの港にきてから今まで一度もこういった出来事に直面したことがないので、とにかく疑問でしかたがなかった。
帝都で一体何がったのだろうか、帝都からの船が止まるというのはよほどの出来事がおきているのだろうか。
だとすれば何故民間に何も通達がないのだろうか。
何か情報になるものはないものとかと気になり出し、名無しは周囲を見渡し始める。
名無しの視線が港の掲示板がとらえると、仕事のことなどすっかり忘れ、引き寄せられるように彼女はそこへ向かった。
が、休航の張り紙のみが貼られているだけであり、名無しが期待したような情報はなにも無かった。
もやもやとした気持ちを抱え、仕事に取り掛かろうと店の前まで名無しは戻る。その時、ふと昨日の来客のことを思い出した。
帝都から来たジュード達に聞けばなにかわかるだろうか?休憩をみてタイミングが彼等に聞いてみようと、名無しは作業を進めていった。
元々そこまで汚れていなかったのか、名無しが考え事をしながら作業をしたせいで経過の感覚が鈍ったのか。
取り掛かっていた作業は、思いのほかあっさりと終わってしまい名無しは手持無沙汰になる。名無しは退屈を覚え、他の仕事を探すことにした。
「んー…店内のお手伝いでもしようかなー」
何かあればいいんのだが、あまり期待はしないでおこう。
浮かない気持ちでドアに手を伸ばすと名無しが開ける前にドアが突然開いた。
中から出てきた人物と接触しそうになったため、よけようとし名無しがバランスを崩した。
転倒こそしなかったものの、手にしていた掃除用具を落としてしまい、通行人の道の邪魔になってしまった。
名無しは急いで物を拾うと、出てきた人物の邪魔にならないよう掃除用具を抱え、そそくさと端へと移動する。
「すみません、邪魔してしまって」
「いや、こっちこそ見てなかったわ。ん?あぁ、名無しか」
「へ?あ、なんだアルだったのね…」
「俺で悪かったな」
「誰もそんなこと言ってないじゃない」
「冗談だよ、じょーだん」
「んー…慣れないなー、そのノリ…昔はなんていうかこう」
「悪ぃな、慣れてくれとはいわねぇけどさ」
「むー…やりづらいわね…」
未だアルヴィンとの会話のテンポを掴めずにいると、名無しはそういえば、といった様子でアルヴィンの後ろをきょろきょろと確認しだした。
船の件についてジュードに聞こうと思ったのだが、ジュード達の姿はそこにはなかった。
アルヴィンが、何かを探す名無しに気がつき声をかける。
「名無し、もしかしてジュード君達探してる?」
「ん?うん、ちょっと聞きたいことがあって」
「俺でよかったら答えるけど」
「じゃあアルでもいいかな」
「なんだよそのついで感…」
「なんで卑屈にとらえるのよ。けど、言い方が悪かったのは謝るわ。えっと、要件っていうのは、イル・ファンの船が止まったのかなって。イル・ファンから来たんでしょ皆。だったら知ってるかもって思って」
「わお、おたく切り込むね。知りたいそれ?」
「え?聞いちゃだめだったの?」
「さぁ、どっちだと思う」
「むー…、なんか面倒だからやっぱりいいわ、気になるけど、これほどの事だしいずれ通達もあるだろうし。素直にを待つわ」
「冷たいねー、再会した相手にそれは寂しいじゃないの?」
「…」
なんだろう、この面倒くささ。
自分の中にある昔の想像とは違うやり取りに名無しは戸惑うよりも、すこしだるさを感じた。名無しがそう感じるよう、意図的に行われているような会話、といった感覚がある。
名無しはアルヴィンと会話を続けるのに、どこか他意を感じて気持ちが良くなかった。
しかし15年も経てば人は変わるものだ、きっと今の彼はそういう喋り方をする人物なのだろう、と割り切ることにすると多少なり嫌悪感は薄れるものの、会話として成立させたい名無しとしては複雑な気持ちだった。
会話を中断しあきれた顔をする名無しにアルヴィンが小さく笑った。
「ま、いいわ。ジュード君ならあとで間道のとこで待ち合わせしてるから、話聞くんなら後で来ればいんじゃねーの?」
「あ、そうなんだ、ってことはどこか行くの?」
「まあな」
「気をつけてね、折角再会できたのにちょっともったいないけど」
「寂しいってんなら、いつもでも遊びに来てやるぜ?」
「それはこっちの台詞よ、さびしがり屋はそっちじゃない」
「俺はもう大人だからな」
「ふふ、どうかしら。人間大人になっても根幹は変わらないっていうじゃない?
アルが私に会いたかったらいつでも大歓迎よ」
「言うねぇ」
「おーい、名無しちょっと中の方手伝ってくれないか!」
二人の会話に店主の声が割って入った。
ついアルヴィンとの会話で忘れてしまっていたは、名無しは先ほど仕事を始めたばかりだったのだ。
店の奥から呼ぶ店主に返事をし、名無しはアルヴィンに気をつけてね、と一言言って足早に店の奥へと消えて行った。
そんな名無しの背中が見えなるまで、アルヴィンはしばらく見ていた。
名無しが戻ってこないのを確認すると、アルヴィンは間道口へと足を運んだ。
「ほんっと、変わってないのな…お前」
港に聞こえるわずかな波音に掻き消されるような声で、アルヴィンはそう呟いた。
「さっきの兄ちゃんとずいぶん仲良くなったな、名無し」
店内で仕事を進めている名無しを見て、店主がにやにやと笑いながら名無しを茶化しだす。
「そんなんじゃないですよ、私マスターに拾ってもらったでしょ?あの人、子供の頃仲良かった人だったんですよ」
「へぇ、そりゃ偶然だな」
「ここは海停だから、そのときの人に一人でも会うことがあるかな?とは思ってたんですけど、まさか本当に会うなんて思わなったから」
「そんじゃ、邪魔しちまったかい?」
「ううん、向こうも仕事みたいだし、もう発つって言ってたから。またそのうち会えそうな気もしますし」
「ははは、そうだといいな」
「はい」
また会えたら、次はいつ会えるのだろう。
彼の仕事のことだ、次は多分ないだろうと思った方がいい。
今回の件について探りはいれないがあまり表立ってやる仕事ではないのは間違いないだろう。無茶をするなというのが無理だと思ったほうが気が楽になる。
名無しの知るアルヴィンは、軽薄な冗談を簡単にいうような人ではなかった、子供の頃の記憶とは言え、人の本質は変わらないものである。生まれ持っての性格と言ったところだろう。名無しの知る幼少のころのアルヴィンは、とても優しく他人の為にすぐ泣いてしまうような、そんな少年だった。
しかし、再会したアルヴィンは毅然と振舞い受け流すような、挨拶一つですら他意を探るような会話にしていた。はっきりいうなれば真逆の印象なのだ。年月が人を変えるのは当然だが彼の仕事はそうならなければやっていないのだろうと、それがアルクノアというものだということを名無しは幼いうちに知っている。きっと彼は今仕事中なのだ。仕事でない時に会えれば、きっと昔みたいに話せるのだろう、と名無しは思い、思考を仕事に切り替えもくもくと作業を再開した。
***
アルヴィンと会話をしてからその後、名無しはジュードとミラに会うことなく一日を過ごした。
カウンターに花をおき、時間になれば客室の掃除、料理の手伝い、料理の運搬、買い出しなどすべての仕事をこなすだけの、いつも通りの日常。
そんな緩急のない過程を終えて、今日も名無しは日課の日記をつける。
さて何を書こうと片手でペンを弄んでいると、ジュード達のことを思いだしペンを走らせた。今彼らはどこに向かっているのだろうか、向かったとしたら目的に無事にたどり着けたのだろうか、あの二人を殺す仕事だとしたら止めるべきだったのか、船の件について彼らははたして知っていたのだろうか、胸の内に留めておいたままの疑問を次々と日記に書き連ねていき、それを読み返しながら答えを教えてくれる人ははたして現れるのか、とため息をついた。
そして、この件に関して曖昧な回答を出した旧友の顔を思い出した。
「本当…無茶してなきゃいいんだけどな、余計な心配かもしれないけど」
考えを切り替えるように名無しは日記を閉じ、今朝サンプルとして採取した植物に手を伸ばした。少し観察したのちに、引き出しから小さな瓶をいくつか取り出すと、何枚か葉を切りとり何かの液体と一緒に瓶に詰めた。それぞれにタグをつけ瓶を再び引き出しの中に戻すと、新しい用紙を用意しタグを付けた瓶について記述し、今朝と同様にファイリングする。
「あとは結果待ちって感じかなー、んし、寝よう」
机の上を整理すると、名無しは布団に潜り目を閉じた。
翌朝。
いつも通り、名無しは朝の散歩に出かけ、丘の上で日課を済ますと仕事にとりかかった。
昨日に続きあまりやることがなく名無しは時間を持て余し、受付係と会話にふけっていた。
「暇ですね~」
「本当暇だな、普段の客入りを考えるとなー」
「うちは従業員多いですからね、こうなっちゃうと参りますね本当」
「まったく、こうどーんとサマンガンに行く人とかこないもんかな」
「あ、でも闘技大会近くないですか?来るかもしれないですよ?」
「あー、シャン・ドゥの、でもあれまだ先だろ…今からじゃなー」
「ですよねよー…」
受付係と、とても仕事中とは思えない会話をして過ごしていると、突如宿のドアを買い出しに行っていた者が思いきり開けた。
慌ただしく乱暴に開かれたドアに目を奪われていると、入ってきた店員がぽかんとしている名無し達を見て大きな声で叫んだ。
「大変だ!ラ・シュガル軍がここに向かってきてるぞ!」
「え?」
ラ・シュガル軍ということは、一昨日休航の決まったイル・ファンからの来航だろう。しかし、未だに休航をしているにも関わらず軍やってきということは、一般の経路を経ってまで軍が動かねばならない事案が発生しているのでは、と名無しは不安になった。
軍はこの宿に一体何の用だろうか、あの時最後の船でここに来た者に用事があるのだろうか。そうでなければ、この宿屋に来る理由はないだろう。名無しは、嫌な予感が的中するような感覚になった。
開ける、というより跳ね飛ばしたという表現が的確だろう勢いでドアが開くと同時に宿の中にラ・シュガル軍で流れ込んできた。
戦闘で軍を率いていた男が迷わず受付に向かい、名無し達に冷たい声で話しかける。
「おい、宿泊客のリストを出せ」
「敵国に乗り込むなりそれですか…ラ・シュガル軍は礼儀ってもんを」
「ちょっとマスター、急にそんな態度はっ!…あの、大変恐縮ですけど、個人情報になりますのでお渡しすることはできません」
「事の重大さがわかってないようだな、我々は現在、Sランク級犯罪者を探している。この宿に宿泊した可能性がある。共犯で捕えられたくなければ大人しく出してもらおうか」
「Sランク級って…っ」
思いもよらない単語に店内は騒然とする。店主と名無しは顔を見合わせ、少しの間時間が欲しいとラ・シュガル兵に頼んだ。
少しだけだ、と荒い口調で返され時間をもらい名無しは店主たちと相談をはじめた。
リストは大切な顧客の個人情報だ。いくらSランク級犯罪者がいると言ったところで簡単に見せるような気持で、店主たちは宿をやってはいないあ。
だからといって拒めばただでは済まないだろう空気であるのも当然二人は理解していた。
店主は断固として見せない事を主張するが、それではトラブルを避けられないだろうと名無しがなにか他の策があるはずだと店主を説得する。
少し黙って名無しが考え込んでいると、ラ・シュガル兵が苛立ちながらリストの提出を急かしてくる。
店主が一歩踏み出そうとした時名無しが店主を制止し前に出た。
「その犯罪者さんがここにきたっていうのはいつなんですか」
「お前、まだごちゃごちゃいうつもりか」
「私たちは店員です、もしその犯罪者がいたとして、無実の方の個人情報をお教えすることは店の信用に関わります。見ての通りこの二日間は私一人でも覚えられる数しか来てません。」
「つまり、お前が答えると?虚偽を言えばただではすまんぞ」
「嘘は言いません、どんな人か言ってくれれば答えます」
「ほう?では聞くが、女一人と男二人の三人組がきたはずだ、どこにいった」
ラ・シュガル軍の男が口にした組み合わせの客は、この二日間ではジュード達しか覚えがない。
つまり、アルヴィンが関係している事である。
答えるべきか悩んでいると、店主と目が合った。ここで黙れば、店や店主に何があるのかわからない。
自ら答えると言ったからには責任は果たさねば、店に迷惑がかかる。
彼らは確かに来店したが、その後どこに行ったかまでは名無しは把握していない。
素直にそう答えればいい、と名無しは深呼吸をし慎重に返答する。
「その組み合わせのお客様なら、二日前に来店して、昨日宿を発ちました。行き先は聞いてません」
「貴様、適当なことを答えるとどうなるかわかっているか?」
名無しと会話をしていた男が合図を出すと、周囲のラ・シュガル兵が剣を抜き、その場にいる者たちに剣先を向け威圧する。
張り詰め空気の中、店主が名無しの腕を引き後ろに下げようとすると、先ほどから名無しとやり取りをしていたラ・シュガル兵の表情に苛立ちの色が更に濃く浮かび上がった。
兵士の剣が詰め寄り名無しの鼻の先で踊ろうかという時、別の兵士が「参謀副長」と叫びながら駆け寄ってきた。
参謀副長と呼ばれ反応のは、先程まで名無しとやりとりをした男だった。
兵士はすぐに参謀副長に報告を済ませると、男に指示を出されたのかすぐに店外へと立ち去った。
残る兵にも速やかになにか指示を伝えると、ラ・シュガル軍は参謀副長は一人を残しその場から立ち去った。
そして男は名無しの目の前に立ち、さらに威圧をする。
近くでみれば、思いのほか長身であったこともあり、女一人を震え上がらせるにはその行為は十分すぎるほどだった。
しかし名無しは、怯えながらも悟られないようにと声を絞り出す。
「なんですか」
「…ふん、少しは役に立ったな」
「な…!」
たった一言、男は言い捨て何事もなかったかのように立ち去って行く。
男の姿が消え扉が閉まる音を合図に、まるで糸につられていたように、名無しはその場に座り込んだ。店主や店員が急いで名無しにかけよると、名無しは大丈夫、と一言だけいってすぐに立ち上がろうとした。
しかし、足が震えているのか転倒しそうになると店主がそれを支え、名無しを椅子まで連れて行く。
そして、座った名無しの頭を撫でながら店主は優しい口調で名無しに話しかけた。
「頑張ったな」
「どうしよう、私、なんであんなこと言っちゃったんだろう」
「大丈夫だ、きっとあの兄ちゃん達じゃないさ」
「けど、あの人」
「大丈夫だ、気にするな、今はこの場にいる全員が無事なんだ、それだけで今は安心しろ」
「マスター…」
「まったく無茶したなお前ってやつは」
店主はそのあとに、もういいからしばらく休め、と名無しに言った。
店主の大きな掌が名無しの頭に乗り、名無しの髪の毛をぐしゃぐしゃにすると、名無しは安心したのかぽろぽろと涙をこぼして泣き出す。
もう一度店主が、休んで来い、というと、名無しは店主の力を借りて自室へと向かった。
ベッドに仰向けになり天井を見ていると、先ほどの出来事がただただ怖かったと改めて感じられた。
自分でもなぜ初めにあのようなに強気な態度に出てしまったのか、という後悔が名無しの頭の中を占めていた。
そしてなによりも、ジュード達が該当者であってほしくない、という希望が自分の中であり、そういった行動から発言してしまったことで、彼らに迷惑をかけることになった罪悪感が、重く名無しにのしかかっていた。
彼らがそうなのだとしたら彼らは何をしたのだろう、彼が一体どう関わっているのだろう、それらがどうでラ・シュガル軍に彼らがどうか殺される事がないようにと、名無しは天に祈りつつ、詰め寄られた時の恐怖を忘れようと、布団の中に無理やり意識を沈ませた。
それから名無しは日記をつけることもなく、散歩をすることもない何もない日常を過ごした。店に出てもどこかうつろな状態を見かねた店主が、無理やりにでも名無しを休ませたのだった。食事は店主が自室に運んでくるものをとり、時間になれば風呂に入る、植物の観察もしない、ただただ天井を見つめるだけの生活を名無しはしばらく過ごした。
そんな生活が数日経った頃、名無しは偶然にも、ラ・シュガル兵が船を引き下げ帝都へと帰っていく様子を自室の窓から見ていた。
船に乗る人たちを見る限り、全てラ・シュガル軍であり、犯罪者を搬送するような様子も見られず、名無しはジュード達は無事に軍との接触を回避できたのだろうと安堵した。
名無しのなかにあった小さな罪悪感が少しだけ和らぎ、窓から海停を見渡した。
「…外、行こうかな」
軍が退いたのだ。きっともう外に出てもあの時の男はいないだろう。
久しぶりに散歩に行こうと、名無しは適当な準備をし部屋からでた。
宿屋のロビーに出ると、見慣れた光景が目に飛び込んできた。
すぐに店主と目があい、他の店員も気がついたのか名無しに視線を向け声をかける。
皆口々に大丈夫か、まだ休んでいた方が、と言うのに対し、名無しは決まり文句のように大丈夫、と答え笑顔を見せた。様子を見て店主が割って入る。
「大丈夫とかそういう問題じゃねぇ、まだ出てきていいって言ってないだろ?仕事ならないぞ?」
「あ、えへへ…、ありがとうございます。ただちょっと外に散歩に行きたくて」
「何言ってんだ、そんなの許すと思ってんのか?」
「だめ…ですか?」
「どうせさっき軍が退いたのでも見たんだろ、いいか?海停から出るな、絶対にだ」
「はい、ありがとうございます…!何かあったらすぐ戻りますから」
「当たり前だ」
店主たちに心配されながらも、名無しは店の外に出て海停を見渡した。
久しぶりにこの位置から町をみる。
相変わらず平和そのものを描いたような、幸せな場所だと実感した。
停泊している船だけがまるで別空間のように重苦しい嫌な雰囲気を放っている。
数日前の男の姿が一瞬脳裏によぎったが、頭を振り考えないようにする。
「ん、大丈夫、何かあればお店に戻ればいいんだもの」
自分に言い聞かせて名無しは海停をゆっくりと散歩することにした。
いつも何かしらで走り回ってはいる場所ではあるがこうやってじっくり娯楽のために歩くのは、宿屋に勤めて以降殆ど初めてのことだったので名無しは少しわくわくしていた。
宿屋で働いている為、知識として知らない場所など名無しにはないがそれでも、ゆっくりとみるとなんだか新鮮な気持ちで見ることができ、それが楽しく思えた。
***
武具店が軒並みとなっている通りに来ると、海停全体を見渡すことができる。通りの先には広い踊り場があり、そこに立ち海停を止ってみると、潮風が心地よく吹いた。
その風に乗って、ふわりと甘い香りが名無しのところに届いた為名無しは周辺を見渡した。
匂いは武具店のすぐ下の模擬店からしているようで、匂いにつられ名無しは階段を下りると、クレープの出店が甘い香りを漂わせ名無しを誘った。
香りにつられ、名無しが店の前まで来てメニューをじっと見つめていると、店員の女性が気が付き話しかけてきた。
「お姉さん、どうだい?」
「え、私は、えーっと」
こういった出店で今まで買い食いという行為をしたことがなかった名無しが店員に話しかけられて思わず戸惑った。普段は話しかける側であるため接客をされる、という経験に慣れていない為か名無しは挙動不審にどう答えればいいのかといった態度を取った。
店員は美味しいよ、小さなスプーンでクリームをひとすくいし名無しに差出した。
受け取っていいのか戸惑っていると、店員が受け取る事を促してきたため素直に受け取った。
口に運ぶと、クリームの甘い香りが口いっぱいに広がった。
美味しい、素直な感想だった。
「あの、じゃあ、えっと」
「ははは、なに緊張してるんだいお姉さん、んーそうだね、好きな味あるかい?」
「え、んー…チーズ…とか?」
「はいよ、じゃあクリームチーズ一個いるかい?」
「あ、はい!」
「ふふ、ちょっとまってな」
店員が手際よく、鉄板に生地を垂らすと、一瞬にして薄く広げ生地を焼き上げた。見事な手さばきはまるで手品を見ているようだった。
名無しも料理はするが、職場はほとんど居酒屋に近い料理を提供しているため、デザート類を作ったことはほとんどなく、名無し自身もレシピを見たところで作れる自信もなかった。そのため、目の前で調理を行う店員の手際に名無しは思わず釘付けになった。
あっという間に焼き上がった生地に、美味しそうなクリームとアイスを手早く乗っけると店員の女性は笑顔で名無しに差し出す。
目の前のクレープに思わず名無しは瞳を輝かせた。
店員にお礼を言ってガルドを支払うと、適当なベンチを探し食べることにした。
「美味しいー」
もっと前に食べておけばよかった、と名無しは今まで買い食いを行わなかった自分の行動を悔いた。から
普段食べなれないものを夢中になって食べ続け、もう一口と思いクレープを口に運ぶと包み紙がくしゃりと、口の中で音を出したの気が付き、食べ終わったことをようやっと気が付いた。誰かに見られていないか辺りを必死に確認し、誰にも見られていない事を確認すると、包み紙を丸めゴミ箱を探し放る。食べ終わった事によってやることが一つなくなった名無しは次はどうしようか、と考えると、間道の高台を思い出し向かうことにした。
適当な準備は出来ているか手持ちの荷物を確認し、さっそく向かおうと名無しがベンチから立ち上がると、名無しの動きに合わせて不自然な動きをする人物が視界の端にちらついたような気がした。
人物の方面を確認しようと辺りを見渡すと、人影が二つ、名無しの視線を避けるように物陰に消えていったのが見えた。
ただの偶然かもしれない、と思いつつも警戒はしたほうがいいだろう。
名無しは目的地に向かうべきか、店に戻るべきかを考えだす。
万一に自分に何か用のある者達ならば、間道に出れば襲ってくることもあるだろうか。
名無しは直ぐに、背後にいる人物たちがアルクノアに関係している人物なのではないか考察した。理由は、先日アルヴィンと再会した事。
彼がアルクノアに自分の事を話したのなら組織から何かしら自分への動きがあってもおかしくない、と名無しは思った。
名無しはとある理由があり組織に戻ることを拒み今の生活を選んでいる。
その為アルヴィンに口止めを頼んだのだが、彼が言わなくとも、あの時彼の周囲に他に組織の人間がいたのであれば、名無しに接触してきてもおかしくない。
さあ、どうしようか。店に戻れば店主たちに何かしら迷惑がかかる可能性があるかもしれない。名無しはそれだけは避けたい、と思い手持ちの荷物に護身用のナイフがあるのを改めて確認すると、間道に向かうことを決めた。
名無しが間道に向かうと、名無しの後ろから複数人の足音が付いてきた。相手に気がつかれないよう、手鏡を使い後方を確認すると後方に二人の人物がいるのが確認できた。人物の顔までは確認することができなかったが、写った姿にオレンジ色が見えた為、名無しは嫌な予感だけは的中するものだとため息をつく。
間道の奥につくと、名無しはすぐに走り出し、海停や間道を通る商人などが巻き込まれないよう人目につかない場所へと急いだ。
名無しの行動に二人もすぐに反応を示し走り出した。
何処から狙われてもいい様に、名無しは丘の方まで走った。あそこならば、後方のみを気にすればいい。勝てそうにもないなら、丘から飛び降りて何とかしようと思ったのだ。
実際飛び降りたところで身の安全は確保されないが、そのような事を考えている余裕はなかった。
丘にたどり着く手前のところで、名無しは追ってきている人物を一度確認した。
背後にいる人数が一人のみ、というのに名無しは気が付き、もう一人はどこに行ったのか、と内心で焦る。
名無しの焦りが名無しの行動を一瞬鈍らせ、名無しは足がもつれ転倒しそうになった。
その瞬間を狙ってか、追尾者が名無しに向かって鎖を投げる。
名無しは無理やり体をひねり鎖を避け、ナイフ護身用のナイフを投げた。着地の際に背中を地面に強打しわずかな時間、その場に名無しは倒れこむ。
名無しの投げたナイフがなんとか相手の足に当たり、起き上がる時間は確保できたものの、急所ではなかったため相手は簡単に次のアクションを取る。
動きをみる限り向こうは確実に慣れている。
圧倒的に不利なのはわかっているがなんとか、しなければならないのも事実なのだ。
長らく戦闘という行為をしている名無しに考える暇を与えないかのように、どこかへ身をひそめたもう一人の追尾者が、起き上がった直前の名無しの足にナイフを投げ名無しの動きを再度止める。
再び地面に倒れこんだ名無しは、二対一という不利な状況をどうするか、と考える余裕は既になかった。
昔取った杵柄というのは、戦闘においてあまりにも無意味だという事を理解した名無しは、自分の現状を把握するので精一杯であった。
倒れこんだ地面から響く足音にどうすることもできず、目を思いきりつぶると、名無しの腹部に激痛が走った。どちらかが思いきり名無しの腹部を蹴ったのだ。
「手間かけさせやがって」
「戦えないくせに調子にのるからだ、余計な武器なんか投げやがって。いてて…」
「お前こそこんな奴のナイフなんか受けやがって、なまってんのか?」
「ちげーよ、ったく…。とっとと連れてこう。ここだと人目につく」
「そうだな」
意識があると面倒だ、と言って追尾者は名無しの口元に薬品を染みこませた布を当てた。
視界を塞がれる前に、二人の首元にオレンジ色のスカーフが巻かれているのを名無しは確認した。やはりアルクノアの連中で間違いないようだった。
やはり彼らから逃れることはできないのか、と名無しは自らの非力を後悔した。
脳裏に店主達の姿を思い浮かべつつ、名無しの意識は次第に遠のいていった。
最後に朧気に聞こえたのは、聞きなれない女性の声を銃声だった。