Like a Dragon
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ぞっこん
きのうとは打って変わって花冷えの昼下がり。来日していたトミーを引き連れて、神室町近くの草上神社に訪れた。
まずはここで手と口をすすいでね。参道のまんなかは神さまの通り道だから、邪魔しないようにはしっこを歩くんだよ。拝礼の作法はこうだよ。
右も左もわからない、といったようすのトミーに、お参りのしかたをひとつひとつ、できるだけていねいに教えてあげる。わたしの一挙手一投足をぎこちなく倣う彼が、なんともいじらしかった。
「ずいぶん真剣にねがいごとしてたな」
参拝を終えた帰り道。手をつないで、のんびりとなりを歩くトミーが言う。
見てたの? 頭上にある彼の顔を、わざと怪訝そうにしてのぞき見る。するとあからさまに目を泳がせるので、堪え性のないわたしは思わず吹き出してしまう。からかうなって、と、ふだんから印象的な困り眉がますます八の字を描いた。
「ねがいごと、っていうか。あしたからのこと、神さまに報告してたの。むかしから、大事の前には決まってここにお参りしてたから」
たいせつな物ごとの前にはお参りをする。それが、幼いころから根付いてきた風習だった。
初詣に、夏まつり。受験生のときには、合格祈願にも来たんだっけ。毎年何かとお世話になってきた神社だから、そこで長らく見守ってくれていた神さまに、しばしのお別れを告げないわけにはいかなかった。
あしたからわたしは、海外へ移住する。恋人と――トミーと、いっしょに暮らすために。
あと数時間もすれば飛行機に乗って、そのあとは、ハワイでの生活が本格的にはじまる。つぎに日本に戻るのは、おそらくずうっと先になるだろう。
いまこの瞬間までふわふわしていたその事実がやっと現実味を帯びて、この母国への名残惜しさは募っていくばかりだ。
やり残したことはなかったかな。考えてみると、ふと頭によぎったことがあって、ぴたりと足を止めた。
「どうした?」
「ね、ちょっと寄り道しようよ」
唐突な提案に、トミーは腕時計を気にする素ぶりを見せる。たぶんこのあとのフライトの時刻が気がかりなのだろう。わたしは待ちきれずに「すぐそこだから」と、つないだままの彼の手を引いた。
ほら見て、あそこ。
数分歩いた先に見えてきた桜並木を指さすと、おお、なんて感嘆の声が上がる。
「桜かあ。はじめて見るな」
「でしょ。いつかトミーに見せてあげたいなあって、ずっと思ってたんだ。ハワイに発つまえに咲いてくれてよかったよ」
木々のもとまでたどり着くと、彼の手から離れて、ひときわしなだれた枝に駆け寄った。
白く重なるかわいらしい花弁に、陽の光がうっすら透けている。さかんに咲いたその花々からは、植物らしい青いにおいが淡く香っていた。
「きれいだね」
きょうという日がだれかの晴れの日だなんて露ほども知らず、気まぐれな春の空はごきげんななめに曇ったまま。それでも、この風物はいつだって可憐で、うつくしい。
「なまえ」
「うん?」
「本当に、いいのか?」
振りむいた先にぽつんと取り残されたトミーは何かを言い淀むようにして、口を噤んだ。目下の天気にそっくりな表情を浮かべながら。
しんと静まり返ったふたりのあいだをつめたい花風が吹き抜けて、桜が舞う。桜吹雪だ。きれいだけれど、こんなに風がつよいと、あっという間に散っちゃいそう。
「……そうだね。この景色をしばらく見られなくなるのは、ちょっとさみしいかも」
俺と、こっちで暮らさねえか。
すっかりルーティンと化した、恋人とのビデオ通話中。画面のむこうからそんなプロポーズを受けたその場で、わたしはただ、こくりとうなずいた。まさにふたつ返事、だったと思う。
迷いがなかったわけじゃない。ハワイで新生活、なんて聞こえはいいけれど、実際は問題が山積みだ。
数年つづけてきた仕事も辞めて、家族にだって、いままでとおんなじようには会えなくなる。マリッジブルーよろしく、あらゆる不安は星の数ほど浮かんでくる。
だけど、それでも。
「でもわたしは、トミーのとなりで見るハワイの夕日がいちばん好きだよ」
それでも、彼との未来を選びたい。彼といっしょに生きていきたい。たとえいま持っている何かを、ほんのすこし手放すことになるんだとしても。
だってわたしは、このひとのことがこの上なく、こころの底から好きだから。
ふたたび沈黙が訪れて、トミーの眠たげなまぶたが見開かれたかと思ったそのとき。彼はとたんに身体の力が抜けたみたいに、よろよろとその場にしゃがみこんでしまった。
「トミー!」
あわてて彼のもとまですっ飛んで、肩にそっと手を添える。
どうしたの、大丈夫、具合わるい? あれこれ気にかけていろんな言葉をかけるけれど、ひとつだって返事はない。代わりにふるふると首を左右に振るだけだ。
「なんか……自分が情けなくなっちまった」
自嘲気味に笑うトミーに、わたしは困惑する。
いまのやりとりに、そんなふうに自分を卑下しなければならないところがあっただろうか。
あるいは、わたしが無自覚に彼を傷つけるようなことを口走ったのかも、と、あらためて自分の発言を反芻してみるけれど、どうにも自戒すべき点が見当たらない。
「ほんと、情けねえ話だ。なまえはとっくに腹を決めてたってのに、俺はといえば、いまだに自信が持てねえでいる。俺なんかが、こいつのこれからの人生をもらっちまっていいのか、ってさ」
かける言葉を見つけられずにいるあいだにも、さながら降り出した雨粒みたいに、彼はぽつりぽつりと零していく。わたしは、そのひとつひとつにじっと耳をかたむけていることしかできなかった。
「俺はすねに傷持つ人間だしよ。金もなけりゃあ、お世辞にも頼りがいのある男だとは言えねえ。けどきっちり責任は取るつもりだし、あんとき『しあわせにする』なんてでけえ口叩いたことだって、うそはひとつもねえし――」
そこまでまくし立てたのち、ようやくこちらを向いた彼と視線が交わる。まったく、なんて意気地のない顔をしているんだろう。トミーも、きっとわたしも。
「つまりその、何が言いてえかっていうとさ、」
トミーは言葉を模索しながらわたしの両手をやわく握って、胸いっぱいに息を吸った。彼の呼吸の音は、こんな透明な空気にも負けないくらいに澄んでいる。
「俺と、来てくれるか?」
そうささめいた彼は、相変わらずの憂い顔だ。
でもふしぎなことに、めがねの奥の瞳に何かが宿ったのを、たしかに感じる。さっきまでは存在していなかった、力強い何かが。
「……はい。よろしくおねがいします」
わたしは深々と一礼する。長いまつげをわずかに震わせたトミーは、安堵したようにぐったりと肩の力を抜いた。あんまりおおげさなその仕草に笑い声を漏らすと「しょうがねえだろ」と、きまり悪そうにまたうなだれてしまった。
ひらひら舞い落ちる花びらが一枚、二枚。それはやがて、目のまえの黒い猫っ毛にいたずらに着地した。
2024.04.12
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