Judgment
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31歳半グレ、猫を飼う
目をあけて、窓につたう水滴をぼうっと眺めていた。外から入りこむ青白い光だけが、部屋をうすく照らしている。
どうやらずいぶん寝てしまったらしい。腕だけを動かして、探る指先にぶつかったスマホを拾い上げる。点灯したディスプレイを確認すると、時刻はもうすぐ夜八時をまわろうとしていた。
のそのそと上体を起こし、ソファから足を下ろす。雨は本降りだ。部屋の隅に置かれたハンガーラックに目をやると、眠るまえと相も変わらず、俺と、女物の上着が掛けられたままだった。
――まだ怒ってんのか、なまえのやつ。
いち、にい、さん。指折り数える。最後にあいつの泣きっ面を見せられたのは、もう六時間も前の話だ。
*
RKのアジトで暇を持て余した俺は、たまには『同居人』のツラでも拝みに帰ることにした。
神室町から数分歩いた先の、何日かぶりのアパートの一室。ドアノブに手をかけると鍵が閉まっていた。インターホンを鳴らそうかと一瞬頭をよぎったが、結局、ポケットからカードキーを取り出して自分の手で開錠した。
玄関のシューズボックスの上にしつらえた芳香剤は、律儀にも俺が気に入っていたものがあたらしく買い直されていた。廊下やリビングのフローリングに塵ひとつ落っこちていないところを見るに、同居人が掃除をこなしてから間もないらしい。小腹を満たせるものを探して冷蔵庫を開けると、中はまだらに空いている。なるほど、あいつは買い出しにでも出かけているところか。
「おかえり、大夢」
探索もそこそこに、ソファにもたれかかりテレビを観はじめてしばらく経った頃だ。背後から馴染みのある同居人の――なまえの声が聞こえた。
おう、と生返事とともに振り向いて、ぎょっとした。何せ、なまえの片腕にはしっかりと子猫が抱かれていたのだ。
えらく小柄なキジトラだ。毛なみは汚れてすこしばかり衰弱しているようにも見えるが、ビー玉のように青く澄んだふたつのまなこは、着実にこっちを見据えている。
どういう状況だ、これ。
てっきり俺は、なまえはひとりで帰ってくるもんだとばかり――いや、そんな考えにおよびすらしなかった。それが、いまこのひとつ屋根の下には『ふたりと一匹』が生息している。
ちいさな
「そうだ。ラーメンが安かったから買ってきたんだけど、きょうの晩ごはんにするから食べないでね」
「いや待て、そのまえにおまえは説明することがあんだろ。なんなんだそいつ」
「何って、猫」
なまえは買ってきたものをビニール袋から取り出しながら、さも当然のことのように言ってのけた。
俺をなめてんのか、こいつ。口には出さなかったが、表情はそうじゃなかったらしい。こっちに視線を寄越したなまえは動かしていた手を止め、困ったように破顔した。
「うそうそ、冗談だってば。帰り道に捨てられてたんだ」
ね、と猫にやさしく笑いかける女は本来微笑ましいものなんだろうが、俺にはまたなまえが厄介ごとを招き入れたようにしか思えない。
さてどうやって咎めてやるべきか。こんなことで頭を抱える羽目になるくらいなら、子分でも連れてよそで遊びまわっていたほうがまだましだった。
「やめとけ」
言い分も聞かずにぴしゃりと言い放つと、まじろぐ瞳と視線がぶつかる。それからなまえは口辺に笑みを漂わせ、こめかみのあたりをぽりぽり掻きながら「まだ何も言ってないんだけどなあ」とつぶやいた。
「わかんだよ、おまえの考えそうなことくらい。戻してこい」
こいつのことだから、どうせ次に口をひらくときには「飼いたい」とか言い出すに決まっている。
俺はそいつを許す気なんかさらさらない。この家がほとんどなまえの管理下にあるとはいえ、ふたりのすみかであることには違いない。こっちにも選ぶ権利はあるはずだ。
「そろそろあたらしい風、入れてもいいのかなあ、って」
「……悪かったな、毎日つまんねえ生活送らせて」
「ちがう、そういうことじゃないよ。どうしてそんな卑屈になるの」
腹のあたりがふつふつと沸いてきているのを自覚する。感情はいったん全部飲み下して「いいからさっさと返してこい」とため息まじりに言ってのけた。
おもしろくもねえバラエティ番組が流れつづけている。観客たちの哄笑が耳障りでしょうがない。
「ごはんあげるくらい、いいでしょ」
「餌なんかやったらそれこそ手放したくなくなんだろうが。やめとけ」
「だけどこんなに弱ってるのにほっとけないよ。大夢はこの子が死んじゃってもいいの?」
「知らねえよ。そうなったらそれがそいつの運命ってやつなんだろ」
そろそろ抑えが効かなくなってきて、テレビを消してまくし立てる。
一瞬、しん、と部屋が静まり返ったあとに「ひどい」と消え入りそうな声がした。いやな予感がしてなまえを見上げると、案の定怒ったような、泣きそうな顔をしている。
俺はこのあと起きることが手に取るようにわかってしまって、思わず眉を顰めた。言ってしまったからにはもう遅い。こっからはもう、面倒は避けようがなかった。
「ひどいよ、大夢」
なまえはそれだけ言い置いて、猫を抱えたまま飛び出していった。玄関のドアが勢いよく閉まり、部屋には舌打ちの音と、わずかななまえの香りだけが残る。
スマホの画面に目を落とすと、どこぞの気象予報士いわく、今夜は雨が降るらしい。あいつのことだ、どうせあとのことなんか考えもせずに手ぶらで出ていったに違いない。
はやいとこ帰ってこいよ、とメッセージを送ろうとして、やめた。
*
ひとつあくびをしてから部屋の明かりを点ける。
半年程度の同棲生活のなかで、こういうことは何度かあった。夕飯どきには「お腹すいた」としょぼくれて帰ってくるのがお決まりの流れだが、今回はやけに尾を引いている。
出て行った先で何かあったんじゃねえか。いや、未だに拗ねてるだけに違いねえ――そんな自問自答を繰り返しながら、テーブルに置き去られたままだったインスタントラーメンの袋に手をかける。
べつに、このままあいつがいなくなったって何も困りはしない。最近じゃ気にも留めなくなった掃除や、備蓄された食いもんを消費する手間が増える。ただ、それだけだ。
それだけだってのに。
俺はいてもたってもいられず、あいつに電話をかけている。しかし何度試しても繋がらない。ここまで来ると、いいかげん辛抱たまらなくなる。このままやってても埒があかねえ。延々と耳に流れこむ無機質な音を聞きつつ、なまえの上着と、二本の傘を持って街へと駆り出した。
あいつの行動範囲が狭くて助かった。そのうえ猫を連れて雨をしのぐときたら、探すべき場所はいくらか絞れそうだ。
濡れたコンクリートを蹴って、神室町までたどり着いたころ、ダメもとでもう一度なまえに電話をかけた。天下一通りのアーチをくぐり抜け、なんの気なしにうす暗い裏路地に足を踏み入れる。と、おぼえのある着信音が雨音とともにその場で鳴り響いていた。あたりをぐるりと見渡すと、鉄骨階段の下に、猫のとなりで縮こまる女の姿を見つけた。
「電話くらい出ろ」
息をつきながら電話を切り、抱えた膝に顔をうずめているなまえに声をかける。さすがの馬鹿でも風邪引くぞ、とつづけるも、反応は何もない。まだ怒ってやがるのか。
「大夢、ごめん」
「あ?」
「わたし、自分のことしか考えてなかった」
傘を畳んで傍にしゃがみ、持ってきていた上着を肩にかけてやると、なまえはやっと面を上げた。湿って乱れた前髪の隙間では、赤く腫れたまぶたが見え隠れしている。唇が震えているのは冷えきった身体のせいか、それとも泣いているからか。
「大夢とこの子と、三人で暮らせたらもっとしあわせだろうなあって、ほかには何もかもいらないなって、思ったんだ」
なまえは細々と言うと、またふさぎ込んでしまった。
ふたりだけでよかったんだ。ふらっと帰ってきたらこいつがいて、同じ飯を食って同じテレビを観て、睡魔がやってきたらその細い腕をベッドに引きずり込んで眠る。そんな、あの家のなかでだけ流れる生ぬるい日々には、俺らだけがいればよかった。だから「あたらしい風を入れたい」と言われて腹が立った。
正直な話、俺はこの共同生活のなかでなまえにじゅうぶんな思いをさせてやれているとは思えない。鍵のかかった家の扉を開けるたび、もしかしたらむこう側になまえはいねえんじゃねえかと、いつも覚悟する。いつ愛想を尽かされて逃げられても不思議はなかったし、逃げる隙だって、いくらでもあった。しかしこいつはそうしない。うれしそうな顔で現れては、おかえり、と笑う。まるで俺の帰りを待ち侘びていたみたいに。
しおしおとうなだれるなまえにかける言葉を見つけられずにいると、すぐ横から昼にも浴びた視線を感じた。
キジトラの潤んだ瞳が、またまっすぐに俺を映している。こんな寒い夜、痩せた小動物には苦だろうに、人間のなまえよりよっぽどしゃんとしてやがる。これじゃあどっちが護られる対象かわからねえ。うちのもんが苦労をかけた事実にどうにもいたたまれなくなって、詫びのつもりで子猫を抱き上げてやった。
……いや、ちげえな。
こんな遅くなるまで大事な女を迎えに来ない男のかわりに、こいつが傍にいてやってくれたんだ。いつまでもつまらねえプライドにとらわれて、俺にも非があったことは、認めざるを得ない。
「おい、なまえ。いつまでぐずってんだ。こいつの飯買ってさっさと帰んぞ」
さみぃんだよ。なんも食ってねえし、おまえだって腹減ってんだろうが。毒づくような口ぶりでそんなことを羅列しながら、空いた片手で傘を開き、ふたたび雨のもとに晒される。
うしろを振りかえると、なまえは呆気に取られていた。いつまでもぼさっとしてやがるから、今度はこっちが「豆鉄砲でもくらったのか」と茶化してやった。
「連れて帰っても、いいの?」
「ああ」
「でもまだ里親も見つけてない」
「いらねえ心配すんな。おまえはこいつに付ける名前のことだけ考えときゃいい」
だから帰ってこい、とは付け足せずに、素気なく告げた。
手首でまぶたを擦って、うん、とひとつうなずいたなまえは、渡した傘を手におもむろに立ち上がる。それから俺を見て、何か思いついたような素ぶりを見せたのも束の間。さっきまでの沈鬱な雰囲気が嘘みたいに、軽やかな足取りでこっちへ駆け寄ってくる。
「相合傘で帰ろう、大夢」
同じ傘の下、互いが触れ合う距離。見下ろしたそこで、泣き腫らした目じりが照れくさそうにやんわり弛む。
べつにこいつがいなくたって困りはしない。だが、なまえが手の届くところに戻ってきて、それで安堵している自分がいるのは、確かなことだった。
2022.12.13
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