Judgment
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想えば想わるる?
「別れよ」
ぷつり。心のどこかで何かが途切れる音がした。長いあいだ凝視していたスマートフォンから目を離し、とおい空にむかって深く息をつく。
午後七時半。わたしはヒルズガーデンのベンチにひとり腰掛け、男女が(不毛な関係だったとしても)仲睦まじく行き交うのを羨みながら、休日の夜を浪費している。秋もじきに終わりを迎えようとしている十一月の宵の口は、身体を芯まで冷やすのにはじゅうぶんだった。
わたしには恋人がいる。否、いまさっきまでいた、と言うほうが的確だろうか。
その元・恋人はどんな人物か、一言で説明するなら「ろくでもないひと」がしっくりくる。約束は守らないし、都合のいいときだけわたしを呼んで、一緒にいないときはどこで何をして過ごしているのかもわからない。そんなひとだから、友人には「別れるべきだ」と何度も勧められた。わたしもそれが最良の選択だと思った。でも、できなかった。どれだけ最低な男だとわかっていても、それでもわたしは、彼のことがかなしいくらい明白に好きだったから。
付き合い始めた頃まではあんなにやさしいひとだったのにな。あの日わたしに笑いかけてくれた彼のことを思い出しながら、またスマホに視線を戻す。
メッセージアプリのトーク画面。そこには「まだ来ない?」「いまどこ?」「何かあったなら連絡して」と、わたしから彼への言葉がずらりと並んでいる。最後に「待ってるよ」と送ったのが十五分前で、この時点ですでに、約束していたデートの待ち合わせ時間から一時間が経っていた。そして、そんな一方通行の会話を締め括ったのは彼からの「別れよ」という、たったの三文字。案外冷静でいられるのはきっと、いつかこうなることを覚悟していたからなのだと思う。
「なまえさん?」
こんなとこで何してるの、と声が降ってきて顔を上げる。黒目がちな瞳の上で、橙色のつややかな前髪が夜風にさらさらと揺られている。声をかけてきたのは文也くんだった。
「ええっと⋯⋯待ち合わせ、の⋯⋯はず、だったんだけど」
口ごもり、苦く笑う。しかしそれだけで、わたしの恋人のことを――幾度か話を聞いてくれたことがあったから――知っていた文也くんはすべて察してしまえたようだった。
「もしかしてあいつ、また?」
うん、と頷く。どんな顔をしていればいいのかわからなくて、さしあたり平穏を装っておく。だけど困ったことに、文也くんはいつになく神妙な面持ちで次の言葉を待つばかり。わたしのばかばかしい失恋話なんか誰の耳にも入れたくない。確かにそう思っているはずなのに、こうして彼に見つめられると、不思議と口を開いてしまう。
「文也くん、わたし」
「うん」
「わたし、ついにふられちゃった」
今度はへらへらと自嘲的な笑顔を取り繕ってみる。が、やっぱり彼はすこしだって笑わなかった。それどころか、当人であるわたしよりも澱んだ表情をするものだから、わたしは閉口するほかなくなってしまう。
いつもそうだ。いつも、わたしの不幸話に落ち込むのはわたし自身じゃなく文也くんで、そのたびに胸のあたりがぐっと痛む。自分に不幸が降りかかることよりも、彼にかなしい顔をされることのほうが、わたしにとってはよっぽどつらい。愚かな女だと笑い飛ばされたほうがずうっとましだ。
「帰ろう。僕、送ってく」
文也くんは長いまつ毛を伏せながら言うと、わたしの手を取った。彼の体温が冷え切った体に染み渡る。ひとってこんなにあったかかったんだっけ。わたしに別れを告げたあのひとは、こんなふうに手を繋いでくれたことが一度だってあっただろうか。そんなことをぼんやり考えながら、文也くんの華奢でいて男性らしさのある手を握り返した。
*
なんの言葉も交わさないまま、陽が落ちてすっかり夜の顔になった神室町を抜けていく。文也くんはわたしの手を固く握り、とぼとぼ歩く早さに合わせてくれる。けれどその横顔はどこかいらだちを帯びているようにも見えた。わたしは余計なことを口にする前に、黙って正面へと向き直る。
劇場前通りを過ぎ、天下一通りへ足を踏み入れようとしたそのとき、わたしは動けなくなった。目の当たりにした光景に、息が詰まるような感覚をおぼえる。
恋人が浮気をしていると、幸か不幸かなんとなく勘付くことはできるものだ。でも実際にその現場を突きつけられることになるだなんて思わなかった。恋仲「だった」ひとと知らない女性が、それこそ恋人同士のような親密なやりとりをしている現場を。
文也くんは微動だにしないわたしの顔をいぶかしげに覗き込んだあと、視線をたどった。握られた手が一瞬だけ強ばる。そしてそれがほどかれたかと思うと、彼は
いまあの場にふたりで行って問い詰めたところで、こっちまで浮気をしていたんじゃないかと言いがかりをつけられるだけだ。そういう言い逃れみたいなものが、巧みに思い浮かぶひとだから。
男は女と別れてその背中を見送ったあと、手に持っていたスマホを操作し、それを耳に押し当てた。誰かに電話をかけ始めたかと思ったそのとき、腰の辺りで振動を感じた。まさか。
コートのポケットからその振動を取り出す。手のひらに収まる燭に記されていたのは元・恋人の名前。こんな電話に出る意味なんてひとつもない。それなのに、いまさらどんな弁明をするのかという好奇心と、最後に彼の声が聞きたいというほんの少しの未練が、わたしに〝応答〟のボタンを押させた。
「⋯⋯もしもし」
声が震える。胸のなかでいろんな心情が渦巻くのを感じながら、掴んだままだった文也くんの腕を離し、そのまま彼の手を握り直す。こうして何かに縋っていないと冷静に話すことなんてできそうにもなかった。
「さっき送った話なんだけどさ」
さっき送った話。それが別れ話のことを指しているというのは考えなくてもわかる。ただ、文字だけで終わりにされるのだと思い込んでいたから直接話し合う準備など当然できていなかった。
じわじわと緊張感が全身を蝕んでいく。となりに感じる文也くんの存在や手の感触だけが大きな支えになってくれて、ここに彼がいてくれてよかった、と心の底から思った。
「いや⋯⋯あー、もしかしていま神室町? まだ待ってたりする?」
男は首筋をさすり、落ち着かない様子で辺りをうろつきながら言う。
当たり前でしょ、待ってるよ、ずっと、ずうっと待ってる。怒鳴ってやりたかったのに、思いのほか心配しているかのような口ぶりになってしまった。ひと呼吸おいたあと、いまどこで何してるの、と付け足して男の表情を窺う。さて彼はなんと言うのだろう。言い訳をするのか、はたまた嘘をつくのか。
「⋯⋯あのさ。こんなときに言うのもどうかと思うけど、」ひと呼吸の間。刹那、あんなにも喧しかった周りの音が一瞬にして消える。「別れたい。ほんと、悪いんだけど」
思ったよりもずっと早くに告げられたその言葉に茫然とした。どこにいるのかすら、わたしには言いたくないってことか。⋯⋯ううん、言えないんだ。だって後ろめたいことをしていたのだから。
さっきの女のひととはいつからそういう関係なの? どうしてわざわざ電話なんてかけてきたの? 次々といろんな疑問が湧き出る。けれどそれらを実際に口にすることはせずに、わたしはまたため息をついた。やめよう、もう。どうやっても結末が変わらないのならせめて、これ以上時間を浪費するのは避けたい。
「うん、わかった」
「ごめん」
「もういいよ。いままでありがとう。⋯⋯元気でね」
返事を待たずに通話を終える。「いままでありがとう」。それがわたしに言える、精いっぱいの皮肉だった。
「わたし、ほんっとうにばかだなあ」
言いながら、また自嘲めいた笑みを浮かべる。視線の先の男は切れた電話をしばし見つめたあと、たいして重くもなさそうな足取りで人混みのなかへと消えていった。
「どうして怒ってやらなかったの」
ばかだよ、ほんとに。わたしのとなりで、文也くんはふたたび哀感を表情によぎらせて言った。
彼の言う通りだ。すべての非は相手にあったはずなのに、どうしてわたしは自分を責めることしか出来ないんだろう。どうしてわたしは、こんなにもあのひとのことが好きなんだろう。ぜんぶあいつが悪い、あいつは最低だって怒れたら楽になれるのに。
胸のわだかまりと一緒に男の連絡先も消し去ってしまおうとメッセージアプリを開く。そこに並んでいるのは、過去も現在もわたしの言葉ばっかり。ときどき返ってくる彼からの文字を数えるのは両手で事足りる。昔はやさしかった? そんなの勘違いも甚だしい。最初から彼の気持ちなんてもの、ここにはありもしなかった。あまりにも滑稽だ。滑稽で、情けない。
「ねえ、なまえさん」文也くんはわたしの両肩に触れ、向き合う形にする。「僕はさ、やさしいなまえさんのことが好きだよ」
わたしを捉える彼の瞳が揺れる。今回ばかりはおどけて誤魔化すことも通用しそうにない。
「だけど、悲しいときは『悲しい』って、ちゃんと言わなきゃ」
「かな、しい?」
かなしい、悲しい悲しい――。
何度も何度もその言葉を口にすると、まるで栓が抜かれたかのように感情が溢れて、世界はたちまちのうちに滲んで見えなくなってしまった。
悔しくて、腹が立って。あのひとのことを許せないのに、それでもどうしようもなく好きで。不明瞭な自分の気持ちを理解しようと踠いてみても、この手は空を掴むだけ。唯一わかるのは、すごく悲しいってことだけだ。
「どうしよう、わたし。何もかもぜんぶぐちゃぐちゃで、もうわかんないよ」
子どもみたいに泣きじゃくって乱れた呼吸の合間、文也くんの名を呼んで彼を求める。
彼はそれに応えるようにわたしの肩をそっと抱き寄せると、もう堪えなくていいから、と背中をさすってくれた。
「⋯⋯ずるいやつだな、僕も」
しばらくして聞こえたささやき声の意味も考えられないまま、ネオン瞬くこの街で、わたしは人目も憚らずに泣いた。
2021.02.24