第一章 ヒーローは眠れない

「――以上で、本日の『新月珈琲・微糖コラーゲン』のPR配信を終了します!みんな、夜ふかししすぎちゃだめだよ?それじゃ、にっこりおやすみなさ〜いっ!」
配信機材の赤いランプが消えた瞬間、私は肺の中の空気を全部吐き出すみたいに、長いため息をついた。
さっきまで貼り付けていた営業用の笑顔が、顔からずるりと剥がれ落ちる。

「………はい、お疲れ様。同時接続過去最高だったよ。美宇ちゃん、流石だね」

デスクの向こうで、死神みたいな顔をしたマネージャーさんがタブレットを操作しながら言った。
机の上には、エナジードリンクの空き缶が山みたいに積まれている。

「………お疲れ様です。あの、今何時ですか?」
「20時15分。あ、美宇ちゃん。帰る前にこの書類だけサインお願い。今日の午後に出た『日曜の夕方絶望ヴィラン』の被害報告書と、ファンレター返信のノルマ分。あとSNSの『おやすみ投稿』も忘れずに。ハッシュタグは#魔法少女#定時に帰りたいじゃなくて#みんなに届け笑顔、で頼むよ」

私はその場でデスクに突っ伏した。

「……マネージャーさん、知ってます? 今頃“普通”の女子高生って、友達とカラオケ行ったり、推しの動画見てキャッキャしてる時間なんですよ」

「知ってるよ。でもここに入った時点で、普通とは程遠い生活になるのは決まってた。何より、君たちは公務員だ。そして今は非常事態だ。堪忍してくれ」

マネージャーさんは視線をタブレットから外さないまま、淡々と言う。
「自然的ヴィランの発生件数は前年度比120%増。特に君の担当する『緑』は、癒やしと安定を司る魔法、そして性格を求められる。つまり『緑』は都民の精神安定剤《サプリメント》なんだ。君が笑わないと、新宿の自殺率は0.5%跳ね上がる」
「……重すぎ。絶対女子高生が背負う負荷じゃないです」

私はよろよろ立ち上がって、壁に貼られた『警視庁特殊災害対策局・公約』を睨みつけた。

第二条(基本理念)
隊員は、自己の心身の限界を超えてもなお任務継続を求められる場合があることを理解しなければならない。

「……『少女帰り』までまだ14年もあるんですよ。絶対その前に干物《ドライフルーツ》になりますって……」

***

「あ、美宇ちゃん。お疲れ様なのです」
局の廊下に出ると、自販機から出てきたばかりの緑茶を頬に当てている有栖がいた。

『らんらんありちゅ♪』なんて二つ名で売ってるくせに、今の有栖は前髪をクリップで雑に留めたジャージ姿だ。完全にオフモード。
実のところ、素の有栖を見れるのが信頼されている気がして、私は嬉しい。

「有栖……あんたも今から上がり?」
「私はこれから深夜帯のパトロールなのです! 有栖川ちゃんと華恋ちゃんはもう現場行ってるのです!」
「……うわ。あの二人、体力おばけすぎるでしょ」

私は有栖の隣に並んで壁にもたれかかった。
有栖は、公爵家のお嬢様って肩書きが信じられないくらい、疲れた顔で緑茶を飲んでいる。
「有栖。あんた、なんで魔法少女なんかやってるの? 家、お金持ちでしょ」

有栖はぱちぱちと瞬きをした。

「……お母様、私が魔法少女になったって知って二週間寝込んじゃったのです。だから私が立派に殉職《天使化》せず、定年まで勤め上げる姿を見せて安心させたい――というのは建前で」

そこで少しだけ顔を赤くした。
彼女の白い肌が相まって童話のヒロインのようだった。

「本当は、美宇ちゃんがこのブラック職場で一人になるのが心配なだけなのです」
「………重い」

私は即答した。
「あんたの愛も、労働環境も、どっちも重い」

苦笑しながら肩を小突いた、その瞬間。
局内に、耳をつんざくアラート音が鳴り響いた。

『緊急指令、緊急指令。千代田区大手町付近に自然的ヴィラン【終電逃し/社畜怨念】が発生。規模特級。近隣のヒーロー係は別事案で出払っています。魔法少女係、「不思議の国であっちこっちチーム」は直ちに現場へ直行してください』
私の表情が固まる。

「……嘘でしょ。私、今配信終わったばっかなんだけど。サインも終わってないし、SNS投稿も――」
「美宇ちゃん! 変身なのです!」

有栖の声に弾かれるように、私は懐から魔法デバイスを取り出した。
「――まじで。労働基準法ってどこにあるんすか!」
光が溢れる。
制服が、フリルとリボンだらけの魔法少女衣装へ変わっていく。
希望の光じゃない。
残業確定のサインだ。

***

現場の大手町は地獄だった。
深夜のビジネス街。
街灯の下に現れたのは、ボロボロのスーツを纏い、無数のキーボードを背負った巨大なサラリーマンの怪物。
「帰りたい……ッ! 終わらない……ッ! 再提出《リテイク》だ……ッ!!」
巨大なUSBケーブルの触手が、アスファルトを叩き砕く。
「おい、遅いぞ美宇! こいつ、ストレス値が限界突破してやがる!」

先に来ていた華恋ちゃんが、巨大ハンマーを振り下ろしながら叫んだ。

「華恋ちゃん、無理しないで! 実由ちゃん、バフかけるよ〜」

眠そうな顔の実由ちゃんが、正確に魔法陣を展開していた。
私は戦場の中央へ飛び込む。

「――みんなの“にこにこ”をお届け! 緑色担当、藍川美宇だよ!」

口から出るのは100%の嘘《営業スマイル》。
でも、指先から放つ浄化の光だけは本物だった。
自然的ヴィランは、社会の歪みが生み出した被害者だ。
この怪物だって、数時間前までは普通の会社員だったのかもしれない。
「……ごめんね。でも暴れられると、私たちの残業時間が増えるの。だから大人しく寝て!」
必殺技【エターナル・リフレッシュメント】を放つ。
浄化の光に包まれた怪物の身体が、少しずつ縮んでいく。
最後に残ったのは、疲れ切った一人の男性だった。

「……確保。医療班に引き継いでください」
無線でそう告げると、華恋ちゃんがハンマーを消した。
実由ちゃんは欠伸している。

「……終わった? 帰って寝ていい?」
「ダメだよ実由。まだ局戻って報告書あるから」

華恋ちゃんのその一言で、全員から同時にため息が漏れた。
「ああ……」
***
時計は23時を回っていた。
局の仮眠室で、私は配給された安っぽい毛布にくるまりながらスマホを開く。
SNSには、さっきの戦闘を隠し撮りした動画や写真が流れていた。

『美宇ちゃん今日も天使すぎる!』
『夜遅くまでお疲れ様。俺たちのヒーロー!』
『でも最近ちょっと顔色悪くない? 心配』
「……心配するなら残業代寄付してよ」

独り言を呟きながら、私は公式の「おやすみ投稿」をアップした。
画面の中の私は、相変わらず最高に可愛くて、最高に嘘つきだ。
ふと横を見ると、水鈴さんがストロング系の缶を開けながら、泣きそうな顔でファンレターを読んでいた。

「……水鈴さん、飲みすぎですよ」
「いいのぉ……これ飲まないとやってられないの。美宇ちゃん、知ってる? さっきのヴィラン、私の大学の同期だったんだよぉ……」

私は言葉を失った。
脳裏に、公約第十二条が浮かぶ。

『隊員は、ヴィランが友人その他親密な関係者であった場合においても、私情を挟まず任務を遂行しなければならない』

「……明日も、6時起きですよね」
「うん。早朝のワイドショー、生出演だって」

私はスマホを閉じて、目を閉じた。
瞼の裏に、今日倒したヴィランの叫び声が残っている。

限界まで摩耗して、すり減って、心が真っ黒に染まった時、私の背中からもあんな風にUSBケーブルや書類の束が生えてくるのだろうか。その時、私を特効薬《サプリメント》として消費した大人たちは、やっぱり「新しい緑」を連れてきて、同じように使い潰すだけなんだろう。冷たい毛布の隙間から入り込む夜の空気が、まるで自分の未来の冷たさのように思えて、私はさらに身を縮めた。

「……定時に、帰りたいなあ」

小さな呟きは、深夜の局内に響く誰かのタイピング音にかき消された。


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