司彰小説/恋人ごっこ









荷造り中。
窓を拭いているとふと、彰人が声を漏らした。

「げ」
「む、どうかしたか彰人……?」

と振り返ると、納得してしまった。
彰人の手には便箋が一枚握られていた。
墨を直に塗りたくったような、そんな色をしていた。

窓の外では、乾いた風に乗ってもみじが数枚、舞い上がっていた。
赤は鮮やかなはずなのに、どこか鈍くくすんで見えた。

数年前、彰人を熱心に追いかけていた専門学生がいた。
それだけなら、ただのファンといえるのだが、彼女は彰人に執拗に絡んでいったり時には手紙を送ったりしていた。

あのときのことは、よく覚えている。
なんせ、付き合うきっかけにもなったのだから。





行き交う生徒たちに朝の挨拶をしていると、冬弥に呼び止められた。
神山高校の朝はいつも騒がしい。
校門前では風紀委員が挨拶をしており、登校してくる生徒たちは眠たそうに瞼を擦りながらそれを返していた。
まだ少し春風は冷たいが、空は気持ちのいいくらい快晴だった。

そんな中でふと、聞きなれた声が聞こえた。

「司先輩」
冬弥はいつものように落ち着いた表情をしていたが、どこか迷うように視線を彷徨わせた。

「む?どうした冬弥」
そう尋ねると冬弥は一瞬だけ口を閉じ、それから静かに言った。

「昼休み、少し時間をいただけませんか」

その声色には、僅かな緊張感が滲んでいた。

「相談があるんです」
さわり、と風が軽やかに吹き抜けていった。
たしか、今日は委員会も無かったはずだ。

「いいぞ!屋上でどうだ?」
そう答えながらふと思い立って付け足した。

「――内容によっては、類もいたほうがいいかもしれないな」
ちょうどその時だった。

「僕の名前が聞こえた気がしたのだけれど、どうかしたのかい?」

背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、案の定そこには類が立っていた。
いつものように微笑を浮かべていた。

「相変わらずタイミングがいいな」
「ふふ。偶然だよ」
「それが……」

冬弥は少しだけ困ったように笑った。


「なるほどね。そういう話なら力を貸すよ。……君が嫌でなければ、だけれど。」
「いえ、助かります」

ふわり、と冬弥は微笑んだ。
その評定には先程よりも少しだけ安心が混ざっているように見えた。
「じゃあ、またお昼に」
そう言って、類と冬弥は玄関の方へ向かっていった。
その背中を見送りながら、再び挨拶に戻った。

「おはようございます!」
「おはよう、天馬!」
数分ほど挨拶を続けていると、見慣れたオレンジ色の髪が視界に入った。
彰人だ。
だが――。

「おはよう!彰人」
声をかけると、彰人は一瞬だけ顔を上げた。
「……おはようございます……、」

返ってきたのは、どこか覇気のない声だった。

校庭に差し込む朝日が、やけに白く感じる。
さっきまで賑やかだったはずの声も、遠くに引いていくように聞こえた。
その中心にいるはずの彰人だけが、ひどく現実から浮いて見えた。

彼は薄く笑いを浮かべてはいるが、どこかぎこちなかった。

思わずその顔を見つめた。
たしかに、彰人はテンションが高い方ではないが、果たしてこのように覇気のない声色だっただろうか。

「どうかしたのか?」
そう聞こうとした瞬間、彰人は視線を逸らした。

「じゃあ、また」
それだけ言って、そのまま玄関へ向かっていった。
――妙だ。

胸の奥に引っかかるようなものが残った。
空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。
だが何故か、その青さが不気味に思えた。



昼休み。屋上へ行くと既に冬弥は来ていた。
春の風がフェンスを揺らし、カラカラと音を立てていた。
屋上には他の生徒の姿はなく、昼休みにしては静かだった。
その側には――彰人もいた。

「すまない、待たせたな」
そう声をかけた数分後、屋上の扉が開いた。

「待たせてしまったかな。」
類だった。

「それで、相談って?」
そう尋ねると冬弥が頷いた。

「実は――」
「いや、オレが話す」

その時だった。
彰人が冬弥の言葉を制した。

「しかし、彰人――」

冬弥は心配そうな表情を浮かべた。
だが彰人は小さく首を振った。

「オレの話だから」
冬弥はしばらく迷った様子だったが、やがて観念したように顔を逸らした。
薄々感じてはいたが、やはり彰人が関係しているらしい。
屋上に静かな風が流れる。
そしてぽつり。ぽつり。と彰人は話し始めた。



「――最初感じたのは練習終わりの帰り道だった。」

彰人はそう言って、視線を遠くへ向けた。
夕方の街灯が点き始める時間だったらしい。

「いつからか、足音が一拍遅れて聞こえるようになった。」

夜の道は静かだった。
そのせいで、余計に音が響く。

「最初は気の所為だと思った。」
「だって、気になって振り向いてもだれもいねぇんだし。」

彰人はふ、と力のない笑みを浮かべた。

「…………まぁ、考えすぎだろ、って」
彰人は肩をすくめた。
だがい違和感は消えなかった。

ジジッ。
蛍光灯が音を立てながらチカチカと点滅を繰り返していた。

それが決定的になったのは、そんなある日だった。
いつも通りの帰り道でふと、喉が渇いたと思った。
そして飲み物を買おうと思って自販機の前で足を止めたときだった。
街灯の光の下、オレは自販機の前に立った。
飲み物を買おうとしたとき――後ろで足音が止まった。

「………は?」

振り返るが、誰もいなかった。
ぞわりと肌が粟立った。
見られている。尾けられている。
そんななんとも言えない不快感があたりを包んだ。
その後は、自販機に入れた金も放っといて一目散に駆け出した。

それからは別の道を使うようにした。
だが、それで終わらなかった。


「ある日、家に帰ったら珍しく絵名が起きてて。」

そのときまでは、珍しいなといった日常の延長線上の話だった。
「封筒を、渡されたんだ」

彰人はポケットを探るような仕草をした。

「あんた宛の手紙、って」

封筒は真っ黒としたものだった。
白いペンでこう書かれていた。
『彰人くんへ』

場違いなほど、可愛らしいシールで封が施されていた。

「………中見て、少し後悔した」

彰人はそう言って。ポケットから折れた便箋を取り出した。
「これだ」

そう言って、彰人は便箋を差し出した。
冬弥は、恐る恐るといった感じにそれを受け取った。

『急にお手紙ごめんね』
そんな書き出しで手紙は始まった。



急にお手紙してごめんね。
でも、どうしても気になっちゃって。

昨日ね、彰人くんが話してた女の人。
あのストリートで歌ってる子。あの子、誰?

初めて見る顔だったから、少し気になっちゃった。
彰人くんは優しいから、誰とでも話すんだろうけど……
ああいう子、あんまり近づけないほうがいいと思うな。

それとね。
いつも一緒にいる女の子たち。

薄いクリーム色の髪の子と、
紺色の髪に水色のグラデーションが入ってる子。
夜空みたいで、ちょっと目立つよね。

あの子たちとも、そろそろ離れたほうがいいんじゃないかな。
彰人くんのこと、ちゃんと分かってない気がするの。

あ、そうだ。
昨日ね、22:12から22:52まで電話してたでしょ?

あの子は誰?
声までは聞こえなかったけど、ずいぶん長く話してたよね。

……ちょっとだけ、寂しかったな。

でも大丈夫。
彰人くんのこと、ちゃんと見守ってるから!
これからも、ずっと。

だから安心してね。

(同封した写真、ちゃんと届いてるといいな。
昨日の帰り道のとか、歌ってるときのとか、綺麗に撮れてると思うんだ。あんな芋っぽい子よりも私のほうが写真撮るのうまいよ。だから、次からは写真取るとき言ってね?)

またお手紙書くね。



便箋には明らかに隠し撮りと思われる写真が数枚入っていた。
ぞわり、と肌が粟立つ。
あまりにも気味が悪くて、戸棚の奥深くにしまった。
以前、何かの記事で見たことがあった。

実際に被害がないと警察は動かない、と。

彰人はそこまで言って、黙り込んだ。
屋上を風が吹き抜ける。

「……なるほどね」
静寂を破ったのは類だった。

……それは、いつ頃から?


尋ねようとして、やめた。
彰人は人を頼るタイプではない。
それでも、今オレたちを頼っているということは――。

彰人はふ、と目を伏せた。
そして、息を吐いた。

静寂が辺りを包んだ。
どのくらい経ったのだろうか、彰人が静かに言った。

「一週間前」

彰人は校庭を眺めながら続けた。
「その間に3通、手紙が送られた」

屋上に風が吹いた。
紙がかすかに揺れた。

フェンスの向こうで、遠くの校庭が揺れていた。
誰かの笑い声が、風に千切れて届く。
しかし、この場所だけがまるで切り離されたように静かだった。

「……持ってくるんじゃなかった」
そう呟いて、彰人は苦笑した。


気味が悪い。
――それ以上に腹が立った。

「……彰人」
名前を呼ぶと、彰人は視線だけこちらへ向けた。

「これはもう、相談の域で済む話ではないだろう、」

ぐしゃり、と便箋を握りそうになって、慌てて力を抜いた。

「オレたちが対処する」

そう言うと、彰人は眉をひそめた。

「……“たち”?」
「当然だろう」

言い切ると、隣で類がくすりと笑った。

「どうやら、僕も含まれているらしいね」
「当たり前だ」

すると類は楽しそうに肩を竦めた。

「フフ。君がそう言うなら協力しない理由はないね」
冬弥も静かに頷く。

「彰人。ひとりで抱える必要はない」

三人の視線が彰人へ向いた。

彰人はしばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐く。

「……大げさだろ」

そう言いながらも、声は少しだけ柔らかかった。

「大げさでもいい!」

思わず声が出た。
「オレは――」

一度言葉を切る。
それから、はっきりと言った。

「お前が困ってるなら放っておけない」

風が吹いた。
彰人の前髪が揺れた。

数秒の沈黙のあと、彰人は小さく笑った。

「……ほんと、面倒くせぇな」

けれど、その声にはどこか安心したような響きがあった。
風が屋上を抜けていく。誰もすぐには言葉を続けなかった。
やがて、ふむ、と考えるような声を上げたのは類だった。

「しかし、このまま放置するのも良くないね」

腕を組んで、類が言った。

「相手は君の行動をかなり把握している。下手に刺激すれば、状況が悪化する可能性もある」
「……じゃあどうすんだよ」
彰人が低く問い返した。

「そうだね例えば――」
類は少し考えた。そして、ふっと笑った。

「偽の恋人をつくる、とか」

その言葉に、屋上の空気がぴたりと止まった。
「…………は?」
彰人は素っ頓狂な声を上げた。
冬弥は目を瞬かせていた。

「恋人がいるとなれば、相手は近づきにくくなる可能性が高い。」

類は淡々と続ける。
「“自分だけが特別だ”という幻想を壊すのは有効だと思うよ」

類はさらり、となんてことの無いことのように言った。
理屈としては確かに通っている。
だが。

「いや、待て待て待て」
彰人が眉を顰めながら言った。
「第一、そんな都合よく恋人役なんて――」

その時だった。
「オレがやる!!」

気づけば声が出ていた。
彰人と冬弥は目を瞬かせていた。
類だけが、楽しそうに口元を押さえた。

「偽の恋人だろう?だったらオレがなる!」
胸を張って言った。

「彰人の近くに誰かいるって分かれば、あいつも近づきにくくなるだろう!
それに、オレなら学校でも一緒に行動できる!」

屋上に風が吹いた。
数秒の沈黙の後、類がふふ、と笑った。

「なるほど、随分乗り気だね」

彰人は額を抑えた。
「……お前ほんとバカだろ………」
「何を言う!後輩のためなら精一杯尽力するのは当然のことだろう!」

冬弥は納得したように頷いた。
彰人だけは呆れたようにこちらを見ていた。

数秒沈黙が落ちた。
やがて彰人は大きく息を吐いた。

「……期間限定だぞ」


その場は一応の結論が出たものの、すぐに解散という空気にはならなかった。
誰もが言葉を探しているような、奇妙な沈黙が屋上に落ちていた。
フェンスが風に揺れて、からん、と乾いた音を立てる。
「……本当に、それでいいのか?」
ぽつり、と冬弥が口を開いた。
視線の先は彰人だ。
その声音は静かだったが、はっきりとした不安が滲んでいた。
「恋人の“フリ”とはいえ、状況が状況だ。相手を刺激する可能性もある」
「わかってる」
短く、彰人が返す。
だがその声は、どこか硬かった。
「けど、何もしねぇよりマシだろ」
言い切るようなその言葉に、冬弥はそれ以上何も言えなかった。
代わりに、類が一歩前に出る。
「一つだけ、確認させてほしい」
いつもの軽やかな調子ではなかった。
少しだけ、声音が低い。
「君は――怖くないのかい?」
その問いに、空気がわずかに張り詰めた。
彰人は数秒、何も答えなかった。
風が吹く。
前髪が揺れる。
「……怖くねぇわけねぇだろ」
ようやく出た声は、思ったよりもずっと小さかった。
「気味悪ぃし、正直、寝るときとかも気になるし」
ぽつり、ぽつりと言葉が落ちていく。
「けどさ」
彰人は顔を上げた。
「だからって、全部やめるわけにもいかねぇだろ」
その目は、はっきりと前を見ていた。
歌うことも、仲間といることも。
全部、捨てるつもりはない――そう言っているようだった。
胸の奥が、ぐっと締め付けられる。
「……だから」
彰人は視線を逸らして、ぼそりと付け足した。
「頼るって言ってんだろ」
その一言に。
「当然だ!!」
気づけば、また声が出ていた。
彰人が少しだけ驚いた顔をする。
「オレは何度でも言うぞ!お前が頼ると言ったのだから、全力で応えるのは当然だろう!」
「……うるせぇな」
そう言いながらも、彰人は小さく笑った。
その笑みは、ほんの少しだけ軽くなっていた。





最初の数日は、正直かなりぎこちなかった。

並んで歩く影が、わずかにずれていたり。
触れそうで触れない距離を、何度も行き来しては、結局どちらも踏み込めないままだったり。
その曖昧さが、やけに意識に残った。

「……で」

昼休み、屋上。
弁当を広げながら彰人が言った。

「恋人って、具体的になにすんだよ」
「む?」

思わず声が出た。

「なに、とは?」
彰人は呆れた顔をした。

「いや………だから、恋人のフリすんだろ」
「そうだ!」
「だったら、それっぽくしないと意味ねーだろ」

確かにその通りだ。
だが―――。

「恋人というのは、どの距離感なんだ?」

彰人は数秒黙った。


「………まじで言ってる?」
「うん?」
「センパイ、恋愛経験ゼロだろ」
「な、っ………!」

思わず言葉に詰まった。
その様子を見て、彰人は呆れたようにため息を吐いた。
「図星じゃねーか」
「う、うるさい!」

そこへ。

「やぁ、盛り上がっているね」
屋上の扉が開いた。
類と冬弥だった。

「恋人の練習中ですか?」
冬弥が尋ねた。

「練習中ではない!作戦会議だ!」

すると類が楽しそうに笑った。
「――なるほど、では参考までに見ていてほしいのだけれど」
そう前置きをし、類は彰人のほうへ歩を進めた。

「恋人ってこういう感じじゃないかな」
そう言って、類は彰人の頬へ触れた。

「へ、」

彰人が間の抜けた声を漏らした。
類は気にする様子もなく、顔を近づけた――。

「こんな感じかな」

ぱっ、と類は彰人から顔を離した。
「急にごめんね、びっくりしただろう?」
くすくすと笑いながら類は言った。

冬弥は少し考えたあと言った。
「とりあえず、学校では隣にいることが多いと自然かもしれません」
「ほう!」
それならできそうだ。
「よし彰人!明日からは隣を歩こう!」
「……いや、今でも普通に歩いているだろ」
「そうなのか?」

そう尋ねると、彰人は呆れたようにため息をついた。
「……先が思いやられる」



――違う。
こんなの、違う。
校舎の陰から、二人の背中を見つめる。
並んで歩く姿。
笑い合う声。
全部、全部おかしい。
だって。
「隣にいるのは、私のはずなのに」
爪が食い込むほど、手を握りしめた。

夕焼けに染まった窓ガラスに、歪んだ自分の顔が映る。
笑っているはずなのに、どこか引き攣っていた。
それでも目だけは、まっすぐ二人を追い続けていた。
あの人は優しいから。
きっと、断れないだけ。
あんな人、似合ってない。
あんな関係、嘘に決まってる。
「……ねぇ、彰人くん」
小さく呟いた。
「ちゃんと、見てるよ」
風が吹いた。
その声は、誰にも届かないまま消えた。


恋人ごっこが始まってから、日常は少しずつ形を変えていった。
最初は意識的だった距離も、いつの間にか“当たり前”になっていく。
「……近くね?」
廊下を歩いているとき、彰人がぼそりと呟いた。
「恋人なのだから当然だろう!」
「いや、そうだけど」
言いながらも、彰人は離れようとはしなかった。
昼休み。
「これ、食うか?」
そう言って差し出されたのは、購買のパンだった。
「む、いいのか?」
「余っただけ」
そっけない言い方だったが、こちらを見る目はどこか柔らかい。
放課後。
「今日は寄り道すんのか?」
「お前が行くならな!」
そんなやり取りを、何度も繰り返した。
――その全部が、“フリ”のはずだった。
なのに。
「……センパイ」
名前を呼ばれるだけで、心臓が跳ねる。
視線が合うだけで、息が詰まる。
距離が近づくほどに。
これは、本当に“演技”なのかと。
何度も、何度も問い直すようになっていた。



だが、作戦は思いの外効果があった。

「ねぇ聞いた!?天馬先輩と東雲先輩って付き合ってるらしいよ!」

廊下でそんな声が聞こえた。
彰人が足を止めた。

「…………広まってんじゃねーか」
「作戦成功だな!」

胸を張って言うと、彰人は眉を顰めた。

「成功すぎるだろ」

そのとき。

「天馬先輩!」
下級生に呼ばれた。

「天馬先輩と付き合ってるってマジですか!」
「む」

一瞬迷った。
しかし、これは作戦なのだから――。

「……ああ!」
そう答えると、周囲は一斉にざわめいた。
彰人が小さく舌打ちをした。

「……まじで言うなよ」
「作戦だ!」
「いやそうだけど」
彰人は額を抑えた。

「面倒くせぇ……」

それから数日。放課後。

「帰るぞ」

彰人が言った。

「今日は早いな」
「……いや」

彰人は視線を逸らした。

「一応な」

その意味は分かっていた。
ストーカー対策。

「なるほど!ではともに帰ろう!」
夕方の道を二人で歩いた。
影が伸びていた。
夕日はすっかり、目の前の彼の色にすっかり染まっていた。

信号待ちで立ち止まる。
ふと横を見ると彰人はスマホを見ていた。
さらり、と風が髪を撫でた。

ふと彰人が声をかけた。

「センパイ」
「む?」

彰人が少しだけ振り返った。

「……なんか後ろ気にしてる?」

思わず言葉に詰まった。

「いや、その……」

正直に言うことにした。

「お前のストーカーが来てないかと思ってな」
彰人は一瞬黙った。
それから小さく笑った。

「センパイさ」
「うん?」
「オレより気にしてるじゃん」
「当然だ!」
即答だった。

「お前が困っているのだからな!」
彰人は少し驚いた顔をした。
そして、視線を逸らした。

「……ほんと、」

彰人は小さく呟いた。

「まっすぐだよな」

もみじが、ひらりと舞った。
風にほどけるように枝を離れた一葉は、くるくると静かに円を描きながら、秋の光を映していた。



そんなことがあってから早くも数週間。
一緒に昼食を食べたり、放課後におすすめされた喫茶店へ行ったり、できるだけ一緒に過ごすようにした。

「――センパイ?」
ふ、と意識が浮上した。どうやら上の空だったようだ。

「ああ、すまない!ぼうっとしてしまっていた」
彰人はむ、と眉を顰め言った。
「"恋人"がいるのに考え事かよ」

どきり、と心臓が跳ねた。
――いけない、これは「フリ」だ。
ストーカーを欺くためのフリ。
彰人に他意はない。
そう思ってないと、苦しくて潰れそうだ。
つきり、と痛む胸には気づかぬ振りをした。

「………すまない」
咄嗟にそう返すと、彰人はふぅと息を吐いた。

「別に怒ってはねぇよ。ただ――」

言いかけて彰人は視線を逸らした。
そしてぽつりと呟いた。

「最近、センパイ変だろ。」
「む?」

思わず間の抜けた声が出た。

「ぼーっとしてるし、急に黙るし……オレといるとき」
彰人はそう言いながらストローでグラスを弄った。
カラン、と乾いた音が響いた。

彰人は少しだけ身を乗り出した。
胸の奥が妙にざわついた。

――気づかれている?
考えて、その可能性を振り払った。

そんなはずはない。
これは「フリ」だ。
オレが勝手に意識しているだけで彰人は何も――。

「……もしかして、」
彰人がこちらを見た。

「ストーカーのこと、まだ気にしてんのか」

その言葉にはっとした。
「……っ、いや………!」
慌てて首を振った。

「違う!オレはただ……その、」
言葉が詰まった。
なんと言えばいいのかわからなかった。

彰人は少しだけ眉を寄せた後、ふっと肩をすくめた。

「……ま、いいけど」
そう言って、グラスを机に置いた。

「でもさ、」
彰人は少しだけ身を乗り出した。

「恋人のフリ、だろ?」
彰人はなんてことないことのように言った。
また、心臓が跳ねた。

「だったら、もう少しそれっぽくしねーと」

そう言うと彰人は不意にオレの手首を掴んだ。

「………!」
するり、と指先が絡み合った。
それだけで体温が一気に跳ね上がった感覚がした。

「こーゆーのとか」
に、と妖しく笑いながら彼はこちらを見た。

「手ぇ繋ぐのくらい、普通だろ。」

――普通。
その言葉が妙に重くのしかかってきた。

指先が熱い。逃げたほうがいいのか、それとも――。
ふ、と上から笑い声が降ってきた。

「顔赤いぞ、センパイ♡」

にや、と彰人は笑った。
「恋人役なんだろ?これくらいで動揺してどうすんだよ」

その笑顔を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

――ああ、だめだ。

もう、とっくに。
フリなんかじゃ、なくなっている。

「そういえば、最近ストーカーはどうなっているんだ?」

彰人は驚いたようにこちらを見た。
「ああ……最近は特に無いな」
そんなのもあったな、といった表情だった。

「……ただ、」

ふ、と彰人は目を伏せた。
さらり、と風が彰人の頬を撫でた。

「これが、嵐の前の静けさ?だったら嫌だなって」
「………そうだな。何も、ないといいのだが」

彰人の言ってることはもっともだった。
あれほどの熱量のある手紙を出し、ストーカーまでしていた女が果たしてここでひくだろうか。



そんな不安を抱え、数日後。
昼休み、冬弥に呼び止められ、チケットを渡された。
「もし、時間があればよかったら」
と冬弥は言った。

「是非行かせてもらう!」
と言うと冬弥は嬉しそうに笑った。

休日。類とともにチケットにかかれている場所へ向かうと、既に数人が歌い終わったようで熱気が籠もっていた。
ステージのライトが眩しい。
観客が歓声を上げている。


「彼らはこんな場所で歌っているのか」
どのユニットもそれぞれの魅せ方で客を沸かせていて圧倒された。
こういう場所で、彰人たちは歌っているのか。

「あ」
ふと類が小さく漏らした。
ステージを見ると、彰人たちの番が来たらしい。
ライトが落ちた。次の瞬間。
低く響くベース音が、腹の奥まで震わせた。
観客の歓声が一斉に上がった。
ステージのライトに点灯した。

彰人はマイクを握り、客席を見渡していた。
その目は、普段学校で見るものとはまるで違った。
鋭く、熱を帯びている。
音楽が始まった。

冬弥の歌声が空気を震わせ、すぐ後に彰人の声が重なった。
力強く、まっすぐな声。

オレは思わず息を呑んだ。
――眩しい。

そう思った。

学校でみている彰人とは違う。

光に照らされたその姿は、手を伸ばしても届かない場所にいるようで。
それでも、目を逸らすことができなかった。
胸の奥が、熱を持って軋んだ。



ここにいる彰人がステージで、輝いていた。
観客の手が一斉に上がった。
歓声が会場を揺らす。

白石と小豆沢のパフォーマンスも、息がぴったりあっている。
全員が一つの音楽になっていた。

ぱちり。
一瞬、彰人と目があった気がした。

曲が終わった瞬間、会場が割れるような歓声に包まれた。
オレはしばらく動けなかった。
胸の奥が熱くなっていた。

「……すごいね」
隣で類が言った。

「彼は、あんな顔をするんだね」
オレは、ゆっくり頷いた。

「ああ」

――誇らしかった。
同時に。
彰人がとてつもなく遠いものに感じた。



「司先輩、来てたんですね」
「ああ!素晴らしい歌だった!」

そう伝えると冬弥は顔を綻ばせていた。
トリの歌唱が終わり、ライブハウスを出る。
夜の空気が少しひんやりしていた。
ライブハウスの入口付近に女性がいた。
その女性はこちらをみていた。

視線があった瞬間。
背筋に冷たいものが走った。
女性はこちらにゆっくり歩いてきた。

「………………ねぇ」

低い声だった。

「……んで、」
「…………は?」

よく聞き取れなくて聞き返すと、女性はくしゃりと髪を乱雑に掴み言った。

「なんで、あんたなの。」
その目は明らかに普通ではなかった。

「私のほうが彰人くんのことに詳しいし好きなのに!」

一瞬言葉を失った。
「彰人くんも酷いよねぇ」
女性は笑った。

「お手紙何度も出したのに無視なんて。」

――ストーカー。

「お手紙で言った女の子たちともまだつるんでるし。」

女性は続けた。

「私、調べたんだ。」
「こはねちゃんと杏ちゃんって言うんだ」
「ね、でも私あなたたちは合わないと思うんだ。」
「何も彰人くんのこと知らないでしょ?」

オレは何も言えなかった。
女性はそこで一度息を吸った。
そして――


「だからさ、消えてよ。」
そう言った。

周囲のざわめきが、一瞬だけ遠のいた。
まるで音だけが切り取られたように、彼女の声だけがやけに鮮明に響く。
呼吸の仕方すら、わからなくなった。

「邪魔なんだよねぇ」
彼女はあはっ、と笑いながら言った。

後ろからひっ、と引きつった声が聞こえた。

「あたしと彰人くんの世界、邪魔しないでよ」
その声は、耳に刺さるようだった。

その時、スタッフが駆けつけた

「どうしましたか」
女性は暴れながら叫んだ。

「消えてよ!!」
スタッフに取り押さえられながらも叫び続けた。
「彰人くんはあたしのなのに!!」

やがて女性は連れて行かれた。
周囲はざわめいていた。
幸い、怪我人は出なかった。
だが、耳の奥にあの声が残っていた。



それからしばらくは、恋人ごっこをつづけていた。
しかし、どうにもすっきりしなかった。

――このままで、いいのか?
何度も、自分に問いかけた。
“恋人ごっこ”は、もう十分役目を果たしている。
ストーカーも、表立った行動は起こしていない。
なら。
この関係を、終わらせるべきなのではないか。
そう考えるたび、胸が痛んだ。
「……終わる?」
思わず、声に出た。

窓の外では、風に揺れた木々がさざめいていた。
同じ音が、胸の奥でも鳴っている気がした。
戻れないとわかっていても、それでも足は止まらなかった。

その言葉だけで息が苦しくなった。
彰人と過ごした時間が頭をよぎる。
笑った顔。
呆れた顔。
少しだけ見せる、弱いところ。
全部が。
手放したくない、と。
そう思ってしまった。
「……ずるいな」
ぽつり、と呟いた。
これはフリのはずなのに。
こんなにも、本気になっている。
――なら。
答えは、決まっているだろう。



それから数日後――オレは空き教室にいた。
胸が落ち着かない。
今日、彰人を呼び出した。
理由は――。

「で、用事ってなんすか」
からり、と扉が開き聞き慣れた声が聞こえた。
オレは深く息を吸った。

「彰人」
声が震える。

「オレはどうやらお前が好きらしい。よかったら、フリではなく、本当に――」

言い終わる前に、喉が詰まりそうになった。
彰人はしばらく黙っていた。

「……センパイ」

低く呼ばれた。

彰人は数歩近づいてきた。
そして、困ったように笑った。


半ば勢いで言ったものの、急に不安が押し寄せた。
もし、迷惑だったら。
もし、この関係すら壊れてしまったら。
ぐっと拳を握った。

だが、その手を――彰人がそっと包んだ。

「……オレさ」

彰人は少しだけ視線を逸らして続けた。

「最初、センパイの“恋人役”って聞いたとき、正直めちゃくちゃ気まずかった」

「む?」
「だってさ、」

彰人は小さく笑った。

「オレ、わりと最初からセンパイのこと好きだったし」

一瞬、意味が分からなかった。

「…………は?」

間抜けな声が出た。
彰人は肩をすくめる。

「だから、手ぇ繋いだりするのも、全部普通にドキドキしてた」
「なっ……!?」

顔が一気に熱くなる。
彰人はそんな様子を見て、くすっと笑った。

「センパイさ、顔真っ赤」
「う、うるさい!」

すると彰人は、少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ」

ぎゅ、と握る手に力がこもる。

「センパイが“フリじゃなくていい”って言うなら」

彰人はまっすぐこちらを見た。

「オレも、本気でいいってことだよな?」

胸がどくん、と大きく鳴った。

「もちろんだ!」

思わず声が大きくなる。

「オレは本気だ!」

数秒の沈黙のあと、彰人は小さく息を吐いた。

「……ほんと、センパイってさ」

困ったように笑った。

「まっすぐすぎるな」

そう言って――彰人は、繋いだ手をそのまま引いた。

気づけば距離がほとんど無い。

「じゃあさ」

彰人は少しだけ悪戯っぽく笑った。

「もう“恋人のフリ”じゃねーんだから」

指が、絡む。

「ちゃんと恋人らしくしようぜ、センパイ」

その言葉と同時に、
心臓がうるさいくらい鳴った。

――こうして。

オレたちの「恋人ごっこ」は終わり、本当の恋人になった。


「――やぁ」

放課後の屋上。
声をかけてきたのは類だった。

その後ろには冬弥もいる。

「司先輩、少しよろしいですか」
「む?どうした二人とも」

そう言いながら振り返ると、二人はどこか意味深な表情をしていた。

「実はね」

類がくすり、と笑う。

「最近、君と東雲くんの様子が少し変わった気がしてね」
「……変わった?」

首を傾げると、冬弥が穏やかに言った。

「ええ。以前より距離が近いというか……その」

言葉を探すように視線を泳がせる。

「恋人らしい、というか」

その言葉に思わず固まった。

「な、ななななな何を言っているんだ冬弥!!」

声が裏返った。
類は肩を揺らして笑った。

「やはりか」

「なにが“やはり”だ!」

すると類は楽しそうに続けた。

「いやね。あの“偽の恋人”の提案をした時から、こうなる気はしていたんだ」
「……なに?」

「君、あの時すごい勢いで立候補していただろう?」

図星だった。

「それに」

今度は冬弥が言う。

「彰人も、満更でもなさそうでした」
「満更でもない?」

思わず聞き返す。
冬弥は小さく笑った。

「ええ。司先輩の話をするとき、少し嬉しそうなので」
「そ、そうなのか!?」

その時だった。

「なに騒いでんだよ」

聞き慣れた声がした。
振り向くと、彰人が立っていた。

「彰人!」

「……なんだよそのテンション」

彰人は呆れたように言った。
すると類がにやりと笑う。

「ちょうどいいところに来たね」
「は?」
「君たち、正式に付き合っているんだろう?」

その言葉に、数秒の沈黙。
次の瞬間。

「…………は?」

彰人が固まった。

「な、なんで知ってんだよ!!」

類はくすくす笑う。

「観察力、かな」

冬弥も頷いた。

「おめでとう、彰人」

彰人は頭を掻いた。

「……ったく」

そう言いながら、ちらりとこちらを見る。
そして小さく笑った。

「まぁ、そういうことだ」

胸がじんわり温かくなる。
類は満足そうに頷いた。

「いやぁ、実にいい結末だね」
「だな」

冬弥も穏やかに笑った。
屋上に、柔らかな風が吹いた。

「さて」

類が楽しそうに言う。

「今度は“本物の恋人”としての君たちを眺めさせてもらおうかな」
「やめろ!!」

そう叫ぶと、隣で彰人が笑った。
その声が、やけに心地よかった。

屋上を春の風が吹き抜けた。



その後、彰人のストーカー女が他のミュージシャンに手を出してライブハウスを出禁になったりしたのはまた別のお話。



「――なんてこともあったな」

そう隣りにいる彼に告げると彰人は顔を顰めて言った。
「何度思い返しても、胸糞悪ぃ話だな」
「ああ。だが、オレはあれに感謝している部分もあるんだ」

そう言うと彰人は驚いたように目を見開いた。
ぱちりと早苗色の瞳と目が合った。

「は?なんで」
「そりゃあ、彰人と付き合うきっかけになったのがあの手紙であり、ストーカーでもあるのだからな」

彰人はしばらく手紙を握りしめたまま、こちらを凝視していた。

窓の外では、穏やかな風に乗ってもみじが舞っていた。

そして、頬を林檎色に染めたのだった。



「やぁ、手伝いにきたよ」

昼頃、類がやってきた。

「類か!久しぶりだな!」
「久しぶり。引っ越しの手伝いに来たけど――」

と類が言った。
が、ふと言葉を途切れさせた。

ちりん、と風鈴が鳴った。
「む、どうかしたのか?」
「いや、………それ、まだ持っているんだね」
「それ?」

不思議に思い、手元を見ると先程まで彰人が手に持っていたはずの便箋が手に握られていた。

「……は、」
「気が付かなかったのかい?」

類は不思議そうにこちらを見ていた。
そういえばさっきまでともに話していた彰人は黙っていた。

奇妙な沈黙があたりを包みこんだ。
沈黙を破ったのは類だった。
「さて、立ち話もなんだし、荷造り手伝うよ?」
「……あぁ、助かる」

そうして荷造りに戻ろうとしたとき、気付いた。
さっきまで隣にいた彼がいつの間にか居なくなっていた。

「―――は、」

そんな、呼吸に混じったような力のない音が漏れた。
そして、そんなか細い音を類は拾ってしまった。

「どうかしたのかい?」
「彰人が、」
「東雲くん?」
「さっきまで話していたはずなのに、居ないんだ。」

また、ちりんと風鈴が鳴った。

類は、なんとも言えないような複雑な顔をしていた。
そして絞り出したような声で言った。

「………なにか、買いに行ったんじゃないかな。もうすぐ、昼時だし。」



さっきまで話していたはずなのに、居ないんだ。」
彼はそう言った。
声はひどく軽くて、けれどどこか、空洞を撫でるように響いた。
部屋の中は、引っ越しの途中のまま時間が止まっている。
積み上げられた段ボール。半分ほど開いた箱。
床に置かれたままのガムテープが、乾いた光を反射していた。
窓は少しだけ開いている。
外から吹き込む風が、カーテンをゆるく揺らした。
ちりん。
風鈴の音が、やけに澄んでいた。
その音が、部屋の静けさを強調する。
誰かがいるはずの“隙間”だけを、くっきりと浮かび上がらせるように。
「どうかしたのかい?」
そう問いかけると、彼はゆっくりとこちらを見た。
視線は合っているのに、どこか焦点が合っていない。
「彰人が、」
ぽつりと落ちた名前が、やけに重かった。
「さっきまで、ここに――」
言葉の続きは、風に攫われた。
ちりん。
また、音が鳴る。
僕は息を呑んだ。
風鈴の揺れと、彼の視線の先と、空いた空間とが、奇妙に重なったからだ。
――そこには、誰もいない。
けれど彼だけが、確かに“誰か”を見ている。
「………なにか、買いに行ったんじゃないかな」
喉の奥が、わずかに引きつる。
「もうすぐ、昼時だし」
言葉にした瞬間、嘘が空気に溶けた。
あまりにも自然で、あまりにも軽い嘘だった。
彼は少しだけ目を細めて、そして、頷いた。
「……そうか」
安堵とも納得ともつかない声音だった。
風が吹き込む。
段ボールの隙間に挟まっていた紙が、かさりと音を立てて揺れた。
その拍子に、黒い便箋が、床に落ちる。
ぱさり。
誰も拾わないまま、それはそこにあった。
ちりん。
風鈴が鳴る。
音が消えたあとも、
耳の奥で、かすかに揺れ続けている気がした。
窓の外では、紅葉が一枚、枝を離れた。
くるくると回りながら、ゆっくり落ちていく。
赤は鮮やかなはずなのに、
どこか色を失ったように見えた。
――そのとき。
『せんぱい』
背後でも、隣でもない。
すぐ近くから、そんな声がした気がした。


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