Story.1 白の狂気




 森の奥へと二人は進む。歩き始めてからさほど経たず、彼女が口を開いた。
「あの、ハール……さん」
「ハールでいい。敬語もない方が、オレは楽」
 一歩前を行くハールは振り返らずに答え、ついでに口調を素のそれに戻す。少女からの遠慮は感じるが怯えはすでに消えていた。もう疲れるほどの気遣いはせずとも問題ないだろう。
「あ、はい……じゃない、うん、えっと……じゃあハール。今どこに向かってるの?」
「『記憶師』のところ」
「キオクシ……」
 彼女は小さく首を傾げ、呟く。そして自身のなかにその存在を探るように、今度は音なく言葉をなぞる唇。
「『記憶師』っていうのは――」
 歩みを止めることこそしなかったが、今度は振り返って答える。
「簡単に言えば、記憶を自在に操れることに特化した魔導士のこと。人の記憶を消したり直したり創ったり……それを商売にしている奴らもいる。この森で双子も生業にしてるな。……まあ、職業があるからといって弄るのが一般的ってわけじゃないけど――これ、説明していい……やつだよな?」
「あ、うん……お願いします」
 彼女の言うところの『何も分からない』の範囲を完璧に把握できているわけではないので、断片的にでも残っている知識の説明になってしまったかと思ったが違ったらしい。言動からして常識はありそうだが、あくまで道徳としてのそれであり、情報という意味では危うそうである。
「記憶師にかかるってのは……いい悪いは別にして、大っぴらに言うような事態じゃないだろ? 人目に付いたり間違って来たりしないようにこんな辺鄙な場所で治療してるんだと」
「……優しい人たちなんだね」
「まあ……アイツらは、そう言っていいと思う。オレと同じ歳なんだけどさ――尊敬してる」
 少女に向けていた視線を進行方向へと戻す。
「仕事はできるししっかりしてるし、普通じゃないことに触れてるのに普通の感覚は忘れてなくて……なんて言ったらいいんだろうな。こういうの、本当に苦手で―― 」
「すごく大切な友達なんだね」
 柔らかな声。予想していなかった言葉に思わず振り返る。急であったので危うく木の根に足を取られそうになった。
「私、まだ何も分からないけど……さっきのハールの顔を見たらそれくらいは分かるよ」
 金の瞳が三日月を象る。先ほどまで大粒の涙を零していたのが嘘のような穏やかさだった。
「なんか、そうはっきり言われると恥ずかしいというか……」
「えっ、恥ずかしくないよ! その二人にも伝えたらきっと喜ぶと思う!」
「えー……、それは……どう、だろうな……主に片方が……」
 負の感情は見えはしないが、どうにも端切れの悪い返答。ハールは気持ちを切り替えるように一つ息を吐いた。
「記憶師の説明、続きいる?」
「ほしいです!」
「って言ってもオレも一般的な知識しかないけど……あと知ってるのは――どんなに優秀な魔導士でも生まれ持った才能がなければなれないってことか。この記憶に干渉する魔法を使える才能ってのは続くものらしくて、基本的に記憶師は先祖代々の家業なんだと。だから狭い界隈のなかで貴族でもないのに家同士の色々があったりとか、やたらと家訓が厳しかったりするって聞いたけど……って、今思えばこれ愚痴だったんだな」
 もっとちゃんと聞いてやればよかった、と自分に呆れる。あのときは雑談の一つとして普通に対応してしまった。
「――ええと、どこまで話したっけ……。記憶に関係ない魔法は一切使えなくても記憶師としては優秀なこともあるとか。現にあいつらも仕事に使わないような魔法はまったくだし。……それと何となく察してるかもしれないけど、記憶師は数自体が少ない。あんなすごい奴らがそこらじゅうにいたら世の中が大変なことになるしな。記憶の意味も価値も曖昧になる」
「記憶の、意味と価値……」
「あ。悪い、最後のはそんなに考えずに言っただけで深い意味はないから――とにかくすごくて信頼できる奴らだから、たぶん、大丈夫……って、ことが、言いたかった」
「ふおお……」
 期待と感嘆が混じった――やや気の抜ける――声が聞こえた。少しは彼女の不安を払拭できただろうか、とハールは思う。嘘を吐いてまで安心させたいとは思わないが、今の話は真実だ。若いながらも彼女たちの腕は確かであるし、このような事例も診たことがあるだろう。もしなくても対処するだけの知識はあるに違いない。この事実は、少女だけではなくハールの心持ちも軽くした。
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