Story.6 月下の賭け


 イズムはその羽根が舞い落ちてきた軌跡を辿るように視線を上空へと向けた。すると鮮やかな青の中に、ぽつりと白い点が一つ。
よく目を凝らして見れば、それは美しい粋白を纏った、一羽の鳥。鳥は一度見えない弧を大空に翼で描くと、あの蒼い光に包まれた。

 そして、『彼女』は変化する。

 黒い髪の少女の姿、その背からふわりと広がる翼は、どこまでも清い白。
 陽の光を受けて淡く光るその両翼を羽ばたかせると、ゆっくりと――他でもない、“半分だけ”本来の姿を現したキヨは、自らの主人の前へと降り立ち、背からしなやかに伸びる羽はそのままに歩み寄った。
「イズムさま!」
 リセ達は突然の来訪者に驚きつつ、成り行きを見守ることにする。どちらにしろ、見守る……否、傍観しか出来ないのだが。イズムは、どうしたものか、といった風で微かに溜め息をつく。確かに彼の話からすると、「どうしても無理そうだったら、たまに会いに来ていい」ということだったようだが、まだ出立してからニ、三時間しか経っていない。
「キヨ……ちょっと、早すぎると思いますよ」
「わ、わかってますっ、ごめんなさい……でも、キヨ大切なことを忘れてました」
 キヨは肩を竦ませて小さくなるが、すぐにイズムを見上げ、はっきりと言った。
「キヨ、いってらっしゃいって言うの忘れてました!」
 ……イズムの表情は変わらなかったが、他三人は正直なところ「そのためだけに!?」という驚きが隠せていない。
 しかし彼女が至って真面目なのは間違いなく、明るい笑みで続けた。
「イズムさまは、『すごく大事なこと』のために、おうちを空けるんですよね? イズムさまにとってすごく大事なことというのは、イズムさまがイズムさまであるために必要なことです。キヨが立派にお留守番することは、それを成し遂げるためのお手伝いになると思います。……イズムさまが、イズムさまでいるために」
 その言葉は、拙いとも言えるものだった。ただ――
「キヨは、イズムさまがイズムさまでいられるお手伝いができてほんとにしあわせです。だって、キヨが好きなのはイズムさまですから」
 ……――それが何の飾りも嘘も無い、彼女の気持ちそのものであるということは、その場の誰も疑いようのない真実だった。
「――いってらっしゃいです!」
 そこまで言い終えたところで、キヨは若干、恐る恐るイズムの様子を窺う。
「あの、イズムさまにどうしても「いってらっしゃい」したかったんです。だから、来てしまいました…………キヨ、悪い子ですか?」
 イズムは緊張した面持ちの彼女を見つめ、表情を崩さない。
 ……その後ろで三人が、『怒ってる?』『これは誰かがフォローした方がいいのでは』、『いや無理だろ』、『でも』、という類の会話を目線で交わし始め――――
 ……――イズムが、苦笑を浮かべた。
「……これは、怒れないですよね」
「キ、キヨはイズムさまに怒られるという超重大事件の危機に晒されていたのですか!?」
「キヨにしては理解が早いですね」
 その言葉に、ふらりとよろめくキヨ。だが、すぐに立ち直った。真剣なはずであるのに緊張感がないのはどうしてなのか。
「……困った子ですねぇ」
 言いながら、イズムは彼女の頭を撫でてやる。するとキヨは怒られはしなさそうだ、と安心したのか、そのまま子供のような笑みを浮かべた。
「キヨはいい子ですから、イズムさまの言いつけを守ります。キヨ単位の『たまに』でイズムさまのところへ行きます」 
 ――――そして、『キヨ単位』とは何ぞやという謎を残し、白いカラスは飛び去っていったのだった。その単位が如何なるものなのかは分からないが、また彼女が訪れるのも、そう遠い話ではない気がする。
「……本当に、仕方ない子ですね」
 それでも、イズムは困ったように微笑んで、青に溶けていく白い両翼を暫く見つめていた。
「ねぇ、フレイア……誰かに、その人だからって、言ってもらえるのって素敵だね」
 リセはそっと呟く。自分が自分であるための何かはまだ分からないけれど、二人に憧れのようなものを抱いた。どのような関係か名前はない、その者らがその者たちであるから、成立する関係。
「そう、だね……」
 フレイアは眩しそうに、そして微かに見辛そうに空に消えてゆく白い点を仰ぐ。それは輝く太陽のせいなのか、或いは――――


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