Story.6 月下の賭け

 ゆっくりと階段を降りてくる音がした。その音が大きくなっていくにつれて、声の主が姿を現していく。
「……オレはそのまま、忘れて行っちまいたかったんだけどな?」
 声の主――イズムは、にっこりと微笑んだ。
「それはご愁傷様です」
 複雑な表情を浮かべるハールと、何が何だか分からないリセとフレイア。イズムは、そんな三人に歩み寄った。
「昨晩の事を忘れる程、記憶力悪くないので」
 何故か不機嫌そうに見えるハールは、横目でイズムを見遣る。
 その視線の先に気付いたイズムは、薄く笑って、自らが纏っている服に目を落とした。
「こっちの方の服を着るのは、久し振りですね……」
「ね、イズム君、それ……どうしたの?」
 リセも彼の服を不思議そうに見つめる。
 その服は、昨日着ていた物とは全くと言っていいほどに雰囲気が違っていた。 黒に近い濃紺に長い裾、彼の黒色の髪と瞳も手伝って、その空気は静邃さすら感じさせるものがあり、どこと無く聖職者を思わせた。
「何か、ホント『魔導士』ってカンジするねっ、似合ってるー」
 そしてフレイアは、「魔導士ってカンジ、じゃなくて、魔導士かっ」と明るく笑った。
「そうですか? ありがとうございます」
「でも、何で急にまた?」
 しかし彼女もそれは疑問に思ったようで、首を傾げて訊く。まさか、もろに『魔導士』のままで、店を開ける訳でもないだろうに。
「あれ、ハールから聞いてません?」
 そして彼は、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「――僕も、今日から同行することになりました。よろしくお願いしますね」
「ふおっ!?」
「イズム君が!?」
 驚きで目を見張ったまま、リセは理由を問う。
「何で……」
 すると彼はハールを横目で見ると、
「まぁ……イロイロと?」
 勿論それで二人には通じるはずもなく、結局彼女らにとって、それは答えになっていなかった。その代わりに、イズムは代替の答えを用意する。
「何だか――」
 それは、微笑。穏やかで、温順そうで、何処までも優しい――――
「貴方達だけでは、不安ですから」

 『形』だけの。

 ――リセに、目を向ける。
 何が『不安』で、
 ――ハールに、目を向ける。
 ――誰が『心配』なのかは、口にしなかった。

      †     

「さて、無事に僕も置いていかれずに済みましたし……そろそろ行きましょうか?」
 誰とは言わないが誰かに対して軽く皮肉を言うと、リセとフレイアに声を掛ける。
「わー、ホントにイズム君も来るんだぁ! やっぱ旅は人数が多い方が楽しいよね!」
「うん! でも、あの……イズム君、キヨは?」
 リセが辺りを見回し、彼女が居ないことを訝しむ。
「いくら僕が留守の間、閉めておくとはいえ、店を放って置く訳にもいきませんので……キヨにはお留守番していてもらいます」
「おいて、いくの……?」
 ざわり、と胸の奥の何かが不穏に揺れ動いた。『誰かに残され、一人おいていかれる』という状況が、自分でもおかしいと思うほどに不安を呼ぶ。
「それじゃキヨが可哀想じゃないかな……」
 まるで置いていかれるのが彼女かと思わせるような瞳。見上げられたイズムは、目の前で泣きだした子供を宥めるかのような笑みを浮かべた。
「僕も……全くそう思っていない訳ではありません。だから、どうしても無理そうだったら、たまに会いに来ていいと言ってあります。キヨは僕の仕え魔ですから……主人の居場所は、何処に居たって感じられます。飛んで来れば、速いですしね」
「でも、キヨは……」
 昨夜彼のことを語っていたときのキヨの表情を思い出すと、自然と口から反論がでてきそうになる。しかしその内容が声になることは――否、心のなかでかたちになることすら、なかった。
「お気遣いありがとうございます」
 どこか謝っているような口調で言うと、ゆっくりと微笑んだ。
「……大丈夫ですよ、キヨですから」
 ふと降りてきた優しい声に、リセははっと上を向く。しかし彼は既に背を向けており、そのときの面持ちは窺えなかった。イズムは戸口の前までくると歩みを止めて振り返り、取っ手に手を掛ける。
「――では、改めて」
 そして彼はドアを開けて、言った。
「軽食屋、『リーヴスラシル』店主兼、キヨの主兼、ハールの友人……『イズム・ルキッシュ』です。今日からよろしくお願いします」
 差し込んだ朝の光が、斜交いにして一同へと注ぐ。
「……道中、何も起こらなければいいのですが」
 柔かな陽光に映るその微笑みは、何だか不吉なことを言った。
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