Story.1 白の狂気



        
「え、と……とにかく……すみませんでした!」
 目の前にちょこんと座る彼女は、“思いっきり”という形容が相応しい勢いで頭を下げた。
「えー……え? いや、っていうか髪、土が付くから早く顔上げて――な?」
 ひたすら頭を下げ続ける少女。彼は訳が解らず頭上に疑問符を浮かべながらも手は彼女の行動に自然と制止のかたちをとった。
「オレに謝らなきゃならないようなこと、したっけ……?」
 身に覚えの無い謝罪に先程とはまた違う困惑を覚える。彼女は泣きに泣くと涙が枯れたのか時間の経過で冷静になったのかその両方なのか、はたと静かになった。かと思えば、今度はこの調子である。
「しました!」
 即答すると少し俯き、様子を窺うように上目で見遣る。
「優しくしてもらったのに、私、突然睨みつけるし、泣き出すし……困らせてしまって、ごめんなさい。その……」
 俯きが深まる。前髪が落ち、月が雲に覆われるがごとく表情が翳る。
「……何も、わからなくて、混乱していたとはいえ」

 ――『記憶が無い』。

 彼女の言う「何もわからない」とは、つまるところ、そういうことだ。涙が落ち着いてから詳しく話を聞いたのが、今まで自分が生きてきた道のりすべて――名前、職業、生まれた場所、両親、友人、好きなもの、嫌いなもの――何もかも思い出せないのだそうだ。さらには現在地がどこなのかもわからないと言う。こうまでくると言語が通じるだけでも有り難いと思わざるを得ない。ひとまず、ここがセレスティアのリィースメィル大陸、リネリス王国南東部の森の中だということを話して、もう一度本当に何も覚えていないのかと確認したところ、「嘘なんて言いません!」と再度涙目になられ、また泣かれてはかなわないと、慌てて「信じる、信じるから!」などと言い、今に至る。
「特別な薬草とか珍しいモノが採れるわけでもないこんな普通の森、好き好んで来るとは思えないんだけどな……来た理由とか、何も?」
「ごめんなさい……」
「いや、謝らなくていいから。今のはオレも悪かった」
 ――記憶喪失。
 俄には信じられない話だが、今までの様子から嘘をついているとは思えないし、仮に嘘だったとしても、彼女には何の利点もない。と、すると――
(やっぱり本当なわけか)
 明らかに「怒ってます?」と問うている瞳。この様子を見れば、嘘でないことは明白であった。
「もう謝るなって。別に怒ったり不快に思ってはいないから」
「本当ですか?」
「オレも、嘘はつかない。……まあ、驚きはしたけど」
 少女の表情に晴れ間が見える。しかし、それは一瞬で掻き消えてしまった。
「……私、どうしたらいいんだろう」
 ぽつりと落ちた言葉。それは彼へ向けてのものではなく、独りでに零れた惑いだと窺えた。とはいえ、そんな姿を目の前にして自分に訊かれているわけではないからと無視できるほど冷たくはなれない。少年はしばし思案する。名前や出身が分からなければ身元も調べようがない。が――
「――あ、」
 何かを思いついたらしいその声に、金の瞳が彼の方へと向けられる。
「もしかしたら記憶、戻せる……かも」
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